アジアは目覚め、宗教・儒教から解放され、どこへ向かうのかーーー『初等科地理』と『近代アジアの啓蒙思想家』ーーー
だいぶ日が開いてしまった。日常が戻り忙しくなってきた。
意図して読んだわけではないのだが、この二冊を読んでいろいろ思うところがありました。
昭和18(1943)年発行の初等科の地理の本です。
今で言うところの小学校5、6年向けの地理の教科書なんです。
なんの前提条件も無しに読むと、本当によくできた教科書です。
(帯の二人の男性の顔が怖いが、気にせず手にとってみてくださいw)
現在の教科書よりもアジアの地政学に目端が効いているし、国柄と日本との関係についても触れています。アジアの各国と一緒に力を合わせて大東亜共栄圏を作りたくなります。
でも、地理というのは政治の「結果」、静態的な姿でしかないんですよね。
次にこちらの本です。
先ほどの地理の教科書に出てくる地域の啓蒙思想家はすべて記載されています。
日本からトルコまでアジア各国の啓蒙思想家を簡潔にまとめています。
この地域の啓蒙思想家たちは、日本の近代化に学び、植民地支配から脱却、独立を目指します。
日本は啓蒙思想のハブセンターとなりますが、一方で黄色い西欧諸国の一員としてアジア諸国を抑圧します。陽の面と暗の面を持ちます。
単純化して語ると、ネトウヨは日本の陽の面のみを語るし、サヨクは暗の面のみを語りがちです。しかし、両面の側面陽を見ないと歴史の奥行きはわかってこないでしょう。また、陽と暗を相殺できないし、陽暗を相対化するだけの語りも他のアジア国が受け入れられるかどうか難しいでしょう。
じゃぁどうしたらいいのか?というのは私も悩んでいるところで答えはでませんが、
ひとまず、『初等科地理』の美しい教科書を読むときは『近代アジアの啓蒙思想』もセットでね、ということは言えると思います。
アジアの啓蒙思想の展開ーー宗教を解体した普遍思想ーー
ここまでは前置きです。
『近代アジアの啓蒙思想家』を読んでいろいろ思うとこがあったんですよね。
自分が思ったことを気ままに書いていきます。
この本はこの一文から始まります。
現代アジアは、近代に西欧で誕生した政治や経済などの制度が原理モデルになっている。
現代の制度が当たり前過ぎて、このように指摘されてハッと気づきます。
西欧諸国の植民地になる前のアジア、日本やタイのように植民地を免れた近代化する前のアジアの姿を著者はこのようにまとめます。
王朝国家の盛衰や交代はあったものの、アジア各地に支配者が世襲制の王朝国の時代が続いた。そこでは、自由で自立した国民は不在で、住民は、ただ専制支配者が命じるままに、自分の農業生産物や使役などの労働力を提供するだけの存在でしかなかった。
支配者に対する反乱や新たな挑戦者の登場により王朝国家の交替が起こっても、住人には関係のない出来事であり、ただ、新しい支配者を受け入れるだけだった。
いきるための経済活動も、一部の国や地域で他国との貿易が行われたとはいえ、多くの国で古代から続く自給自足の農業を、群単位で細々と営むものだった。
この伝統社会と国家体制を支えて、支配者の統治を正当化した政治思想が、支配者は徳をもった人間なので、住民が従うのは神と自然の摂理に適ったものである、と説いた儒教やヒンドゥー教などの教えだったのである。
3ー4ページ
長文ですが、あえて引用しました。2021年には忘れ去られつつある視点ですよね。まずこの事実を前提に、「西欧の衝撃」を受けたアジアの知識人は、概ね以下の流れをたどります。
アジアの知識人のなかには、近代西欧文明に反発して拒否した者もいたが、大半は近代西洋文明に深い感銘を受けて受け入れたのである。
そのさい、彼らは、自国の伝統思想や政治体制を護るために「和魂洋西」や「中体西用」など、自国の伝統体制と西欧の物質文明の折衷を考えた者と、近代西欧文明で自国の伝統体制を根本的に作り変えようとした者と分かれた。
このうち後者は、独立を護るために、あるいは植民地支配から独立するために、近代西欧文明で自国の国家体制や伝統社会を変革するための言説活動を行った。
これが啓蒙思想であり、ここから近代文明に依拠してアジアを変革する歴史的営為がはじまったのである。
4ページ
念のため書いておくと啓蒙思想とは「自由と平等を原理」とする思想だ。
で、最終的な結果は、現在の我々が知っての通りであるが、引用しておこう。著者はインド人の歴史研究者のK・M・パニッカルを引用して、以下のようにまとめている。
西欧諸国は西欧型教育をアジアに持ち込んだことによって、自分たちの植民地支配の「墓堀人」を育てたという、歴史のパラドックス(皮肉)である。
アジアは、西欧諸国が植民地化にともなって持ち込んだ西欧型教育、それに自ら習得した民族自決や国家主権の考えを武器に独立すると、新生国家の政治、経済、社会などの分野で近代西欧文明の理念や制度を基本に据えた
228ー229
今の世界を知っている我々にとって目新しい記述は一切ないが、この結果に至るまでは紆余曲折あった、地域によってその曲折は様々なのだが、詳細は本を読んでほしい。
今の現在の世界を知っている者からすれば当たり前のことなのだが、啓蒙思想は西欧に特化した思想ではなく、アジアの宗教や儒教を解体する普遍性をもった思想だったのだ。
まぁ、アジアだけでなく当のヨーロッパでも宗教を解体していったんですけどね。二千年前に生まれた世界宗教や儒教を解体する思想が啓蒙思想だった。「自由と平等」という理念は人類をバージョンアップしたと言えるし、パンドラの箱を開けたとも言える。なお宗教を解体したと言うのは私の個人的見解ではなくマックス・ウェーバーの見解です。
事例:儒教国の場合
で、アジアの儒教国に沿ってその解体過程を見ておきたい。
儒教国とは中国と冊封体制にある朝鮮、ベトナム、そして冊封下にはないが強い影響を受けている日本がある。中国を中心とした漢字文化です。今のベトナムからみると信じられないでしょうが、フランスに植民地されるまでベトナムは儒教を中心にした漢語文化圏でした。ベトナムの国語のクオックグーはフランス統治下にフランス人も分かるようにローマ字で編纂した言葉なんですよね。
一番最初に近代化したのは日本でした。啓蒙思想を普及するための課題は儒教の克服でした。儒教は君臣の関係の重要性を説くものであり、古を貴ぶこと説きます。家族においても年長序列、そのアナロジーとして君を敬うのは当然という考え方です。
なお、「古を尊ぶ」という教えは儒教だけでなく、ヒンドゥー教、イスラム教も同じであり、啓蒙思想の普及には、因習的な考え方を批判するわけです*1。
この儒教を解体するのが大変なわけです。日本は中国や冊封体制下の国家ほどがんじがらめではなかったので、解体が早かったようです。がんじがらめの仕組みは次に説明します。
中国及び朝鮮、ベトナムは儒教を基本とした科挙制度が確立されています。試験に合格した文官が高い地位を得られるのです。士官しようとするとこの科挙に受からなければならない。受かると一族は安泰です。
日本の徳川政府はここが違いました。武士の家系が官僚になっていたので。明治維新で活躍した志士たちは下級武士出身で能力があっても出世できなかったんですよね、徳川体制では。能力があれば出世できる西欧のシステムに魅力を感じたわけです。
中国は近代化の過程で、清末期は保守派(儒教)、啓蒙思想派に分かれます。啓蒙思想家は元文官の家系、儒家の家庭出身が多かった。啓蒙思想は日本やアメリカなどで学びます。
しかし、パリ講話会議で民族自決の権利を求めて参加するものの、西欧列国にスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じます。また、同時にそのころに共産主義が流入してきます。その結果、保守派、啓蒙思想派、共産思想の三つ巴になります。保守派はほぼ命脈尽き(清国再興派)、満州国の文官。海外留学組のエリート知識人は啓蒙派となり、国民党を支持します。共産思想は、最終的に毛沢東ら非エリート組が占めます。当時の共産党の大卒者は党員の1%にも満たない状況でした*2。
最終的に共産党が勝利して、国民党とともに啓蒙思想家は台湾へ逃げます。中国はとても変わっていますよね。その変わっている点については、最後にまとめます。
次にベトナムです。ベトナムも保守派(儒教)、啓蒙思想(フランスに学ぶ)、共産思想です。ベトナムの啓蒙派も民族自決を求めてパリ講話会議に出席しますが、中国と同じくスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じて共産主義にシフトしていきます。最終的に共産主義が残りますが、建国の父ホーチミンはフランスで学んだので啓蒙思想の基本は知っているし、資本主義社会もフランス時代に体験しているんですよね。
最後に朝鮮です。朝鮮は保守派(儒教)は王制寄りであり、それは親中を意味します。啓蒙思想は日本で学ぶため親日となります。王制を改革しようと日本で学び、啓蒙思想を取り入れるが、保守派と対立し、日清戦争に発展します。ベトナムを巡って清とフランスが戦い(清仏戦争)ベトナムが植民地化されたように、朝鮮は日本の植民地になってしまう。それでも民族独立にむけて活動した啓蒙思想家ユンチホは、1912年に逮捕投獄されのち「転向」し、植民地統治に協力するように。そして日本が1945年に敗戦となると自殺します。悲惨です。朝鮮の親中/親日の構図は現在にも続いていますよね。。。地政学上しょうがないのかもしれませんが、隣国の影響を受けざるを得ない国柄です。
中国の特殊性
中国共産人民共和国は、知識人の啓蒙思想家を排除した、非エリート層が建国しているのが特色です。党員の周恩来や鄧小平には留学経験はあるものの、毛沢東はソ連ですら数えられる程度しか行ったことがないのです。非エリートの集まりがなぜ国家を作れたのか。それはソ連の指導があったからです(後にソ連との関係は悪化しますが)。
しかし、そもそも中国の啓蒙思想家孫文の三民主義は、専制政治を認めています。啓蒙思想家の胡適は国民党とともに台湾へ逃れました。
ということは、中華人民共和国の建国初期の段階では、啓蒙思想派は少数派ですし、このあとなんども知識人は弾圧されます。啓蒙思想の自由と平等のうち、「平等」は共産主義によって理念は浸透したが、「自由」はいまだに達成していません。
啓蒙思想の自由と平等が、中国では不思議な形をしている。平等という価値観は共産主義が由来です。果たして自由が導入されることがあるのか。歴史的に考えても難しいのではないでしょうか。
啓蒙思想家を切り捨ててようやく「近代国家」として独立できた中国。「近代国家」なのに、近代の重要理念である自由と平等が抜けたまま、巨大な国家となった。大きな矛盾を孕みながら、監視社会と資本主義システムが共存する国家はいったいどこへ向かうのだろうか。