kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(2)日露戦争までーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 前回は日清戦争まで書きました。日中戦争、太平洋戦争のところからさくっと書いてまとめたいと思ったのですが、そこから書くとよくわからないし、勉強がてら明治政府以降の流れをまとめています。

 引き続き松元崇の本を参考にしてまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

kyoyamayuko.hatenablog.com

 前回までのポイントは明治政府は「借金漬け」、富国強兵といいながらも秩禄処分軍縮を断行し、「小さな軍隊」だったということです。

 

 日露戦争の開戦の理由は満州朝鮮半島利権で利害が対立していたからと言われる。日清戦争後、三国干渉によりロシアはシベリア鉄道が完成を間近にしていた。シベリア鉄道が完成するとヨーロッパ・ロシアからウラジオストクへのルートが完成し、200万人の将兵を輸送できる体制が整うことを意味します。

 歴史を知るものにとっては日露戦争は奇しくも勝利することを知っているのですが、当時の政府にとっても大きな賭けでした。奇跡の勝利といってよいでしょう。陸軍力は日本の常備兵20万人に対してロシアは200万人、日本の歳入2億5千万円に対してロシアは20億円*1と陸軍力、財政力には10倍の開きがあった。伊藤博文井上馨は最後まで開戦には慎重で、明治天皇も最後まで躊躇していたという*2伊藤博文はロシアとの満韓交換論を唱えて開戦を回避しようとしたそうだ。

増税と外債発行で戦費を賄う

 日露戦争の戦費は最終的に17億円に達したが、それは明治36年年度の一般会計歳入2億6千万円の七倍近いの額だった。

 この膨大な戦費のためにまず行われたのは「大増税」だった。開戦の翌々月の明治37年4月には各税一律の増税、翌年の明治38年1月には所得税、酒税の増税、新たに相続税、塩専売税を新設して増収をはかった。当時の大蔵次官・阪谷芳郎は「こと今日に至っては皆悪税です。皆さんの気に入るような適正な良い税は、もう悲しいかな国が小さいからありませぬ」*3と説明するありさまだった。

 なお、これらの非常特別税は「平時に廃止」するとされていたが、ロシアから賠償金がとれず戦後も継続され、国民の不満が高まったのだった。

綱渡りの外債発行

 これだけ増税しても戦費を賄えなかった。増税したうえでさらに借金を重ねたことは記憶に留めておきたい。

 戦費の大半は公債で賄われた。軍需品の多くを輸入に頼っていたので、輸入代金支払いに充てる正貨確保のため外債発行が戦争継続にとって死活問題であった。「正貨」とは、今の言葉で言えば外貨のことです*4

 

政府は、正貨獲得のために、まずは民間の輸入を解約させるとともに、国内での正貨使用節約のために国内の軍事費については1億8528万円相当の軍用切符での支払いを行うなど、ひたすら正貨の維持に努めた。

しかしながら、政府が外債発行にあたっての信用保持の観点から、日銀券の兌換停止を行わなかったことから、正貨は開戦前後から月々1000万円余りのペースで流出した。

そのため最初の外債発行が失敗すれば信用喪失から以後の外債発行は困難になり、日本は財政面から到底ロシアとの戦いが続けられなくなるという厳しい状況になっていた。34ー35

 

ひえ~~~~!!!

 

こんな状況でよくぞ戦争することを決めましたよね。伊藤博文明治天皇が最後まで躊躇するのわかるわ。

こんなにケツカッチンなのに、「国防」のためとはいえよく戦争したよ。。。

シベリア鉄道が完成する前に戦争すればなんとなるかも?

というロジックは

先手必勝でアメリカに戦争すればなんとかなるかも?

というのに似ていませんか?

しかも、アメリカに戦争をしかけたときよりも日本はカネが無かった。。。

 

1回目の外債発行が失敗すれば日本はロシアとの戦争は継続できないという追い詰められた状況で、外債発行の責任者だったのが高橋是清である。

 

外債発行市場の状況をみてみよう。

欧州の外債発行市場では、軍事力の違い等から日本の勝利を予想する向きは少なく、外債発行環境は極めて悪いものであった。

日露開戦後、パリ及びロンドンにおけるロシアの公債価格は上昇の気配を示したのに対して、日本の四分利付英貨公債は80ポンド強から60ポンドに二割以上も暴落するといった有様だった。 35

 

諸外国も日本が負けると予想していたんですね。妥当な判断ではないでしょうか。兵力も財政も10倍違いますからね。

 

高橋是清はどうしたのだろうか。

ロシアに反感を持つユダヤ系のクーン・ローブ商会(米国)のジェイコブ・シフの協力や鴨緑江における日本軍勝利の報もあってなんとか成功し(六分利付)、日本海開戦までに三次にわたって資金調達を行った。 35

 

ユダヤ系商会が外債を買ってくれたおかげでなんとか戦争できたんですね。

でもロシアの戦意は衰えません。

ポーツマス条約交渉時にも第4次外債発行を行わざるを得ないという綱渡りの状況に直面し、ジェイコブ・シフの口利きによるS・G・ワーバーグ(ドイツ)の参加によって、その第4次の起債をようやく成功させるという有様だった。 36ー37

 

 ジェイコブ・シフさんに頭があがりませんね。結局のところロシアが嫌いなユダヤ人とロシアが敵国のドイツの思惑によって戦費が賄われたわけですね。この外債発行には関税収入を担保にいれていたそうです。。。そこまでして戦争したのか。。。

 なお、関税収入の差し入れ担保は今回で二度目で一回目は新橋ー横浜間の鉄道建設時以来だとか。鉄道敷設のときは4分利だったが、今回は6分利でした。。。利子負担が重い。。。

 外債の総額は8億円以上で、当時の一般会計歳入の3倍の金額だった。この歳入は増税した上での歳入ですからね。

日露戦争の幕引き

 ケツカッチンな資金繰りだったので政府首脳は早くから終結を念頭に置いていたそうだ。わかるわ。髪の毛、真っ白になるわ。

 日露戦争では日本海海戦の勝利とともにロシア国内で「血の日曜日事件*5のデモが発生するなど政情不安に陥ってた。そのため講話のテーブルに両国が着くことができた。

 ポーツマス条約受け入れの御前会議では、

寺内正毅陸相が「もう士官が欠乏し、これ以上戦争できない」と発言し、

曾禰荒助蔵相が「これ以上金を出せと言われてもできぬ相談なり」と発言して講話受け入れを決めた。 37

この時代の御前会議では、みんな本音トークができたんですね。これは知っておいてよいことかもしれません。本音で会議することはほんとうに重要です。太平洋戦争で身に染みたことですね。

ポーツマス会議でロシア全権代表ウィッテ(前大蔵大臣)は

「賠償金は戦勝国に支払われるものだが、そのような状況ではない。第一、敵はロシアの国境の外にいるではないか」と敗戦国ではないとの姿勢を貫き、日本の賠償請求を一蹴したのであった。 37

 日本が金がなくて戦争継続できないことはわかっていたでしょう。ロシアも政情不安なので戦争はやめたい、でも賠償金は払いたくないという大蔵大臣だったウィッテは算盤を弾きながら交渉し、両国が合意しました。

財政的な負け戦ーーー国民の思い込みと財政悪化

 日露戦争は戦争として見た場合、日本軍の勝利だったかもしれないが、賠償を取れなかったことから財政的には負け戦と言えた*6

 日露戦争の戦費により、戦前では約5億円だった政府の国内外の債務合計は戦後は20億円を超え、利払いだけで1億円を超えた。しかも、ロシアの脅威が継続したから軍事費を削減するわけにもいかなかった。明治39年度に1億2975万円に膨張した軍事費は、その後おおむね2億円で推移して、総額6億円規模の予算を圧迫した。予算の3分の1が軍事予算ということですね。ちなみに、2020年度の日本の軍事費が予算に占める割合は約5%です*7。負担がとても重いことがわかりますね。

 また、開戦前の明治38年度の一般会計歳出に占める国債費の割合は11.6%だったのに対し、開戦後の翌年は32.6%まで上昇しました。この割合はどこかで見たことがありますね?前回のblogで書いた、西南の役による戦費のため公債費が30%台まではねあがりました。松方財政時代レベルまで財政が悪化したことを意味します。

 一方で、日露戦争の勝利で国内の株式市場は活況でした。それは日清戦争の経験から賠償金を獲得することを予想してのことでした。しかし、賠償金がとれないなら講話反対の気運が盛り上がり、日比谷焼き打ち事件が起こります。我慢し、増税にも堪えたのに賠償金をもらえなかったことに市民は怒ったのでした。政府と国民の間では意識の乖離があったのです。

国民の負担

 日露戦争の結果、財政規模は3億円から6億円まで膨らみました。6億円の内訳は軍事費が三割、国債費が2~3割だった。つまり、膨らんだ3億円のうち半分は戦争の借金、軍事費でした。

 松方財政時代の公債割合となったため、戦後は厳しい緊縮路線になります。緊縮路線は第一次世界大戦で好況になるまで続きます。10年くらい厳しい状況が続きます。

 歳出規模が3億円から6億円と倍増したが、その間に国民所得は二割しか増加していなかったため、日露戦争を挟んで租税負担が倍増したことにほかならなかったそうだ*8。そういったなかで、戦争が終わればなくなるはずだった戦時特別税が継続され、しかも経済が不況に突入し、国民の不満は高まっていった。

 日露戦争の負担は国民にのしかかったのである。

満州の位置づけ

 日露戦争後、満州全域を占領していたロシアは、満州内ではウラジオストクに至る東清鉄道の支線の南半分、長春から旅順に至る区間(のちの満鉄)を日本に譲渡した。

 ロシアは大正5(1916)年にはシベリア鉄道アムール川北岸ルートを完成し、軍事輸送力を日露戦争時に比べて倍増させ、満州への勢力伸長を一層強めた。

 ここでアメリカについて知っておこう。ポーツマス講話条約を締結する直前の明治38年7月に米国タフト陸軍長官が来日し、桂首相と対談し桂・タフト覚書を締結している。日本は米国のフィリピン領有を、米国は日本の韓国保護国化を支持するという内容だった。

 米国の満州の見方は、仮に日露戦争でロシアが勝利した場合は満州はロシア領になったのかもしれないが、日露戦争で日本が勝利した結果、ロシアの占有地域が「門戸解放」地域になったと解釈した*9アメリカと日本では満州の評価が異なっていたことには注意が必要だ。

 しかも、日本が講和条約で獲得した東清鉄道支線に対して米国の鉄道王ハリマンは共同経営を提案した。もともとこの路線はロシアが旅順港への連絡線として採算度外視して作られた路線であった。この共同提案を桂首相は承諾した。しかし、ポーツマス講話条約締結してようやく帰国した小村寿太郎外相が協力に反対によって反古にした。小村寿太郎は賠償金がとれず日比谷焼き打ち事件まで起きている状況で、勝利のシンボルの東清鉄道に米国資本が参加することで国民感情がさらに悪化することを恐れたようだ。

 約束を反古にされたハリマンは「日米両国は十年出でずして旗鼓相見ゆるに至るだろう」[46]と述べている。

 アメリカの満州への評価は日本とは異なっていた。満洲についてはアメリカ派門戸開放地とみなしていたが、日本は日本のための緩衝地とみなしていた。

 もしここで共同出資に応じていたら歴史は変わっていた可能性がある。一方で、国民の不満が爆発しているときにこの要求を飲むことができないのも理解できる。

 

 

今日はここまで。

まだまだ先は長いぞ。。。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1905年 日露戦争

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

【注記】

 

*1:尾崎行雄が国会で国力差が大きく異なるため「勝てるわけはない」と答弁している。32ページ

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

*2:31ページ

*3:34

*4:当時は金本位制をとっていたので、金貨になりますが、ややこしいので外貨ということで話をします。金本位制については、ややこしいのでまたべつのblogで書きたいと思います。詳細を知りたい方はこちらの本をオススメします。

「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか (中公文庫)

 

*5:

ja.m.wikipedia.org

*6:38

*7:

www.jiji.com

*8:41

*9:46

なぜ日本は戦争を選択したのか(1)日清戦争までーーー松元崇の財政分析から学ぶ

日本はなぜ戦争を選択したのか。

 

 一般的なイメージでは、第一次世界戦後の世界的不況のなか、日本も窮乏し、経済的に追い込まれて満州に進出(侵略)、これが世界的に批判されて経済封鎖され、日本は追い込まれて太平洋戦争に突入した、というのが定説かもしれない。

 この定説に対し、日本は当時、好景気で経済状況がよかったのにも関わらず、軍が経済原理を理解していなかったため日本を窮乏化させた、と経済・金融分析、財政分析を通して指摘した人が松元崇だ。日本は「持たざる国」ではなく、軍の経済音痴が「持たざる国」にさせていったことを分析している。この指摘は重要だろう。世界列強の「せい」ではなく、日本の経済政策の失点で「持たざる」国になったとするならば、どのような失策を犯したのか理解しなければ同じことを繰り返すだろう。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 松元崇氏は大蔵省主税局出身だ。国家予算を作成する立場にだった人物で、だからこそ戦前の予算編成を歴史的に分析し、いかに軍が財政バランスを崩して、戦争だけなく経済的にも破綻したのかを鮮やかに描く。戦争と財政は不可分だ。松元崇の本を読むまでまったく知らなかったことが次々明らかにされていく。自分なりにかいつまんでまとめていきたい。

明治政府は借金漬け 

 満州事変に至るまでの財政をかいつまんでまとめていきたい*1 。日本史の教科書には書かれていないので知らなかったのですが、明治維新政府は借金漬けで厳しい財政運営だったそうだ。明治政府は「借金漬け」ということは頭に入れておいて欲しい。明治維新政府は地租改正で租税による財政基盤を固めましたが、借金漬けでインフレの嵐。明治7年に松方正義酒類税、醤油税など9つの国税と13の専売特許税が新設して財政を固めていきました。

秩禄処分西南戦争ーーー武士の大リストラと軍縮、インフレ

 軍隊と戦争という点に注目して書いておくと、教科書で習う「秩禄処分」とは軍事専門家の武士の家禄の廃止であり、武家社会を清算する壮大なリストラで大軍縮だったいえる。これが壮大な軍縮だと言えるのは、日清戦争までの陸軍は「平時5万人、戦時20万人」だったのに対し、武士は40万人いた。明治政府は小さな軍隊にしたことがわかるだろう。

 大リストラによって元武士の不満が高まり、西南戦争が起こる。戦費は当時の国家予算に匹敵する4157万円に上った。西南戦争の前の明治9年の財政に占める国債費の割合は8.4%だったが、明治10年には34.6%に跳ね上がっている*2。詳細ははしょるが*3借金して戦争してインフレを招いた。

 インフレで国債金利も急騰、明治政府を悩ませた。教科書でも有名な松方デフレは、インフレを抑えるためにゼロ・シーリング予算を実行したことによる。む、むずかしい。ついてこれているだろうか*4

日清戦争

 明治9年秩禄処分で40万人の武士のリストラを行った当時の日本には海外で作戦を実行できる兵力も海軍力ももっていなかった。明治政府は「富国強兵」をうたっていたので軍国主義国家のイメージがあるが、実態としては小さな軍隊であり富国でも強兵でもなかった。

 厳しい予算編成を行う松方財政だったが、「財政規律」を守りながら対清国軍備拡充と鉄道建設に予算を割いた。

 明治16年度には壬午事変(日本公使館が襲撃され日清両国が出兵)を受けて、酒税、たばこ税を増税して清国軍備拡充した。これにより、海軍は初めて建艦計画を策定した。しかし、予算の三ヵ年の据置きで対応することになり、結局、松方デフレから脱却した明治19年に海軍公債条例が制定され、建艦費は公募公債で調達した。

 そんなギリギリのなかで日清戦争に勝利したのです。日本が強いというよりも、清が弱体化していたんですね。西太后が海軍予算を庭作りに流用しなければ、日本は負けていたかも!?

 

 

 

だめだ。日清戦争までしか書けなかった。

ざっくり書いていてもこりゃ大変だ。

続きは次回。

 

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1905年 日露戦争

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

【注記】

*1:松元崇

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)を参照。明治維新政府から財政分析しています。この本は高橋是清の自伝でなく、明治政府以降の財政分析の本として読むべきでしょう

*2:69ページ表3ー1西南戦争前後の国家予算と国債費の推移

*3:詳しくは62-64

*4:詳しくは本を読んでほしい。

『学校を変える いじめの科学』を読む

 

 先に『友だちをいじめる子どもの心がわかる本 (こころライブラリーイラスト版)』を読んでモヤモヤしたんですよね。いじめっこの気持ちがわかったとしても、じゃぁどうすればいいの?ってところが、保護者同士連携しようと言われてもって感じで。親がイジメに気づいた段階で相当に深刻な状態だろうし、小学校ならまだしも高校で保護者同士が連絡をとりあうとか無理ゲーだろう。

 

 と思っていたところで、この本に出会いました。こちらは対策を分かりやすく書いてあってためになりました。

学校を変える いじめの科学

 

 

イジメの定義

 イジメとは①相手に被害を与える行為、②反復性、③力の不均衡、④不平等な影響*1により構成される。

①は誰でもわかると思うので省略するが、②は一定期間繰り返し行われることだ。とはいえ、被害度が強ければ一回の加害行為でもイジメと見なされる。

 ③は加害者は被害者より肉体的、精神的、知的、経済的、情報力に強いことが多い。力の不均衡そのものはなくすことはできないが、力の不均衡を前提に加害行為をおこなうことは許されない。

 ④は被害者と加害者が受ける影響には不公平が存在する。被害者は大きな影響を受けるが、加害者は加害行為への罪の意識が希薄で影響が小さい。逆をいえば、罪の意識が強まれば後悔するだろう。

アンバランス・パワーとシンキング・エラー

 イジメを深刻化させるときは加害者の「アンバランス・パワー」と「シンキング・エラー」が発生しているということを「みんな」で共有することが必要だ。

 力の不均衡と不平等な影響をアンバランス・パワーと呼ぶ。イジメとイジリの境界線を考えるときにこの視点が重要なのだそうだ。例えば、生徒Aが生徒Bをイジリ、Bが言い返していたら力関係は対等なのでイジメではない。しかし、Bが言い返せず、かつ繰り返しいじられていたらイジメだと見なすことができる。

 加害者のシンキング・エラーとは「あれは遊びだった」「このくらいしてもいいと思った」、先輩や教師など目上の者の場合は「自分にはそういうことをしてよい権限がある」「これは指導なのだ」という考えである。これは「間違った考え方(=シンキング・エラー)」だと「みんな」が共有する必要がある。

 アンバランス・パワーを背景に「あそびだから」とシンキングエラーをおこして加害行為を繰り返しおこなうとき、それはイジメと判断できる。

 また、イジメを無くそうとするときはアンバランス・パワーかシンキング・エラーのどちらかを崩すことで、状況が改善することができる。

イジメは個人ではなく包括的に対応する

 イジメ対策は「個人」で対応しても限界がある。被害者、被害者の保護者、担任の個人だけで対応しても解決しない。まずは「包括的」な対応をしなければ解決しない。例えば、被害者が担任相談して、担任もイジメに対応しようとしても、担任の上司(主任や教頭、校長)が「そんなのはイジメのうちにはいらない」という認識であれば、イジメが矮小化され、問題は解決しない。事態は深刻化する。

イジメ対策をデザインする

 著者は公衆衛生学の予防モデルを踏まえて三段階のイジメ予防モデルを提唱している。

 

・一次予防 すべてのこども対象にした啓発的、予防的取り組み

・二次予防 いじめかもしれない出来事に対応する初期対応

・三次予防 生じてしまったいじめへの介入支援

 

 当然のことながら、イジメは予防が一番重要で、三次まで深刻化すると被害者だけでなく、加害者、傍観者、学校、保護者含めてダメージを受ける。予防、初期消化が重要だ。

いじめ予防プログラムTriple-Change

 イジメは予防が大切だ。海外では予防プログラムが開発され、学校現場で適応されている。日本では子どもの発達研究所が「いじめ予防プログラムTriple-Change」を開発した。適応している学校もある。

kodomolove.org

 予防プログラムは、カリキュラム、教科書、教員研修の3点セットが用意されており、「考え方の変化」「行動の変化」「集団の変化」の三つの変化を狙っている。子供だけでなく教職員にも変化を促し、包括的にイジメ対策を行う。 

 詳しくはプログラムを見てほしいが、参考までにイジメにあったおきの行動について書いておこう。

イジメにあったときの行動

■行動を起こす前に

・まず、自分はひとりぼっちでないことに気づく

・いじめは加害者側の問題で、自分に落ち度があるわけではないと知る

■4つの基本的な行動

①誰かにこのことを言う(助けを求める)

②加害者にいじめをやめてほしいと伝える

③加害者の行動を無視し、その場から離れる

④自信のある態度をとる(そのほうがイジメが続きにくい)*2

 

傍観者のとるべき行動。

 基本的に傍観者はイジメ行動をよくないと思っていても、実際には何もいわず、行動しない。でも実は他の傍観者も嫌だなと思っている。傍観者がいじめをやめるように加害者に言うと、即座にいじめ行動がストップする可能性が高いこともわかっている*3

①「やめて」とはっきり言う

  被害者はやめてと言えない。第三者が言うことで止まることがある。

②その場から離れさせる、その場を避けるようにさせる

③助けを求める

④被害者に問題がないことを確認する

⑤受け流す

 加害者は被害者の反応を楽しむ傾向がある。傍観者が両者の間に入り、被害者が大き   

 く反応せず受け流せるようにする。

⑥ユーモアを使う

 雰囲気を和らげて深刻化を防ぐ。

 

そのほかとして、いじめが起こらない集団作り、いじめのないクラスを作るためのガイドラインを作成するなどある。また、保護者支援の形成など。

学校風土を改善する

 環境が行動に影響する。海外では学校風土を測定し、改善策を提案しているという。学校風土とは「教師と児童生徒の学校生活での経験パターンからくるもので、学校の決まり、目標、価値観、人間関係、授業実践、組織体などを反映したもの」*4だそうだ。

 学校風土へのアプローチは、いじめの予防だけでなく、すべての子供の問題の予防、学力向上に有効だという。日本も海外のように学校風土を計測し、学校風土を改善していくサイクルを作ることを提案している。

まとめ

 いじめは予防が大切だ。個人ではなく包括的に取り組まなければ改善しない。ハードなイジメに対処療法的に問題解決をはかっても一時しのぎにしかならない。

 身近なところで特段なにかあったわけではないが、「予防」を意識して機会があれば学校に働きかけていきたい。その具体的な手法を学ぶことができたのが大きな成果だ。

 今回は書かなかったが、いじめ重大事態案件の対応方法についても記載しているので興味がある方は読んでみるとよいだろう。

 

*1:同書28-31;ボンズの定義を引用

*2:148ページ

*3:154ページ

*4:174ページ:National School Climate Council

餓死した象にも慰霊碑があるのにーーー戦争孤児のリアルな実態

 戦争孤児といえば「火垂るの墓」が思い浮かぶ。火垂るの墓では、神戸大空襲で親を失った戦災孤児の話だ。「個人的」な物語というイメージが強い。しかし、戦争孤児である金田茉莉の著作を読んで、戦災孤児とは政府の失策から生まれた「組織的」なものだということがわかりました。

 戦争孤児の本は関西の記録のものは読んだことがあるのですが、東京大空襲の戦争孤児について詳細を知ったのはこの本が初めてです*1。マンガや映画などで終戦後を描いたものには戦災孤児が表現されることが多いので、戦災孤児の存在自体は知ってました。しかし、その実態をまったく理解していませんでした。しかも、東京大空襲戦災孤児を結びつけて深く考えたことがありませんでした。なぜ東京の戦災孤児はこんなに語られてこなかったのか。。。この本を読み進めていくとわかってきます。

 

かくされてきた戦争孤児

 

集団疎開

 戦火が激しくなった1944年6月に集団疎開閣議決定され、文部省が推進しました。小学3年生から6年生、9歳から12歳までの児童が親元を離れて地方へ疎開しました。全国で縁故(親戚宅への疎開)、集団疎開の合計100万人のうち東京は約50万人(縁故26万人、集団疎開24万人)でした。

 著者は集団疎開を前期、後期に分けています。前期は1944年8月から1945年3月までの7ヶ月間、後期は3月の東京大空襲から終戦を挟み、疎開終了の10月までの7ヶ月間の合計1年4ヶ月間でした。空襲後の疎開で東京から児童が消えました。

 児童の集団疎開の半分は東京の子供達でした。疎開していたからこそ子供達は空襲を逃れて生き残るわけです。それが戦争孤児となります。著者は浅草出身ですが、あのあたりは焼け野原地域であり、一家全滅が多い地域です。つまり、疎開していなければ戦争孤児の大半はそこで死んでいたでしょう。

 戦争孤児は生き残りました。でも、そこから今でも語ることができないくらい辛い体験をします。

戦災孤児

 まず数値の確認をすると、1946年には国会で「戦争孤児は3000人」と答弁していましたが、1948年に行われた「全国孤児一斉調査」では12万3511人いました。この孤児数のなかには養子にだされた子供は含まれていません*2。実態の総数はもっと多い数です。

 年齢別で見ると、8割の約10万人が小学生時代に孤児になっています*3。小学生時代の孤児が突出しているのは、学童疎開の結果です。これだけの子供の命が「助かった」とも言えます。

 では孤児はどこへ預けられたのでしょうか。孤児施設の入居者は1万2000人と1割に過ぎません。孤児施設の大半は公営ではなく、民間の篤志家が作った施設でした。それ以外の子供は親戚に預けられました。自立して生きる子供もいたそうです。ここでいう「自立」は浮浪児も含まれるでしょう。

集団疎開先で一家全滅を知る子供達

 子供たちは親から離れて疎開します。3月10日まで頻繁に来ていた親からの手紙がぴたりと来なくなります。情報統制しているので東京が大空襲にあったことはニュースにはなりません。先生たちは東京に出向き、生徒の家族の生存を確認する作業に追われます。疎開先に戻り、一人ずつ現実を伝えます。東京の空襲の状況を見ることもなく、報道されないので凄惨な状況の写真も見ることもなく、空襲で一家全滅したことが伝えられます。疎開先で突如、一人になった子供達。遺体さえ見ることなく、遺骨もなく、葬式もない。親が亡くなったことが信じられず孤児になっても親を探しつづける子供も多かったそうだ。

 著者の茉莉さんは、親と会うため卒業した6年生と一緒に東京にむかいました。その前日に大空襲がありました。茉莉さんは空襲直後の焼け野原を見ています。自宅も全焼、母親や姉、妹たちは見つからず、親戚の家に身を寄せます。1945年6月頃に母親と姉の遺体が隅田川で見つかり遺骨を引き取り、お墓に納骨できました。しかし、妹の遺骨は今でも見つかりません。

 疎開していた小学3年生が大空襲の現場を見ることは稀でした。焼け野原になった姿を見た茉莉さんは親の死を実感できましたが、疎開していた大半の子供は、突然、一家全滅の知らせを受けます。親が死んだことを受け止めきれないのは当然ではないでしょうか。

 また、小学六年生は帰るタイミングによって空襲に巻き込まれて死んだ子供も多かったのです。空襲で生き残ったとしても、この時の記憶はトラウマとなってその後の人生を苦しめます*4。空襲を見た子供も、見なかった子供も孤児となり、それぞれの絶望を抱えて生きていくことになります。

戦争孤児の行く先ーーー親戚宅や養子先へ、地獄の始まり

 大半の戦争孤児は親戚に預けられることになります。が、戦争末期、終戦後の食糧難、物資難で酷い扱いを受けます。朝から晩まで働かせられる、学校はほとんどいけない、実子と差別的扱いを受け、実子(いとこ)からいじめられます。義務教育すら満足に受けられませんでした。

 過酷な親戚宅から逃げ出す子供も多かったが、その先は更に悲惨です。親戚宅を飛び出ると自分の身元保証人はいないのでロクな仕事がありません。家すら借りられないので住み込みで低給のハードな仕事しかありません。中学もろくに行けていないので学歴もなく資格も取れません。職を転々として生きていくことになります。孤児であることが知られると差別されるので、孤児であることも語れません。

 親戚がいない孤児は、養子にだされました。疎開先の農村は、働き手が戦争にとられて慢性的な人手不足でした。疎開の児童を管理しているのは校長です。校長に養子を申入れる農家は多かったそうだ。健康で頑強な男児、見た目のかわいい女児*5の養子の申し込みが多かった。そして、養子斡旋*6するわけだが、その後の児童の行方は悲惨である。労働力としての養子であるので学校には行けず、働きづくめの毎日でまるで奴隷のようだったそうだ。いうことをきかなければ当然のように虐待された。そのため養家から家出する子供は多かった。家出後の子供達の大変さは親戚宅を家出した子供達と同じ苦労をたどる。

 終戦直後よりも、数年後に東京で浮浪児が増えるのは親戚や養家から家出した子供達が、親を探すために昔住んでいた東京に戻ってきたからではないか、と著者は推測しています。

 この浮浪児が戦後に問題になり、「刈り込み」し、「収容」されます。裸にされ檻に入れられ、逆らうと暴行を受けます。

 政府が児童を集団疎開させたのは、将来兵隊になる子供たちを守るためでしたが、実際に空襲を逃れ、多くの命が助かりました。しかし、親を失った子供の養育の責任を政府はとりませんでした。親戚におしつけ、人身売買のように養子にだすことを認めています。助けられた子供達の命を虫けらのように扱いました。子供達は餓死や凍死するだけなく、自殺する子も多かった。せっかく助かった命なのに、政府と世間は子供を自殺させるまで追い込みました。

戦争孤児の受難ーーー親族や世間から見放され、孤児を隠して生きる

 親戚の家では「穀潰し」と言われ、家出して浮浪児になると「人間のクズ」「非行少年」と言われ蔑まれました。そのため、孤児であることを隠して生きていくしかなかった。

 これが、逆に戦争被害の補償をうけられない原因の一つになります。そもそも小学生時代に親がなくなり、教育も受けられなかった子供達が、仲間を組織して自分たちの要求を政府に求めるなんてできるはずもありません。

 大人になっても孤児であることを隠し、必死に働いてきました。ようやく余裕がでてきたのは50代になってから。著者は夫にも孤児であることを隠して結婚しましたが、50代で自伝を出版すると、同じ境遇の人々からの反応がありました。そこで少しずつ輪が広がりました。戦争孤児の記憶を残していきたい。聞き取りしたり、様々な調査を続けて来たのです。

 著者は言います。「軍人は恩給をもらえるのに、軍人の遺族にも補償があるのに、孤児には乾パン一つも与えなかった」と。戦争孤児の大勢が餓死、凍死したのに東京には子供の供養碑すらありません。著者は、戦争で餓死した象には慰霊碑があり、毎年供養されるのに、戦争で親を亡くし、餓死、凍死した子供達の慰霊碑がないことを切々と語ります。 

 

 日本はなんて冷たい社会なのでしょうか。空襲死で一家全滅した人たちの慰霊碑も、孤児となり餓死、凍死、自殺した子供達の慰霊碑もない。。。軍人には慰霊碑があり、供養され、補償もあるのに。。。大切なものを76年前に置いてきてしまっている。語り継がれることさえない。

 終戦の日に、戦争孤児のことを思い浮かべる日本になってほしい。

 

 空襲被害者援護法の法案。ニュースでたまに見聞きするが、そんな遠い話、何をいまさらと思っていました。でも、これまで一切、補償のなかった戦争孤児に、社会は配慮してほしい。戦争孤児という存在を忘れないためにも、何らかの形で償ってほしい。法案が成立することを切に願います。

空襲被害者等援護法(仮称)と沖縄民間戦争被害者に対する特別補償法(仮称)の制定に関する請願:請願の要旨:参議院

 

 

 ■本の案内

児童書ですが、各地の戦争孤児扱ったシリーズです。全5巻。

 

戦災孤児―駅の子たちの戦後史 (シリーズ戦争孤児)

 

■注記

*1:石井光太の本は読んでいたのですが、戦争孤児の全体像はわかりませんでした。この本は男児の話がメインで女児の話はなかったのです。戦争孤児のリアルな話を聞き出せてなかったことが、金田茉莉さんの本を読んで分かりました。孤児時代の話は人にはうまく話せないものなのです。金田さんは自分が戦争孤児で相手の気持ちがわかるから、話を引き出すことができるんですよね。

浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―(新潮文庫)

*2:同上272

*3:同上285-286

*4:焼き魚をみると空襲を思い出すので食べられない、東日本大震災津波にさらわれて何もなくなった土地をみると焼け野原を思い出すのでニュースを見られないなど様々なトラウマがあります。

*5:女中として使うための養子。それ以外にも売春宿で働かせるために。校長や教師があとから知って取り戻すこともあったとか。

*6:養子斡旋で金銭の受け渡しもあったようで、子供の人身売買に近かった。

もうひとつの声(2)2ーーーーカウンターカルチャー、自分探し、完全自殺マニュアルの登場

 

 このblogで書き落としたもうひとつの側面についても触れておきたいと思います。それは「自分探し」の系譜です。

kyoyamayuko.hatenablog.com

f:id:kyoyamayuko:20210718105745p:plain

写真アフロ

 この手の流れについて正史があるのかもしれませんが、その手の本を読んでいないので私の印象で思いついたものを書き連ねていきます。

 確固たる社会ではない何か、というときの確固たる社会とは「封建制度社会」いわゆる昔ながらの共同体(江戸時代から続く風土)と「資本主義社会」があるでしょう。封建制に対抗的なものが資本主義社会、民主主義社会なわけですが、ここでは資本主義社会を前提に話をしよう。

 資本主義社会を「乗り越える」と見られていた社会制度が「共産主義社会」でした。学生運動マルクス主義を前提に活動をしています。また、資本主義社会に「抵抗する」運動がアメリカで生まれた「カウンターカルチャー」です。

 共産主義が資本主義社会を国家体制から乗り越えていくものだとするならば、カウンターカルチャーは資本主義社会のメイン文化に抵抗するサブカルチャーです。メインを塗り変えていくものではないが、サブはサブで機能させる。社会を多様化させるための抵抗といってよいかもしれません。世界的に学生運動が主流だった1960年代後半、アメリカはカウンターカルチャーが隆盛します。ヒッピーなどが有名でしょう。

 日本では学生運動共産主義運動だけでなく、カウンターカルチャーの文化も入ってきます。コミューンはこれらが混ざり合った文化でもありました。自由を求めて共同生活を行う。1977年に出版された見田宗介の『気流の鳴る音』*1マルクス主義でもなく、単なる抵抗運動ではない「もう一つの文明のあり方」を示した思想書として話題となりました*2

 

 さて、日本の流れを単純化して追ってみたい。学生運動は盛り上がったが、先鋭化して自滅していきました。一部の人間は見田宗介の思想に感銘を受けたり、宗教にからめとられたりしました。宗教だと70年代以降はヤマギシ、80年代だとオウム真理教などです。とはいえ、普通の人はどちらにも向かいませんでした。

 80年代の新人類はフリーターになり、「自分探し」が流行ります。自分「探し」は、具体的には「旅」をします。国内や海外をバックパッカーで旅をする。特に自分探しといえば海外のバックパッカーで、異なる文化に出会うことで自分(=日本社会)や生き方の価値観を相対化しようとします。「自分の本当にやりたいことはなんだろうか」。これが80年代の切実な問いでした。

 尚、先のblogにも書きましたが、当時は「新卒一括採用・年功序列・終身雇用制」が確立し、就職すると定年するまでやることが決まっていました。80年代は「24時間働けますか?」の躁的な社会でした。だからこそ切実な「自分探し」の旅でした。

 ここでのポイントはマルクス主義の有効性が消えて学生運動が下火になり、主義ではなく自分そのものがむきだしになったということでしょう。○○主義に委ねた明るい未来はない。頼れる主義が無くなって初めて「自分」が浮き彫りになったのです。

 私のやりたいことはなんなのだろうという漠然とした不安。社会の歯車として、社会の部品として働く人生に意味があるのだろうか。そうではない生き方をする私に対して社会には居場所があるのだろうか。

 しかし、バブル崩壊。躁的な状態を名残り惜しむなか1993年に出版されたのが『完全自殺マニュアル』でした。80年代バブル期はデートマニュアル、ファッションマニュアルなどマニュアルのカタログ本が流行しました。その流れで自殺のカタログ本が登場したのです。これがミリオンセラーとなる大ヒット。大人たちは、社会はこぞってこの本を批判しましたが、若者にウケたのです。

 この本のポイントは「辛くなったら社会から降りちゃえばいい」というメッセージでした。社会から降りる方法、究極のエグジット、死ぬ方法をまとめた本でした。この本がウケたのは「あ!死ぬというのもアリだな」と共鳴したからでしょう。

 著者の鶴見済(1964生まれ)は、東大出身で大手電気メーカーに勤務したが、職場の濃密な人間関係が辛く、社会の部品として働く未来に絶望して退社してこの本を書き上げました。鶴見は現在も生きていて(自殺してませんよ!)、社会から降りる方法、資本主義社会をハックする方法などの著作を展開し、実践しています*3

 

 まとめると、大きな主義が無くなってむきだしの「自分」が現れた。自分探しをするために海外へ放浪する人たちが現れた。社会に違和感があるから自分探しをするわけだが、究極の社会への出口として『完全自殺マニュアル』が若者の共感を得た。死ぬという出口。この倦怠感は、木澤佐登志の闇の自己啓発が継承しているだろう*4

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 もうひとつ、自分探しの旅について、実は「外こもり」だったのではないかとぼっそっと池井田は語っています。彼は当時まさに、自分探しの旅にでた人だった。そして現在はひきこもりだ。

 「ひきこもり」という言葉がなかった時代だからこそ旅にでるしかなかった。バブル期は人手が足りない時代であり、「働く場所がないから家にいる」という選択肢はなかった*5。ひきこもりは、景気悪化して労働の場が実際に無くなり、大量のひきこもりが発生して社会問題となった。そうなって初めて実は80年代からひきこもりがいたことが判明する。池井戸はひきこもれなかった人たちは「自分探しの旅」をしていたのではないか、「外こもり」をしていたのではないかと推測する。

世界のひきこもり 地下茎コスモポリタニズムの出現

 

 社会に居場所がない人たちの思想は、現在、闇の自己啓発やひきこもりが継承してるといってよいだろう。彼らの声は80年代から響き、繋がっている。

 

 

*1:

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

*2:話題になるだけでなく、自由を求める人々の活動指針になる書として今でも読み継がれています

*3:

人格改造マニュアル

脱資本主義宣言―グローバル経済が蝕む暮らし―

0円で生きる―小さくても豊かな経済の作り方―

*4:自殺について語っているわけではないが、生きるている閉塞感について存分に語り、社会へのエグジットを探している。ネタかもしれないが薬も大好きなようだし。

*5:但し、著者は家族関係、とくに母親との関係が悪いので家にいられなかったのだが

もうひとつの声(4)ーーー今を生きる仙人・大原扁理、高原の世界のバイブル

このシリーズはひとまず終えたつもりだったんです。

 でも『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』で紹介されていた大原扁理の本を読んでみたんです。タイトルは知っていたんです。いまどき流行りの低年収でいかにやりくりするかという本かと思っていました。もうちろんそういう面もあるのですが、それを超えるものがあって感銘しました。彼は現代の仙人ですね。

 

『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』については下記のblogで書きました。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 大原扁理の本のタイトルを見ると、節約本のように見えます。が、そのように読むと読み間違えてしまう面があるでしょう。この年収になったのは「結果」であって、それを「目標」にしたわけではないという点が重要です。

 こちらの本では大原さんの人生の経緯について書かれています。

年収90万円で東京ハッピーライフ

 こちらの本も労働と金の話として読むと読み間違えます。この資本主義社会で生きていく上ではお金とは無縁ではいられません。とはいえ、お金にふり回れて生きていくことは苦しみを生みます。自分が気持ち良く暮らすために、自分にとって必要なものを見極め、最低限かかる経費を確保したらあとは自由に生きる。自由に生きてみると様々な縛りから解放されていくことに気づく。

 

なるべく働きたくない人のためのお金の話

 

 彼は清貧や低年収を目指しているのではありません。自分サイズのハッピーを追求してみたら結果として今の生活になったのです。決して節約主義ではないのです。読んでいても、節約主義やミニマリズムの苦しさを感じませんでした。また、意識の高い清貧思想や環境思想ではありませんでした。目的を手段にしない、手段に捉われない柔軟な姿勢が好感をもてます。

 

 下記のタイトルのblogで見田宗介の思想に触れました。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 見田は近代について

「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110 

 とまとめています。未来の「目的」のため現在は「手段」となる時間意識です。

 また、人間の歴史とロジスティックス曲線を重ねて三つの局面について解説しています。近代は坂の上の雲を求めるように目的ある未来のため駆け上がる時間でした。しかし、近代化が一段落すると、坂を駆け登りたどり着いたのは高原でした*1。高原に着くと「目的」は無くなります。手段のはずの現在も浮いてしまいます。この二重の疎外がリアリティの喪失の根本原因であり、虚しさの原因でした。

 見田宗介の思想は説得力がありますが、じゃあ、いったいどうやって生きていけばよいのだろうか。自らを充足して生きること、今を尽きなく生きること、というのは言葉としてわかるんだけど具体的にはどうやればいいのか。

 この点について知りたくて、もうひとつの声シリーズでコミューンからpha、えらてん、山奥ニートまでまとめてみました。でも、共同生活は自分には合わない。phaも石井あらたも人間不信でだるそうだし、えらてんはテンションが高いし、グルを目指していそうなところが気になるし。

 と思っていたところで、大原扁理でした。見田宗介のいうところの「今を生きる」をまさに2010年代に実践している。これ以上に心強いことはないでしょう。見田の本の6章のタイトルは「高原の見晴らしを切り開くこと」ですが、大原扁理はまさに切り開いている。

 大原扁理の実践は、自分のハッピーを見極めて、自分に沿ってハッピーナイズして生活を実践することだ。できることから、少しずつ踏み出せるものだ。道は誰にも開かれている。大原扁理は特別な人ではない。普通の人だ。何か違うとするならば、常識や世間体に縛られず実践してみたことだろう。それをやるところがとっってもすごいんですけどね!

 高原を見晴らすためのバイブル。それが大原扁理の『なるべく働きたくない人のためのお金の話』だ*2

  生きるのが苦しい人は読んでみるといいと思う。私たちは本当はもっと自由なんだ。自分を縛っているのは常識だ。資本主義社会が要請する常識だ。生きる意味も目標もなくていい。それでも毎日が充たされる。そんな生き方がある。十牛図の最後の図のような世界があなた次第で選べる。勇気を与えてくれる本だった。

 

 

 

もうひとつの声シリーズをまとめたものがこちら。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

*1:駆け降りることもあります。人類滅亡です

*2:大原はお金を擬人化して考える癖がある。お金を人に例えることで、お金から解放される話が興味深い。貨幣とは取引関係の物象化したものであり、貨幣に支配され、人は疎外されていく。しかし、大原はお金を人格化することで、お金の気持ちを考え、お金との関係を考えることで疎外を乗り越えているといってよいだろう。これについては時間のあるときにもう少し深めて考えてみたい

『消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神』の感想

ワクワクするタイトルです。

新しい社会ってどうやって生まれてくるのだろうか。

ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神*1をもじったタイトルなのがわかります。

消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神 (筑摩選書)

 

 

 著者は2010年代にひろがったミニマリズム(最小限主義)の現象と消費社会論を絡めて、ミニマリズムが資本主義を超克する現象の表れなのではないかとまとめていきます。

 こんまりからゆるりまい、phaや大原扁理から欧米の流れ、最後は禅の流行などミニマリズムの現象を紹介し、資本主義の主要価値観(精神、エートス)を相対化する現象であることを示す。これらの現象を「ミニマリズム」という概念でくくることには感心しました。

 でも一方で、事例や理論の網羅的、羅列的な紹介にとどまるので何が核心なのかは結局わかりません。特に欧米のミニマリストの事例を見る限り、プロ倫のキリスト教的禁欲、行動的禁欲と何が異なるのか分かりません。

 

プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

 

 この本の大塚久雄の解説では、「禁欲」について下記のようにまとめています。長いけれど引用します。日本人がイメージする禁欲とキリスト教的禁欲の違いについて説明しています。

 

われわれ日本人は「禁欲」という語に出あうと、たいていはまず苦行僧などが絶食したり、自分の身体に苦痛を与えたりしながら、それによって何か非合理的な力を身につけようとする、そうしたことを思い出すでしょう。でなければ、自己の欲望をすべてを抑えて、積極的に何もしない、そうした非行動的な生活態度あるいは行動様式を想像するのではないでしょうか。

けれども、ウェーバーのこの論文にあらわれてくる「キリスト教的禁欲」は、絶対に、そういう意味あいのものではないのです。ウェーバーがこの「キリスト教的禁欲」を別の個所では「行動的禁欲」というふうに読んでいますが、このことがよく示しているように、われわれ日本人が想像しがちな非行動的な禁欲ではなく、たいへんな行動力を伴った生活態度あるいは行動様式なのです 400

あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまってーーだから禁欲ですーーそのエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む、こういう行動様式が行動的禁欲なのです。401

 

 欧米のミニマリズムの事例は、ミニマリズムという目標を達成するために行動的禁欲をしているように見えて、読んでいるとこっちが辛くなります。本人は資本主義の欲望から解放されてラクになったというのですが、私には新たな宗教に入っただけじゃないの?と思います。近代の魔力から抜き出せていないように見えます。

 近代から脱却する、資本主義から脱却するってコレじゃなくね?って気持ちが湧きます。著者がミニマリズムの事例をこれでもかってくらい羅列して紹介しているのですが活動のふりはばが広くて、何がコアなのかわかりません。私なりに考えるコアは、欧米にありがちな行動的禁欲ではなく、日本でありがちな清貧思想、節約主義ではない「なにか」なのではないのかなって思いました。

 もうひとつ、この本が手が届きそうで届かずもの足りないのは、資本主義とセットの近代の特徴のどこを中心に置いて分析するのか著者がはっきりした姿勢を示していないからです(羅列してよいものを採用はしているが)。

 下記のblogで書きましたが、見田宗介は近代の特徴をこのようにまとめています。

「近代」という時代の特質は人間の生のあらゆる領域における<合理化>の貫徹ということ、未来におかれた「目的」のために生を手段化するということ、現在の生をそれ自体として楽しむことを禁圧することにあった。110  

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 未来に目的を定め、現在を手段とする近代の時間意識そのものが、現在のリアリティから人間を疎外します。でも、坂の上を雲を目指す途上ならば、目標のある未来のために今を犠牲にして、手段として生きてもメリットがありました。目標を達成することを目指して努力することは苦しくても楽しいものであり、疎外されていたからなんだって感じでした。今が辛くてもよりよき未来があるじゃないか!

 でも、坂を駆け上がり、高原、平らな世界=将来に達成すべき目標が無い世界となったときに、未来の「目標」からも疎外される。今、われわれが苦しいのは現在からも未来からも二重に疎外されているからです。目標が無くなって手段としての「現在」も意味を失ってしまった。それが今を生きる人間の底からわきあがる虚しさの正体です。

 その虚しさの正体が何かを触れずに、ミニマリズムの事例を羅列されても、よく分からないのではないでしょうか。

 ミニマリズムのすべてとは言わないが、一部の実践は「今を生きる」試みです。未来に目標をもたずとも、今を充溢して楽しむ。それこそが脱資本主義の精神ではないでしょうか。禅の十牛図の世界です。でも、禅にこだわってそれを目標にして、今を手段化してしまえば、それは「行動的禁欲」に唾棄してしまいます。

 

 批判ばかり書いてしまいましたが、こういう本が出版されること自体、時代が変わったと感じます。これまでは坂道を駆け上がるための思想が基本だった。でも、これからは高原の、平らな、フラットな世界で今を充足する生き方の思想が求められてくるのだと思います。

 

 

ーーーーーー

 もうひとつの声シリーズは、この本と近いことを書こうとしたものです。この本を読んで学びがいろいろあったので自分のためにメモしておきます。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 まず、この本では徹底的に「個人」の行動を基本に書いていること。それに対して、私は集団、運動、コミュニティとして捉えて追っていました。「個人」を基準に現象を読み解くのはアリだなって思いました。

 もうひとつの声シリーズで取り上げた活動は、どのようになづけてよいのかわからなかった。わからないからこそ「もうひとつの声」という比喩になっているわけですが、この本のタイトルの「ミニマリズム」という用語を見て、なるほど!と思いました。

 一方で、ミニマリズムと呼ぶことで切り捨てられてしまうものもあるなと思いました。ゆるりまい的な部屋のものを最小限度にするという行為は、自然と最小限度になったというよりも、行動的禁欲の結果、ああなっているように見えます。こんまりの「ときめく」ものは残すというのならばわかるんだけど、ゆるりまいまでいくと禅の修行僧のように見えます。ゆるりまいですら苦しく感じるのに、欧米のミニマリズムはさら行動的禁欲って感じで、正直いってプロテスタントと変わらない感じがするんですよね。キリスト教の神が「掃除の神様」に替わっただけなのでは?という思いが残ります。求道的なのが苦手です。無為自然。今を愉しく生きるなら、求道的な姿勢より無為自然なんじゃないかなぁ。

 

*1:折原浩訳って出ていないんですかね?ロートルな私が所有しているのは大塚久雄訳です(笑)。

プロテスタンティズムの 倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

まったく関係ないのですが、このタイトルで検索かけたらプロテスタンティズムの倫理と資本主義の《精神》そうじ資本主義 日本企業の倫理とトイレ掃除の精神という本がありました。プロ倫のバーター本は多いのかなw?