前回は日本銀行を設立し、銀本位制を確立し、通貨がようやく安定したところまでまとめました。ここから金本位制の導入です。これが苦難の道なんですよね。
今回も松元崇さんの本についていきたいと思います。
金本位制の導入ーー「正貨流出問題」の発生
明治30年に金本位制が導入される。当時は経済界や福沢諭吉など反対するものも多かったという。というのも、日本は銀本位制の下で銀の価格低下で「円安」のメリットを受けていた。輸出する企業にはメリットはあったのだ*1。
それでも金本位制が導入されたのは、松方正義が欧州諸国が導入している金本位制を採用することが、日本の経済成長の基礎になるとして押しきったからだそうだ*2。金本位制は、特定の国の通貨価値に左右されない「金」を各国が本位通貨として採用することで安定した貿易や自由な資本移動を保証するもので、経済発展の基礎として最も重要なものと認識されていた*3。
また、日本が金本位制を導入した明治30年の直前に南アフリカで大規模な金鉱山が発見された。これまで金不足世界的にデフレ時代だったが、金鉱山の発見でデフレが終焉した。南アフリカの金産出量は二十世紀初頭で全世界の40%を占めたという。日本の金本位制はこのようなタイミングで導入されたのは幸運だった*4。金本位制の採用は先進国の証明だと考えられていた。
しかし、先進国ではない日本の金本位制の導入は大きなコストをもたらすことになった。発展途上国の貿易収支は一般的に赤字になりがちだ。外資導入で赤字が抑制できなければ、金本位制を守るために緊縮財政や金利引き上げで国内の景気抑制で輸入を押さえなければいけなくなる。これが、金本位制を導入して生じた「正貨流出問題」であった*5。
金本位制の停止と関東大震災
1914年に第一次世界大戦がはじまり、英国をはじめ欧米諸国が金本位制を停止する中、日本も1917年に金本位制を停止した。戦争が終わると欧米諸国は金本位制の再開を目指したが、日本も復帰しようと模索した。しかし、1923年に関東大震災で国民総生産の三分の一に相当する甚大な損害を被り、金解禁どころではなくなった。
関東大震災による財政、経済の影響についてはこちらをどうぞ。
日本は1930年にようやく金本位制に復帰する。蔵相は井上準之助であった。しかし、金本位制の復帰が旧平価で行われたことで日本国内は深刻な不況に突入した。日本は第一次世界大戦の好景気で経済が発展したものの、関東大震災の甚大な被害で旧平価に見合うだけの経済力を失っていた*6。
旧平価で金解禁を行うためには、輸出急減・輸入急増で正貨流出を招かない体質にする必要がある。具体的に言うと、国内経済を緊縮財政と国民の消費節約にしてデフレ政策にし、人為的に為替レートを大幅に切り上げる必要があった*7。
さらに追い打ちをかけたのが世界恐慌だった。この状態で金解禁を続けることは、経済が悪化しているのにデフレ政策をせざるをえず、景気回復策がとれないことを意味する。景気悪化する中、政治不安も高まりm若月内閣が倒れ、犬養内閣が組閣、蔵相は高橋是清に。昭和6年に金本位制の再離脱を実施する。
高橋蔵相は金の輸出を禁止して為替レートを実力相応に引き下げるとともに、保証発行屈伸制限制度の管理通貨機能をフルに活用した。金本位制の離脱で思いきった積極財政や大幅な金利引き下げを可能にし、保証発行屈伸制限制度の活用で通貨の保証限度額がそれまでの1億2000万円から10億円まで大幅に引き上げられた。これらによって金本位制によるデフレ脱却をはかった*8。
井上蔵相による金解禁によって大量の金が国外に流出した。昭和5年末には約8億3700万円あったが、昭和7年末には約4億2600万円と半減した*9。正貨準備発行だけでな通貨発行量を大幅に減少せざるをえず、デフレを深刻化させない状況なのがわかるだろう*10。
高橋是清の暗殺と金本位制の廃止
高橋是清の金本位制離脱は、急激なデフレによる景気悪化の回避策であって金本位制に否定的ではなかったそうだ*11。高橋が大切だと考えていたのは安定した国際通過制度としての金本位制であって、金本位制を維持することに固執するわけではなかった。「英国の金本位制の可能性に備えて国内の金本位制を残しておく」(3282/4403)という高橋是清の考え方は、周囲に理解されないまま二・二六事件で暗殺される。
対米海鮮の危機が高まった昭和16年2月には「兌換銀行券条例の臨時特例に関する法律」が制定、金本位制が法律上も正式に廃止された。昭和17年の日本銀行法によって「従前の兌換銀行券は本法による銀行券とみなす」とされ、非兌換の日本銀行券へ切り替わられた*12。特に混乱は無かったそうだ。
金本位制の復帰、再離脱は国民の目から見るとどのようなものだったのか。
一般の国民には通貨政策上の大きな変更が行われたとは認識されなかった。
一般の国民が認識したのは、井上蔵相の下でデフレ不況になり、高橋蔵相の下でデフレ不況から脱却したということだけであった。
それは金貨が流通しない金本位制に慣れ親しんできた日本人にとって無理もない話であった。
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しかし、国民が通過制度えお理解していない弊害は大きかった。
井上準之助も高橋是清も日本経済の発展のために金本位制が大切だと考えていたことや、高橋是清が戦争といった国家存亡の危機に備えて安定した国際通過制度(例えば、金本位制)に加わっておくことが不可欠だと考えていたことも忘却されていってしまった。
それは金がなくては戦争は出来ないということが忘れられてしまったことでもあった。
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井上蔵相、高橋蔵相の暗殺によって通過制度を深く理解できる人が失われた。それは経済合理性から通過制度を考えることのできる人を失ったことを意味した。金本位制を理解できない群舞が暴走し、経済的にも敗戦することを意味した。
「円元パー」政策ーー経済合理性なき「円通貨圏構想」の強行
「円通貨圏構想」は、もともと第一次世界大戦中に寺内内閣の勝田蔵相によって構想されたものだそうだ*13。第一次世界大戦の勃発で英国の金本位制停止は、ロンドンに在外正貨の大半を置いていた日本の為替決済を困難にさせた*14。そこで日本はアメリカのニューヨーク市場で決済を行おうとしたが、アメリカも金本位制を離脱し、ニューヨーク経由のドル為替決済も機能不全に陥った*15。そのような中で、日本の主要な貿易相手国が集中していたアジア地域での独自の為替決済の仕組みとして構想されたものであった*16。
しかし、各国が金本位制に復帰したことで、この構想は一旦、お蔵入りした。しかし、世界恐慌後。再び各国が金本位制から離脱した。英国がスターリング・ブロックを形成したことで、日本の軍部が円ブロックを構築しようと模索した。スターリングブロックは、ポンド決済が困難になり、日本からの綿製品輸出に対して差別的な関税や輸入制限を行い、東南アジアから日本製品を排除しようとした*17。
円元パー政策と、その後軍部はどのように経済的にも敗戦するかはこちらをどうぞ。
円元パー政策は失敗し、日本の正貨は中国へ大量に流出しました。
<年表>
明治02年05月 太政官札と新紙幣交換の布告
明治04年05月 新貨幣条例
明治05年04月 明治通宝(不換紙幣)、発行
明治05年11月 国立銀行条例(金兌換紙幣)、制定
明治07年09月 江戸時代からの通貨禁止、太政官札と明治通宝と交換
明治08年 国立銀行券の兌換廃止を政府に陳情
明治09年 国立銀行券の兌換停止
松方デフレ政策(明治19年頃からインフレ収まり景気回復)
大正06年 金本位制、停止(第一次世界大戦で各国が停止したため)
昭和02年 昭和の金融恐慌
昭和04年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)、世界恐慌のはじまり
昭和16年 兌換銀行券条例の臨時特例に関する法律が制定、金本位制廃止