花の24年組、大泉サロン、少女マンガ革命の言葉の由来ーーー萩尾望都、竹宮恵子、増山法恵

話題の萩尾望都の本には衝撃を受けた。

 今や当たり前のように使われている「花の24年組」、「大泉サロン」、「少女マンガ革命」の言葉に萩尾望都ご本人が否定的だったのには驚いた。しかも、「恣意性」のある言葉だという。ネタバレになってしまうが、増山法恵がジャッジした漫画家のみを「花の24年組」として使うことに極めて批判的な様子だった。

 私はリアルタイムの雑誌読者ではなく、有名な漫画家の作品として読んでいたし、これらの言葉はよく使われていたので疑いもしなかった。というわけで言葉の由来を探してみた。

一度きりの大泉の話

 

 竹宮恵子の本を読むと、「花の24年組」についての説明は無し。「大泉サロン」については、ボロ長屋なので「サロン」と言われると恥ずかしいと書いてある。周りが「大泉サロン」と呼ぶようになったという。「少女マンガ革命」については、本人が積極的に発言している。

【電子版限定特典付】 少年の名はジルベール (小学館文庫)

 

 「花の24年組」は誰が使いはじめたのか。ツイッターで貴重な情報をゲットした。繁富佐貴さんの論文は重要だろう。

 

竹宮恵子のマンガ教室

 

この辺が重要な資料になってくるのかな。花の24年組は増山法恵さんが言い出した言葉なのだろう。

 

 少女マンガ史では当たり前のように使われている「花の24年組」「大泉サロン」「少女マンガ革命」は、あくまで竹宮・増山史観であって、萩尾望都からすると恣意性の強い言葉として受け止められている。少女マンガ史を読むときには注意しなければいけないだろう。雄弁な語り部は多いに語るが、それはあくまで一つの史観に過ぎないということだ。

 

 

増山法恵の情報

インタビューに応じている。未読

密やかな教育: 〈やおい・ボーイズラブ〉前史

 

増山法恵の役割について触れているらしい。未読。

 

萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命 (幻冬舎新書)

 

大泉サロン時代の同志。解説は増山法恵

佐藤史生コレクション 死せる王女のための孔雀舞(パヴァーヌ)

 

 

2008年に竹宮恵子と対談。ネット記事。

www.webdice.jp

ネット記事による増山法恵のプロフィール

都立駒場高校音楽科(現:都立芸術高校音楽科)在学中から少年・少女漫画に夢中になる。アマチュア時代の竹宮惠子萩尾望都らと知りあい、音楽の世界から漫画世界へ転身を決意。二十歳から十五年間、少女漫画家・竹宮惠子のプロダクション“トランキライザープロダクト”のプロデュース・ディレクターを勤めたのち独立。現在はフリーライターとして、書評、映画評、音楽評論活動をしながら、“のりす・はーぜ”名で小説も発表する。小学生の頃から少年(少女)合唱に興味をもち、高校時代から音楽雑誌に児童合唱論を発表。近年は世界中の少年(少女)合唱団に関する音楽評論活動に力を入れている。

 

 

増山法恵の弟さんは大友克洋と関わり有り。

 

 

■大泉サロンの様子

どこかであちこち大泉サロンの様子のマンガを読んでいるため、大泉サロンのイメージがなんとなくあるのですが、ちょっとしたエッセイマンガのため誰のマンガだったかもわすれている。見つけたものをここにコピペする。

 

 

10年目の鞠絵が三人の関係を表したマンガではないかと囁かれている。

 

 

■関連論文、書籍

可児洋介,2013,「24年組」をめぐる二つの運動体増山法恵の「大泉サロン」と迷 宮の「マニア運動体」」 『マンガ研究vol19』 ゆまに書房

もうひとつの声(1)ーーー全部降りたら大変だった。コミューンの実践

 「弱者男性」論は近代思想の「自立/自律した個人」モデルから排除された、疎外された「何か」だとするならば、「自律した個人」モデルではない生き方は社会思システムや思想を変えていくことになるだろう。

  大きな山は変わらない姿であり続けるかもしれないが、少しずつ土砂が崩れはじめている。崩れ落ちた砂粒は集まり、別の形を生み出したり、崩れたり、また寄せては異なる形に変わっていく。

 つまり、今は過渡期なのだ。色んな形が生まれつつあるのだ。「自律した個人」モデルから降りた生き方がはどのようなものがあるだろうか。現在、生まれつつある様々な動きを押さえておきたい。

 まず、前史として資本主義社会を相対化するために実践した人々がいる。資本主義の社会システムから降りることで資本主義をぶっ壊す!、もとい資本主義社会のその先へ行こうとした思想がある。それが共産主義であり計画経済だ。が、この話をすると長くなるし、ソ連崩壊で失敗という結末を得たのではしょるとして、もう一つの社会実践を紹介したい。その名は「コミューン」、自由意思主義共同体。信念や信条を共有した個人が自由意思に基づき暮らす。

 実践として最も有名なのはパリ・コミューンだが、日本にもいろんなバージョンがある。武者小路実篤の「新しき村」や宗教団体のヤマギシ,社会福祉法人共働学舎など。驚いたことにすべて現役だ。古くなった「新しき村」の現在のルポはこちら。ヤマギシは問題をはらむのではしょりますが、共働学舎の実践はこちら。

「新しき村」の百年―〈愚者の園〉の真実―(新潮新書)

アラヤシキの住人たち

 

自給自足を目指すのが基本だ。自給自足こそ資本主義社会を超えていく論理なのだ。そう理解された時代があったのだ。

 今は2021年。コミューンの名前は廃れ、忘れられた実践になっている。ヤマギシ以上の大規模コミューンは現れなかったし、小規模コミューンは細々と存在するが、縮小再生産でいずれは消える運命だ。

 コミューンは資本主義社会の論理とは異なる論理の共同体を実践する場であった。しかし、理念のために個が埋没することがあった。実践すると、自ら選んで参加した親はよくても子はその共同体から出ていき「新しき村」は消滅しつつある。

 親から子、孫へと再生産してコミュニティを維持するのは難しい。ヤマギシのように子供は共有財として共同で子育てする弊害を当事者は語る。子供にとって実親と暮らせない辛さ、愛着形成が不全な状態に陥りやすいなど、集団育児する問題点があらわになった。

 

カルト村で生まれました。 (文春e-book)

 

カルトの子―心を盗まれた家族 (論創ノンフィクション 009)

 一つの理念の下に集まる共同体の暮らしは厳しい。資本主義に頼らないために自給自足する生活というのは資本主義に馴らされたこの体ではとても厳しい。昔のコミューン参加者はまだ親は農家という方々もいたかもしれない。でも今の時代は自給自足の農作業はキツすぎる。資本主義システム、貨幣経済から全部降りるのは極めて難しい。ていうかムリゲーだろ。

 自由意思に基づいた共同体であるコミューンは、自由意思に基づいた「目的」のために共同生活を送ると、個人の意思よりも理想や目標の達成に向けて個人の意思を縮小していくように見える。それでは疲れてしまうし、偉大な思想や目標にすり潰されていく。コミューンの実践は、個人の意思より思想を「目的」にしたことで自由意思を疎外してしまった。個人<思想ではなく、個人>思想という流れでなければ続いていかないし、社会システムが変わるとするならば目標として変えていくのではなく、自由な意思による行為の集積の結果、自然と変わっていくのではないだろうか。

 自由でありながら負荷が少ない生き方はないのだろうか。大きな理念や思想ではなく、自分が暮らしやすい生き方はないのだろうか。  

 最近の新しい動きを見ていると、自立の負荷を下げて自分らしく暮らす生き方が増えている。資本主義社会で当たり前とする生き方から半分降りてみる。全部は難しいから半分だけ降りてみる。そうすると息の詰まるような社会から異なる景色が見えてくる。半分降りてみて、ようやく息を吸えるようになった男性たちの姿を追ってみたい。

続く。

 

(コミューンについて長くなりすぎて辿り着けなかった・・・・) 

 

 ■その他

 当然、バックラッシュもある。「弱者男性」論で主に語られるのは男性の既得権益復権運動であり、その背景にはネット寄せ場から紡ぎ出された暗黒啓蒙、ダーク思想があった。

kyoyamayuko.hatenablog.com

  

ケアの倫理と「弱者男性」論ーーー自律した個人モデルから排除された男性はネット寄せ場で暗黒思想を紡ぎ出すしかないのか

 フェミニズムは、近代思想が前提とする「自立/自律した個人」モデルが女性を排除した抽象的な概念であることを明らかにしたのですが、実は一部の男性にとっても、特に「弱者男性」にとっても同じことが言えるのだと気づきました。この「自律した個人」モデルから弱者男性が排除されているわけです。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 フェミニズムが明らかにした論法を使って「自立/自律した個人」から排除された男性について語ることは可能だろう。

 男性を前提にして抽象化された「自立/自律した個人」から排除された「未だ名付けられていない男性」のことを、ここでは「弱者男性」と呼ぶことにする。弱者男性はネットで語られているが、ありていにいえば低収入・低学歴・非モテという自立した個人モデルからはほど遠い人たちのことだ。「こじらせ」男性と言われることもある。

 女性は、女であり母親である「私」を回復し、ケアの倫理を生み出したが、「弱者」男性は男であり父親である「私」を回復することができるのだろうか。弱者男性は激しくフェミニズムを憎むが、自律した個人モデルから排除された「弱きもの」同士、手を結びあうことができないのだろうか。

 現在の実感では難しいと言えるだろう。その理由も、フェミニズム運動の流れから理解可能だ。フェミニズムは、「女」を働く女、性的な女、よい母親、悪い母親を分断するのは「自立/自律した個人」モデルが生み出す「公私二元論のフレームワーク」に囚われているからだと指摘する。これは弱者男性にも当てはまるだろう。弱者男性が公私二元論のフレームワークで社会を見る限り、自律した個人からも疎外され、女性からも疎外される。弱者男性によるフェミニストや女性への激しい憎しみは社会構造が生み出しているものであるし、その構造の価値を内面化しているからだ。そこからの解放がなければ、公私二元論のフレームワークに囚われれてしまいます。「俺」が男であるメリットも享受できず父親にもなれないのは「自律した個人」の(強者)男性しか求めない「女」のせいだ、と。。。

 

 弱者男性は、女性のフェミニズム運動のように自分が囚われている価値観から解放することは可能なのだろうか。

 現時点において、「弱者男性」の一つの方向性は、トランプ支持者やネット右翼のように男=国家=権力を志向し、もう一度偉大なる「男」を復権しようとする試みだろう。弱者男性が民主主義システムのルールに則り復権しようとする運動がある。男であることの「既得権益」を取り戻せ、という復権運動。

 そのような「復権運動」の母体になっているのが、ネットのアンダーグラウンドの居場所だ。社会から排除された「弱者男性」の寄せ場。ネットの寄せ場から生まれたのが、最近注目を浴びている暗黒啓蒙だ。自律した個人から排除された「弱者男性」らは、ネットの暗部でダークな啓蒙思想を生み出している。

ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち

 

 示唆的なのは、資本主義社会で利益を生み出せない男性が「弱者男性」であり、稼げず家庭をもてない男性が「自立/自律した個人」モデルから排除された男性であることだ。弱者男性は近代経済社会モデルから排除された「男性」なのだ。排除され、名づけられすらしなかった男性たちがネットの暗部でつながりダーク思想を生み出し、政治運動として社会に飛び出してきているのだ。

 暗黒啓蒙はこの世界からのexitを夢見る。でも、そのexitとは、実は今の社会構造の価値からの解放を意味するのかもしれない。自分が内面化している価値観からの解放を意味しているのかもしれない。暗黒から光の方向へ。それは既存の権力の復興ではない。復興は権力配分の取り分を増やすことだ。そうではない。自分を支配する価値観を相対化し、自分を解放する。それが光だ。

 近代思想の自律した個人は「理念型」に過ぎないのかもしれない。だとしても、自律した個人はある時代まではリアルな感覚だったのだろう。しかし、女性たちはフェミニズム運動を通して自律した個人モデルから排除された女性を復権させ、ケアの倫理を生み出している。自律した個人モデルから排除された男性の「もう一つの声」はいったい何を生み出しているのか。今後も注視していきたい。

 

 

 「弱者男性」論についてはベンジャミン・クリッツァーの記事参照

gendai.ismedia.jp

 

 

ケアの倫理と「母性2.0」ーーー元橋利恵『母性の抑圧と抵抗』

 

2.0ってもはや死語ですか?

 「母性」の語りのレンジを広げるために、フェミニズムが到達した母性批判を超えて再構成するときがきたのではないだろうか。

 それは単に「母性」、女性に「だけ」関わる話なんかではない。ケアの倫理は、近代思想の基盤にある「自立 /自律した自我」を相対化し、先の思想にむけた新しい自我論にとって欠かせない概念なのだ。

 

母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義

 

 ケア・フェミニズムの理論研究は、リベラリズムが前提としてきた「自立/自律した個人」や「平等」の概念を再考してきた39。すなわち、公私二元論と男性中心主義への批判を通じて「自立/自律した個人」を前提条件とするリベラリズムな平等主義が、家族やケアの価値を切下げることによって成立してきたことを暴露してきた。

(詳細はこちら) 

ケアの倫理ー近代的自我を相対化する重要な概念 - kyoyamayukoのブログ

 

ジェンダー化への政治への対抗 40-43

 日本では川本隆史などのギリガンの紹介でケアの倫理が広まり注目を集めたが、上野千鶴子はケアの倫理が、ジェンダー色が消された、正義の倫理と相補的な「男女問わず利用可能な概念」と批判する。つまり、ケアは圧倒的に女性に配置しているに関わらず、「男女問わず利用可能な概念」ととらえることは、ジェンダーの権力構造を問うことなしに女性が紡いできた活動を取り上げること=「脱ジェンダー化の政治」である。

 これに対して、ケア・フェミニズム論者は母子関係をケアの代表的なものであるみなす。キテイのケア論(愛の労働あるいは依存とケアの正義論)では、母親と幼い子どもに象徴されるような、一方的に与え一方的に依存する関係=「依存労働」と呼び、不可避の依存に基づく「狭義の依存労働」と、自分の身の回りのことは自分でもできる成人へのケアを「拡張された依存労働」と区分する42。依存労働は、略 個人が自分の利益のために選び取る予知のある行為ではない。それは選ぶことができない、自分とは属性も能力も全く異なる他者との関係性である。キテイは、ケアの圧倒的な非対称性と、有無を言わさぬ選択のできなさをとらえるために、母子関係にケアを代表させている42。

 私たちは、社会はまさに市場のように等価交換や互酬性によって成り立っていると理解しがちである。しかし、労働力商品として社会のプレーヤーとなる「自律的な個人」は、ケアの視点からみると、(資本主義)社会を生み出し成り立たせているのは、生産労働やそれに従事する「個人」を支える「依存労働」であると考えることができる。42要約。

 この指摘は極めて重要だ。また、資本主義のロジックではケアを語ることはできないことを意味する。ケア労働は金銭化できないといいたいわけではない。労働力を金銭化できる業務は金銭化して、ケアを社会化して市場に委ねることも大切だが、資本主義社会、市場経済では賄うことができないものが「確実にある」と自覚することが大切だ。現在は母乳ですら、代わりに出産する代理母ですら金銭で買える。この本では書かれていないが、しかし、愛着形成は金銭では買えない。金銭では交換できないケアから得られるものがあることを自覚すべきだ。愛着理論について別途記載したいが、差し当たり以下参照[新訂増補 母子臨床と世代間伝達]。

 

フェミニズムは「母性」をどのように扱い、批判し、乗り越えつつあるのか 43-65

 母性というものを、女性の本質や生得的な特質に還元する本質主義に陥ることや、中世化して母親たちの現実から乖離してしなうことを回避しつつ、いかにして家族や社会の概念を再定義し、再考できるのかというファインマンの指摘は重要だ。45 ファインマンが、あえて母子や母性のメタファーを用いるのは、ケアが現実の文脈から切り離されることを拒み、ケアの倫理に基づいたオルタナティブな社会の展望を描こうとするためである44。家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

 

 そこで著者は 、母親業を哲学的に分析しその意味を、従来の捕らえ方から大きく転換したサラ・ルディクを紹介する。サラ・ルディク『Maternal Thinking』(母的思考)

 Maternal Thinking: Toward a Politics of Peace

 母親のしていることは「母性」がなす「自然」な営みではなく、ルディクは母親の活動を「母的思考」に基づくもの、つまり、思考であり理性に基づくものであるとして提示する。母親の実践と思考を、保護、養育、育成の三つに区分する。46 母親業は、自身と比べ圧倒的に脆弱な存在である子どもの要求や必要に応えることへの関心に貫かれている。母的思考は子供の要求に応答しようとする過程のなかで常につきまとうもの困惑や葛藤、アンビバレンスの経験から形成されているもの。47 母親業の中で生まれる、自分よりも圧倒的に脆弱な他者をいかに傷つけずに共存していくかという葛藤は、平和を構築していく力となる。52

 

 ルディクへ典型的な批判。フェミニズムが母親を語ることの難しさ。48

 第二派フェミニズムは、家族や母性を脱神聖化すえうために闘ってきた。しかし、母的思考のような議論は、女性という表象を再び母親として強調することによって再構築するものである。家族や母性を再び神聖化し、そのことによって女性たちに自己犠牲を強要し、母親役割や家庭役割を押し付け、家庭領域に押し込むことを正当かしてしまうものだ。また、男性に対する女性の「差異」を強調し、その根源的な差を「産む性」であることに還元する「母性主義」である、という批判。48 母親のなかに特別な「差異」を見出だし強調することが公私二元論の社会構造や観念を再生産する。という危惧。48 

  しかし、この批判自体が、「公私二元論のフレームワーク」に囚われている。女性を母親として表象することが公私二元論に陥り、女性を私的領域に閉じ込めることにつながるという主張は、女性は「母親」ではなく、「個」や「市民」、もしくは「人間」として描かなければならないと主張えおする。しかし、その主張は「母親」は「個」ではなく「市民」でもなく、「人間」でもないということを前提にしている。つまり、「母親」は「個人」ではなく、「個人」は「母親」ではありえないという、両者を別の次元で捉える二元論を再生産している。48-49 母親業や母的思考もというタームへの批判も同様。

 つまり、女性を母親と表象すべきでないという主張自体が、正義、道理、精神、自己(「合理的な男性」)そして、ケア、感情、身体、関係性をそれぞれ一直線に結びつけ、後者は前者より劣るとみる二元論を前提にしている。 49

  男性に中心的主義的な二元論のもとでは、「個人」と「母親」は別の次元のものとみなされる。さらに、このような二元論のもとでは、ケアする人は、常に「合理的な男性」がモデルである「個人」に資するかどうかで、区別され、価値づけられ、ジャッジされる。49 例として、女性は「仕事をする女性」、「性的対象としての女性」、「よい母親」、「悪い母親」にジャッジされ、分断される。

 「個人」と「母親」、さらに「女性」と「母親」が分断され、対立させられている社会では、「女性を道徳的に優れていると区別するまさにその価値が、彼女たちが道徳的な発達において不完全であるしるしになる」(Gilligan,2011:10)。51  

  著者は、しかしそうであるからこそ、フェミニストは母の経験や価値について語らねばならないのではないだろうかと主張し、日本のにおける母性や女性の運動について分析する。

感想

 以上が本のまとめですが、大変勉強になりました。

 昔のフェミニズム運動は、女、母親の前に「個である私」を発見しました。でも、今の時代は、フェミニストの方々の絶え間無い運動のおかげで、女の前に個である私は当たり前になりました。ベタに女であることに埋没している人の方が珍しいでしょう。同じように母親であることにベタに埋没している人も少数派でしょう。女であることも、母親であることも「私」は相対化し、メタ化している。

 今、求められているのは公私二元論を超えた女であり母親である「ありのままの私」という自我論だろう。女であることを受け入れて「母親」についてもっと広いレンジで語る。母親であることは私でもあることなのだから。公私二元論を超えて母親を語り直す。今はじまったのだ。

 

 

私の中の課題。

  • ケアの倫理は資本主義の論理とは異なるが、金銭に還元できない「なにか」について、例えばケアの理論と愛着理論について関連付けて語る人はいるのかな?
  • この本では、ケアの資源の分配を政治運動で取り戻そうとする話にながれていくのだが、運動論ではなくケアの倫理のロジックを社会思想や社会理論に組み込んでいく議論をもっと知りたいかも。ケアの倫理やフェミニズムは声なき声を発見し、クレームし、従来の見えてなかった問題を可視化するというのはよくわかるんだけど。。。

 

■追加 気づき  

 ケアの倫理は、構造的に抑圧された声なき声に常に配慮する。ゆえに、ケアの倫理は民主主義理論と相性がよく、メンバーの多様化、多様な意見を尊重する、救い出す視座を与える。そして、ケアの倫理は民主主義の理論と相性がいいからこそなのだろうが、政治的資源配分を求める主張に流れていく。それは、ケアするものへのケアへの配分の要求となりやすい。運動へとむかっていく。ここがアイデンティティポリティクスとみなされる点だろう。

 しかし、資源分配の運動ではなく、ケアの倫理の視座そのものを社会思想に埋め込むことはできないのだろうか。

さよならは突然やってくるー谷川俊太郎詩集「はだか」

 

さようなら

ぼくもういかなきゃなんない

すぐいかなきゃなんない

どこへいくのかわからないけれど

さくらのなみきのしたをとおって

おおどおりのしんごうでわたって

いつもながめているやまをめじるしに

ひとりでいかなきゃなんない

どうしてなのかしらないけれど

おかあさんごめんなさい

おとうさんにやさしくしてあげて

ぼくすききらいいわずなんでもたべる

ほんもいまよりたくさんよむとおもう

よるになったらほしをみる

ひるはいろんなひととはなしをする

そしてきっといちばんすきなものをみつける

みつけたらたいせつにしぬまでいきる

だからとおくにいってもさびしくないよ

ぼくもういかなきゃなんない

 

谷川俊太郎の『はだか』の「さようなら」が頭の中で響く。

子どもは、正確に言うと子どもの中の幼児が、さよならもいわずにさよならしてしまった。いつかはやってくるとわかっていたのに、頭ではわかっていたはずなのに。幼児のあの子はもういない。いなくなってしまった。

 

はだか

 

いっちゃった

いっちゃった

すべてを委ねてくれたあの子はもういない

ありがとう

ありがとう

私、とっても楽しかった

私も思いっきり甘えたよ

ありがとう

ありがとう

安心してね。あなたの温もりは忘れない。

お母さんは大丈夫。

大丈夫だから気をつけていってね

あなたがいってしまってもお母さんは忘れない

お母さんは大丈夫だよ

さようなら、ありがとう

 

 

 

自分のことを名前ではなく「おれ」と言うようになって

あの子はさっと消えてしまった。

 

「心の理論」がインストールされていなかった

目から鱗が落ちた本。

 

 気持ちのやりとりができない父親のことは少女時代から違和感を感じていた。そのせいもあってか家族問題や親子関係の本を多数読んだ。ライフワークの一環として。なぜこんなに言葉が通じないのだろう。なぜ私の気持ちが分からないのだろう。父親は常識を羅列することはあっても、なぜ「自分の気持ち」を語らないのだろう。「自分の気持ち」「本心」はあるのだろうか。無い人なんているのだろうか。

 本心に蓋をしているのは、10才で母親を病気をで亡くしたショックだからなのだろうか。10才で実母を亡くしているのに、実母について語ることは一切無い。父親の兄が大人になった私を見て「母そっくりだ」とショックを受けたことがある。そこで初めて「父親はなぜ母親の話をしないだろう?」と疑問に思ったのだ。10年ぶりに会った叔父さんですら話すのに。

 10才で実母を亡くす経験は人として大きいものなのかもしれない。深い悲しみに蓋をしているから感情が鈍感になり、浅くしか人の心を受け止められないのではないだろうか。父親という存在の謎をこのように解釈した。私の中の現時点の一つの答えだった。

 前置きが長くなりましたが、この本を読んで認識が大きく変わったのです。驚きましたがやけにストンと腑に落ちたのです。

 この本では、毒親」の大半は「非定型発達」した人であり、先天的に「心の理論」が理解できない人だ、と書いてあります。

 非定型発達とは発達障害の用語であり、発達のあり方を定型/非定型発達に区分。定型発達に対して偏りがある発達が非定型発達のと分けるわけですが、「心の理論」がわかるかどうかが重要になります。

 「心の理論」とは、サイモン・バロン=コーエンの「サリーとアンの実験」(サリーとアン課題 - Wikipedia)で「自閉症」(=非定型発達)の人が他人の心がどのように理解しているかを明らかにした理論です。

 この実験によって自閉症(=非定型発達)の人は「自分と他者が違う心をもつ人間で、他者にも自分にも内面があって、その内面はお互いに別々のものであり、他者の内面を自分は知ることはできないし、自分の内面も他者に知られることはない、ということがわからない」[234:心の病気ってなんだろう? (中学生の質問箱)]ことを明らかにしました。つまり、相手の視点に立って理解することができない、相手の心が分からないということを明らかにしたのです。

 毒親の大半は「非定型発達」の人であり、先天的に「心の理論」が理解できない人だとここまではっきり指摘した人はいないと思う。親というラビリンスで迷走していた私は、愛着理論や発達障害の本をたくさん読みながらもそれでも気づけませんでした。

父親が非定型発達?

 言われてみるとすべてが納得がいきます。もちろん発達「障害」まで程度が深くないので父親はサリーとアンの実験は定型発達と同じ回答できるでしょう。教養を愛する彼は有名な作家の小説は目を通しているのです。知識としては理解できているのです。どこまで感じ取れているかはわからないけれど。

 水島広子さんの「心の理論」なしの子育てについての章には、父親がよくいうフレーズがあふれています。配慮に欠いたコメントするが、その意図はただそのときに目に付いたことだから。本人は「だって事実だから」という感じ。そこに悪気はないし、子どもを傷つけようという意図もない。だけど、子どもにとっては一生の傷になるような人格否定的発言になる場合も多いのです。しかし、それを追求したところで「そんなことない」「気にしすぎ」など相手を否定するようなことを言う。「そんなことない」「気にしすぎ」「考えすぎ」ということはよく言われていました。

 無神経なふるまいの例として。病床の祖父を家族でお見舞いに行ったとき、祖父は兄弟の中で私だけがわからなくなっていました。それを見て父親は何度も私を説明するのです。そのたびに祖父は誰か分からない顔をするので、辛くて廊下に出て涙を拭きました。また病室に戻ると、しつこく祖父に私の名前よび説明するのです。「もうやめて」とは言えませんでした。なんで父親はここまで私を傷つけるのだろうか、黙って上を向いて涙が流れないように堪えていました。祖母が大丈夫?と声をかけてくれました。傍目で見ていても可哀相な状況だったのでしょう。でも、父親にはなぜ私が傷ついているのかが分かりませんでした。彼は事実の説明をしていただけなのです。

 このようなことが時々あり、そのたびに傷つきました。反抗期のときは父親に「なぜ私の気持ちがわからないのか」とよく詰りました。父親は「お前の気持ちはわかっている」と答えるのです。堂々巡りでした。

 

 でも、この本を読んで目からウロコが落ちたのです。ここに書かれている通りだし、これまで読んできた発達障害の本の知識からしてもあてはまるのです。

 私はずっと雪の女王の物語のカイ少年に刺さった鏡の破片を探していたました。彼の心を失わせたガラスの破片をずっと探してきたのです。

 でもそんなものは最初から無かったのです。後天的なトラウマのせいで相手の心がわからないわけではないのです。父親には「心の理論」が最初からインストールされていなかっただけなのです。先天的なものだったのです。

 鈍感に安易に傷つけてくる父親。人の気持ちのわからない父親は混乱を与えてきました。この本を読んでようやく私は父親の愛情を受け止めました。心の理論がインストールされていない父親なりの愛情を。あれが父親の精一杯の愛情だった。そのことをようやくこの年で理解したのです。彼は私の気持ちが分からない。その事実を文字通り受け止める。人の気持ちの分からないありのままの父親の愛情をありのままに受け入れる。あれが心の理論がインストールされていない彼なりの精一杯の「共感」であり愛情なのだ。こうして親を受容できるようになったのです。

 

 

 

【こぼれ話】

 脱線しますが、教授として社会生活を送りながらも非定型発達傾向が強い、下記の本の作者はサリーとアンの実験は難しく「自分なら天井から探す」と言っています。面白いですね。

 

大学教授、発達障害の子を育てる (光文社新書)

 

 

 

 

ケアの倫理ー近代的自我を相対化する重要な概念

ケアの倫理について分かりやすくまとめてあり、勉強になったので概念を整理したい。

 

母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義

 

「第1章 母性研究の戦略とケア・フェミニズム」から引用してまとめる。

 

3 ケアー女性の経験と思考の可視化[23-27] 

母性研究は母性と近代的自我を対置。本署ではケアの倫理の議論に着目。

ケアの倫理は1980年代に登場、その後、フェミニズムの潮流の中でリベラリズム批判や新自由主義批判の社会理論として発展。本書では、ケアと近代的自我を対置するこのではなく、近代的自我を成り立たせている基盤としてケアを見出す。23

 発達心理学のキャロル・ギリガン『もう一つの声』

 もうひとつの声―男女の道徳観のちがいと女性のアイデンティティ

 

 従来の発達心理学の評価する道徳性が、自己と他者を切り離すことによって発達する、普遍性や合理性であるとするならば、ギリガンの主張するケアの倫理は、自己と他者の境界線が曖昧であり、また自己と他者は明確に分けることができないというところから出発している(岡野,2015a)。25

 

 ケアの倫理は、正義の倫理のような道徳性こそが、人間的であり、徳のあるものであるという伝統を築いてきた、近代的な知のあり方を相対化する。 25

 更に、ケアの倫理の視点からは、実はリベラルのな平等は、抽象的な個人から成り立つ、均一な人間集団から成り立つ社会を前提にしている。

 その抽象的な個人とは、実質的には、成人の健康な男性がモデルとなっている。このような属性をもつ人は、一般的には、働き、社会で十全なメンバーシップをもち、経済的に自立した、また自分で自分のことが決定できる自律した人として認識されやすい。だが、実際の社会はそのような自立/自律した人間では成り立っていない。妻や母親、小さな子供、女性、高齢者、障がいをもつ人、病気を

もつ人、働けないひ人など、多様な人から構成されている。しかし、これらの人々は、成人で健康な社会のメンバーシップを得ている男性をモデルにした基準には必ずしも当てはまらない。そのため、一律に基準に当てはめられるのでは、必ず取り残されこぼれ落ちるてしまう人がいる。26-27

 ケアの倫理は、個人主義的な従来の「正義」から取りこぼされてしまう人を見捨てずに応答するもの、そして人と人とのつながりを維持する「もうひとつ」の倫理として「発見」された。27

 

5 公私二元論の根深い男性中心主義[29-33]

 リベラリズムの伝統では、人は近代的自我という他者と切り離された「自立した個人」を暗黙に前提した知の体系においては、人間が生きるにあたって必要不可欠なケアによるつながりは周縁的なものとされ、時には捨象されている。

 これは近代社会が、生産労働と呼ばれる有償労働を社会における一義的な活動であるみなしているためである。29

 「正義」の領域とされる公的領域とケアの領域とされる私的領域は、(略)並列に置かれる対等な関係ではなく、中心と周縁の関係、つまるところ男性中心的な、ジェンダー化された権力関係のもとで把握される。

 このような男性中心的な権力関係は、公私二元論という、公と私/公と家族はまったく異なる原理をもつと見なす考えによって覆いつくされてきた。

 スーザン・オーキンは、公的生活と私的生活を分化させるリベラリズムの思想では、(略)私的領域の不正義[正義・ジェンダー・家族]を不問にしてきたことを指摘する。31

 公私二元論は、家族や私的領域を「自然か化」することで、ケアの価値を問うこと自体を不問にする。32

 

6 家族からの女性の疎外[33-36]

 公私二元論とは、この二次的依存の存在を認めないことによって成り立っている。

 「二次的依存」=ケアする人がケア役割ゆえに陥る依存状態。34

  家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

  愛の労働あるいは依存とケアの正義論

 キテイは、ケアする人もまた生きていくために必要なケアを受けとるという「ドゥーリア原理」を着想。

 ケアする人がケアするがゆえに社会や家族から疎外されることのない社会を構築していくためには、ケアを誰もが関わりをもつ政治的な問題として認め、負担やコストを公正に配分していくことが重要になってくる。 35

 

注記6[37-38]

 岡野は、プラトンの『国家』におけるソクラテスをはじめとした、リベラリズムの伝統的な政治思想について、国家・社会の形成の端緒として想定されている「最小国歌」には、第一に、生産労働に従事する男性しか登場せず子どもや老人、障害者や彼彼女をケアする女性が想定されていないことを指摘する。そして、第二に「社会のつながりが基本的にはモノを媒介としたつながりとして捉えられ、一人一人が果たすべき役割は異なるものの、なお各人が特定の仕事を遂行することが社会における協働だと考えられていることである(個人主義と互恵的な平等主義)」(岡野2015a:135) 38

 

以上引用でした。以下は今の自分の感想です。

 近代的自我はケア無くして自立/自律はありえない。自分が「自立」していると錯覚しているのであれば、それはケアされてきたことを忘却しているからだ。むしろ「自立」感覚は長い人生の中の一定期間の時期なものであり、産まれるとき、幼いとき、死ぬときはケアされるわけだし、「自立」しているときだって病気になればケアの恩恵を受けるのだ。こちらの感覚の方が、近代的自我よりもずっと普通な感覚に近いだろう。

 問題なのは、この近代的自我をベースに近代思想が発展し、社会思想となり、社会を支える基礎概念になっていることだろう。震源プラトンの『国家』まで遡ることができる。人類二千年の歴史があるのだ。

 この近代的な自我、抽象的な自我を超えた自我論が求められる。ケアの倫理は、今後の思想に向けた重要な概念、思想だと思った。

 忘れないようにメモしておくが、ケアの思想と見田宗介の自我論は接続可能だろう。時間のあるときに検討してみたい。