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日本の通貨制度①江戸の通貨制度ーーー松元崇『持たざる国への道』第二部軍部が理解しなかった金本位制の読書ノート

 松元崇さんの本を通して、財政・金融面からなぜ日本は戦争を選択したのかをまとめたのがこちらの記事ですが、軍部の財政・金融政策がいかにおかしかったかを理解するためには通貨制度を理解する必要があります。が、それを通史と一緒にまとめるとややこしくなるので、前回の記事ではそこまで触れませんでした。

 今回のシリーズでは、江戸時代から通貨日本の通貨・金融政策の特徴をまとめていきたい。近世から近代へ移行し、四苦八苦しながら通貨制度を確立していき、デフレとインフレと戦った血と汗の歴史をみていきたい。その歴史を知ったとき経済音痴の軍部がいかに日本の財政と金融を壊したのかわかるだろう。

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 通貨制度について、松元崇さんの本から学んでいきたい。数字は電子書籍のページ数を意味します。ご了承ください。

「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか (中公文庫)

江戸の通貨制度ーー金貨の流通が見られない金本位制

 松元崇は一つの問いを提起する。「なぜ、我が国においては金本位制を導入しても金貨の流通が見られなかったのであろうか」(2678/4403)。日本は明治30(1897)年に金本位制を導入したが、金貨はほとんど流通しなかった。

 金本位制の辞書的な意味は下記のとおりである。「各国の中央銀行が発行した紙幣と同額の金を保有し、いつでも相互に交換することを保証する」(下記サイト)ものであり、イギリスなどでは実際に金貨と交換することは多かった。

www.nomura.co.jp

 実際に、明治維新期に日本を訪れた欧米諸国の商人は金貨に対する執着は強く、明治維新政府が太政官札を金貨ではなく紙幣に交換しようとしたときには激しく抵抗したという*1

 日本は金本位制を導入したので金貨と兌換できるはずだが、日本銀行に金貨と兌換するために人が殺到することはなかった。松元崇はその理由を「そもそも人々が金貨ではなく紙幣の流通を一般に受け入れていたから」(2678/4403)と説明する。では、なぜ人々は紙幣を受けれいているのか。

実は、我が国では江戸時代から金貨は一般には流通せず、藩札や銭が幅広く流通していた。

商業上の決済には為替や手形が用いられており、大判や小判といった金貨の利用は贈答用に限られていたのである。

2789/4403

 庶民にとって身近なのは金貨や銀貨ではなく紙幣(手形など含む)や銭だった。

 

江戸時代の管理通貨的な通貨制度

 江戸時代の全国的な通貨制度は徳川家康によって確立された。家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、その十日後には石見銀山を差し押さえ、その翌年には佐渡金山、田島生野銀山、伊豆金山など各地の金銀山を幕府の直轄にした。これらの金銀を背景に全国的な通貨制度を確立した*2。そして、慶長14(1609)年には、諸藩の金、銀貨の鋳造禁止令を出した。最終的に各藩の金銀流通が消滅するのは元禄8(1695)年の貨幣改鋳によってだった。改鋳された元禄小判は慶長小判の金の含有量は3分の2であり、悪貨が良貨を駆逐する形で国の幣制が確立した*3。通貨制度が確立するまで約90年かかっているんですよね。

 江戸時代は8回にわたって貨幣改鋳が行われた。江戸幕府は米価の維持を第一に考えており、極端な品位低下をともなう貨幣改鋳は行われず、安定的な運用が行われた*4。「徳川幕府が管理通貨制度的な金本位制を実施していた言ってよいものであった」(2731/4403)という。

 更にややこしいことに、地域ごとに管理通貨制度があった。江戸時代で実際に多く用いられていたのは藩札という地方貨幣だった。藩札を最初に発行したのは寛文元(1661)年の福井藩だった。藩札については幕府は禁止令を出したこともあるが、吉宗の時代、享保十五(1730)年に許可制となった。藩札は廃藩置県となった明治4(1871)年において244の藩札があったそうだ*5。 藩札は西日本に顕著であり、専売制度の運営、産業育成の目的をしたものが多く、投資銀行的な役割を果たしたという*6

 

江戸時代の為替

 各藩では藩札が流通していたが、幕府の直轄地である天領の大坂や京都の商人が使ったのが手形だった。江戸では手形よりも金銀貨取引が多かったが、京都では50%、大坂では99%が手形だった。降り出された手形は正貨である大判、小判に引き換えられることなく転々と流通し(廻り手形)、現金と同じ役割を果たした。そのような環境の中で両替商は十分な正貨の引き当てをもたない空手形を発行するようになり、一万両の資本で六、七万両の手形を降り出すこともあった*7。著者は「今日の銀行の信用創造の原型といえる」(2787/4403)と評価する。

 江戸時代は為替が発達する。遠隔地決済の発展だ。近代的な為替手形は、寛永五(1628)年、大坂の天王寺屋五兵衛によって創設された。江戸時代には政治の中心である江戸、経済の中心である大坂との間の商品流通が盛んで、為替取引が発達した*8。商人達の江戸と大坂の為替送金への意識は高く、1763年には大坂で金銀の先物取取引所が設立され、為替差損を最小限にとどめようとした。江戸時代は為替レートを意識の高い社会だった。江戸時代に為替が発達していたからこそ、明治六年にはいちはやく為替関連法制を整備できたことから伺える*9

 また、藩札も各藩によって価格がまちまちだったことから為替レート問題を発生させた。藩によって藩札の価格がまちまちなのは、財政が苦しいときに藩札が増発され、価格が低迷することがあった*10

 江戸時代の人々にとって、藩札という通貨の価格が日常的に変動する相対的なものと認識していたが、正貨である金貨も相対的な価値の通貨と認識されていた。そのような状況で活躍したのが両替商だったそうだ。

両替商は、武士の俸禄である米の藩札を銭に交換した。また、品質が様々の銭を相互に交換した。銀についても品質がまちまちな領国銀(各藩が鋳造していたもの)が幕府の禁令にもかかわらず出回っていたことから、その交換も行っていた。丁銀(ナマコ形の銀塊)と豆板銀(丁銀の補助貨幣)であったが、どちらも軽量貨幣で、その都度、量目を計って使用されていたことからそれを交換して銭に交換するといった業務もあった。

2853/4403

 

めっちゃ大変じゃん!!!

今の時代よりややこしくないか?

国内の取引でこんなにややこしいとは。。。

 

これだけややこしいことを日常的に行っていた江戸時代。

 

大坂では米や金銀の先物取引市場が創設された。

実は江戸時代は金融が発達した社会だったのだ。

複雑な金融取引を支えた背景には和算の発達があった*11

 

米本位制ーーー安定的な幣制の背景にあったもの*12

ようやく結論になります。

江戸時代の通貨はなぜ概ね安定していたのだろうか。

 

 江戸時代の通貨制度は、幕府は各藩に藩札を許可しながらも、幕府自体は紙幣の発行をしなかった。通貨制度の総元締めの幕府が紙幣を発行しなかったので、フランスのジョン・ロー事件や米国のコンチネンタル事件のような紙幣が紙屑になる事件は起こらなかった。

 幕府は米価の安定を重視したことから、安易な通貨増発に流れることもなかった。江戸時代、武士の俸禄が扶持米として支給されていたため、米価の安定は国民の大部分を占めていた農民層だけでなく支配層の武士の生活にとって大きな意味があった*13

 米価は豊作で下落し、凶作で上昇する。幕府は米価安定の政策を行い、260年の江戸時代において、江戸初期は20匁だった米価は40 ~100匁で推移した*14天明の大飢饉で132匁、天保の大飢饉では172匁だった*15

幕府が米価安定策をとったことが、中央銀行という通貨の番人が存在しないにもかかわらず通貨制度に対する人々の信任を確立させ、金貨の流通がほとんど見られない通貨システム一般化させる背景になったのである。

それは、米本位制ともいうべき安定的な通貨制度であった。

2928/4403 

 

幕府崩壊ーー米本位制の終焉

 安定した米本位制の通貨制度に終わりがきます。日米通商修好条約の締結(1857年)で、米国総領事館ハリスから国際レートの三分の一という金銀交換レートを押し付けられます。これは不当なレートでした。

 このレートを利用した外国商人の鞘取りで日本から大量の金が流出し、大量の銀が流入した。これは外国商人によって金貨が三分の一の品位の銀貨に改鋳されたようなものだった。外国商人は莫大な利益を得ることになった。

 幕府も1863年に貨幣改鋳し出目(改鋳差益)を歳入している。その結果、物価が狂乱した!。安政五(1858)年に114匁だった米価は慶応三(1868)年には870匁と約八倍となり庶民の生活を直撃した*16

 米価高騰は農村を突然豊かにした。このお金で農村から繰り出して「ええじゃないか」のお陰参りのお祭り騒ぎが起きたという*17

 日米通商修好条約後に流出した金は1957万両に達し、明治元年の通貨流通残高の4倍に上る膨大なものだった*18鎖国から開国し、不当なレートで大量の金が流出。国内の米価に影響を与えインフレは止まらなかった。江戸幕府の安定した米価政策が崩壊し、江戸幕府も崩壊したのだった。。。

 開国は経済秩序の大混乱をもたらし、政治と経済システムのバージョンアップ(近代化)をせざるを得なくなったのだった。

 

(まとめ)

・幕府は金貨銀貨の鋳造を独占、しかし紙幣の発行は無し

・各藩は藩札を発行

・民間は手形取引が盛ん

・江戸時代が安定した通貨制度だったのは米本位制だったから

 

米が貨幣価値を安定させていた。

そんなことはあるのだろうか。

過去に紙幣と塩、銀と紐づけた社会がありましたね。中国の元です*19

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このシリーズはまとめるのが大変かも。

時間のあるときにぼちぼちまとめていきたいと思います。

 

*1:2642/4403を参照にまとめた。また、欧米商人の金貨への執着の背景には、18世紀フランスのジョン・ロー事件や米国におけるコンチネンタル紙幣事件があったという。ようするに紙幣が紙屑になった経験があるので金貨に執着するのだ。2654,2668/4403

*2:以上、2701/4403

*3:2716/4403

*4:2731/4403

*5:2744/4403

*6:同上

*7:2787/4403をまとめた。

*8:2794/4403

*9:2807/4403

*10:2829/4403。久留米藩の銀札騒動。薩摩藩調所広郷のデフォルト。なお。明治維新太政官札の発行が可能だったのは財政担当者が福井藩由利公正だったことが大きいと説明している

*11:2865/4403。和算は庶民にまで浸透し、神社仏閣には算額が奉納されていた。算額 - Wikipedia

*12:2905/4403の章タイトル

*13:2913/4403からまとめた

*14:同上

*15:同上

*16:2940/4403をまとめた。

*17:同上

*18:同上

*19:

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