kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『囚われのいじめ問題 未完の大津中学生自殺事件』ーーーこの自殺は「イジメ」なのか、「家庭問題」なのか、それとも?

大津中学生自殺事件。あなたはどのようなイメージを抱いているだろうか?

 

私のイメージは、

クラスメイトからイジメの情報があったのに担任が適切な対応をとらず、イジメで自殺したというものだ。

イジメアンケートでもイジメの指摘があったのに学校も、教育委員会もそのことを公開せず隠していた、というイメージだ。

その後、加害者と学校、教育委員会は社会的バッシングを受けて大津市は第三者委員会を設置し、報告書を提出。加害少年のイジメによる自殺と認定された。

 

こちらのWikipediaを読んでみて欲しい。加害少年のイジメの凄さに許せない気持ちになるだろう。

ja.wikipedia.org

 

当時の私の記憶としては、加害少年のイジメのおぞましさに皆が怒っていたという印象だった。

この事件をきっかけに「いじめ防止対策推進法」が可決された。社会に大きなインパクトを与えた事件だった。

 

しかし、私はこの本を読み、被害少年の自殺の原因はイジメだと一概には言えないと考えるようになった。

囚われのいじめ問題――未完の大津市中学生自殺事件

 

自殺の原因はなにか

地裁では加害少年のイジメが自殺の原因が争われイジメによる自殺と認定されたが、高裁ではイジメの原因として家庭問題があげられている。

下記の内容を読んでみて欲しい。あなたはどう思いますか。

家庭問題についてはWikipediaには記載がほぼない*1。上記の本から高裁判決文の要約を引用してみよう。

【当事者の主張】

①別居、および離婚の見込を告げたこと(10月10日)

B(引用注:加害少年)は、2月にX(引用注:被害少年)の母が、7月に長姉が、いずれも父と不仲を理由に別居し、自殺前日には母がいつ自宅に戻るのか尋ねたXに離婚も考えている旨告げるなど、家族関係が崩壊していたと主張。 以下略

体罰

原告父がしつけと称して小学生の頃から厳しく叱責し、説きに殴打したり足蹴にし、中学生になっても顔面にあざができるほど殴打しており、懲戒権をはるかに逸脱した身体的虐待を加えてXとの関係が悪化していたと主張。以下略

③ゲーム機取り上げ(7月下旬)

Bによると、Xは7月中旬のテストの成績が良くなかったため父にとって学習塾に通わされ、成績が良くなるまで大好きなゲーム機を取り上げられていた。

④友人関係の制限(9月21日)

Bは、原告父がXの問題行動の原因が被告少年らにあると決め付けて校外で被告少年らと遊ぶことを禁止するなどしてXの居場所を失わせていったと主張。以下略

発達障害の疑いを告げる(9月25日)

Xが祖父母宅から現金を持ち出していたことが父に発覚。発達障害を疑って心療内科での診察を検討していた原告父から「お前は病気である」などと言われ、Xは自宅を飛び出して自宅マンション1階のソファで一晩過ごすなどし、精神的に大きな衝撃を受けていた。このようにAは主張した(9月29日時点で受診予定は10月13日であった(地裁35頁))

⑥現金持ち出しに関する反省文(10月7日~10月10日)

Xの現金持ち出し発覚後、中間テスト期間に入り、終了後の10月7日から自殺前夜まで、Xは複数回の書き直しを経て父方・母方の祖父母に各三通の反省文を作成した。Bは、被告らによる恐喝を疑う父から厳しく近員使途を追求され、叱責されながら手書きで繰り返し反省文を書き直させられたことで心理的圧迫を受けたと主張。Aは、Xが反省文の書き直しをさせられた際、「わるい友達は一人もいない。それだけはわかってほしい」(地裁11頁)と記載していたと主張。以下略。

自死当日の状況(10月11日)

Aは次のように主張。死亡当日、Xは自宅テレビの後ろにパンの袋を捨てたことで父から午前7時頃電話で叱責され、通話の最中にXが一方的に電話を切ったたため午前7時57分にも父から再度電話を受けて注意された。

Xはその約13分後の8時10分頃自宅マンションから転落死した。

間山広朗:253ー255

 

この家庭の話を読んでどう思っただろうか。

Xの家庭は夫婦別居し、姉も夏休み前には母親の方へいってしまった。自殺前日に母親から離婚すると伝えられている。父親はしつけに厳しく、友人関係を父親から責められ、問題行動をおこすのは「病気」のせいだと言われ、病院の予約をとられる。自殺当日は朝から電話で怒られて、電話を途中で切ったことで怒られて、その約10分後、登校前に自宅マンションから飛び降りた。

 

イジメ自殺の印象が180度変わったのではないだろうか。家庭問題についてはほとんど報道されていない。Wikipediaにも触れられていない。

地裁ではイジメの加害行為の認定が中心であり大津市の第三者委員会の報告書を前提に自殺とイジメの因果関係を認めた。

高裁は過失相殺を適用して、イジメ以外の原因と相殺して「損害賠償額」を決める。この裁判は「損害賠償請求」であって「真理」を明らかにする場ではない。自殺の原因はどちらにあるのか。損害賠償額は加害少年に4割を請求した。ということは、自殺の原因は家庭が6割、イジメが4割ということなのだろうか。

念のため、いじめ問題と家庭問題を対比した表を添付する。

f:id:kyoyamayuko:20211109112503j:plain

間山広朗,262ページ:2021,「未完のいじめ自殺ーー物語としての判決と羅生門的解釈ーー」『囚われのいじめ問題』 岩波書店

「真実」とはーーーあるのは羅生門的解釈だけなのだ。「わからない」ということに耐えられないからこそ生み出される物語

家庭問題を読んだ上であなたはXの自殺をどのように解釈しただろうか。正直言って私は家庭にも問題があるのではないかと思いました。

でも、なぜ自殺したのかはXが遺書を残さなかった以上、永遠に知ることができない。どこまでいっても推測でしかない。

加害少年と言われる友達が見たX、父親が見たX。それぞれになぜ死んだのか推し量り、イジメなのか家庭問題なのか裁判で戦った。当事者の彼らにとっても永遠の謎なのだ。

著者である間山広朗は

判決文を物語として検討してきて「わかった」ことは、皮肉にも決定的なことが「わからない」ということであった。

264ページ

と語り、映画『羅生門』に例えている。そして、判決の物語の外に出て「わからない」意味について検討している。

「遺書の不在」について間山はこのように語る。

Xは遺書を遺さなかったのではなく、A・W・フランク(Frank 1997/邦訳2002)が示した「混沌の語り(Chaos narative)」にすら届かない、声以前の声としての自殺そのものを遺した。

Xの死の意味を物語的に成就して「わかった」ことにすること、つまり「過去=亡くなった人を裏切る」可能性を拒否し、「わからなさ」に耐え続ける

269

もう、これしかないのだろう。声以前の声、彼の最後の選択を静かに受け止めて合掌するしかない。。。。

 

彼の14年の人生を受け止める。

 

 

でも、子供の自殺をありのままに受け止められない。身近な学校だけではなく、地域社会だけでなく日本全体で衝撃を受けた。だからこそ、イジメ自殺物語が構築されいじめ防止対策推進法までできた。

いかにこの問題がいじめ自殺問題として社会で構築されていったのか。この本では社会学者が構築主義のフレームに則って実証的に研究している。そこも読みごたえがあるので一読をオススメします。今回は長くなるので触れません。

 

今でも大津中学生自殺事件は「イジメ自殺」の象徴的な事件として社会では捉えられています。そこは高裁判決も踏まえて相対化していくべくなのだと思います。とはいえ、遺族の家族感情を踏まえてマスコミも表現が難しいのかもしれませんね。書き方を間違えると、自殺は家族の責任と捉えられてしまいます。それはそれで酷でしょう。加害少年と言われる彼らのバッシングと同じように遺族も非難を浴びる可能性があります。

 

彼の自殺をどのように表現すればいいのか。社会に一つの課題を遺しました。

 

加害/被害の白黒では語ることができない問題をどのように表現し、伝えることができるのか。視聴者/読者の第三者にも忍耐が問われます。白黒では語れない問題をどのように受け止めるのか。

 

いじめ自殺ってなんなんだろう?どうしたらいいんだろう?

 この本で北澤毅は「いじめ」と「自殺」の関係性を問い直しています*2

「いじめ」と「自殺」とのあいだには「病死」や「事故死」と同じような意味での因果関係が成立しているわけではない。

略 

「いじめ」から「自殺」までのあいだには、自殺を試みる人間が自分の経験を「いじめ」と捉え「いじめは死に値する苦しみである」と捕らえるという、二段階に及ぶ解釈行為が介在している。そうでなければ、「いじめを苦に自殺をする」ことができない。

3ページ

言われてみたらもっともな意見です。

なぜいじめで自殺するのか。

「いじめ」と「自殺」を因果的に結びつけているのは慣習になった考え方であり、それは私たちの社会が30年以上にわたって作り上げた文化の一部であるからだ。

3ページ

北澤のこの指摘は極めて重要だろう。なんとなくイジメにあって死ぬほど辛ければ自殺するのは当たり前のように受け止めているが、実はたかだか30年の慣習に過ぎないのだ。この指摘は社会学者の面目躍如な指摘だろう。

北澤によれば、

日本の主要マスメディアが、1985年に1月に発生した水戸市中学生自殺事件を「いじめ自殺」事件として報道したことが「いじめ」が自殺の同期の語彙となる社会の成立を促した*3

22ページ注(1)

とあるので、1985年にマスメディアが使い、いじめ自殺という用語が広がっていった。昔からあるものではなくて、80年代に日本社会に広まった概念なのだ。

では、いじめ自殺問題をどのように解決すればよいのだろうか。この本の終章の北澤の「『囚われ』の意味するところ」を参照にまとめておこう。

北澤はいじめ問題の解決として「個人レベルと社会レベルでの『囚われ』からの解放戦略」[314ページ]を指摘している。

 

個人レベルの戦略としては、「『いじめ経験』を書き換えるーーー再著述化実践という方法」[314ー316]を提案している。ナラティブセラピーの手法を使い、「いじめ問題」に固執せず再解釈する。。。というものだ。

でも、これは難しいんじゃないかな。いじめられたことを書き換えることは、実際に本当にいじめられたときには加害者にとって都合のよい方向へ向かうよね。それよりも、

イジメと自殺を切り離すことだろう。イジメ「られたから」死ぬ(自殺)ということと結び付けない。「られたから死ぬ」ではなくて「られたから逃げる/戦う/訴える」とイジメを回避する様々な手法とつなげる。

結局、イジメを回避する方法が少ないからこそ、究極的な回避策である「自殺」に結び付くわけですよね。イジメの回避策、防止策の豊富化こそイジメ「と」自殺の距離を遠ざける最善策だろう。

 

社会レベルの戦略としては「『いじめ物語』の解体」[316ページ]を提案している。いじめ物語とは、簡単にまとめると「いじめの苦しさは自殺に値する苦しさ」という物語のことであり、その物語を社会が共有している。苦しさを示す表現として「自殺」という手段をとることは、最大限の苦痛の表現として社会が受け止めている。

この自殺物語を解体するには、北澤は「因果的必然ではなく、社会的構築物であり文化的慣習であることを理解すること、言い換えれば、自分の苦しみの由来を理解することができれば、苦しみから解放される可能性が高まる」[316ページ]と述べる。いじめられると「死にたい」と思うのは、社会がいじめを「死に値す苦しみ」と評価しているからだ。だからこそ、いじめにあうと自殺という行動に促される。

私もいじめ物語の解体には賛成だ。常々思っているのだが、「いじめはダメ」というのと同じ以上に「自殺はダメ」と言うべきなのではないだろうか。まず「自殺しない」。

「あなたの命を守ります」という力強いメッセージこそ大切だ。命を守るための行動の選択肢を示すべきだ。

いじめを止めるために、学校と保護者は一丸となっめ向き合うと示すこと。

自分は無力で無価値だと自殺する前に、まずは死なない、あなたには選択肢ががあるというメッセージを社会が発信して、いじめ自殺を書き換えていくことが必要なのだろう。

 

それでも自殺はなくならないのかもしれない。

子供の自殺の衝撃に大人、社会は耐えられない。辛いのだ。本当に辛いんだよ。そのことだけは子供達よ、どうかわかっておくれ。

こんなに辛いものを見たくないのだ。だから、自殺の理由を必死に探す。私たちは「いじめ」にすがりつくのだ。加害者を探して裁きたいのだ。悲しみを悲しみのままおいておくことができない弱い生き物だから。

 

 

(参考)

裁判の流れ

●刑事事件(少年審判

2014年平成26年)3月14日、大津家庭裁判所は加害者3人の内、2人を保護観察処分、1人を不処分とした。

●民事事件

2012年平成24年)2月24日、加害者とされる同級生3人とその保護者および大津市を相手に、遺族は約7720万円の損害賠償請求大津地方裁判所提訴した(大津地方裁判所平成24年(ワ)第121号 損害賠償請求事件)。

2015年  (平成27年3月17日、大津地裁大津市が設置した第三者委員会の報告書に基づき、いじめの存在を認定した大津市と遺族側が和解。

加害者とされる生徒との裁判は分離され、審議継続され、

2019年平成31年)2月19日、大津地裁は同級生3人のうち2人に対して、約3758万円の支払いを命じる判決を言い渡した。他の1名に関しては、一体的となっていじめに加担したとは言えないという理由から、損害賠償及び管理責任を認めない判決となった

2020年(令和2年)2月27日、大阪高裁の二審では元同級生2人に計約3750万円の支払いを命じた一審の判決を変更し、賠償額は2人に計約400万円にまで大幅に減額、支払うよう命じた。 両親側にも家庭環境が整えられずに男子生徒を精神的に支えられなかった過失があるとして、損害額から4割を減額。大津市からの和解金の額などを差し引いた計約400万円が相当とした。(平成31(ネ)738 損害賠償請求控訴事件)

※訴訟の流れはWikipediaからまとめた。

 

*1:「ほぼ」という表現なのは、高裁判決で加害者の賠償金額が減額された理由として数行触れているため。しかし、加害者のイジメについて詳細に書かれているが、家族問題について数行なのはバランスが取れていない記述と言えるだろう。

*2:1ー23:北澤毅「『いじめ』とは何かーー苦痛・事実・社会問題ーー」

*3:北澤毅,2015,『「いじめ自殺」の社会学世界思想社』を参考文献にあげて述べている。詳細はこちらを読めばわかるのだろう。私は未読です。

「いじめ自殺」の社会学―「いじめ問題」を脱構築する (SEKAISHISO SEMINAR)

アジアは目覚め、宗教・儒教から解放され、どこへ向かうのかーーー『初等科地理』と『近代アジアの啓蒙思想家』ーーー

だいぶ日が開いてしまった。日常が戻り忙しくなってきた。

 

意図して読んだわけではないのだが、この二冊を読んでいろいろ思うところがありました。

 

昭和18(1943)年発行の初等科の地理の本です。

今で言うところの小学校5、6年向けの地理の教科書なんです。

[復刻版]初等科地理

 

なんの前提条件も無しに読むと、本当によくできた教科書です。

(帯の二人の男性の顔が怖いが、気にせず手にとってみてくださいw)

現在の教科書よりもアジアの地政学に目端が効いているし、国柄と日本との関係についても触れています。アジアの各国と一緒に力を合わせて大東亜共栄圏を作りたくなります。

でも、地理というのは政治の「結果」、静態的な姿でしかないんですよね。

 

 

次にこちらの本です。

近代アジアの啓蒙思想家 (講談社選書メチエ)

先ほどの地理の教科書に出てくる地域の啓蒙思想家はすべて記載されています。

日本からトルコまでアジア各国の啓蒙思想家を簡潔にまとめています。

この地域の啓蒙思想家たちは、日本の近代化に学び、植民地支配から脱却、独立を目指します。

日本は啓蒙思想のハブセンターとなりますが、一方で黄色い西欧諸国の一員としてアジア諸国を抑圧します。陽の面と暗の面を持ちます。

純化して語ると、ネトウヨは日本の陽の面のみを語るし、サヨクは暗の面のみを語りがちです。しかし、両面の側面陽を見ないと歴史の奥行きはわかってこないでしょう。また、陽と暗を相殺できないし、陽暗を相対化するだけの語りも他のアジア国が受け入れられるかどうか難しいでしょう。

じゃぁどうしたらいいのか?というのは私も悩んでいるところで答えはでませんが、

ひとまず、『初等科地理』の美しい教科書を読むときは『近代アジアの啓蒙思想』もセットでね、ということは言えると思います。

 

アジアの啓蒙思想の展開ーー宗教を解体した普遍思想ーー

ここまでは前置きです。

 

 

『近代アジアの啓蒙思想家』を読んでいろいろ思うとこがあったんですよね。

自分が思ったことを気ままに書いていきます。

この本はこの一文から始まります。

現代アジアは、近代に西欧で誕生した政治や経済などの制度が原理モデルになっている。

現代の制度が当たり前過ぎて、このように指摘されてハッと気づきます。

西欧諸国の植民地になる前のアジア、日本やタイのように植民地を免れた近代化する前のアジアの姿を著者はこのようにまとめます。

王朝国家の盛衰や交代はあったものの、アジア各地に支配者が世襲制の王朝国の時代が続いた。そこでは、自由で自立した国民は不在で、住民は、ただ専制支配者が命じるままに、自分の農業生産物や使役などの労働力を提供するだけの存在でしかなかった。

支配者に対する反乱や新たな挑戦者の登場により王朝国家の交替が起こっても、住人には関係のない出来事であり、ただ、新しい支配者を受け入れるだけだった。

いきるための経済活動も、一部の国や地域で他国との貿易が行われたとはいえ、多くの国で古代から続く自給自足の農業を、群単位で細々と営むものだった。

この伝統社会と国家体制を支えて、支配者の統治を正当化した政治思想が、支配者は徳をもった人間なので、住民が従うのは神と自然の摂理に適ったものである、と説いた儒教ヒンドゥー教などの教えだったのである。

3ー4ページ

 

長文ですが、あえて引用しました。2021年には忘れ去られつつある視点ですよね。まずこの事実を前提に、「西欧の衝撃」を受けたアジアの知識人は、概ね以下の流れをたどります。

アジアの知識人のなかには、近代西欧文明に反発して拒否した者もいたが、大半は近代西洋文明に深い感銘を受けて受け入れたのである。

そのさい、彼らは、自国の伝統思想や政治体制を護るために「和魂洋西」や「中体西用」など、自国の伝統体制と西欧の物質文明の折衷を考えた者と、近代西欧文明で自国の伝統体制を根本的に作り変えようとした者と分かれた。

このうち後者は、独立を護るために、あるいは植民地支配から独立するために、近代西欧文明で自国の国家体制や伝統社会を変革するための言説活動を行った。

これが啓蒙思想であり、ここから近代文明に依拠してアジアを変革する歴史的営為がはじまったのである。

4ページ

念のため書いておくと啓蒙思想とは「自由と平等を原理」とする思想だ。

 

で、最終的な結果は、現在の我々が知っての通りであるが、引用しておこう。著者はインド人の歴史研究者のK・M・パニッカルを引用して、以下のようにまとめている。

西欧諸国は西欧型教育をアジアに持ち込んだことによって、自分たちの植民地支配の「墓堀人」を育てたという、歴史のパラドックス(皮肉)である。

アジアは、西欧諸国が植民地化にともなって持ち込んだ西欧型教育、それに自ら習得した民族自決や国家主権の考えを武器に独立すると、新生国家の政治、経済、社会などの分野で近代西欧文明の理念や制度を基本に据えた

228ー229

今の世界を知っている我々にとって目新しい記述は一切ないが、この結果に至るまでは紆余曲折あった、地域によってその曲折は様々なのだが、詳細は本を読んでほしい。

今の現在の世界を知っている者からすれば当たり前のことなのだが、啓蒙思想は西欧に特化した思想ではなく、アジアの宗教や儒教を解体する普遍性をもった思想だったのだ。

 まぁ、アジアだけでなく当のヨーロッパでも宗教を解体していったんですけどね。二千年前に生まれた世界宗教儒教を解体する思想が啓蒙思想だった。「自由と平等」という理念は人類をバージョンアップしたと言えるし、パンドラの箱を開けたとも言える。なお宗教を解体したと言うのは私の個人的見解ではなくマックス・ウェーバーの見解です。

 

事例:儒教国の場合

で、アジアの儒教国に沿ってその解体過程を見ておきたい。

儒教国とは中国と冊封体制にある朝鮮、ベトナム、そして冊封下にはないが強い影響を受けている日本がある。中国を中心とした漢字文化です。今のベトナムからみると信じられないでしょうが、フランスに植民地されるまでベトナム儒教を中心にした漢語文化圏でした。ベトナムの国語のクオックグーはフランス統治下にフランス人も分かるようにローマ字で編纂した言葉なんですよね。

 

一番最初に近代化したのは日本でした。啓蒙思想を普及するための課題は儒教の克服でした。儒教は君臣の関係の重要性を説くものであり、古を貴ぶこと説きます。家族においても年長序列、そのアナロジーとして君を敬うのは当然という考え方です。

なお、「古を尊ぶ」という教えは儒教だけでなく、ヒンドゥー教イスラム教も同じであり、啓蒙思想の普及には、因習的な考え方を批判するわけです*1

 

この儒教を解体するのが大変なわけです。日本は中国や冊封体制下の国家ほどがんじがらめではなかったので、解体が早かったようです。がんじがらめの仕組みは次に説明します。

中国及び朝鮮、ベトナム儒教を基本とした科挙制度が確立されています。試験に合格した文官が高い地位を得られるのです。士官しようとするとこの科挙に受からなければならない。受かると一族は安泰です。

日本の徳川政府はここが違いました。武士の家系が官僚になっていたので。明治維新で活躍した志士たちは下級武士出身で能力があっても出世できなかったんですよね、徳川体制では。能力があれば出世できる西欧のシステムに魅力を感じたわけです。

 

中国は近代化の過程で、清末期は保守派(儒教)、啓蒙思想派に分かれます。啓蒙思想家は元文官の家系、儒家の家庭出身が多かった。啓蒙思想は日本やアメリカなどで学びます。

しかし、パリ講話会議で民族自決の権利を求めて参加するものの、西欧列国にスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じます。また、同時にそのころに共産主義流入してきます。その結果、保守派、啓蒙思想派、共産思想の三つ巴になります。保守派はほぼ命脈尽き(清国再興派)、満州国の文官。海外留学組のエリート知識人は啓蒙派となり、国民党を支持します。共産思想は、最終的に毛沢東ら非エリート組が占めます。当時の共産党の大卒者は党員の1%にも満たない状況でした*2

 最終的に共産党が勝利して、国民党とともに啓蒙思想家は台湾へ逃げます。中国はとても変わっていますよね。その変わっている点については、最後にまとめます。

 

 次にベトナムです。ベトナムも保守派(儒教)、啓蒙思想(フランスに学ぶ)、共産思想です。ベトナムの啓蒙派も民族自決を求めてパリ講話会議に出席しますが、中国と同じくスルーされて啓蒙思想に欺瞞を感じて共産主義にシフトしていきます。最終的に共産主義が残りますが、建国の父ホーチミンはフランスで学んだので啓蒙思想の基本は知っているし、資本主義社会もフランス時代に体験しているんですよね。

 最後に朝鮮です。朝鮮は保守派(儒教)は王制寄りであり、それは親中を意味します。啓蒙思想は日本で学ぶため親日となります。王制を改革しようと日本で学び、啓蒙思想を取り入れるが、保守派と対立し、日清戦争に発展します。ベトナムを巡って清とフランスが戦い(清仏戦争ベトナムが植民地化されたように、朝鮮は日本の植民地になってしまう。それでも民族独立にむけて活動した啓蒙思想家ユンチホは、1912年に逮捕投獄されのち「転向」し、植民地統治に協力するように。そして日本が1945年に敗戦となると自殺します。悲惨です。朝鮮の親中/親日の構図は現在にも続いていますよね。。。地政学上しょうがないのかもしれませんが、隣国の影響を受けざるを得ない国柄です。

中国の特殊性

 中国共産人民共和国は、知識人の啓蒙思想家を排除した、非エリート層が建国しているのが特色です。党員の周恩来鄧小平には留学経験はあるものの、毛沢東ソ連ですら数えられる程度しか行ったことがないのです。非エリートの集まりがなぜ国家を作れたのか。それはソ連の指導があったからです(後にソ連との関係は悪化しますが)。

 中国共産党のシステムはボルシェヴィキズムが由来です。

kyoyamayuko.hatenablog.com

しかし、そもそも中国の啓蒙思想孫文三民主義は、専制政治を認めています。啓蒙思想家の胡適は国民党とともに台湾へ逃れました。

 ということは、中華人民共和国の建国初期の段階では、啓蒙思想派は少数派ですし、このあとなんども知識人は弾圧されます。啓蒙思想の自由と平等のうち、「平等」は共産主義によって理念は浸透したが、「自由」はいまだに達成していません。

 啓蒙思想の自由と平等が、中国では不思議な形をしている。平等という価値観は共産主義が由来です。果たして自由が導入されることがあるのか。歴史的に考えても難しいのではないでしょうか。

 啓蒙思想家を切り捨ててようやく「近代国家」として独立できた中国。「近代国家」なのに、近代の重要理念である自由と平等が抜けたまま、巨大な国家となった。大きな矛盾を孕みながら、監視社会と資本主義システムが共存する国家はいったいどこへ向かうのだろうか。

 

『分裂と統合で読む日本中世史』を読む

 

 谷口雄太さんのこちらの本を読む。ありそうでなかった、痒いところに手が届く論点整理のうまい本でした。

 

 

分裂と統合で読む 日本中世史

 

中世を学ぶ意義

 日本で最も分裂した時代が中世であり、それでも辛うじて分裂されずにつながっていた時代だそうだ。それはなぜなのか、というのを著者は読み解いていく。

 現代という時代も分裂し、「新しい中世」の容貌を呈しているそうだ。これだけ分裂しつつあるのにそれでも辛うじて結び付いているのはなぜなのか。読み解くヒントが中世にあるのかもしれない。著者は「統合の核」(26)について解明しようとしている。

●「新しい中世」論の書籍

国際社会論―アナーキカル・ソサイエティ

新しい中世 相互依存の世界システム (講談社学術文庫)

 

分裂のダイナミクスーー場所と社会的地位ーー

 著者は分裂の動きについて「東と西」「南と北」「内と外」という場所の論理と「朝廷と幕府」「寺社と宗教」「生業と身分」の社会的地位によって分裂していく過程を説明する。分裂、遠心力のメカニズム。

統合のネットワークーー「都鄙雅俗」の論理ーー

 柳田国男の「都鄙雅俗」を参考にしながら、「中央と地方」「天皇と将軍」のネットワークによって遠心力で離れていきそうな場所や地位を網目を結んでいく姿を説明している。

 著者の研究分野である室町時代の将軍が戦国時代でも維持されたのはなぜなのか、という話が興味深かったです。

 

まとめ

 日本史で聞いたことがある様々な学説の論点整理をして、遠心力と論理と求心力を維持するメカニズムを簡潔にまとめているため学びの多い本でした。参考文献一覧がついているので、興味の持った学説について知りたければそれらの本を読めばいいわけです。

 ありそうでなかった本でした。細かい歴史の事例について深堀りすることこそ史学の研究ですが、それだけでは細分化され、全体像が見えなくなります。多様である社会が、それでも一つにまとまっているのはなぜなのか。古くて新しいテーマにハッとさせられました。

先取りの配慮は幸福を約束するか?ーーーべてるの家から考える

 たまたまこの本を読んでいたんですよね。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく)

 

 有名なの「べてるの家」ですが、鈴木敏明医師の言葉が、先のblogの大屋雄裕のこのテーマの答だなって思ったんですよね。

 

我々が何を望むかについてあらかじめ配慮されることは、我々の幸福を約束してくれるのだろうか。

大屋雄裕 自由か、さもなくば幸福か? ──二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (筑摩選書) 14/239

 

鈴木敏明先生は、このように語ります。

「精神病の人は、自分を自分で助ける方法を身につけられる」ーーーこれが、べてるが長い間かけて見つけたことの一つです。

逆に言うなら、暴れたら誰かが助けてくれる、抑えてくれる、そういう関係性でやっていると、遠慮なく、思いっきり激しく暴れてしまうわけですね。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく) 266

 

 結局のところ、先取りして配慮して対応する社会は、本人が本人のコントロールを放棄して過激化していきます。そして、配慮する側はーーー精神病の文脈で言えば病院や医師ーーー更に配慮して、過剰に治療し、親切にして、もっと激しい症状を生み出す負のループが生まれます。

 こうして病気の人も病院も互いに依存しあい、そうしている間は病気はコントロールできない。ここで重要なのは患者が病院に依存している点ではなく、病院も患者に依存していることに気づけるかどうかです。

 一言でまとめると、これがパターナリズムですよね。

 

 これは、精神病の人に限った話ではないでしょう。

 

 大屋の「我々が望む配慮の先には、幸福を約束してくれるのか」という問いはやはりノーではないでしょうか。私の「望む」という行為が管理されるとき、パターナリズムにとらわれてしまう。そこに自由と幸福がない。べてるの家の当事者の声を聞く限り。

 では、パターナリズムに囚われないようにするには、どうすればよいのだろうか。管理するものー管理されるものという関係をどのように解放すればよいのか。

 

・弱さを開示する

・困ったときは相談する

・一緒に考える 

・感じたことを伝える

・受け止め、笑って、否定しない

 

 実は、管理する側こそ「弱さの開示」ができない。「管理」にこだわるほど遠退く姿勢です。でも、対等ともまた違う。べてるの文脈でいれば、専門性のある人には専門知から見えてくるものがあるし、当事者には当事者の、その親には親の気持ちがある。それらの声の多重性が当たり前のようにあふれている世界こそ、パターナリズムから解放できるのではないだろうか。

 声の多重性の許容量が広ければ広いほど自由で幸福な社会なのではないだろうか。

 声を出して自分の弱さを開示すること、それは、ありのままの自分の小ささを受け止めて、世界に開いていくことだ。同時に、ありのままの小さな声を受け止める人たちが多い世界こそ、自由で幸福な社会だろう。

 

自由か、さもなくば幸福か?ーーー自由と幸福は対立するのか、ともに成り立つのか

 blogのタイトルは大屋雄裕の『自由か、さもなくば幸福か?ーーー二十一世紀の<あり得べき社会>を問う』から引用したものです。

 前のblogでは『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』について読書ノートをまとめたのですが、この本を読みながら、私は大屋雄裕の本が思い浮かびました。互いに互いを批判しうる立場にあります。大屋からすれば自由と幸福は同時に成立しないものだが、岩内からすれば成立するものです。

 「自由」と「幸福」は対立する概念なのか、それとも両立する概念なのか。思想史としては、そもそもは両立する概念として登場したそうだ。

 

自由か、さもなくば幸福か?: 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (筑摩選書)

 

読書ノートのblogについてはこちらです(三回シリーズです)。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

大屋雄裕の社会像

 まず、大屋の本について簡単にまとめておこう。

自由と幸福は両立可能なのだろうか。あるいは、

我々が何を望むかについてあらかじめ配慮されることは、我々の幸福を約束してくれるのだろうか。

14/239

と、最初に問う。それに対する著者の回答はこうだ。少し長くなるが引用します。

自由と幸福の両立可能性という古典的な問題について、両者を親和的にとらえていた十九世紀から、個人の能力不足を社会システムによって埋めることを選択せざるをえなくなった二十世紀、そしてより積極的・直接的に個人の幸福を配慮するためにその人格性や自律性すら危機にさらされることになった二十一世紀という対比のももとに描きたい。言い換えればそれは、

自由で自律的な自己決定的「個人」という美しい夢見られた十九世紀が、戦争と革命の二十世紀において敗北し、二十一世紀において新たな統制のモードを構築することを迫られた物語である。

浸透する監視と配慮は「個人」という夢が敗れたことの必然的な帰結であったのだ。

15/239

 

 雑にまとめると、自由と幸福が両立した概念である「自律した個人」という自己像の賞味期限がきていて自由と幸福は両立しないと主張している。

 

そして、

可能な未来像のうち、どれを・どのような理由で選択するのか。

自由・快適・公正といった、相互に両立しない価値のどれを・どのような理由で優先するのか

17/239

という観点から、それぞれの概念は相互に両立しないことを前提に三つの社会像を提示している。それは、(1)「新しい中世」の新自由主義、(2)総督府功利主義リベラリズム、(3)ハイパー・パノプティコン、であるという。簡単に要約していこう。

 

(1)「新しい中世」の新自由主義

複雑化する規制の下で個々の被治者がそれらの布置状況を確認し、リスクとベネフィットを考慮して行為を選択しなくてはならないという「新しい中世」のモデルをそのまま肯定する、あるいはむしろそれで何が悪いのかと問い直す態度である。グローバリゼーション、資本の論理。それぞれが正しいと信ずるもの相互の対立・矛盾などから実力行使が拡大し、終わりのない神々の戦いが再現される社会の到来をも意味しているだろう。

222-224

こちらは現在の状況として提示している。弱肉強食の社会だ。

 

(2)総督府功利主義リベラリズム

19世紀システムにおいて問題となった個人の弱さ、すなわち、それぞれの人間は、自己の幸福ないし快楽を最大化する選択肢が何かを十分に判断することができないし、それを実現するための十分な意思力をもっていないという問題を克服するために、各人が自由に振る舞うとしても社会全体の幸福が自動的に実現する社会を、アーキテクチャ的に制度として実現するというモデル。

224

 
こちらは中国をイメージしている。
 
それぞれの社会像を批判的に検討しながら、今後の社会のすすむべき方向性について検討し、「ミラーハウス」社会を提示している。具体的には、
前近代や十九世紀システムの再建を無反省に目指す選択肢と、新たなコミュニティの再建を目指すホラーハウス社会化の傾向をともに批判し、
人格や「個人」の存在を断念することによって幸福の最大化をもくろむ「感覚のユートピア」を可能な選択肢として認めつつ、全構成員が超監視の下に平等に置かれる「ミラーハウス」を、正義にかなったもう一つの可能性として指摘する
17/239
 素朴に、こんな社会、嫌じゃないですか?こんな社会像しか選択肢がないのだろうか。これが我々の待ち受けている未来の社会の方向性なのだろうか。
 

大屋雄裕の「自由」と「幸福」

自由について

 大屋にとって「自由」と「幸福」はどのように定義されているのだろうか。それは別々の概念としてではなく、
十九世紀のリベラリズムにおいて、自分自身で自己の生き方を選択できるという意味における自由と幸福は、一致するものととらえられていた
21/239
そして
個々の主体が自己の幸福について正当な判断を下せる状態を作り出すことが社会の理想状態として想定されていた。略
彼ら(引用者注:子供など未成熟な主体)も十分に整備された教育システムーーー個人を作り出す機械へと内包することによって、その外側においては個人によって構成される社会、自由と幸福とが一致している社会を作り出すことを理想されていた
そのような構想を「自由と幸福の十九世紀システム」と呼んでおきたい
30/239
とあるが、ここで気をつけておきたいのは、幸福について規定しはいないことだ。自由に判断できること、そのものが幸福というふうに受け取れる。
 
 また、大屋は「自由と幸福の一致、個人の自由な自己決定と国家の集合的意思決定の一致」(118/239)させる十九世紀の社会システムの問題点についてふれる。それは一言でまとめると「私と我々の距離」(同上)として現れる。端的にいうと
法によって支配されるのがいま現在のこの私であるに対し、支配するのは(法を作った)過去の我々だという事実である。
その同一性を何らかの形で説明しない限り、そこにあるのはやはり私ならざるものによる私への支配に他ならない。
118/239
 また、「自己決定」という自由については、「自由からの逃走」などを取り上げて自由であるがゆえの責任の重さに耐えられない個人の問題についても触れいている。
 大屋は、「自由」については自己決定という意味合いで使っている。

幸福について

 では、幸福はどうだろうか。大屋は功利主義を補助線にして幸福を語るが、注意すべきはこの幸福とは「総量」としての幸福だ。「功利主義」の目標は、個々人のそれぞれの幸福と福祉の「総量の最大化」であり、その分布には拘泥しない(194/239)そうだ。功利主義は「総量」を前提にするため、個々人は融解する。このように個々人が隔たれることなく、種の垣根すら超えて、快楽を最大化する状態を「感覚のユートピア」(199/239)と大屋は呼ぶ。
 功利主義を突き詰めるとそういうことになるが、しかし、実体は難しいだろう。SFではよく出てくるギミックではあるけれど。さすがに無理やろ。
 ここで確認しておくべきことは、「個々人」つまり、「個人」を基盤におかないで全体、総量を主体にすると簡単に個人が吹き飛んでしまうことだ。そこは簡単に吹き飛ばしてはまずいだろう。功利主義に対するよくある批判でもありますが。
 だからこそ、大屋は個人を前提にしながら、フーコーの権力論、不安社会、ゲーテッド・コミュニティ論を踏まえたうえで、塔の内部だけでなく、「塔の外部の空間すべてとそこにいる主体の監視の対象にするようなアーキテクチャ」(207/239)によって安全・安心を与える社会を構想するわけだ。
 この社会論の目新しさは、フーコーの監獄論やゲーテッドコミュニティのような「偏在する監視」(215/239)ではなく、普く相互監視社会で公正を担保しようとすることだろう。犯罪者や貧困者と隔離して安心するだけでは足りない。情報技術の発展で相互監視が可能となった。「等しく」それぞれの個人が監視されるのならば公正ではないか。あますことなく監視される、鏡のようにあますことなく映し出される。それによって、公正を担保され、安心が与えられる。そんな社会は公平かもしれないが、本当に幸福なのだろうか。
 
でも、誰が監視するのよ?
この監視者は新たなリヴァイサンなのか。
一つ間違うと権力者の恣意性によって管理されますよね。
例えば中国のように。
そこに自由と幸福はあるのだろうか。
 

岩内章太郎の「自由」と「幸福」

 と、ここまで書いてきてようやく岩内章太郎さんの話に戻ります。
 (長くてすまん。。。)
 
ここで岩内の普遍性の本質について参考にしたい。

(一)普遍性は人間を超えて存在する実体ではない。

(二)普遍性は事実として存在しない。

(三)普遍性は閉じられていない。

(四)普遍性は無条件に存在しない。

(五)普遍性の根拠は実存にあるのだから、普遍性の側から実存を規定してはならない。

 

269-270:各項目の最初の文章を引用

 監視社会の「監視者」はすべてに抵触しませんか。大屋のミラーハウスには、実は、監視者が間違うことのない神のように立ち現れています。そんなことは可能でしょうか。結局は恣意的に監視者を利用するものが現れませんか。その恣意性をどのように排除できるのか。排除は可能なのか。
 おそらく、やりかたによっては可能なのだろう。その方法とは岩内章太郎ののロジックで。徹底して個人から<普遍性>を求めてやり抜く。みなが納得すること、手続きは常に開かれていること。個人を基盤にその都度、やりぬく。先人が決めたルール(法)であっても、納得すればそれでよいし、違和感があるのなら意義申立てをして改善する。常によりよき普遍性=監視者を求めて。。。監視者って言葉よくないなぁ。なんて言えばよいのだろうか。
 
 最後にもう一つだけ。実は、大屋は「自由」と「幸福」について定義していません。自由はせいぜい選択の自由の意味合いであり、幸福は個人の効用であり、幸福を語るときに社会全体から、つまり功利主義から語ろうとします、だから、なんだかおかしい社会論になっていくのではないでしょうか。
 
 特に幸福を「総量」から見ることは意味がないのです。社会全体の「幸福」ってなんでしょうか。功利主義の社会的効用関数による幸福の総量っていったい何を示したものなのでしょうか。「社会の幸福」っていったいなに?万人が認めるよいものはそれは「善」なのではないでしょうか。善は社会的なものだけど、幸福は個人的なものなのではないでしょうか。
 なぜなら、幸福は個人の充足なので、他人と比較不能だし、総量化して計算する必要がないものなのではないでしょうか。
 
ここで、岩内の自由と幸福の定義を確認すると

自由がそのつどの規定性を超えていく運動だとしたら、

幸福は欲望が充足して安定している一時的な状態である。

278

 現代人の幸福の類型を「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」の二つを示していますが、それは総量化しなくてよいものです。総量化する必要があるでしょうか。功利主義はそれぞれ個人の効用を足し合わせた最大値が「社会」にとって最大幸福とありますが、そんな「全体(社会)」から幸福は考える必要はないのではないでしょうか。個人が充たされたらそれでよいのだから。

 とはいえ、これは物質的に生活が安定している社会での話です。そもそも財が不足して基本的な生命活動が脅かされている社会では、功利主義の考え方も成立するとは思います。

 水源を維持するために、山奥の村を沈めてダムを作る、というのは、山奥の村人にとっては不幸な出来事ですが、社会全体にとっては幸福な(物質的な豊かさ)ことかもしれません。功利主義の幸福総量とは、このような残酷な面を持ち合わせているのです。でも、生存のため物質的基盤が整備された社会では、このような幸福の総量は問われて来ないでしょう。個々人のそれぞれの幸福を充たすことを、あえて総量化する必要はない。

 岩内正太郎さんの社会論も読んでみたいですね。どのような社会を構想するのだろうか。

まとめ

 私なりに色々考え込んでしまった。大屋の社会像に相応のリアリティがあったとしても何かモヤモヤするものがある。その原因を岩内の本から教えてもらいました。
 <私>と<我々>には大きな隔離(ジャンプ)がある。だからといって、手法として<全体>から、言い換えると実在するかのように普遍性から物事を考えてしまうと足元を掬われる。まるで全体を把握して調整して統合できる「何か」があるかのように考えてしまうと、個人は非常に無力だ。大きな「何か」の力に対して無力な存在になる。それは自由でも幸福でもないだろう。
 幸福の総量から社会を考えるよりも、全員が納得できる「善」について再帰的に考える方が個々人にとってよっぽど自由で幸福だろう。
 
 
 
おそまつさまでした。
今の段階の考えです。

『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』の読書ノート(3)ーーー現象学的言語ゲーム・普遍性を創出する

 こちらの続きです。ここから本格的に著者のクリエイティブな提案がはじまります。まとめていきます。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

<普遍性>をつくる哲学: 「幸福」と「自由」をいかに守るか (NHKブックス 1269)

第四章 現象学言語ゲームーーー普遍性を創出する

 

著者はこのように提案する。

現象学は人間と社会の本質を探求する。

この営み全体を、複数の超越論的主観性による言語ゲーム、すなわち「現象学言語ゲーム」と考えてみよう。

197

そして、

複数の超越論敵主観性が遂行する言語ゲームが間主観的な批判のプロセスに開かれているとすれば、これは必然的に公共的なもににならざるえない。この公共的な言語空間を維持するための条件は、先に述べた言語ゲームと力のゲームの関係を明らかにするだろう。

何のために普遍認識を目指すのか、そして、その試みが挫折すると、どのような事態が待ち受けているのかーーー。

言語ゲームの指針は「善の原始契約」と呼ばれる。

198

 一般本質学と超越論的本質学

 ここで著者は本質学には二つあることを指摘する。ハイデッガーやシェーラーを批判的に検討し本質学をシェーラーなどを代表するものを一般本質学とよび、フッサールの本質学を「超越的本質学」(212)として区分する。

 超越的本質学には三つの特徴がある。

(1)差異の相互承認

 エポケーによる「差異の相互承認」(214)。互いの差異について相互に認めてしまうこと、しかし、同時に同一性を実体的にあらかじめ措定しないことーーーエポケーは「実在をめぐる論争」を調停して、差異の「相互承認」を導くための態度変更なのである(216)。

(2)相対性を引き受ける

 認識論的正当性と引き換えに、現象学は相対性のリスクを引き受ける(217)。私たちが意識を反省的に見ているとき、じつは相対的に相対主義にかなり近づいている。略 現象学的還元は超越論的主観性という極めて相対的な場面に身を置くことを意味する(以上の文章は217)。

(3)本質を確証する

 超越論敵本質学における<普遍性>が、複数の超越論敵主観性の「相互主観的確証」を持って、ようやく成立することである(218)。

 

著者は以下のようにまとめる。

超越論的本質学は「相互承認」と「相互主観的確証」の学である。

検証と確証に開かれているからこそ、

超越論的本質学とは世代を越えて本質をつないでいく言葉の営みである。

なるほどです。

 

善の原始契約

暴力と言語

 著者はトマス・ホッブスを引用しながら暴力と言語の関係について分析して補助線を引く。そして、闘争状態を抑止する手段として「言語の他に何か有効な手段はあるだろうか」(225)を問う。著者は一切の力は悪だとも、すべての決定を言語ゲームでおこなわれるべきだとは考えていない(225)。問題は「警戒すべきは不当な力の顕現であ」(225)る、と。これは難しい問題を孕んでいて「言語ゲームが弱くなり始めた途端、力のゲームが台頭してくる」(226)。ではどうすればよいのか。市民社会の倫理が普遍的なものが含まれているのだとしたら、その妥当条件を確かめる道筋を明らかにすればとい、と著者は考える。

フッサールハーバーマスーーー意識と世界、どちらから始めるのか

 著者曰く「ホッブズ以後、権力や貨幣のシステムと言語的コミュニケーションの対抗関係を描いたのは、ユルゲン・ハーバーマスである」(228)。ハーバーマスの「市民的公共性」について、

自由に意見を表明するだけでは、民主主義の基礎になりえない。複数の意見が公衆の論議を通じて「公論」としてまとまり、そこに一定の合意が形成されると、システムによる生活世界の植民地化を正当に批判できる。こが官僚制と資本制を監視するための抑止力になる。

229

とまとめている。著者は、ハーバーマスが批判するフッサールの認識論について検討して、「じつはハーバーマスのコミュニケーション論ともーーーハーバーマスが言うほどにはーーー大きな隔たりはない」(230)と説明し、以下のように指摘するのである。

間主観的生活世界の構造を普遍的に理解したいなら、方法論的に<私>の意識から始めるしかない。

230

と。<私>の意識から始めなければ、認識論のアポリアに巻き込まれるのだ。そのあたりの繰り返しは、前回のblogを読んでほしい。ハーバーマスも巻き込まれたそうです。

 大切な点は、「ホッブズハーバーマスが提起した『暴力に対抗する言語ゲーム』という描像は、フッサール現象学にはない視点であ」り、「何のための現象学か、という視座を与える」(231)。ということだ。私たちは

<普遍性>をつくるための普遍的な動機(=普遍動機)とは何か、ということ

231

という視座が重要なのだ。  

善の原始契約とは何か

善の原始契約は「生成の根拠」である。

239

もう少し詳しく説明すると、

人間と社会の本質学の中心には(暴)力のゲームに対抗しつつ、全員でよりよいアイディアを出し合うことに関する最初の約束がある。

この最初の約束が、現象学の普遍動機となり、本質直観の努力を持続させることを可能にする。

力のゲームの発現と脅威を自覚すること、現象学言語ゲームを起動して、それを維持することーーーこれが初めの、そして最も肝容な善なのである。

239

すなわち、

公共的な言語行為としての超越論的本質学の核心には、互いを対等なプレーヤーとして承認したうえで、人間と社会の本質についてよりよき考えを見出だそうとする集合的意志がある。

この意志を想定することができないなら、本質学は成立しないのである。

言い切りました!かっこいいですね!

本質学についてはより詳細な検討しているので、興味のある人は本を読んでみてほしい。

でもさー、なんで普遍性を目指さなければいけなの?めんどくない?という素朴な疑問については、

いったい何のために普遍性を目指すのか、そして、かりにこのゲームを放棄した場合、どのような場面に差し戻されるのか。

これらのことを曖昧な仕方で了解していると、普遍認識の可能性を投げ出しても問題は起こらないという錯覚に陥ってしまう。そうして私たちは、言語ゲームの重要な機能を忘れてしまうのだ。

240

ふんふん。

普遍性の断念は、じつは力のゲームによる世界の制圧以外のなにものでもない。

240

それ!それなんですよ!結局、普遍性を求めなければ、弱肉強食の力の論理で決まってしまう。

現象学の目的は、無条件に実在する絶対的真理を発見することではない。

現象学的還元はあくまでも方法的な態度変更なのだから、私たちはいつでも言語ゲームを泊めることができる。

しかし、もし止めてしまうのなら、力のゲームが支配する社会になりかねない。

ここに善の原始契約の原理的正当性があるのだ

241:下線部は私が引いた

そして、普遍性が成立しない領域については

(一)相互主観的確証に至らない本質条件

(二)差異の相互承認の必然性

という二つの重要な契機に関する考察を深めていくことができる。

差異と普遍性をともに手放さないためには、こういう地道で不確定な作業を(世代を越えて)持続していかなければならない。

240

私たちは相対性を引き受ける。

善の原始契約の基本指針

(一)「力による決着」から「言葉による合意」へと意思決定の手段を変更する

(二)現象学は全員を対等な人間と承認する。

(三)複数の超越論的主観性が担う現象学言語ゲームの目的は、普遍的に妥当する

   本質を洞察することだが、これは必然的に公共的なものとなる。

(四)それぞれの領域は異なる普遍動機を持つ。

 

242:各項目の最初の文章を引用

 

現象学的ゲームの可能性

 著者は、現象学の三つの根強い誤解を読み解き、現象学的ゲームの可能性を示す。

モナドたちのプラクシス

現象学は孤立したコギトのテオリア(観想)ではなく、複数のモナドのプラクシス(実践)である 

258

デカルト哲学の焼き直しではないことを主張している。

幸福と自由を守るための<普遍性>

現象学の本質は、この世界の彼方に存在するイデアではない。略

259

 

現象学の本質は、直観のうちに見出だされる内在的対象であり、特定の人や集団を抑圧する超越的な規定性ではない。それどころか、抑圧や差別の力学に対抗するために、現象学構築主義と協働できる。

259

 

人間の「普遍条件」(たとえば、死、共同性、身体、自由[=自我の欲望])と、普遍条件から導かれる「普遍動機」(たとえば、善の原始契約)、これらが普遍性を可能にする。

逆に言えば、普遍性は人間の自由と幸福を守るためにある。人間は自由を求める存在である、ということに普遍性がなければ、人文領域での普遍認識がーーー不可能とまでは言わないがーーーかなり難しい課題になるのは間違いないのである。

262:下線部は私が引いた

この自由と幸福については終章でまとめています。興味のある人は読んでみてほしい。

 

形而上学への誘惑を断ち切る

 タイトル通りなので割愛する。ついうっかり超越してしまうんですよねぇ。でも、<私>の意識が基本なので、そこに踏み止まる、という話です。

言語ゲームの外部に立つ絶対他者

 読書ノート(1)でも触れたが、スピヴァクサバルタンの存在を考慮しても普遍性を担保できるのか、という質問に対しては、

言語ゲームに参加できない他者の権利を考えるという発想には、普遍性の理念がすでに含まれている。

266

と反論する。大切なことは、

絶対他者が存在する可能性を可能性として保持することのうちに、言語ゲームと絶対他者のあいだの緊張関係が成立しているのだから、絶対他者の可能性を無化してはならない。

ということだ。

<普遍性>の本質とは何か

 著者は5点にまとめている。

(一)普遍性は人間を超えて存在する実体ではない。

(二)普遍性は事実として存在しない。

(三)普遍性は閉じられていない。

(四)普遍性は無条件に存在しない。

(五)普遍性の根拠は実存にあるのだから、普遍性の側から実存を規定してはならない。

 

269-270:各項目の最初の文章を引用

 

まとまりました!素晴らしい!

特に最後の(五)が素晴らしいと思います。既に確立されているような価値観であっても、それに納得していないのならばその普遍性に規定されてはならないし、違和感や疑問を現象学言語ゲームを通して問い直すことができる(なぜなら普遍性は開かれているから。(四)にあるように。)

 

終章 もう一度、自由を選ぶ

 こちらは著者のいまどきの自由についての分析です。抑圧された社会で暮らしていれば自由は尊いものですが常に自由な社会では自由疲れもありますよね、そのあたりについて分析しています。そちらも興味深いのですが、私が惹かれたのは「現代の幸福の類型」です。そちらを簡単にまとめて、読書ノートを終わりにします。

現代の幸福の類型ーーー「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」

 「自由に疲労を感じている者は、どのように生を充実させるのだろうか。そこで出てくるのが『幸福』というキーワードである」(281)。この文章、とってもぐっとくるんですよね。生の充実とは『幸福』なんだ。では幸福とはなんなのか。

自由がそのつどの規定性を超えていく運動だとしたら、

幸福は欲望が充足して安定している一時的な状態である。

278

こんなに「自由」と「幸福」をわかりやすく定義した人がいるだろうか。すごい!。特に自由の定義は秀逸です。幸福は自ずから充足している状態なんですよね。

幸福の本質は、欲望が充たされて安定した状態(あるいは逆に、欲望そのものに捕われることのない安定した状態)が絶対的かつ永続的に持続するという一つの理念としても現れるだろう。

278

ふんふん。

幸福のイデアが現実の幸福を上から規定するわけではない。

279

これ重要ですよね。

 

そして、現代の幸福の類型を「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」の二つを示すのだ。

どちらもすごくわかりますよね。特に新しいのは「ソロ充の快楽」であり、一昔前だと一人でいること自体が孤独とか寂しさと見なされ、その状態が恥ずかしいというネガティブな状態で語られることが多くて「幸福」の類型に入ってこなかったと思います。そこが新しいと思いました。

 また、見田宗介の幸福の類型と似てますよね。

現代社会はどこに向かうか――高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

 

以上が読書ノートのまとめでした。

 

簡単に私の感想も書いておきます。

 この本の書影の帯にはでは「連帯を支える原理とは?」とありますが、「連帯」ありきの思想ではないんですよね。何度も繰り返し語っていることは、普遍性を「実在」として扱うと認識論のアポリアに突入しています。ヨーロッパで生まれた哲学ですが、最新の現代哲学の学者たちも陥る罠なわけです。そこに陥らず、だからといって相対主義に陥らない手法としての「現象学的還元」であり、それは徹底的に<私>の意識から始めるしかないわけです。この点を置き忘れると、形而上的な方向へ向かってしまい、結局のところ複数の思想の対立にならざるをえない。

 この本のサブタイトルの「幸福」や「自由」は最初は唐突な感じがしました。読み進めていくとわかってくるのですが、徹底的に<私>の意識から始めるということは。複数の<私>の意識をいかに調整できるのか。人々の利害対立を解決するには二つの方法しかない。それは暴力と言葉だ。普遍性を求めるということは、それぞれが暴力を一旦脇において話し合うということだ。その努力を怠るとき、力が復活して力で決着するしかなくなる。それでいいのか?普遍性を求めるということは、力の決着ではない手法を求めるということであり、その言語ゲームの条件を「善の原始契約」と著者は名づけます。この善の原始契約そのものが人々の対等性を基本とし、自由が前提になっている。普遍性を求めること自体が「公共的なもの」ならざるを得ません。

 私は、この<私>の意識の複数の<私>を「善の原始契約」を前提に調整していくという見立てが非常に社会学的だなぁと思いました。複数の人の調整ですからね。

 しかし、著者は徹底して<私>の意識にこだわるし、哲学的にはそれ以上の方法はありません。社会学でいうところの「創発特性」を著者は認めません。そのあたりのところは、いったいどうなるのだろうか?社会学者がこの本を読むとどう思うのか知りたくなりました。

 社会学との関係はおいておくとしても、この本はとても勉強になりました。普遍性を求める意義が非常に説得力がありました。普遍性を求めなければ力のゲームになってしまう。とても重要な指摘でした。

 

 

『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』の読書ノート(2)ーーー現象学の原理・普遍認識の条件

 読書ノートの続きです。岩内章太郎さんの本の骨子を勉強するためにまとめていきます。

<普遍性>をつくる哲学: 「幸福」と「自由」をいかに守るか (NHKブックス 1269)

 

 

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第三章 現象学の原理ーーー普遍認識の条件 135ー195

 前回のblogでは、「多様ではあるが、相対的ではない世界」という俊逸な問いを立てたところで終わりました。そのな世界をつくるための方法が「現象学」(133)だと示します。

 著者は、「新しい実在論構築主義の対立を読み解くための手がかりは認識論にある」(135)とし、現代実在論は「それがまさに認識論から離れてしまったがゆえに、深刻な信念対立に帰着」(136)すると指摘する。そして、この「認識論の謎を解明する」(136)のが「現象学」と指摘し、現象学の解説をし認識問題を深堀りしていく。

 

認識問題」と現象学的還元」の「関係を深く理解すれば、「普遍認識」の条件が見えてくる

現象学的還元の根本動機は、「主客一致の認識問題」の本質を明らかにして、普遍学としての哲学を再建することである

136ページ:下線部は私が引いた

 

認識論のアポリア

「主客一致の認識問題」とは、主観と客観がそれ自体を認識できるのか、という認識論上のアポリア(難問)である。

厳密に言えば、主観と客観の一致を証明することは可能か、という問題の形式をとる。

137ページ

 

という問題のことらしい。なんで主客一致問題が生まれるのか。思いっきりはしょってまとめるとこういうことだ。

認識の可能性を疑うことがなければ、認識問題は出来しない。

140ページ

ん?つまり?

認識問題が妙な感じを与えるのも、ふつうに生きている分には認識の根拠を疑うきっかけがないからである。複数の人々の意見がひどく食い違ったり、リアルな夢と曖昧な現実の区別がつかなかうなったりするとに初めて、認識の本性とは何だろうか、という問いが現れる。

つまり、懐疑が認識論を展開するのである。

140-141

はー、なるほどね。そして、ここから懐疑主義の論理としてプロタゴラスピュロン主義について触れていきます。

ピュロン主義は大きく三つのことを主張する(144).

(一)対立する複数の現れは、信憑性と非信憑性において同等である。

(二)認識者は特定の現れの優位を基礎づけることができない。

(三)対象それ自体の本性については、判断を保留しなければならない(=エポケー)

144ページ

思いっきりはしょるが、ピュロン主義の結論をまとめるとこうなるそうだ。

私たちは存在がそれ自体として何であるかを決して知ることはできないのだから、存在の本性についての判断を保留しなければならない、と。

これは「エポケー」と呼ばれる。

145-146

これが有名なエポケーだ。なんとなく言葉だけは知っている。このピュロン主義の懐疑主義は、近代哲学の認識論を方向付けたと著者は指摘する。それは裏返すと、

プロタゴスやピュロン主義が提示した懐疑主義をいかに克服するのかーーー

この問いが近代認識論の通奏低音となり、やがてそれは現象学的還元という方法に結実するのだ。

146ページ

なるほど、そうなのか。著者を通して哲学史を学んでいこう。

デカルトの方法的懐疑

著者曰く

デカルトの独創は、懐疑主義に独断主義で対抗するのではなく、懐疑主義の立場にあえて身を置いてみて、それまでの類型を破る認識原理を模索したところにある。

懐疑主義を克服するためには、むしろ懐疑を徹底してみる必要がある、というのだ。

これを「方法的懐疑」と呼ぶ。

147ページ

 

こうして導かれるのが、おそらく哲学史上最も有名な格言の一つ、「我思う、ゆえに我在り」である。端的に言えば、

疑っている作用それ自体は疑いようがない、ということだ。略

<私>が考えているという事実は、いかなる懐疑の可能性によっても覆されることはない。そして、少なくとも考えているあいだは、考えている<私>の存在を否定することもできない。

148ページ

懐疑主義を乗り越える「方法的懐疑」を理解できた。そして、もう一つの補助線を著者はひく。

なぜ信念対立は起こるのか

 認識論は、一般的に「独断主義と相対主義という二つの考え方が現れる」(149)という。

独断主義とは真理、実在、実体、本質などの概念を擁護して、合理的世界認識の可能性を追求する(149)これに対して、

相対主義は、認識と存在、そしてそのあいだに挟まっている言語を論理的に相対化することで、独断主義の前提を突き崩すそうとする。

149

ふーん。哲学史とはようするに「独断主義と相対主義の相克が、さまざまな仕方で変奏されてきた」(150)らしい。へー、そうなんだ。ここからが、著者が主張したいことなのだが、

その対立を調停する原理が近代哲学の努力のなかに隠されていることは、あまりよくしられていない、現代哲学の混乱の根本原因はすでに近代哲学は解明しているのだが、その成果は、帝国主義全体主義という「人間性の敗北」に帰着した近代全体の反省とともに葬り去られたようにみえる。

150ページ

 先の対戦はヨーロッパの知識人を深く傷つけてトラウマになっているわけですね。敗北感に苛まれて、近代哲学の遺産を直視できないのでしょうか。

 現代哲学は「言語論的転回」や「思弁的転回」(150)を宣言して近代哲学を時代遅れと見なしているようなのですが、著者曰く、

認識の本質を考え抜いた近代哲学こそが、信念対立の理由を解明して<普遍性>に至るための準備を整えていたのだ。したがって、現代哲学が真に必要とするのは、いわば「認識論的転回」なのである。

150

そうだ。私はあんまり現代哲学について興味がないので(タコツボの中の話は一般人にはどうでもよいので)、次の暴力の問題の方が重要な指摘だと感じる。

深刻な信念対立はしばしば暴力と結び付いて顕現する。

150ページ

これは現在でも事例に事欠かないだろう。

ともすれば殺しあいになることがある信念を互いに承認するための原理と方法を示せるかどうか、である。

現実世界で対立しているのは各共同体が持っている道徳にほかならない。

そこで道徳の実在を主張してみても、それではどの共同体の道徳を普遍的実在とみなすのかをめぐって、再び深刻な信念対立が起こるだけである。

150-151

そして、

複数の人間が何かを決定するとき、私たちは話し合いによる「合意」か、戦いによる「決着」か、という二つの選択肢しか持たない。

つまり、

話し合いによる合意の可能性を断念すれば、必然的に、力の優劣による決着でものごとが進んでいき、すべては闘争によって決まってしまう、と。略

合意形成の不可能性は力の論理の勝利以外のなにものでもない

151:下線部は私がひいた

この論点の方が私にとって重要に感じるところなんですよ。普遍性を断念すると、暴力に屈するしかなく、力の論理で決まるのは、それはどうなのよ?って思うわけです。この点において、普遍性は追求すべきだという立場を支持したくなるわけです。

だから認識問題は、抽象的な哲学のパズルではなくて、暴力の発現をいかに抑止するのかという現実的かつ実践的な問題にリンクしている。 

151:下線部は私が引いた

ここがすごく重要だと思うし、この重要な指摘をはっきり示してくれた著者はすごいと思うんですよね。これが哲学をする意味だと私は理解しました。

 そして、普遍性をつくる道具として現象学の解説にはいるのだ。

現象学的還元ーーー<私>に世界はどう現れているのか

 ここは大きくはしょりながらまとめていきますが、現象学とは

客観や実在を前提せずに、誰もが直接確かめることができる意識体験において、世界確信の根拠を洞察する以外に道はない

154ページ

ことを前提にした認識論だ。現象学は、

さまざまな存在者(事物、動物、他者など)と一つの同じ世界を共有していて、世界の中で他の存在者に働きかけたり、他の存在者から働きかけられたりする、という自然な信憑を誰もが持っている。

客観的世界についてのこの素朴な存在定立は「自然的態度のなす一般定立」と呼ばれる。

156ページ

このような「世界経験は先に示した主観ー客観の図式と本質的に同じものである、ということに気づくだろうか」(157)と促し、だからこそ

現象学者は、主客一致の認識問題を解くために、自然的態度のなす一般定立を遮断して、世界を意識との相関性において捉えるという特有の構えを見せる。

157

そうだ。これを「自然的態度のなす一般定立を遮断する手続きを「エポケー」略、と呼び、エポケーを遂行したうえで、世界の一切の存在者を意識に還元することを『現象学的還元』と呼ぶ」(157ー158)そうだ。現象学的還元とは、

<私>が<私>の認識の外部に立つことは決してできない。ならば、外側に抜け出そうとするのではなく、むしろとことん内側に潜ってみよう、というわけだ。そうして、すべての存在者は<私>の意識で構成された対象という新しい意味を獲得する。

158-159

そうだ。で、そうやって普遍認識の可能性があるのかというと、

まず、<私>の意識体験において超越がいかに構成されるのか見てとり、

それから、<私>と<他者>が同一の対象と世界を確信する条件をーーーしかし、あくまでも<私>の意識体験においてーーー探求しよう、ということである。

したがって、略、複数の<私>が同じように持っている条件が、<普遍性>をつくっていくための基礎条件となるのである。

162-163

何のために現象学的還元を遂行するのか

 これまでの繰り返しになるが、現代哲学の現代実在論の問題は「独断論」であり、「多様な世界認識の可能性が消滅」するし、複数ある独断論が対立するはめになる。では、相対主義はどうかといえば、結局のところ「普遍性を喪失した相対主義は『力』に対抗でき」ないことは、これまでも見てきた。

 これを乗り越えたのがフッサールの「現象学的還元」だと著者は主張する。

独断主義と相対主義という二つの主張が現れる根本原因を主客一致の認識問題に見て取り、主観ー客観のパラダイムを転換することで、認識論のアポリアをその内側から破ったことである。

現象学的還元による認識論の構造転換は、特定の認識を絶対化することなく、普遍認識を成立させる可能性を拓くのである。だから、

現象学的還元は、実在をめぐる論争を抑止しつつ<普遍性>をつくるために採用される目的相関的な方法原理とみなさなければならない

<普遍性>の哲学を再建するためには、いったんすべてを意識に還元して<私>の対象確信の条件を取りだし、そこからもう一度、他者(間主観性)に向かって問う以外に道はない

174:下線部は私が引いた

と主張する。

本質直観ーーー<普遍性>をつくる哲学の方法

 フッサールは、

事実と本質の本質の区別は、それぞれの別の直観が対応する。

事実の直感は「個別直感」、本質の直観は「本質直観」と呼ばれる。

個々の事実を見る直観と、さまざまな事実に共通する本質を見る本質直観が、一切の認識の正当性の厳選なのだ。

177

そうだ。そして、この直観が認識論的に正当性を担保できるのかという問いに対して、

大きくはしょって結論だけ書いてしまうが、「そう言えるのである」(192)と著者は言う。

「<私>にはそう見える」ということが、すべての認識の究極の厳選であることには変わりはしない。ただし、それは

<私>の直観が絶対に正しいということを意味しない。他者の直観の方に説得される可能性を含むのである。直観の内容は固定されたものではなく、それは正当な理由と根拠によって変容しうる、ということが決定的に重要である。実際、他者とのコミュニケーションのなかで物の見方が変わることは、決して珍しいことではない。

192

ん?それじゃぁ、構築主義と同じじゃね?という点については、

構築主義者は、意識、直観、本質は何らかの仕方で構築されており、それはいくらでも疑いうると主張する。だが、

直観の正当性を疑っているその批判的意識だけが構築を免れることはできない。略

直観が最終的な根拠になっているのだ。これを否定するならば、構築主義者は自分には見えていないものを断定していることになる。略

こうして、一切の認識は直観に戻ってこざるをえない。

192

著者は主張する。そして問題の確信をこのようにまとめるのだ。

「<私>にはそう見える」から出発して、「<私たち>にはそう見える」にーーーしかも、力のゲームを抑止しつつーーー進んでいくことができるのか

間主観的普遍性という理念を目がけて意味のやり取りを重ねることで、各々の直観の内実を徐々に編み変え、豊かにしていけるかどうかーーーこれが<普遍性>をつくる哲学の中心的課題にほかならない。

193

 なるほど。やけに納得です。言われてみると普通のことなんだけど、説得力がありますよね。この時点では、ハーバーマスっぽいなって私は思ってました*1

 

そして、哲学史的に著者が位置づけるとこういうことらしい。

現象学的還元と本質直観というフッサール現象学の中核原理は、近現代認識論の最高の達成の一つである、と私は考える。

新しい実在論構築主義による現代の普遍論争は、この「認識論的転回」が持つ革新的な意味を双方が理解しなかったゆえに、起きてしまったのである。

195

そうだ。

 

 

今日はここまで!勉強になりました!

ここまでは哲学史を振り返り、問題の整理でした。

次回からは著者のクリエイティブな提起になります。

 

*1:著者曰く違うらしい。228ー231、248ー249ページ参照。