kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

【訂正】ドライブ・マイ・カー

近くの映画館に来たので二回目を見に行きました。

 

一回目で勘違いしていたところ訂正します。

車のなかで高槻が話す音の物語の続きの言葉を勘違いしていました。

文中で訂正します。

 

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見たいと思いつつ気づいたら上映が終わってしまった。

が!

たくさん受賞したので、ブルーレイ販売が始まったのに、イオンの映画館で上映してくれてようやく見れた作品です。

田舎に住んでいても見ることができました。

dmc.bitters.co.jp

 

映画館でこそみたい作品です。

 

素朴な感想としては、

 

滋味深い、しみじみと染みる映画でした。

 

そして、この映画ではじめて村上春樹の描きたいものがわかわりました(笑)

 

遅いよね。

そうなんです。

有名作家だから村上春樹にチャレンジして何度も投げ出しているのが私です。

なぜか最後まで読めない。

みんなのよくある感想のように、セックスの話ばかりなんなの、

厨二感強すぎwというのが正直な感想だったのでした。

 

この映画でもそうなんです。

エクスタシーを感じると物語を語りはじめるとか、

第二人格とか

厨二感じゃないですか?

小説で読むとどうしてもシラけてしまって投げ出してしまう。

いや、ドラマや映画だってシラけてしまうかもしれない。

 

 

でも、この映画は最後まで魅せました。

映画の脚本とそれを受肉して演じる俳優の力の凄さなんでしょう。

 

この映画は多重の「声」が響く。

家福の妻の音の声。

ワーニャ伯父さんを台詞を淡々と読む妻の音の声。

ワーニャ伯父さんの舞台俳優の声。

 

でも、最後は「声」を発声することができない女優が手話で演じる。

その手話が「人として生きる核心」を無声で表現する。

静けさの中に響く手話の音。

声にはならないその音。

言葉で表現尽くせぬ音。

 

書いていて気づきました。

妻の「音」の名前はその名前にすべてがつまっていました。

 

 

この映画では「声」を聞く者がいる。

主人公の家福悠介。

子供を亡くしたあと、音はエクスタシーを感じると物語を紡ぐ。

その物語を書き留めるのが悠介でした。

妻亡きあとは

悠介は台詞を録音した妻のテープを聞きつづける。

そして、専属ドライバーの渡利みさき。

みさきは、母親の第二人格の声を聞いている。

「声」を聞く側の二人は、生き残りです。

 

いったいなんの「生き残り」なのか。

この辛い人生からの生き残りなのです。

二人は生き続けるしかない。

なぜならそれが生きるってことだからです。

 

こどもを亡くした家福夫婦は、

それでも夫婦を続けていた。

あるとき、妻の音がセックスすると物語を語るようになり、

それを脚本にして投稿したところ受賞し、脚本家としてデビューする。

子を失って茫然自失となっていた音の第二の人生が始まったかのようだった。

でも、それは、秘密があった。

脚本したドラマのたびに若い俳優を連れ込む*1

夫はそのことを知っていたが夫婦関係を壊すことが怖くて知らないふりをします。

でも、あるとき、妻から「話があるの」と言われる。

待ち合わせの時間にいけず、夜中に帰ってくると

妻は倒れていた。脳溢血で音の話を聞けないまま亡くなります。

 

そこから悠介の混乱がはじまります。

なぜ音は悠介を愛しながら、多数の男を連れ込んだのか

音は、自分が浮気していることを悠介は知っていると知っていたのではないか。

音がわからない。

 

この謎は映画を見ている観客にとっても謎です。

最後の浮気相手の高槻耕史は恋多き男です。

高槻はメッセンジャーです。

彼は悠介に近づき、音の物語の続きを最後にカミングアウトします。

「私が殺した 殺した 殺した」*2

 

 

 

音はこどもを亡くし、脚本家となり、第二の人生を送っているかのように見えた。

でも、違ったのです。

喪失は埋まらない。

たくさんの男と寝ても埋まらない。

もちろん愛する夫と寝ても埋まらない。

秘密とは多数の男と不倫していることでしょうか?

そうではないでしょう。

このどうしようもない喪失感。

誰とも共有できない喪失感。

何をもってしても埋めることができない喪失感。

あなたが目をそらしつづけるもの。

だから、音は死んでしまう。この物語で。

喪失感は「謎」となり悠介を困惑しつづける。

 

長年連れ添った「音」とはいったい誰だったのだろうか。

 

渡利みさき。

みさきは岬。暗闇に明かりを燈し、道を示す。

みさきは、悠介の先を歩いている人でした。

母親と別人格を見殺しにしたみさきは、すべてを受け入れて生きている人だった。

みさきは家福夫妻の亡くしたこどもと同じ年齢だった。

みさきも、悠介と出会い、過去に向き合うのだった。

 

音とはいったい誰だったのか。

 

悠介はみさきと旅に出て、ようやく受け止めることができる。

ありのままの音を。

そしてこの音は、アーニャ叔父さんの手話の音と重なる。

声にすらならない、言葉にならないすべてを受け入れる。

 

 

家福・・・かふく・・・

 

この変わった苗字は、禍福は糾える縄の如しという慣用句があるように、「禍福」からきているだろう。「家」のなかの「禍福」。

 

音の物語にでてくる「山賀(やまが)」は、山の中の家という意味でしょうか。

いつかばれることを待っているのに、

ばれても無かったことにされた場所。

こんなに大変なことが起きているのに、外はまるで平和で、

まるで何もなかったかのように振る舞う。

秘密を守りつづけるために監視カメラをつけられた。

悠介は、ありのまま受け止められず目をそらし、外の世界にばれないようにつけられた監視カメラになってしまった。

 

幸福な日々も罰も受け止めて悠介は今日も生きていくのだ。

ドライブ・マイ・カー

気づいたら私たちは車に乗っていて、動けなくなるその日まで運転するしかない。

*1:不倫は一人なのか、多数なのか、語りしかないので判別できませんが、私は多数の男と寝ている説をとります。というのも、映画の最初の方で悠介は音から若い俳優を照会される。二人が去ったあと、ジャケットを椅子に投げつけていました。おそらくこれから不倫することを悠介は予測できているからでしょう。

*2:1回目を見たときの感想では「死にたい 死にたい 死にたい」と書いていましたが、私の勘違いでした。「死にたい」より「私が殺した」という言葉の方が痛々しいですね。物語の文脈上、「殺した」のはもう一人の空き巣です。この空き巣の比喩は誰でしょうか。一つは家福が理想に思う夫婦像であり、もう一つはこどもでしょう。二重の自責が音に重しとなっていたわけです。こどもを殺してしまったという言葉にすらできない後悔、理想の夫婦だった夫婦関係を他の男と寝て壊した後悔。後者は明らかに自分が自ら犯した罪です。それなのに、なかったことにされる。家福は見逃すことで妻と向き合わなかった。音に責任を取らせないことで、音が苦しむことになる。言葉でぶつかり合わないことで最終的に、物理的に妻が亡くなり、永久にコミュニケーションがとれなくなるわけですね。