kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

【完】なぜ日本は戦争を選択したのか(18)「持たざる」国への道②華北分離工作、円元パー政策で外貨流出、日米通商条約の破棄ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(17)では、満州国の開発が本国の犠牲の上に成り立っていたことをまとめた。満州国華北支配によって日本は国内の資本、労働力、そして正貨=外貨が流出して「持たざる」国へ自ら陥っていくのである。

 今回は、円元パー政策によっていかに中国へ正貨が流出していったのかをまとめる。

 

 

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 松元崇さんの本の第4章を中心にまとめていきます。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

当時の日米関係

※前回と重複しますが流れをわかりやすくするために残しました。

 盧構橋事件当時の政府(近衛内閣)は、対英米強調路線だった。対英米貿易依存度は輸入で50ー60%、輸出で30ー50%だったこと、特にアメリカのシェアは輸出で38.8%、輸入で31.4%あり、経済合理性に基づいた当然の判断であった*1

 南京陥落前日に、揚子江の米国砲艦パネー号を日本軍が誤爆、撃沈したが、政府と軍部は責任を認めて米国に謝罪した。米国もそれを認めて大きく取り沙汰されていない。そのときの斎藤博駐米大使はすぐに全米中継の放送で謝罪し、米国もそれを多とし、昭和14年に斎藤が米国で亡くなると、その遺骸を最新鋭の巡洋艦アストリアで日本に五臓している*2。このような日米関係だったのだ。

 近衛内閣の蔵相は池田成彬であり、三井財閥の大番頭から日銀総裁を経て大蔵大臣に就任した人物である。筋金入りの合理的な資本主義者であった。

 池田は①日中戦の早期収拾、②対ソ戦に備えた戦時体制の整備、③対英米路線の維持継続を打ち出した。対英米強調路線の具体的な内容としては、華北における軍部主導の円ブロック形成政策の放棄、スターリング・ブロック向けの輸出拡大による外貨獲得に加えて米国資本の導入による満州地域の日米共同経営といったものであった。 当時、軍部の反対はあったが、大陸経営は日本の資本だけでは無理で英米の資本導入が必要と考えられていた。米国も、華北・華中を含めた中国全土という観点では中国経済の将来性を高く評価していたことから、池田蔵相の路線を基本的には受け入れるという姿勢だったという*3

 

華北分離工作ーーー華北開発は内閣の管轄下に

 満州を共同開発しようという動きに対して、 軍部は対ソ戦を意識していており、単独開発にこだわっていた。軍部は、満州投資に消極的な既存財閥を「企業資本家というものは非常に卑怯だ」として敵視し、日産コンツェルンなどの新興財閥と結んで日本単独の「満蒙ブロック経済化」を進めていった。

 華北分離工作とは、1935年ころから始まった満州に隣接する華北地方を中国から分離させる政策のことで*4、軍部が対ソ戦に備えて華北に重化学工業の資源を求めるとともに、関東軍機械化舞台のモンゴル国境への派遣の安全を確保しようとして推し進めたものである*5

 

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満州国華北5州 『図説・日中戦争

※出典:華北分離工作

 

 昭和10年6月にはチャハル省から中国軍を追い払い(土肥原。秦徳純競艇)、同年11月には冀東防共自治政府を擁立した。そして、開始されたのが、低率関税(査検料)の下での密貿易(冀東特殊貿易*6)であった。それは、日本製品が国民政府の定めた関税を免れて冀東地域から華北市場に流入することであり、それによって被害を被る華中の商工業者(特に蒋介石の存続基盤である浙江財閥)の反発を招いただけでなく、関税収入を国民政府への借款の担保としていた英国の強い反発を招くものであった*7

 当時の中国大陸の経済情勢は大きく変動していた。昭和9(1934)年には60年来の米の旱魃に加えて米国の銀買上げ政策による国際的な銀価格の高騰から銀本位制をとっていた中国経済は苦境に陥っていった。

 もともと金銀複本位制をとっていたアメリカは1933年に金本位制を離脱、銀準備のために高価格で銀を買上げる「銀買上げ法」を制定した。これにより銀が高騰、銀本位制の中国の為替レートを直撃した。実は中国は、金本位制の世界の中で、銀本位制だったことから銀の下落(通過安)で比較的好調な経済を享受していた。そこに襲ったのが突然の銀高であり、中国の本位通貨である銀が大量に流出し、中国経済は深刻なデフレに陥っていた*8

 しかし、昭和10年末になると英国のリース・ロス英国元大蔵大臣の支援を受けた「幣制改革」が成功して経済は安定化に向かい、軍事的にも蒋介石軍は広東、広西を掌握して残りは華北の日本軍と共産党の問題だけになった。

 そのような情勢の中、昭和11(1936)年6月に来日したリース・ロスは、関東軍に密貿易の取締りと華北の関税制度の維持を要求した。林銑十郎内閣(昭和12年2月発足)の佐藤尚外務大臣は、対外協調外交の観点から、関東軍華北分離工作を否定する路線を打ち出し、3月には財界の有力者で構成された使節団(日華貿易協会会長児玉謙次郎団長)を訪中させた。しかし、林内閣が崩壊すると第一次近衛内閣には引き継がれず、華北分離工作は華北開発という政府直轄の形で強行されるようになったのである*9

 近衛内閣による華北開発は、関東軍と満鉄によった満州の場合とは異なって軍を排除し、内閣の下で設置された興亜院(1938年)と北支那開発株式会社、中支那新興株式会社で行われた。開発は大失敗だったと評価されている*10 

「円元パー」政策の失敗ーーー華北の経済戦の敗戦

 教科書で触れられていないので知らなかったが、華北における軍主導の円ブロック化政策(経済戦)による人為的な金流出によって華北経済が悪化した*11。それは経済戦の敗戦といってよいものであった。

  当時の中国は、リース・ロスによる弊制改革が成功し、法弊(中央、中国、交通の三大銀行によって発行された通貨*12)が統一通貨として流通するようになった。

 それに対して、日本軍は、華北で無理に円ブロック経済圏を形成しようとした。昭和13年3月に北支那方面軍特務部主導で、華北に新たな発行銀行として中国聨合準備銀行を設立し、その発行する聨合銀行と法弊、日本円との間の固定レートとする「円元パー」政策を採用した*13。ところが、円と法弊の交換レートが、実勢を無視する円高だったため、日本から大量の正貨(外貨)の流出を招くことになったのである*14

 当初日本は、華北において日本円や聨合銀行券、軍票を増発する一方で、そういった通貨の増発がインフレーションを招かないように貨幣発行量に見合った物資を日本から輸出していた。その結果、日本国内から円ブロック圏への貿易収支は計算上、大幅な黒字を計上していたが、いくら黒字になってもそれによって日本に還流してくるのは増発された日本円や聨合銀行券ばかりで「正貨」ではなかった。しかも、その日本円や聨合銀行券の多くは「鞘取り」で大幅に割安な相場で法弊から交換されたものであった

 その鞘取り(価格差による利益)はどのぐらいだったのか。100円を元手に5回の鞘取りによって2048円48銭を取得できたとされており、その差額だけの「正貨(外貨)」が日本から華北に流出した。それは、結果として鞘取りされた分だけ華北地域で外貨準備を管理していた蒋介石政権に外貨(正貨)を節約させ、正貨決済が必要な米国等からの軍事物資調達を助けることになった。その反面として、日本の軍事物資調達能力を制約することになったのである*15。マジか。。。軍部って頭が悪いんでしょうか?経済音痴って怖いですね。

  石原莞爾も『世界最終戦論』で「遺憾ながら経済戦は立ち遅れているらしい。原因については、通貨の問題が非常に大きな作用をしている」と述べているそうだ。立ち遅れているどころか経済的な敗戦だと松元崇の評価は厳しい*16

 どのくらい日本から華北に外貨が流れ込んだのかはこの本には記載がありませんが、華北に日本の貴重な外貨が流出し、日本経済は行き詰まり、国民生活は急速に窮乏化していったという。

 しかし、軍部による満州事変が景気回復をもたらしていたと思い込んでいた国民は、生活が苦しくなったのは「持てる国」である英国のスターリング・ブロックや米国のスムート・ホーリー法による関税障壁が「持たざる国」である日本を締め出しているせいだと思い込み、対英米感情を悪化させていったと松元崇は批判的に論じている*17。しかも国民だけでなく軍部も対英米感情を悪化させていったという。おいおい。完全に自爆やろ、これ。

円元パー政策の放棄ーーー戦争回避の最後の選択

 経済原理を理解していた者にとって「円元パー」政策は誤りなのは明らかだった。昭和13(1938)年5月に第一次近衛内閣の池田成彬蔵相は、これまでの政策を一転して、満州、朝鮮、華北といった円ブロック向けの輸出を制限して円ブロック内のインフレーションを放置するとともに、「円元パー」政策を放棄し、英国との協調によって法弊をベースとした新たな通貨構想を打ち出した。それは、華北における経済戦の敗北に終止符を打とうとするものだった*18。円元パー政策を実施して二ヶ月後のことだった。

  この池田構想に英国は賛成の意向を示した。しかしながら、それまで円ブロック化政策の下に華北向け輸出で潤っていた中小商工業者や雑貨業者にしてみれば、池田構想は大きな打撃をもたらすものであったため、中小商工業者から強力な反対運動を受けることになる。しかも、彼らは円ブロック自給圏確立を主張していた軍部支持にまわった。円ブロック化政策は、中小商工業者たちへの実質的な補助金ばらまき政策でもあったのだ*19

 結局、池田構想は昭和13年10月の漢口攻略後に政府内部の強行路線の前に押し潰されてしまう。しかも、この強行路線は軍部ではなく、政府主導で行われた。弱腰を見せたら為替が下落するのではないかと心配したそうだ*20。日本政府は、昭和14年3月には華北での法弊流通を強制的に禁止し、華北重要輸出品12品目についての輸出入為替を聨合銀行の一元管理に置くなどして強権的な問題の解決を図った*21

日・英米関係の悪化ーーー天津事件、日米通商航海条約の破棄

 池田構想と並行して、宇垣外相による和平工作も行われていたが、軍部や右翼から「英米の走狗」「対英媚態外交」と攻撃されて、宇垣一成は辞任する。 

 宇垣の辞任後、米国は、昭和13(1938)年10月に中国の門戸解放、機会均等を守るように日本へ要求した。それに対して、新たに就任した有田八郎外相が、同年11月に近衛首相が表明していた「東亜新秩序建設」声明に関して「事変前の事態に適用ありたる観念および原則」は、そのまま現在および将来の事態には適用できないと回答すると、米国はそれを日本が従来の門戸開放政策を反故にしたものを受け止め、同年12月30日に日本の「新秩序」を認めないとして国民政府支持を明らかにした*22

 アメリカの態度の変化に驚いた有田外相は、軌道修正し、米国のとっていた貿易政策にあわせて米国中心とする貿易を確保しようとする政策を展開しようとした。この時点でも対米融和路線だったのだ。

 しかし、昭和14(1939)年4月に勃発した天津事件ですべてがおじゃんになってしまう。天津事件は、親日派の中国人を暗殺した犯人が天津租界へ逃げ込んだのに対し、日本軍当局が犯人引き渡しを要求したが、それを英国側が拒否したことで、本間雅晴天津軍防衛司令官が英仏租界への交通制限の実施という強攻策をとったことで日英間の関係が悪化した事件である*23

 最終的に日本軍の思惑通り*24に英国と協定を結び事件を解決した(昭和15年5月)。実は、天津事件発生の五ヶ月後、昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発、ドイツ軍と戦争が始まってしまったのだ。日本に労力を割いている暇がなくなったのである。

 しかし、日本軍の強硬姿勢に反発したのが米国だった。昭和14(1939)年7月、米国は日米通商航海条約の破棄を通告、昭和15年1月に失効させ、石油とくず鉄の輸出許可などに踏みきった。米国から輸入した軍事物資に依存して大陸で戦っていた日本にとって大きなショックを与えるものだった*25

 日本政府は、改めて「東亜新秩序」が排他的なブロックではないことを強調して米国との関係を取り繕うとした。昭和15年3月の外交文書では「東亜は、全く日本も平等の条件において全世界に開放して可なり」と書いたものの、米国の姿勢を変えることはできなかった。石橋湛山によれば「米国は今正式には交戦国ではないけれども、少なくとも経済的な交戦国」のような状態であった*26

 「経済的な交戦国」となったという時に見落としてならないのが、国際的な借款という面での影響である。当時の米国の対外借款は民間主導ではなく政府主導になっていた。その状況下で「経済的な交戦国」になったことは、米国から借款できないことを意味していた。

 「円元パー政策」で多くの正貨(外貨)を失っていた日本は、ここにおいて借金も難しくなったのだ。そもそも輸入するための外貨が円元パー政策で華北に流出しており、しかも借金して外貨を得ることもできなくなったのだ。

対米感情の悪化で狂う合理的な判断

金の献納運動

 このような状況で軍事物資の輸入資金を確保するための「金の献納運動」が強化される*27。これが余計に国民の対米感情を急速に悪化させた。この金の献納運動の熱心さは、日本の「正貨(外貨)」不足の深刻さを現していた。昭和12年から16年までの献納による金の累計は341トン、それに対して対米現送された金の累計324トンとほぼ見合っていた(合計12億円の対外収支の決済に相当)*28。これだけの金を国民から回収したのだ。

 献納運動を具体的に見ていくと、盧溝橋事件の起こった昭和12年12月には金確保のために工業用・医薬用を除く金製品の製造を原則禁止、昭和13年に円元パー政策をとると正貨が大量に流出し、政府は金資金特別会計を設置して、退蔵金の回収にあたった。金貨の鋳つぶしが禁止が解除され、昭和16年までに765万円の金貨が買上げられて鋳つぶされた。そして、新聞社が窓口となる第一次金献納運動がはじまり、昭和14年には地方長官!が率先して第二次献納運動を展開、昭和15年には政府が直接、市中から退蔵金回収が行われるようになった。必死なのが伝わります。その結果の、上記の金の数字なのである。

 これは対米感情が悪化して当然だろう。。。アメリカのせいで金がとられると隅々まで庶民も実感したのではなかろうか。ほんとは円元パー政策の失敗だったんですけどね。。。

戦争前に把握していた日米の差

 これまでの軍部の対米関係をおさらいしておこう。中国戦線は米国からの軍事物資に依存していた。そのため、南京攻略直後の昭和12(1937)年12月に出された大本営陸軍日中戦争収集案には「対米親善の為経済上の提携及與論の好転に努め(中略)日満支米間の経済関係を調整利導す」としていた*29

 昭和13(1938)年には、大蔵省次官から企画院次長になっていた青木一男(近衛首相とは旧制一校時代からの友人)が各省庁次官を集めて日本の戦争遂行能力の分析を行ったが、山本五十六海軍次官、山脇正隆陸軍次官をはじめ軍人を含む参加者全員が一致したのは、日本は英米との長期戦に堪えることはできないという結論だった。その結論は近衛首相と宇垣外相にも極秘に報告された*30

 天津事件直前の昭和14(1939)年3月に戦時物資の動員計画を立案した企画院の文書も「東亜新秩序」確立のためには対米関係の調整が最も重要であると分析していた。米国から日米通商航海条約の破棄を通告された後に成立した阿部信行内閣(同年8月、元陸軍大将)も、昭和15年1月に成立した米内内閣(元海軍大将)も親英米路線には変わりなかった。

 安倍内閣が組閣した昭和14年8月に陸軍の日独伊三国同盟案に関する五相会議が開かれたが、この時の海軍省の米内海軍大臣山本五十六次官、井上成美軍務局長、石渡荘太郎蔵相は英米に勝てる見込がないと強硬な反対を貫いている。昭和14年末にも満鉄調査部も、経済的観点から日米海鮮の不利を指摘していた。昭和15年初頭には陸軍は「戦争経済研究班」を立ち上げて日本の持久力を分析したが、米英との経済戦力差は20対1、開戦二年間は備蓄戦力により抗戦可能であるが、持久力は堪えがたいというものであった*31。よくわかっているじゃんね。。。

 このような対英米戦争に勝ち目はないという合理的な姿勢は、経済戦の敗北で国民生活が窮乏化するなかで変化していってしまった*32

 また、アメリカは中国に利害関係がないため参戦しないという甘い見通しが陸軍から出はじめた。海軍も、第二次世界大戦独ソ戦がはじまりドイツが優勢になると、日本が南進しても石油の禁輸はありえないだろうという希望的な観測が行われた。昭和16年7月に南部仏印へ進駐、希望的観測は打ち砕かれ、たちまちのうちに石油の禁輸を招いた。日本は真珠湾攻撃をしかけ最後の賭けに出る(大東亜戦争/太平洋戦争)。松元崇は、なぜ戦争という不合理な選択したのかをこのように説明するのである。

 

このシリーズ18回まで書きましたがここでひとまず終了です。

 

なぜ日本は戦争を選択したのか?

 その一つの答えは、明治維新当初から守り抜いてきた財政規律を破ったから、と言えるでしょう。財政規律を守っていれば戦争はできなかった。国際的にも孤立しなかったでしょう。

 財政規律を破ったから満州国に対して本国を犠牲にして開発が行われる(資本の流出)。財政規律を破るから軍隊に若い労働力が奪われ、膨らみつづける(労働力の流出)。軍部が金融政策音痴だったため「円元パー」政策で正価=外貨=金が流出する。

 戦時中になり、本国日本が更に困窮すると満州国支配下華北地域も阿片マネーに頼るし、軍隊に奪われた労働力は学徒動員で賄い、更に戦争末期は強制連行で労働力を賄うようになります。外貨のために金献納運動に励み、おそらく阿片で中国人から回収した外貨を闇資金として活用していたでしょう。

 

 日露戦争は財政規律を超えた戦争でした。政府も軍部もそのことを理解したうえで、タイトな資金繰りのなか、お金の計算をしながら(戦争をいつまで続けられるのか計算しながら)国運をかけて戦い、辛うじて勝利しましたが、莫大な財政的な負債を背負いました。

 日中戦争支那事変)から大東亜戦争は、資金繰りを意識する財政規律という観点が消し飛んでいるので合理的な判断ができるはずがありません。戦争も資金に制約されるはずなのに、その意識が無くなり、戦争をマネージメントできなくなります。戦争を「終わらせる」という主体的な発想ができなくなります。

 資本、労働力、正貨(外貨)を流出させてから戦争をしても負けしかありえなかった。その莫大なツケを国民だけでなくアジア諸国に押し付けたのです。

 

 これまで様々な本を読んできましたが、財政規律を守らなかったからと指摘したのは松元崇さんの本が初めてでした。松元崇さんの本のまとめ作業をしてきましたが、一読では把握しきれなかった問題の構造がくっきりと見えてきました。多くの学びがありました。書き漏らしたことも多々あります。松元崇さんの著作が多くの人に読まれてほしいと思います。

 

 また、余力のある時に戦時体制下の財政がどうなっていたのかまとめたいと思います。財政規律が崩壊した軍事国家はどのように財政的に破綻するのか。戦争末期には歳出額と同等の軍事費を拠出するに至ります。万が一、戦争に勝ったとしてもこれだけの負債を抱えたら立ち行かないのです。日露戦争ですらあの参上です。万が一、大東亜戦争に勝ったとしても財政的、経済的敗戦は免れません。

 とりあえず今回のシリーズはここで完とします。最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

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 余談になりますが、円元パー政策を詳しく知ってはじめて、関東軍が阿片に手を出した理由が私なりにわかりました。日本から中国へ流れた外貨を関東軍は阿片で取り戻しているんですよね。阿片なら中国人がいくらでもお金を払いますもんね(阿片の中国史ーーー薬物依存は財政赤字を助く。富と流通のあだ花・芥子 - kyoyamayukoのブログ)。点と点がつながりました。でも、阿片取引は闇取引なので、回収した外貨は表にまわってきません。金の流れを追った本を読んでみたいなぁ。

 

阿片について書いたblogはこちら。

【追加】東亜同文書院と地下人脈(1)ーーー反戦運動と阿片ネットワーク - kyoyamayukoのブログ

東亜同文書院と地下人脈(2)ーーー里見甫を中心に - kyoyamayukoのブログ

古海忠之(1)ーーー渡満から満州財政、そして阿片政策 - kyoyamayukoのブログ

阿片の中国史ーーー薬物依存は財政赤字を助く。富と流通のあだ花・芥子 - kyoyamayukoのブログ

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1934年 米国、銀買上げ法制定(銀本位制の中国経済が混乱)

1935年 華北分離政策の始まり

    土肥原・秦徳純協定(チャハル省から中国軍を追い出す)

    冀東防共自治政府を擁立

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

    リース・ロス英国元大蔵大臣、来日

    (林銑十郎内閣は華北分離工作に反対するが、第一次近衛内閣で引き継がれず

     華北分離工作支持。1938年に興亜院を設置)

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

    中国聨合準備銀行、設立(円元パー政策)3月

    池田構想(円元パー政策の放棄、英国と協調して法弊ベースの新たな通貨

         構想)5月

    池田構想が潰れる

    近衛首相「東亜新秩序建設」声明を表明

    興亜院設置(華北地域を内閣管轄下へ)

    米国、日本の「新秩序」認めず国民政府支持を明らかに

1939年 天津事件

    米国、日米通商航海条約、破棄 

    第二次世界大戦勃発

1940年 日米通商航海条約、失効 

    天津事件で英国と協定を締結  

    日独伊三国同盟  

1941年 南部仏印進駐

    米国、対日資産凍結

    石油禁輸

    真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書1265/4403

*2:同上

*3:1281/4403:安達誠司『脱デフレの歴史分岐』を参照文献としてあげている

*4:

www.y-history.net

*5:1320/4403

*6:密貿易の詳細は下記の本に詳しく描かれている。

傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史 (角川新書)

*7:1320/4403

*8:280:松元崇『恐慌に立ち向かった男高橋是清

*9:1336/4403

*10:1336-1351/4403

*11:1394/4403

*12:Wikipediaによれば、これにより500年に渡った銀本位制が収束したという。法幣 - Wikipedia

*13:なんとこの政策は、もともと高橋是清蔵相時代に(昭和10年11月)に、満州銀行券(元)と日本円と挑戦銀行券の通貨ブロック化を目指す、朝鮮銀行満州中央銀行の業務提携による経済合理性に基づいた政策であったという。1407/4403の注9を参照

*14:同上

*15:1428/4403

*16:同上

*17:同上

*18:1439/4403

*19:1448/4403

*20:同上注11参照

*21:1448/4403

*22:1461/4403

*23:1475/4403

*24:ビルマからの援蒋ルートの一時閉鎖、英国から中国に和平を促す、など

*25:1499/4403

*26:同上

*27:同上

*28:1600/4403:金の献納の運動の様子は本を読んで見てください

*29:1526/4403

*30:同上

*31:同上

*32:1540/4403