kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

ホモソーシャルな関係の乗り越え方ーーー『「非モテ」からはじまる男性学』の感想

 

 ネットでも日常でも「非モテ」という言葉は聞かれるし、男性自ら「俺は非モテ」と自称するする人もいるが、非モテとはいったんなんなのだろうか。一般的なイメージでは「モテない男」というイメージだし、weblioでも同様の定義をしている*1

 「非モテ」の当事者研究を行う社会学者西井開は、研究を通じて、非モテとは恋人の有無ではなく、男性同士の人間関係から生じた性質であること明らかにしている。「非モテ」の行動様式が、どのように形成され、意味づけられ、評価され、価値内面化してくのを明らかにしたのだ。結果として「恋人がいない」ことを強調されるが、それは「非モテ」現象の一部分に過ぎない。

 「『非モテ』男性はモテないから苦しいのだろうか」(電書 24/174)という問いは重要だろう。男性をめぐる様々な問題が「モテない」という言葉しかなく、モテないことに集中していることが問題なのだ。この「男性をめぐるさまざま問題体系」(電書 24/174)を著者は明らかにしていきます。

 

「非モテ」からはじめる男性学 (集英社新書)

 

非モテ」とは

 当事者研究の発言を分析して下記のとおりまとめている。

第三章では、「非モテ」男性が男性集団内で追い詰められ、そして自分で自分を追い詰めていく過程を描いた。

〈集団内の中心メンバー〉から、〈からかい〉や〈緩い排除〉を受けて周縁化される「非モテ」男性は、被害を受けているにもかかわらず、彼らとの親密な関係性を維持するために、自ら〈いじられ役〉を引き受けていく。

また、〈男らしさの達成〉をしようとしても、中心メンバーは別の要素を見つけてからかい続けるために、「非モテ」男性はいつまでも「自分は一人前の人間ではないのではないか」という〈未達の感覚〉と〈疎外感〉を抱き続けることになる。

この緩い排除と〈仲間入りの焦燥〉という絶え間ない往還の果てに、「非モテ」男性は自分自身を否定的な存在として見出す〈自己レイベリング〉に至る。

電書 118/174

つまり、「非モテ」とは、

「からかいや緩い排除を通じて未達の感覚や疎外感を抱き、孤立化した男性が、メディアや世間の風潮などの影響を受けながら女性に執着するようになり、その行為の罪悪感と拒否された挫折からさらなる自己否定を深めていく一連のプロセス」

電書 122/174

として定義している。

 また、著者はだからこそ、「『非モテ』の苦悩の背景にからかいや緩い排除による微細な傷つきがあるとのであれば、なぜそうした問題ではなく、女性と親密な関係を結べないことばかりが男性の問題として前景化するのか」(電書 122/174)についてさらに分析していきます。

 そのあたりの概要ははしょりますが、この一文は宮台真司への痛烈な批判のように私には見えました。宮台は非モテについて、これまでナンパ術のような形で対応してきましたが、それでは根本的な解決にはならないでしょう*2

 

ホモソーシャルな関係からうまれる疎外感と未達の感覚ーーー男性集団内の周縁化作用

 「非モテ」の背景にはホモソーシャル関係(男性同士の社会的関係)がある。男性同士の関係の「イジり/イジられ」関係で劣位におかれた男性達が、イジる側の評価に振り回されて、自己肯定感が蝕まれていきます。どこまでいっても優位者(イジる側)から評価されず「未達感」が残ったまま疎外されていく。評価されるように必死になればなるほど笑われる。

 著者はこのからかいを「あるはずのないドーナツの中心を目指して走り続けるような状況」(電書 127/174)に例える。

 

 「非モテ」男性に対するからかいが「標準的な男性像」から逸脱していることを理由になされており、その上「標準的な男性像」は集団内で権力を持つ男性がカスタマイズして繰り出している可能性について言及した。

いわば称揚される「男らしさ」とは不定形で実体のないフィクションなのだが、にもかかわらず、「男らしさ」言説は圧倒的な力をもって「非モテ」男性を縛り付ける。「非モテ」男性は、自分は人間として十分な条件を満たしていない劣った存在なのだという意識を抱いて苦悩し、また「男らしさ」を達成するために強迫的に努力する。まるであるはずのないドーナツの中心を目指して走り続けるような状況にある。 

(電書 126-127/174)

 

 あってないような評価基準は「イジる」側にある。それは感覚的なものであり、既に優位にある物が劣位を笑えばそれが基準になるに過ぎない。劣位におかれた男性は「集団への帰属と存在証明の切迫さ」(129/174)で必死なのだ。

 

 つまり、「非モテ」の背景にあるのは、男性集団内の力学であった。そして非モテに追い込まれる現象を「男性集団内の周縁化作用」(134/174)と定義する。

男性集団の権力性と競争を背景に自信にレッテルを付与し、自己否定に陥る。周囲と自己によって、「非モテ」男性は周縁に追いやられていく/追いやっていくのである。この一連の過程を「男性集団内の周縁化作用」と名付けたい。

電書 133-134/174

 

隣り合って「男」を探求するということ*3

 ホモソーシャルな関係は対等な関係ではなく優劣のある関係であるのが特徴だろう。なぜそういう関係になるのかこの本では明確にかかれていないが、一般論としていえば、資本主義社会では競争社会であるがゆえに男性は競争にさらされる。序列をつけられる。同性同士集まれば、社会像を反映して優劣関係がうまれ、イジり/イジられ関係が生まれる。

 男性が女性に同じことをすれば「差別」として扱われ、その行為は言語化された。しかし、男性同士の場合、劣位におかれた者の「生きづらさ」は語られない。言語化されない。その中で、唯一表徴されたのが「モテない」であり、だからこそ「非モテ」という言葉が、「あの感じ」を表すものとして使われるようになった。でも非モテという言葉が一般化されるにつれ、削ぎ落ちているものがあった。著者の立ち上げた「非モテ研究会」は、言語化されにくかった男性の問題を言語化していった。

 本を読んで思ったことは、男は「男らしい男」については豊富に言語化されているのに、そうではない男の表現が貧困だったということだ。いや、貧困というと語弊がある。青年マンガでは数多くの「イジられた男性」達が表現されている。しかし、彼らはつねに脇役で、主役になるには「男らしい男になる」しかなかった。いま、求められるのは「ありのまま男」を描くことだ。著者は友達とはまた違う当事者研究の仲間と、「ありのままの男」を探求する。隣り合って「男」を探求する。普通の男の普通の語りこそ、最も言語化されていない最後の秘境だった。

 

*1:

「非モテ(ひモテ)」の意味や使い方 Weblio辞書

*2:例えば『小説幻冬』12月号。上野千鶴子宮台真司鈴木涼美の対談「限界からはじまる」では性愛について対談していますが、性愛についてばかり語ってもわからないわけです。西井開の研究の方が重要な指摘していることがわかるでしょう。

小説幻冬 2021年 12 月号 [雑誌]

*3:終章のタイトル

『炎上社会を考える』の感想@キャンセルカルチャーのまとめ

 伊藤昌亮氏の新刊の『炎上社会を考えるーーー自粛警察からキャンセルカルチャーまで』は、読むなら「今でしょ!」(死語)という感じのドンピシャな本でした。

 この本はSNSトラブルの社会史であり、この新しい現象を読み解く視座を与えてくれます。東浩紀より鮮やかに読み解いていると思います。デュルケムとの相性の良さに驚かされました。

 いろいろと学びの多い本だったのですが、本の内容を詳細に読書ノートをしてしまうと新刊の営業妨害になるのでキャンセルカルチャーのみ、簡単にまとめていきたいと思います。

 

炎上社会を考える-自粛警察からキャンセルカルチャーまで (中公新書ラクレ, 752)

 

キャンセルカルチャーとは

 キャンセルカルチャーとは「著名人の過去の言動を告発し、その点を批判するだけではなく、その人物の活動をボイコットして、はてはその地位を剥奪してしまうような風潮」(180)であり、「その人物を社会から『キャンセル』してしまおうとする意味で」(180)呼ばれているものだ。最近の事例では小山田圭吾事件がまさにそれに該当する。

 キャンセルカルチャーは2019年の米国大統領選挙で「リベラル派の過激な動きを批判するために保守派が好んで使うようになった」(181)もので、著者は「ポリティカルコクトネス(政治的な正しさ)」と同様の言葉だと位置づけている(181)。

 しかし、もともとキャンセルカルチャーとは、

社会的弱者としてのマイノリティを擁護する立場から、権力の上にあぐらをかいているマジョリティの横暴な言動を告発し、その特権的な地位を揺るがそうとする動きを意味するものだった。

つまり、古い価値観や旧来の権力構造をキャンセルすることで、社会を変革していこうとするポジティブな志向がそこには込められていた。 181

 キャンセルカルチャーは「被害者に力を与えるもの」「エンパワー」するもの(183)であったはずだが、なぜ今は個人攻撃するようなものになっていたのだろうか。著者は、「SNSが駆動されたネット社会のダイナミズムは、権力の布置の不安化」(185)をもたらし、「エンパワーされた群集が、それ自体として一つの権力となってしまう」(185)ことがあり、「キャンセルカルチャーがある種の暴力となってしまうことがある」(185)と指摘する。

 

 ネット以前の社会は、自分の意見を直接社会に表出する手段はなかった。テレビや新聞などに投書などをして示したり、アンケート調査のように集合意識として傾向を把握する方法しかなかった。もしくは、政治的には「上」の人間に意見を出して、上の人が更に上の人に庶民の民意を伝える方法や選挙のように一票として示すほかなかった。しかし、SNSの到来で、誰もがダイレクトに自分の意見をつぶやき、示す技術が現れたのだ。ハッシュタグアクティヴィズムの#metoo運動のように、自分の体験をつぶやきながら群れることが可能になった。また、その群集の力が権力性を帯びるようになった、ということだろう。

 

キャンセルカルチャーの特徴

 キャンセルカルチャーの特徴として①リベラリズムの規範、②不寛容性、③過去の行為の問題化、があるという(191)。

 ①リベラリズムの規範とは、社会的弱者としてのマイノリティを擁護する立場のことで、弱い立場にある人々の人権を侵害するような言動を行った者、とりわけ権力者がターゲットになることが多いという(191ー192)。②不寛容性とは、リベラルの規範に抵触する行為には、事情いかんを問わず厳しい処罰を求めること(192)、③過去の行為問題化とは、どんなに遠い過去になされたことであっても厳しい処罰を求められること(192)である。

 キャンセルカルチャーが批判されるのは、②、③が問題にされる。しかし、不寛容性の問題は、実は政治学が社会思想の領域で古くから繰り広げられている問題だという。「寛容な社会を守って行くためには、不寛容な者に対してわれわれは寛容になるべきか、不寛容になるべきか」(193)問題である。

 

寛容のパラドクス

 この問いは「寛容のパラドクス」と呼ばれ、哲学者のカール・ポパーが答えを出しているという(194)。

 ポパーは、「不寛容な者に対しては不寛容でなければならない」という答えを出したが、それは条件付きであった(196)。ポパーの「不寛容者」とは、「理性的な議論に耳を傾けないように支持者に命じたり、拳と銃を用いて議論に応じるように諭したり」する人々(196)のことを指している。一方で、「理性的な議論で対抗したり。世論のチェックをしたりすること」が可能な場合にはそうすべきではない(196)ということだ。

 つまり、ポパーの不寛容者への不寛容は「特定の例外的な場合にのみ、やむなく(不寛容をー引用注)黙認」(197)するものであった。しかし、今、SNS上で起きている不寛容は、「例外状況」だからではなく気軽に不寛容な態度をとっているといえるだろう。

 著者は、「キャンセルカルチャーは、いわば『最後の手段』として用いるべきものではないだろうか」と主張する。キャンセルカルチャーは「最後の手段」であって「最初の手段」ではない。「最初の手段」としてキャンセルカルチャーを使うと、「すべてのケースに一律にキャンセルが求められること」(199)になり、東浩紀が指摘するように「超法規的なリンチ」となってしまうのだ(199)。 

 

世界は混沌としており、曖昧さに満ちている*1

 キャンセルカルチャーは、「いかに道理的で一貫した行動であろうとも、やはり無制限に肯定されるべきものではない」(200)と著者は主張する。

 

人間の中には多義性があり、世界の中には曖昧さや複雑さがある。つまり、矛盾を抱えながらも共存しているさまざまな性向や動向がある。

そうした点を一切考慮することなく、ある種の合理性や一貫性のみをあくまで押し通そうとすれば、キャンセルカルチャーは人間社会の現実から遊離したものになってしまうだろう。200

 

 著者の言うことはもっともなことだろう。

 

 では、なんでみんなキャンセルカルチャーにはまるのか。それは、SNSでは共感を数値化できるようになったこと(共感市場主義)、それによって総「自己顕示」欲社会になったこと(キャンセルカルチャーに参加すれば「意識高い系」になれること)などがある。そもそも、これだけSNSで毎日大騒ぎする現象とは、ネット社会の「規範」が形成される途上であるからと解説しています。詳しくは本を読んでほしい。

 一番大切なことは、今は新しい社会に向けた規範形成過程の最中であるという自覚だろう。アツくなって感情に駆られて毎日Twitterにつぶやいてしまう人ほど、この本を読んでほしいと思いました。

 

 この本の「祭と血祭り」の項目、規範形成過程のエキセントリックな状況を読んでいるときは『はじまりのブッダ』が思い浮かびました。たぶん、「新しいなにか」が生まれるときはこういう状況なのかもしれませんね。

 

熟慮と省察の人ブッダにとっての目には、世間にむかってやみくもに二者択一を迫る論争家たちは、結局、他人の苦痛を増やすだけでなく、自分自身の煩悩にエサをやるおかしな人々に過ぎない。    183

 

2千年前のブッダのように世界宗教=規範が、今まさに形成されているのかもしれませんね。対立の極相林、多様化の極相林の先に、新しい規範が生まれてくるのかもしれません。


はじまりのブッダ: 【初期仏教入門】

*1:バラク・オバマの言葉、200

もうひとつの声(2)3ーーーーシックスサマナの人々。アジアの片隅で低収入で暮らし、買春、クスリの毎日、そして孤独死

シックスサマナという雑誌をご存知だろうか。

 

年末年始は暇になるのでKindle Unlimitedに加入してたところ、なぜか「あなたへのオススメ」本としてプッシュされていた。なんとなく読んでみたらこれが滅法面白いのだ。

 

これまで「もうひとつの声、はるかな呼び声」シリーズで経済的に自立/自律できない男性の「もう一つ」の生き方ついて書いてきた。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

また、ダークな側面について触れているblogには、

kyoyamayuko.hatenablog.com

このblogがある。シックスサマナはぼそっと池井多が『世界のひきこもり』*1で語る「外こもり」の人々が登場する。アジアの片隅で買春とクスリの日々を過ごす日本人男性がたくさん出てくるのだ。

あまりにクズ過ぎて記録に残ることは無いような方々だが、『シックスサマナ』を発刊する編集長クーロン黒沢は積極的に取材し、記録を残しているのだ。

 

クーロン黒沢と雑誌『シックスサマナ』の創刊

 『シックスサマナ』はクーロン黒沢が2014年4月に創刊した不定期販売の雑誌である。電子書籍であり、主にAmazonを中心に販売している。

 90年代に流行ったアングラ雑誌の雰囲気がぷんぷんしており、一風変わった人を取り上げて特集している。アジアの片隅で低収入で生きる日本人や電波系の人などだ。今や、昔のように取り上げることすらしなくなった、インパクツのある方々を特集している。

 いったいクーロン黒沢とはどんな人なのだろうか。ググるとこんな記事がありました。2017年の記事なので今は50代だそうです。1971年東京生まれ。

toyokeizai.net

 クーロン黒沢自体も日本社会のありがちな「サラリーマン人生」とはまったく異なる生き方をしていています。小学校から人付き合いが苦手で、中学校ではストレスのせいなのか大病を患い、高校に進学してもほとんど通えなくなります。入院中に読んだ本で海外に関心をもつ傍ら、昼間は家電量販店のアルバイトをし、夜はマジコン販売をして稼ぎつつ、ゲームライターをしていました。しかし、マジコン販売がグレーな商売だったため(訴訟リスクを怖れて)プノンペンに移住します。20代前半なのにこれだけでも数奇な人生ですね。そして、このプノンペン時代の人脈が、雑誌『シックスサマナ』でインパクツある方々を紹介することになります。

 この記事で黒沢は、

「1990年代はクスリや児童買春目当てで訪れる人が多かったですが、2010年ごろから純粋に儲けに来たという人が主流になった印象があります。アンダーグラウンドな空気からビジネスチャンスタイプに、という感じです」

と語り、シックスサマナの創刊の理由を、

「最初は日本人向けにカンボジア情報を載せるサイトでした。でも、1年くらいやっていて全然儲からなくて。ならば有料メルマガにして稼ぐモデルをと考えたところ、ちょっと割に合うものがなくて、最終的にアマゾン・キンドルに行き着きました」

と語っています。最初はインパクツのある人々の記録本ではなかった。ビジネス情報向けとして創刊したが儲からないので、最終的にはカオスだったプノンペン時代に暮らしていた人々を雑誌に登場させます。買春やクスリなどを愛好する人々の、表では語られることの無い話を取材し、記事にしています。結果として、当時のプノンペンの状況を残す記録にもなっています。

 シックスサマナはプノンペンに限らずインパクトのある男性を記録する媒体となっていきます。魅力ある「クズ」達に魅せられて、私はこの雑誌を読みあさりました。

 

 プノンペンにハマった男・井上太夫とDJ北林

 私がこの雑誌を知ったのはつい最近なので、最新刊ではなんと彼らが死んだことから知ることになります。もちろん名前すら初耳でいったい誰やねんって話なんですが、追悼特集ではかれらの死んだ状況から説明が始まります。

 井上太夫さんの特集

シックスサマナ 第27号 漢の逝き様 野良犬のように死ね!

このほかにシックスサマナ3、4号にも生前の井上さんの特集があります。

 この巻では、彼の死から埋葬まで詳細に説明があり、しかも写真まで掲載されています。彼の数奇な運命。岐阜県出身でアパレルメーカーに勤務していた彼は仕事で台湾に行き、買春して少女買春にハマります。何度か渡航するうちに、働くのをやめて定収入でも生活でき、かつ安く買春できるプノンペンで生活します。まー、いろいろありまして彼は日本に帰国した際に児ポ法で捕まり、二年間臭い飯を食べます。更にいろいろあり、糖尿病となり失明し、日本に帰国するが、どうしてもプノンペンで暮らしたいという井上さんの要望を聞き、クーロン黒沢とその仲間たちは脱出を手伝います。全盲プノンペン生活がはじまるが、あるとき倒れてそのまま亡くなる。。。

 DJ北林。コロナで大好きなミャンマーやタイで生活できない毎日。クーロン黒沢とご飯をする約束をしたが、連絡がピタリと来なくなり、不安に思いながらも月日が経ち、自宅を尋ねたところ死んでいた。こちらの本では死の現場からはじまり、彼の海外生活時代の話をまとめたのがこちらの本です。買春、クスリ、殺人。内容がエグいので読む人を選ぶ話かもしれません。

シックスサマナ 第38号 勝ち逃げ野郎 爆走!親不孝街道

 

 

50代の彼らの物語ーー低収入で生活できるアジアの片隅で自由に生きる

 シックスサマナでは彼ら以外にも孤独死を発見したり、連絡がつかないので親族に連絡をとってみたところ既に死んでいたという話があふれています。彼らの大半は50代であり、いわゆる学生時代や新卒のときにはバブル期の世代です。海外渡航が当たり前になり、「自分探し」の旅が流行っていた世代の人たちでもあります。

 バブル崩壊後の日本は就職氷河期になるし、イケイケドンドンの会社もたくさん倒産しました。日本社会からあぶれた男性達は「ひきこもり」になったことは、もうひとつの声(2)2で書いた通りです。

 シックスサマナを読んでわかったことは、ひきこもり、いや「外こもり」(ぼそっと池井多)はアジアにいたのです。クスリと買春で時間を溶かしながら生きていた。かれらの貴重な暮らしぶりをシックスサマナで知ることができます。

 今回は書き切れませんでしたが、シックスサマナでは孤独死した男性や自殺した男性についても記録しています(官能小説家や岡本朋久など)。親族と絶縁された男たちの死に様について詳細に書いています。日本では新聞記事にも載らない死亡者ですが、クーロン黒沢路傍の石たちの記録を刻み続けています。

 

 しかし、そんな生き方にも終わりが来ます。アジア諸国が経済発展し、低収入でクスリと女で生活することが難しい状況になっていきます。日本との経済格差が縮小し、「低収入」の金額自体が上がってきています。シックスサマナの彼らのマッドな青春の話は今や夢物語になりつつあります。あの混沌としたアジアに遁世していた彼らは次々に亡くなっていっているのです。。。

 

*1:

世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現

『ブループリント 「よい未来」を築くための進化論と人類史』の感想②友情、友(内集団)/敵(外集団)、自己と他者、利他的行為

昨日も書いた感想だが、今日は下巻を中心に気になったところメモ。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(下)

 

友情は道徳の基盤

 第7章動物の友達では、「友情は動物界ではめったに見られない」(58)を確認している。人間の人らしさの一つには「友情」が一つの指標であるようだ。友情の存在は、「固体を超越し、時空を超えて情報を伝える恒久的な文化を育む能力の基盤」(58)らしい。「友情の絆のネットワーク内に集まることで、道徳感情が出現する土台が築かれる」(59)そうだ。友情・・・意外と大切なものでした。

 

人間の美徳の大半は社会的美徳であるということだ。

人は、愛、公正、親切を大切にするかぎり、それらの美徳はほかの人々に関していかに実践するかを大切にする。

あなたが自分自身を愛しているか、自分自身に公正であるか、自分自身に親切であるかは、誰も気にかけない。

人が気にするのは、あなたがそのような資質を他人に対して示すかどうかだ。

それゆえに友情は道徳の基盤となるのである。

59

 

友情=内集団バイアス、そして敵

 著者は「友情と内集団バイアスは普遍的なものだ」(107)と主張する。「人はまず友達を選び、それから集団を形成し、ネットワークを形成する。そしてそれらの集団が、ほかの集団とポジティブにもネガティブにも相互交流する」(92)わけだが、ポジティブに交流するのが「内集団バイアス」であり、ネガティブな交流が敵と言えるだろう。著者は根本的な問いを立てる。なぜ人間はそもそも部外者に対して別の感情を抱くのだろうか?、なぜ人間は全員を好きにならないだろうか?

 言われてみたらそうだよな。なんでみんなを好きにならないのだろうか。。。

 集団アイデンティティは、「相互支援の規範が共有されている集団の一員であるということは」、協力関係を円滑にするに役立つ」(95)し、「たとえ相手が見知らぬ他人であっても、その他人が『われわれの一員』であるかぎり、人は互いに協力できる」(95)わけで生存戦略として役に立つわけですね。

 「自分の命を犠牲にしてでも内集団メンバーを助けるのが利他行動であり、一方、外集団のメンバーに対して敵意を向けるのが自民族中心主義(あるいは区域内至上主義)」(102)であり、この「利他行動も自民族中心主義も、ともに単独では進化していなかっただろうと示唆」(102:ボウルズ、崔のモデル)されているそうだ。つまり、「二つあわせてでないと進化しなかった」(102)のであり、「人間が他者に対して親切であるためには、『われわれ』と『かれら』を区別していなくてはならないらしい」(102)とある。

 親切=他者への利他行動は、われわれ/かれらの区別とセットで進化したそうなので、内集団バイアスと利他行動はセットで切り離せないのかもしれない。これが差別や偏見がなくならない理由だそうだ。

 これは特に「集団どうしは互いにさげすみあい、嫌いあう状態のままで生きていける」(105)とき内集団バイアスが加速し、外集団に敵意を持つようになる。しかし、「ひとたび接触や交わりが不可避になれば、倫理的な優越感を強く持っている集団ほど、激しい憎悪、他集団の奴隷化、植民地主義民族浄化戦争などに、するりと陥りやすい」(105)。問題は、人種差別や偏見の最悪のあらわれは、「外集団憎悪の極端な結果であって、内集団の仲良しの結果ではない」(105)だそうだ。問題なのは「外集団に対しての強いネガティブな見方が存在していることではなく、ポジティブな見方が存在していないこと」(105)だという。

 このことはある種の逆接を浮かび上がるそうだ。「独自性と個別性を強調し、個人的な特定の関係に基づいて友情を育める豊かな土壌を提供している社会ほど、実際には、人間ならではの共通の属性が容易に認められる社会になっている」(105)かもしれないらしい。実際に比較文化研究の成果から、「内集団バイアスも『われわれ』と『かれら』との区別の重視も、集団帰属の重要性を強調して個人を集団に組み込もうとする集産主義社会(共産主義社会も含めて)においてのほうが、自主性を重んじる(そして社会的相互依存が比較的少ない)個人主義社会においてより、顕著に見られ」(106)、同じように「個人が自らのアイデンティティをしっかりと身にまとえて、なおかつ一定の枠にとらわれずにいられる社会ほど、略、部外者を、ひいては誰をも許容できる社会になるのだ」(106)そうだ。

 人間は、内集団バイアスと利他行動をセットで進化させてきた。そのため、われわれ/かれらの区別は普遍的なバイアスだ。しかも、われわれ/かれらの区別は固体を区分する能力も進化させた。それは友/敵を区別するための能力であったが、なんと固体のアイデンティティを重視する社会は、集団の中に個人を埋没させる集産主義社会より内集団バイアスを乗り越えて利他主義を発揮できるという。

私たち人間は、個々の区別がつかなくてもかまわないウシの群のような集団で生きるように進化したのではなく、ネットワークのなかで生きるように進化した。そこではつねに個人が他の個人と特定のつながりをもち、その他人を知り、愛し、好きになっていくのだ。 109

この能力はわれわれ/かれら(友/敵)の能力とともに進化して、内集団バイアスを生み出し、差別や偏見を生み出すものでもあるが、さらに開かれた社会へ向かう能力でもあった、ということだろう。

 

自己と他者

人間の「顔」が進化した理由

著者は「自分の個人的アイデンティティをもち、他人の(とくに自分の配偶者や子孫以外の)個人的アイデンティティを認識できる能力というのは、実は動物界ではほぼみられないものである」(120)と主張し、顔立ちの豊富なバリエーションはアイデンティティの信号として顔が使われていること示す(120ー124)。

 顔の認識は、「血縁以外との協力関係から利を得ている種であれば、個別性を認識できることはとくに有益」(125)であり、友情関係や同盟関係、敵対関係を認識し、階層構造に注意を払うために必須だそうだ。

ミラーテスト(鏡像自己認知テスト)

社会性動物の実験により、「実験室で生まれ、孤立して育てられたチンパンジーは、総じて自己認知(128)できない。「自己意識を育み、自他の区別をつけられるようになるには、幼少期からの他者の存在が必要」(128)だそうだ。

なぜ人間は、安全な今日でも利己的ではないのか

 協力行動と利他行動は、長い間科学者の頭を悩ませてきた問題、だという(142)。「普通なら、自然選択は利己的な行動を好むはず」(142)だし、「集団のメンバー全員が集団に貢献すれば、メンバー全員でいい思いをできるかもしれないが、個人レベルでは、貢献しないでいたほうが自分だけいい思いができる」(142)わけです。いわゆる「フリーライダー問題」ですね。

 なぜ自分だけが得をする利己的な行動をせずに協力をするのか。進化生物学者のロバート・ボイドとピーター・リチャーソンは以下の点について数理的に明らかにした。人々が協力するか、裏切るかの二択のほかに他人とまったく交流しない「孤独者」の戦略を数理モデルに加えるたところ、「利他タイプの進化サイクルが生じた」(155)!。

 多数の協力者がいるときにはフリーライダーが得をするが、フリーライダーが増加すると協力者がいなくなる。そうなると協力者が一人もいなくなり、誰にも支えてもらえないので、フリーライダーは孤独者より分が悪くなり、今度は孤独者が増えはじめる。時間とともにフリーライダーが孤独者に入れ替わると、協力者が生き残りやすくなるので協力行動が増えてくる(155の説明を要約)。そして、このサイクルが繰り返されるという。

各タイプはーーー協力者、裏切り者、孤独者ーーーはどれも生き残れるが、これはひとえに、各タイプがそれぞれの天敵を打ち負かしてくれる別のタイプと共進化しているからである。各タイプの存続にはお互いが必要なのだ。 155

 つまり、この3タイプの3すくみのサイクルが続くため、どのタイプも完全には消滅できないし、完全に支配することもできない、という(155)。このプロセスのなりゆきとして、「必然的に多様性が維持される」(155)わけだ。

 この状況に「処罰者」を組み入れるとどうなるだろうか。

 処罰者とは、「第三者を傷つける誰かを罰するために進んで個人的コストを支払う」(149)人であり、それを「利他的他罰」(149)という。列に並んでいて誰かが割り込んできたら、割り込まれた本人でもないの注意する人がいるし、割り込まれたのが自分でもないのにむっとすることあるだろう。その感情の起源はなんなのだろうか。著者は事例をあげて示すことは、「よくない行いをした者を叱責したい願望よりも、正義を回復し、不当な扱いされた側に埋め合わせをしてやりたいという願望のほうが強く表れ」(154)、「利他的な罰は特定可能な被害者に短期的な報いを与える一方で、もっと重要なことに、集団レベルでの協力の出現を全般に促せる」(154)という。つまり、「処罰者が入っている集団では、ただそれだけで、処罰者が実際の処罰行為をいっさいしていなくても、協力レベルが高く上昇し、ずっと高いまま維持された」(154)。「罰は制度として機能する。その存在だけで人々の行動を変えられるのだ」(154)。

 先の数理モデルに処罰者を加えて実験すると、集団内の裏切り者は激減し、そうると処罰コストが下がり、処罰者のほうが孤独者や裏切り者より分がよくなるので、処罰者が増えるようになり、サイクルが一巡する(156要約)。

 ようするに、「基本的には、人々に社会的交流から完全に身を引く選択肢を与えることで、罰が実行可能な行動になりえて、それがひいては、最初から互いに関与しあい、協力し合っている人々を支えるのだ! 誰ともかかわらなくてもかまわない状態が、結果的に、集団の結束力を強化している」(156)そうだ。

 

 私がこの点について読んだとき思ったことは、経済学の人間観である利己的な個人は、理論のモデルとして不適切なんだということです。最低、三つのタイプが共進化して互いを相殺できない存在。そして、それに処罰者の存在が集団にいるとき、利己的な人間は少数派にならざるをえないのだと。但し、利己的な存在を消滅させることもできないが、抑制はできるということなんだけど。

 

 いろいろ興味深いことが書いてありました。

 今回はメモ的にまとめました。

 

 

『ブループリント 「よい未来」を築くための進化論と人類史』の感想

 ニコラス・クリスタキスのこの本を知ったのは、綿野恵太さんの『みんな政治でバカになる』*1

の参考文献からでした。上下巻の大著でしたが、興味深く読みました。著者は、「善き社会を作り上げるための進化的青写真(=社会性一式:social suit)」は人間の遺伝子に組み込まれており、人間の普遍的特性なのだと多様な論文を引用し主張します。このての主張は、従来の社会学などでは遺伝子還元主義と見なされ排除されてきたわけですが、最新の研究を基に慎重にロジックを組み立てています。この遺伝子と共進化したのが人類なんだって。

社会性一式とは

(1)個人のアイデンティを持つ、またそれを認識する能力

(2)パートナーや子供への愛情

(3)交友

(4)社会的ネットワーク

(5)協力

(6)自分が属する集団への好意(内集団バイアス)

(7)ゆるやかな階級制(相対的な平等主義)

(8)社会的な学習と指導。上巻37)

 まー、それを信じるか信じないかはあなた次第ですって感じですが、私が興味を持ったのは「いかに社会はつくられるのか」を上巻で検証している点です。その点についてまとめていきたいと思います。

 

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上) (NewsPicksパブリッシング)

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(下)

 

社会をつくるとは?

 著者は、意図的だったり偶然だったりでできたあらゆるコミュニティを調べて、その結末に注目します。「根本的に異なるルールをもつ社会をつくりあげようとする取り組みの大半は、すっかり破綻するか、タランゼイのように元の社会と似てしまう結果になるかのどちらか」(上巻47:以下すべて上巻)だった。著者は社会性一式の「原理を排除しようとする試みは、たいてい失敗に終わる」(47)と述べる。

 どのようにコミュニティが崩壊するか、もしくは継続するのか、著者は以下の事例を調べて検証する。

 

(1)意図せざるコミュニティ

・難破事故の生存者コミュニティ

 インヴァーコールド号とグラフトン号/反逆者たちが築いたピトケアン島コミュニティ/シャクルトンの南極コミュニティ/ポリネシアの植民

 

コミュニティの成功と存続の決め手は「ゆるやかな階級制」(81)。

リーダーが連帯を育むために、また皮肉にも、集団内の階級制を弱め、平等主義と強調を確保するために尽力する 81

リーダーシップ欠如の事例:ピトケアン島、インヴァーコールド号

南極大陸に遺されたこの集団に、完全に平等主義的な権力の分配は存在しなかった。だが、交友、協調的努力、物資の公平な分配はあった。 85

リーダシップのがあった事例:グラフトン号、シャクルトンの南極コミュニティ

 

   

(2)意図されたコミュニティ

アメリカにおけるユートピア建設の試み

ブルックファーム/シェーカー教団

 シェーカー集団は長く続いたコミュニティだが、独身主義が衰退の原因だと語っている。当たり前だが独身主義では社会を再生産できない。

イスラエルキブツ

キブツの理念は、協力、自給自足、労働の分担と資産の共有、平等主義。初期キブツの特徴は直接民主主義と集団育児だが、これらの実践は現在は継続していない。

 キブツ運動の集団育児の理由には、「東欧のユダヤ文化で支配的だった家父長的体制を変えたいという願望にあった。集団育児の目的は、女性を家庭生活の重荷から解放し、男性と同じ社会経済的土俵に乗せる一方で、男性にもっと育児の役割を担わせることだった。初期キブツにおける女性のイメージで強調されていたのは、男性との平等、厳しい肉体労働、慎み深さ、そして恋愛の軽視だった」(110)。

 集団育児の考え方は、キブツだけのものではなく大昔から定期的に試みられてきたという。共産主義全体主義イデオロギーもリベラルな政治理念の平等主義的社会にとっても、「家族」の問題がネックになる。家族単位への帰属意識を縮減しようとする。しかし、「親子が絆を根本的に再構築する、あるいは最小化しようとする試みが長続きすることはめったになかった」(111)。

 キブツの興味深い帰結の一つは、「仲間どうしでの結婚が事実上ないことだった」(113)!!!。「子供時代にキブツで一緒に暮らす期間が長くなるほど、お互いとの性的接触への嫌悪感はいっそう大きくなる」(113)。ヴェステルマルク効果を支持する結果であった。 

 ヴェステルマルク効果(フィンランドの人類学者,エドヴァルド・ヴェステルマルク)とは、1891年に提唱された心理学的仮説。子供時代の同居が親族関係の暗示になると主張し、第一に血縁のない個人のあいだに近親相姦のタブーを生み出し、第二に血縁のない個人の間で利他主義を増大させるという(113をまとめた)。

 キブツは集団育児の放棄、平等な共有という経済モデルからも離脱している。大人と子供の愛情の絆を断ち切る試みは失敗する。

・1960年代の都市コミューン

 集団を結束を左右するのは「イデオロギー」と「構造」(126)。コミューンにおいても、友情の絆の維持、ゆるやかな階級制の存在、個人のアイデンティティ意識の尊重が復活している(127)。

・南極基地の科学者コミュニティ

(3)人工的なコミュニティ

・20の難破船実験、60のコミューン、3つの南極の科学者の自然実験では小規模で条件をコントロールできないため、著者の研究室で人工的なミニ社会をつくるソフトを開発。実験の被験者は「Amazonのタークワーカー」。

 

何がコミュニティの成功を決めているのか

 コミュニティの失敗事例から社会性一式がうまく機能しなければ新しい社会形態は生まれないし、数年間生き延びることもできない。

 存続が可能だったコミュニティの特徴を羅列していく。

・人々はいかなる社会をも形成できる均質で取替可能な集団ではない。そうではなく尊敬に値する個人の人格を持っていると考える。139

・集団のアイデンティティと個性のバランスをとることが社会システムの成功のカギ個人が自分自身であることを認める社会と他人を出し抜こうという利己心を抑制させる、その調和。

・そのためには、協力的な性向を育んで活かし、友情や集団への帰属意識を養うこと

・リーダーシップが大切

・セックスが自由の場合も、完全禁欲の場合の戦略は、結婚制度を覆し、個人のペアのあいだの深い人間的つながりを壊す目的がある。これは集団全体との連帯感を養うための戦略だが、こうした試みはほとんど失敗している。核家族の破壊は愛の本能を蝕む。139ー140 

 

 

上巻は、社会形成の論題から愛の論題に向かう。そこははしょります。愛、友情、友/敵、社会性については上巻の後半から下巻のテーマになります。

 

関心のあるところをメモ書きしました。時間なのでここまでにしとこ。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

*1:

みんな政治でバカになる

『囚われのいじめ問題 未完の大津中学生自殺事件』ーーーこの自殺は「イジメ」なのか、「家庭問題」なのか、それとも?

大津中学生自殺事件。あなたはどのようなイメージを抱いているだろうか?

 

私のイメージは、

クラスメイトからイジメの情報があったのに担任が適切な対応をとらず、イジメで自殺したというものだ。

イジメアンケートでもイジメの指摘があったのに学校も、教育委員会もそのことを公開せず隠していた、というイメージだ。

その後、加害者と学校、教育委員会は社会的バッシングを受けて大津市は第三者委員会を設置し、報告書を提出。加害少年のイジメによる自殺と認定された。

 

こちらのWikipediaを読んでみて欲しい。加害少年のイジメの凄さに許せない気持ちになるだろう。

ja.wikipedia.org

 

当時の私の記憶としては、加害少年のイジメのおぞましさに皆が怒っていたという印象だった。

この事件をきっかけに「いじめ防止対策推進法」が可決された。社会に大きなインパクトを与えた事件だった。

 

しかし、私はこの本を読み、被害少年の自殺の原因はイジメだと一概には言えないと考えるようになった。

囚われのいじめ問題――未完の大津市中学生自殺事件

 

自殺の原因はなにか

地裁では加害少年のイジメが自殺の原因が争われイジメによる自殺と認定されたが、高裁ではイジメの原因として家庭問題があげられている。

下記の内容を読んでみて欲しい。あなたはどう思いますか。

家庭問題についてはWikipediaには記載がほぼない*1。上記の本から高裁判決文の要約を引用してみよう。

【当事者の主張】

①別居、および離婚の見込を告げたこと(10月10日)

B(引用注:加害少年)は、2月にX(引用注:被害少年)の母が、7月に長姉が、いずれも父と不仲を理由に別居し、自殺前日には母がいつ自宅に戻るのか尋ねたXに離婚も考えている旨告げるなど、家族関係が崩壊していたと主張。 以下略

体罰

原告父がしつけと称して小学生の頃から厳しく叱責し、説きに殴打したり足蹴にし、中学生になっても顔面にあざができるほど殴打しており、懲戒権をはるかに逸脱した身体的虐待を加えてXとの関係が悪化していたと主張。以下略

③ゲーム機取り上げ(7月下旬)

Bによると、Xは7月中旬のテストの成績が良くなかったため父にとって学習塾に通わされ、成績が良くなるまで大好きなゲーム機を取り上げられていた。

④友人関係の制限(9月21日)

Bは、原告父がXの問題行動の原因が被告少年らにあると決め付けて校外で被告少年らと遊ぶことを禁止するなどしてXの居場所を失わせていったと主張。以下略

発達障害の疑いを告げる(9月25日)

Xが祖父母宅から現金を持ち出していたことが父に発覚。発達障害を疑って心療内科での診察を検討していた原告父から「お前は病気である」などと言われ、Xは自宅を飛び出して自宅マンション1階のソファで一晩過ごすなどし、精神的に大きな衝撃を受けていた。このようにAは主張した(9月29日時点で受診予定は10月13日であった(地裁35頁))

⑥現金持ち出しに関する反省文(10月7日~10月10日)

Xの現金持ち出し発覚後、中間テスト期間に入り、終了後の10月7日から自殺前夜まで、Xは複数回の書き直しを経て父方・母方の祖父母に各三通の反省文を作成した。Bは、被告らによる恐喝を疑う父から厳しく近員使途を追求され、叱責されながら手書きで繰り返し反省文を書き直させられたことで心理的圧迫を受けたと主張。Aは、Xが反省文の書き直しをさせられた際、「わるい友達は一人もいない。それだけはわかってほしい」(地裁11頁)と記載していたと主張。以下略。

自死当日の状況(10月11日)

Aは次のように主張。死亡当日、Xは自宅テレビの後ろにパンの袋を捨てたことで父から午前7時頃電話で叱責され、通話の最中にXが一方的に電話を切ったたため午前7時57分にも父から再度電話を受けて注意された。

Xはその約13分後の8時10分頃自宅マンションから転落死した。

間山広朗:253ー255

 

この家庭の話を読んでどう思っただろうか。

Xの家庭は夫婦別居し、姉も夏休み前には母親の方へいってしまった。自殺前日に母親から離婚すると伝えられている。父親はしつけに厳しく、友人関係を父親から責められ、問題行動をおこすのは「病気」のせいだと言われ、病院の予約をとられる。自殺当日は朝から電話で怒られて、電話を途中で切ったことで怒られて、その約10分後、登校前に自宅マンションから飛び降りた。

 

イジメ自殺の印象が180度変わったのではないだろうか。家庭問題についてはほとんど報道されていない。Wikipediaにも触れられていない。

地裁ではイジメの加害行為の認定が中心であり大津市の第三者委員会の報告書を前提に自殺とイジメの因果関係を認めた。

高裁は過失相殺を適用して、イジメ以外の原因と相殺して「損害賠償額」を決める。この裁判は「損害賠償請求」であって「真理」を明らかにする場ではない。自殺の原因はどちらにあるのか。損害賠償額は加害少年に4割を請求した。ということは、自殺の原因は家庭が6割、イジメが4割ということなのだろうか。

念のため、いじめ問題と家庭問題を対比した表を添付する。

f:id:kyoyamayuko:20211109112503j:plain

間山広朗,262ページ:2021,「未完のいじめ自殺ーー物語としての判決と羅生門的解釈ーー」『囚われのいじめ問題』 岩波書店

「真実」とはーーーあるのは羅生門的解釈だけなのだ。「わからない」ということに耐えられないからこそ生み出される物語

家庭問題を読んだ上であなたはXの自殺をどのように解釈しただろうか。正直言って私は家庭にも問題があるのではないかと思いました。

でも、なぜ自殺したのかはXが遺書を残さなかった以上、永遠に知ることができない。どこまでいっても推測でしかない。

加害少年と言われる友達が見たX、父親が見たX。それぞれになぜ死んだのか推し量り、イジメなのか家庭問題なのか裁判で戦った。当事者の彼らにとっても永遠の謎なのだ。

著者である間山広朗は

判決文を物語として検討してきて「わかった」ことは、皮肉にも決定的なことが「わからない」ということであった。

264ページ

と語り、映画『羅生門』に例えている。そして、判決の物語の外に出て「わからない」意味について検討している。

「遺書の不在」について間山はこのように語る。

Xは遺書を遺さなかったのではなく、A・W・フランク(Frank 1997/邦訳2002)が示した「混沌の語り(Chaos narative)」にすら届かない、声以前の声としての自殺そのものを遺した。

Xの死の意味を物語的に成就して「わかった」ことにすること、つまり「過去=亡くなった人を裏切る」可能性を拒否し、「わからなさ」に耐え続ける

269

もう、これしかないのだろう。声以前の声、彼の最後の選択を静かに受け止めて合掌するしかない。。。。

 

彼の14年の人生を受け止める。

 

 

でも、子供の自殺をありのままに受け止められない。身近な学校だけではなく、地域社会だけでなく日本全体で衝撃を受けた。だからこそ、イジメ自殺物語が構築されいじめ防止対策推進法までできた。

いかにこの問題がいじめ自殺問題として社会で構築されていったのか。この本では社会学者が構築主義のフレームに則って実証的に研究している。そこも読みごたえがあるので一読をオススメします。今回は長くなるので触れません。

 

今でも大津中学生自殺事件は「イジメ自殺」の象徴的な事件として社会では捉えられています。そこは高裁判決も踏まえて相対化していくべくなのだと思います。とはいえ、遺族の家族感情を踏まえてマスコミも表現が難しいのかもしれませんね。書き方を間違えると、自殺は家族の責任と捉えられてしまいます。それはそれで酷でしょう。加害少年と言われる彼らのバッシングと同じように遺族も非難を浴びる可能性があります。

 

彼の自殺をどのように表現すればいいのか。社会に一つの課題を遺しました。

 

加害/被害の白黒では語ることができない問題をどのように表現し、伝えることができるのか。視聴者/読者の第三者にも忍耐が問われます。白黒では語れない問題をどのように受け止めるのか。

 

いじめ自殺ってなんなんだろう?どうしたらいいんだろう?

 この本で北澤毅は「いじめ」と「自殺」の関係性を問い直しています*2

「いじめ」と「自殺」とのあいだには「病死」や「事故死」と同じような意味での因果関係が成立しているわけではない。

略 

「いじめ」から「自殺」までのあいだには、自殺を試みる人間が自分の経験を「いじめ」と捉え「いじめは死に値する苦しみである」と捕らえるという、二段階に及ぶ解釈行為が介在している。そうでなければ、「いじめを苦に自殺をする」ことができない。

3ページ

言われてみたらもっともな意見です。

なぜいじめで自殺するのか。

「いじめ」と「自殺」を因果的に結びつけているのは慣習になった考え方であり、それは私たちの社会が30年以上にわたって作り上げた文化の一部であるからだ。

3ページ

北澤のこの指摘は極めて重要だろう。なんとなくイジメにあって死ぬほど辛ければ自殺するのは当たり前のように受け止めているが、実はたかだか30年の慣習に過ぎないのだ。この指摘は社会学者の面目躍如な指摘だろう。

北澤によれば、

日本の主要マスメディアが、1985年に1月に発生した水戸市中学生自殺事件を「いじめ自殺」事件として報道したことが「いじめ」が自殺の同期の語彙となる社会の成立を促した*3

22ページ注(1)

とあるので、1985年にマスメディアが使い、いじめ自殺という用語が広がっていった。昔からあるものではなくて、80年代に日本社会に広まった概念なのだ。

では、いじめ自殺問題をどのように解決すればよいのだろうか。この本の終章の北澤の「『囚われ』の意味するところ」を参照にまとめておこう。

北澤はいじめ問題の解決として「個人レベルと社会レベルでの『囚われ』からの解放戦略」[314ページ]を指摘している。

 

個人レベルの戦略としては、「『いじめ経験』を書き換えるーーー再著述化実践という方法」[314ー316]を提案している。ナラティブセラピーの手法を使い、「いじめ問題」に固執せず再解釈する。。。というものだ。

でも、これは難しいんじゃないかな。いじめられたことを書き換えることは、実際に本当にいじめられたときには加害者にとって都合のよい方向へ向かうよね。それよりも、

イジメと自殺を切り離すことだろう。イジメ「られたから」死ぬ(自殺)ということと結び付けない。「られたから死ぬ」ではなくて「られたから逃げる/戦う/訴える」とイジメを回避する様々な手法とつなげる。

結局、イジメを回避する方法が少ないからこそ、究極的な回避策である「自殺」に結び付くわけですよね。イジメの回避策、防止策の豊富化こそイジメ「と」自殺の距離を遠ざける最善策だろう。

 

社会レベルの戦略としては「『いじめ物語』の解体」[316ページ]を提案している。いじめ物語とは、簡単にまとめると「いじめの苦しさは自殺に値する苦しさ」という物語のことであり、その物語を社会が共有している。苦しさを示す表現として「自殺」という手段をとることは、最大限の苦痛の表現として社会が受け止めている。

この自殺物語を解体するには、北澤は「因果的必然ではなく、社会的構築物であり文化的慣習であることを理解すること、言い換えれば、自分の苦しみの由来を理解することができれば、苦しみから解放される可能性が高まる」[316ページ]と述べる。いじめられると「死にたい」と思うのは、社会がいじめを「死に値す苦しみ」と評価しているからだ。だからこそ、いじめにあうと自殺という行動に促される。

私もいじめ物語の解体には賛成だ。常々思っているのだが、「いじめはダメ」というのと同じ以上に「自殺はダメ」と言うべきなのではないだろうか。まず「自殺しない」。

「あなたの命を守ります」という力強いメッセージこそ大切だ。命を守るための行動の選択肢を示すべきだ。

いじめを止めるために、学校と保護者は一丸となっめ向き合うと示すこと。

自分は無力で無価値だと自殺する前に、まずは死なない、あなたには選択肢ががあるというメッセージを社会が発信して、いじめ自殺を書き換えていくことが必要なのだろう。

 

それでも自殺はなくならないのかもしれない。

子供の自殺の衝撃に大人、社会は耐えられない。辛いのだ。本当に辛いんだよ。そのことだけは子供達よ、どうかわかっておくれ。

こんなに辛いものを見たくないのだ。だから、自殺の理由を必死に探す。私たちは「いじめ」にすがりつくのだ。加害者を探して裁きたいのだ。悲しみを悲しみのままおいておくことができない弱い生き物だから。

 

 

(参考)

裁判の流れ

●刑事事件(少年審判

2014年平成26年)3月14日、大津家庭裁判所は加害者3人の内、2人を保護観察処分、1人を不処分とした。

●民事事件

2012年平成24年)2月24日、加害者とされる同級生3人とその保護者および大津市を相手に、遺族は約7720万円の損害賠償請求大津地方裁判所提訴した(大津地方裁判所平成24年(ワ)第121号 損害賠償請求事件)。

2015年  (平成27年3月17日、大津地裁大津市が設置した第三者委員会の報告書に基づき、いじめの存在を認定した大津市と遺族側が和解。

加害者とされる生徒との裁判は分離され、審議継続され、

2019年平成31年)2月19日、大津地裁は同級生3人のうち2人に対して、約3758万円の支払いを命じる判決を言い渡した。他の1名に関しては、一体的となっていじめに加担したとは言えないという理由から、損害賠償及び管理責任を認めない判決となった

2020年(令和2年)2月27日、大阪高裁の二審では元同級生2人に計約3750万円の支払いを命じた一審の判決を変更し、賠償額は2人に計約400万円にまで大幅に減額、支払うよう命じた。 両親側にも家庭環境が整えられずに男子生徒を精神的に支えられなかった過失があるとして、損害額から4割を減額。大津市からの和解金の額などを差し引いた計約400万円が相当とした。(平成31(ネ)738 損害賠償請求控訴事件)

※訴訟の流れはWikipediaからまとめた。

 

*1:「ほぼ」という表現なのは、高裁判決で加害者の賠償金額が減額された理由として数行触れているため。しかし、加害者のイジメについて詳細に書かれているが、家族問題について数行なのはバランスが取れていない記述と言えるだろう。

*2:1ー23:北澤毅「『いじめ』とは何かーー苦痛・事実・社会問題ーー」

*3:北澤毅,2015,『「いじめ自殺」の社会学世界思想社』を参考文献にあげて述べている。詳細はこちらを読めばわかるのだろう。私は未読です。

「いじめ自殺」の社会学―「いじめ問題」を脱構築する (SEKAISHISO SEMINAR)

アジアは目覚め、宗教・儒教から解放され、どこへ向かうのかーーー『初等科地理』と『近代アジアの啓蒙思想家』ーーー

だいぶ日が開いてしまった。日常が戻り忙しくなってきた。

 

意図して読んだわけではないのだが、この二冊を読んでいろいろ思うところがありました。

 

昭和18(1943)年発行の初等科の地理の本です。

今で言うところの小学校5、6年向けの地理の教科書なんです。

[復刻版]初等科地理

 

なんの前提条件も無しに読むと、本当によくできた教科書です。

(帯の二人の男性の顔が怖いが、気にせず手にとってみてくださいw)

現在の教科書よりもアジアの地政学に目端が効いているし、国柄と日本との関係についても触れています。アジアの各国と一緒に力を合わせて大東亜共栄圏を作りたくなります。

でも、地理というのは政治の「結果」、静態的な姿でしかないんですよね。

 

 

次にこちらの本です。

近代アジアの啓蒙思想家 (講談社選書メチエ)

先ほどの地理の教科書に出てくる地域の啓蒙思想家はすべて記載されています。

日本からトルコまでアジア各国の啓蒙思想家を簡潔にまとめています。

この地域の啓蒙思想家たちは、日本の近代化に学び、植民地支配から脱却、独立を目指します。

日本は啓蒙思想のハブセンターとなりますが、一方で黄色い西欧諸国の一員としてアジア諸国を抑圧します。陽の面と暗の面を持ちます。

純化して語ると、ネトウヨは日本の陽の面のみを語るし、サヨクは暗の面のみを語りがちです。しかし、両面の側面陽を見ないと歴史の奥行きはわかってこないでしょう。また、陽と暗を相殺できないし、陽暗を相対化するだけの語りも他のアジア国が受け入れられるかどうか難しいでしょう。

じゃぁどうしたらいいのか?というのは私も悩んでいるところで答えはでませんが、

ひとまず、『初等科地理』の美しい教科書を読むときは『近代アジアの啓蒙思想』もセットでね、ということは言えると思います。

 

アジアの啓蒙思想の展開ーー宗教を解体した普遍思想ーー

ここまでは前置きです。

 

 

『近代アジアの啓蒙思想家』を読んでいろいろ思うとこがあったんですよね。

自分が思ったことを気ままに書いていきます。

この本はこの一文から始まります。

現代アジアは、近代に西欧で誕生した政治や経済などの制度が原理モデルになっている。

現代の制度が当たり前過ぎて、このように指摘されてハッと気づきます。

西欧諸国の植民地になる前のアジア、日本やタイのように植民地を免れた近代化する前のアジアの姿を著者はこのようにまとめます。

王朝国家の盛衰や交代はあったものの、アジア各地に支配者が世襲制の王朝国の時代が続いた。そこでは、自由で自立した国民は不在で、住民は、ただ専制支配者が命じるままに、自分の農業生産物や使役などの労働力を提供するだけの存在でしかなかった。

支配者に対する反乱や新たな挑戦者の登場により王朝国家の交替が起こっても、住人には関係のない出来事であり、ただ、新しい支配者を受け入れるだけだった。

いきるための経済活動も、一部の国や地域で他国との貿易が行われたとはいえ、多くの国で古代から続く自給自足の農業を、群単位で細々と営むものだった。

この伝統社会と国家体制を支えて、支配者の統治を正当化した政治思想が、支配者は徳をもった人間なので、住民が従うのは神と自然の摂理に適ったものである、と説いた儒教ヒンドゥー教などの教えだったのである。

3ー4ページ

 

長文ですが、あえて引用しました。2021年には忘れ去られつつある視点ですよね。まずこの事実を前提に、「西欧の衝撃」を受けたアジアの知識人は、概ね以下の流れをたどります。

アジアの知識人のなかには、近代西欧文明に反発して拒否した者もいたが、大半は近代西洋文明に深い感銘を受けて受け入れたのである。

そのさい、彼らは、自国の伝統思想や政治体制を護るために「和魂洋西」や「中体西用」など、自国の伝統体制と西欧の物質文明の折衷を考えた者と、近代西欧文明で自国の伝統体制を根本的に作り変えようとした者と分かれた。

このうち後者は、独立を護るために、あるいは植民地支配から独立するために、近代西欧文明で自国の国家体制や伝統社会を変革するための言説活動を行った。

これが啓蒙思想であり、ここから近代文明に依拠してアジアを変革する歴史的営為がはじまったのである。

4ページ

念のため書いておくと啓蒙思想とは「自由と平等を原理」とする思想だ。

 

で、最終的な結果は、現在の我々が知っての通りであるが、引用しておこう。著者はインド人の歴史研究者のK・M・パニッカルを引用して、以下のようにまとめている。

西欧諸国は西欧型教育をアジアに持ち込んだことによって、自分たちの植民地支配の「墓堀人」を育てたという、歴史のパラドックス(皮肉)である。

アジアは、西欧諸国が植民地化にともなって持ち込んだ西欧型教育、それに自ら習得した民族自決や国家主権の考えを武器に独立すると、新生国家の政治、経済、社会などの分野で近代西欧文明の理念や制度を基本に据えた

228ー229

今の世界を知っている我々にとって目新しい記述は一切ないが、この結果に至るまでは紆余曲折あった、地域によってその曲折は様々なのだが、詳細は本を読んでほしい。

今の現在の世界を知っている者からすれば当たり前のことなのだが、啓蒙思想は西欧に特化した思想ではなく、アジアの宗教や儒教を解体する普遍性をもった思想だったのだ。

 まぁ、アジアだけでなく当のヨーロッパでも宗教を解体していったんですけどね。二千年前に生まれた世界宗教儒教を解体する思想が啓蒙思想だった。「自由と平等」という理念は人類をバージョンアップしたと言えるし、パンドラの箱を開けたとも言える。なお宗教を解体したと言うのは私の個人的見解ではなくマックス・ウェーバーの見解です。

 

事例:儒教国の場合

で、アジアの儒教国に沿ってその解体過程を見ておきたい。

儒教国とは中国と冊封体制にある朝鮮、ベトナム、そして冊封下にはないが強い影響を受けている日本がある。中国を中心とした漢字文化です。今のベトナムからみると信じられないでしょうが、フランスに植民地されるまでベトナム儒教を中心にした漢語文化圏でした。ベトナムの国語のクオックグーはフランス統治下にフランス人も分かるようにローマ字で編纂した言葉なんですよね。

 

一番最初に近代化したのは日本でした。啓蒙思想を普及するための課題は儒教の克服でした。儒教は君臣の関係の重要性を説くものであり、古を貴ぶこと説きます。家族においても年長序列、そのアナロジーとして君を敬うのは当然という考え方です。

なお、「古を尊ぶ」という教えは儒教だけでなく、ヒンドゥー教イスラム教も同じであり、啓蒙思想の普及には、因習的な考え方を批判するわけです*1

 

この儒教を解体するのが大変なわけです。日本は中国や冊封体制下の国家ほどがんじがらめではなかったので、解体が早かったようです。がんじがらめの仕組みは次に説明します。

中国及び朝鮮、ベトナム儒教を基本とした科挙制度が確立されています。試験に合格した文官が高い地位を得られるのです。士官しようとするとこの科挙に受からなければならない。受かると一族は安泰です。

日本の徳川政府はここが違いました。武士の家系が官僚になっていたので。明治維新で活躍した志士たちは下級武士出身で能力があっても出世できなかったんですよね、徳川体制では。能力があれば出世できる西欧のシステムに魅力を感じたわけです。

 

中国は近代化の過程で、清末期は保守派(儒教)、啓蒙思想派に分かれます。啓蒙思想家は元文官の家系、儒家の家庭出身が多かった。啓蒙思想は日本やアメリカなどで学びます。

しかし、パリ講話会議で民族自決の権利を求めて参加するものの、西欧列国にスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じます。また、同時にそのころに共産主義流入してきます。その結果、保守派、啓蒙思想派、共産思想の三つ巴になります。保守派はほぼ命脈尽き(清国再興派)、満州国の文官。海外留学組のエリート知識人は啓蒙派となり、国民党を支持します。共産思想は、最終的に毛沢東ら非エリート組が占めます。当時の共産党の大卒者は党員の1%にも満たない状況でした*2

 最終的に共産党が勝利して、国民党とともに啓蒙思想家は台湾へ逃げます。中国はとても変わっていますよね。その変わっている点については、最後にまとめます。

 

 次にベトナムです。ベトナムも保守派(儒教)、啓蒙思想(フランスに学ぶ)、共産思想です。ベトナムの啓蒙派も民族自決を求めてパリ講話会議に出席しますが、中国と同じくスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じて共産主義にシフトしていきます。最終的に共産主義が残りますが、建国の父ホーチミンはフランスで学んだので啓蒙思想の基本は知っているし、資本主義社会もフランス時代に体験しているんですよね。

 最後に朝鮮です。朝鮮は保守派(儒教)は王制寄りであり、それは親中を意味します。啓蒙思想は日本で学ぶため親日となります。王制を改革しようと日本で学び、啓蒙思想を取り入れるが、保守派と対立し、日清戦争に発展します。ベトナムを巡って清とフランスが戦い(清仏戦争ベトナムが植民地化されたように、朝鮮は日本の植民地になってしまう。それでも民族独立にむけて活動した啓蒙思想家ユンチホは、1912年に逮捕投獄されのち「転向」し、植民地統治に協力するように。そして日本が1945年に敗戦となると自殺します。悲惨です。朝鮮の親中/親日の構図は現在にも続いていますよね。。。地政学上しょうがないのかもしれませんが、隣国の影響を受けざるを得ない国柄です。

中国の特殊性

 中国共産人民共和国は、知識人の啓蒙思想家を排除した、非エリート層が建国しているのが特色です。党員の周恩来鄧小平には留学経験はあるものの、毛沢東ソ連ですら数えられる程度しか行ったことがないのです。非エリートの集まりがなぜ国家を作れたのか。それはソ連の指導があったからです(後にソ連との関係は悪化しますが)。

 中国共産党のシステムはボルシェヴィキズムが由来です。

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しかし、そもそも中国の啓蒙思想孫文三民主義は、専制政治を認めています。啓蒙思想家の胡適は国民党とともに台湾へ逃れました。

 ということは、中華人民共和国の建国初期の段階では、啓蒙思想派は少数派ですし、このあとなんども知識人は弾圧されます。啓蒙思想の自由と平等のうち、「平等」は共産主義によって理念は浸透したが、「自由」はいまだに達成していません。

 啓蒙思想の自由と平等が、中国では不思議な形をしている。平等という価値観は共産主義が由来です。果たして自由が導入されることがあるのか。歴史的に考えても難しいのではないでしょうか。

 啓蒙思想家を切り捨ててようやく「近代国家」として独立できた中国。「近代国家」なのに、近代の重要理念である自由と平等が抜けたまま、巨大な国家となった。大きな矛盾を孕みながら、監視社会と資本主義システムが共存する国家はいったいどこへ向かうのだろうか。