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日本の通貨制度②明治の通貨制度、日本銀行設立まで(銀兌換紙幣の発行)ーーー松元崇『持たざる国への道』第二部軍部が理解しなった金本位制

 

 こちらのblogの続きになります。江戸から明治へ。いったい何が起こったのか。

 

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松元崇さんの本をまとめていきます。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

太政官札の価格維持

 幕末の金の大量流出で、明治維新政府が通過政策として最初に取り組んだのが、太政官札の価格維持だったそうだ。もともと太政官札は戊辰戦争の戦費を賄うために大量に発行された。しかし、価格下落に見舞われた。下落に目を付けたのが外国商人であり、太政官札を安値で購入し、政府に兌換させて利益を得ようとした。それに対して、政府は価格維持で対抗した*1

 明治二年5月、政府は準備中の新貨幣との額面での交換を約束する布告をだした*2。政府は積立金を創設し、積立金で紙幣や公債を回収して国家の予備とすることにしたそうだ。この積立金は、政府紙幣や公債の信用維持を目的とする準備金に改められた*3

 

「円」の誕生ーー通貨制度の切り替え

  松方正義は、明治二年3月、通過制度の乱れを正す必要があると強調した。当時の日本は、徳川幕府から引き継いだ両、分、朱を単位とした金銀副本位制の貨幣制度と、多くの藩札、開国によってメキシコ銀などの外国通過(洋銀)が流通していた。洋銀は、本来、貿易のために開港地に限定して流通を認められたものであったが、相当程度、全国的に流通するようになっていったそうだ*4。洋銀が国内で流通するほど混乱していたと言えるだろう。

 明治4年5月、大隈重信は新貨幣条例を制定する。これは藩札の廃止、両、分、朱の4進法を廃止し、10進法の金本位制を採用した。1円=1米ドル(金1.5g)とされた。しかし、政府には金準備がなかったことから、新貨幣条例に基づいて鋳造された金銀は、民間から金の持込みに応じたものに限られた。そのように鋳造された金貨も、その多くは海外に流出していった。その背景には、普仏戦争以後の国際的な金本位制への流れの中で金の価格が上昇したことがある*5

 そのような状況の下で、国内で広く流通することになったのは、明治5年4月から政府が発行した不換紙幣の明治通宝だった。明治通宝は、贋の太政官札を一掃する目的で発行された不換紙幣だった。贋札を防止するために当時の最新の印刷技術を使い、ゲルマン紙幣とも呼ばれたという。明治7年9月にはそれまで流通していた江戸時代からの旧通貨の大部分が禁止され、太政官札とゲルマン紙幣の交換も終了すると、幅広く流通することになった*6

 とはいえ、旧通貨、永楽宝などの銭はなんと昭和28年末まで通用したんだって!驚きですね。

 

国立銀行条例ーーー金兌換発行の試みと挫折

 明治通宝の発行によって藩札や太政官札を整理することはできたが、洋銀の整理はでいなかったそうだ。不換紙幣の明治通宝で外国商人が国際貿易で利用する外国通貨い代えることは無理だった。

 そこで、政府は、政府の発行していた不換紙幣の明治通宝に代えて民間金融機関に金兌換の銀行券を発行させて外国通貨を一掃しようとした。明治5年11月に国立銀行条例

を制定し、「国立銀行」に金兌換銀行券(国立銀行券)を発行させることにした。「国立」とあるが公的銀行ではなく、民間金融機関だそうだ*7

 四つの国立銀行が設立された。資本金の4割が正貨で、残り6割を政府紙幣で払込して設立、払い込まれた政府紙幣を政府に供託して同額の金札引換公債を受け取り、その金札引換公債を担保に大蔵省紙幣案が印刷した銀行券の交付を受けて兌換国立銀行を発行するというものだった*8

 しかし、このように発行された金兌換の国立銀行券は、発行されると即座に金に兌換され、交換された金が国外に流出した。そのため国内でこの国立銀行券は流通しなかったのだ。背景には、世界的な金価格上昇が続いていたことがあった。

 その結果、国立銀行は経営難に陥った。そりゃそうですよね。金に兌換されて国外に流れていくんだから。そのため明治8年には兌換制度の廃止を政府に陳情し、明治9年に兌換が停止された。結局、市中で流通していたのは明治通宝と洋銀だった*9。困ったものです。

 しかし、国立銀行券が流通しなかったにも関わらず国立銀行の設立が続きました。背景には秩禄処分がありました。秩禄処分による金禄公債の交付額は1億7464万円に上ったため、それが一時に市中に出回ると価格の暴落が予想されました。そのため政府は国立銀行の設立要件を緩和*10し、金禄公債証書を資本に銀行を設立することを勧奨したそうです。その結果、153行の国立銀行が設立されました。

 国立銀行以外の民間金融機関は「私立銀行」と呼ばれていた。三井組、安田商店と呼ばれていたが、国立銀行の兌換を停止した明治9年の国立銀行条例改正によって私立銀行も「銀行」の名称使用が認められるようになったそうだ*11。改正後に設立された第一号が三井銀行だった。その後、私立銀行は明治29年には1000行を超え、ピーク時の明治34年には1890行まで増えた。ここまで増えた背景には、江戸時代以来の両替商の伝統があったからだという*12

 明治15年に日本銀行が設立される。日銀にのみ発行銀行の権限を与えたことで、国立銀行からは不換紙幣の発行権が消滅し、国立銀行と私立銀行の違いがなくなるのだった*13

 

西南戦争による激しいインフレ!ーーー松方デフレと日本銀行の創設

激しいインフレと松方デフレ政策

 明治政府に危機が訪れる。西南戦争の膨大な戦費で通貨危機に見舞われた!。西南戦争の戦費は、当時の国家予算である明治10年の歳出額4800万円に匹敵する4157万円に上った!。西南戦争語には激しいインフレーションが発生した。また、明治通宝の新任が失われ「銀紙の格差」が生まれた。銀紙の銀とは洋銀、紙とは明治通宝のことである。国内で洋銀と明治通宝の為替リスクが生じたような状況に陥った。一定の価格で販売する契約に基づいて製品を作っても、製品が出来上がった時の実質的な手取りがいくらになるのかが見通せない事態になった*14。これは困りましたね。今のロシアみたいな状態です。

 ここで登場するのが松方正義のデフレ政策だった。日本史でも出てくる松方デフレですね。松方蔵相は明治15年度の予算から3年間、対前年比据置く緊縮財政を行った。その結果、明治17年には恐慌状態となり、倒産が続出。米価下落し、農民は困窮した。秩父困民党事件などの騒擾事件が起こり社会不安が広がった*15

  強硬なデフレ政策により、インフレが収まり、銀・紙の格差が解消された。その結果、退蔵されていた銀貨が市場に戻り、通貨供給量が予想外に増え、それが景気を押し上げることになったそうだ。インフレの収束と実質通貨供給量の増大は金利低下をもたらし、それが投資を刺激した。明治19年以降は会社設立、株式投機ブームが起こり、東京と大阪の株式市場で取引されるようになったという*16

日本銀行の設立ーー銀兌換券の発行

 松方正義蔵相がデフレ政策と並行して行ったのが日本銀行の設立による銀兌換券の発行だった。日本は、国外に流出しやすい金兌換券ではなく、銀兌換券を発行した。銀は金に比べて安く輸出産業にもメリットがあった。銀兌換券の発行によって明治政府は、ようやく徳川幕府体制下の通過制度に代わる安定した国内通過制度を確立することができた*17

 日本銀行による日本銀行券(銀兌換券)の発行は明治18年にはじまり、明治21年には通貨発行の基本原則である保証発行屈伸制限制度*18が定められた。

 日本銀行券は、①金銀貨および地金銀を兌換準備とする正貨準備発行、②国際、大蔵省証券その他償還の確実な証券または商業手形を保証する一定限度額までの保証発行(当時の限度額は7000万円)、③必要に応じ、発行税を納めた上で大蔵大臣の許可を得て行う制限外発行の三種類の形態で発行されることになった。①は銀本位制そのもの、②は今日の世界各国の中央銀行が行っている通貨発行の手法。そして、③の制限外発行は現在では「非伝統的な金融政策」と言われるものであり、リーマンショック時に米国の連邦銀行が行った手法である。この③の手法は、当時の諸外国のどこにもない日本独自の特色のある制度だった*19

 金とは異なり、誰も兌換を求めてこない銀兌換は、江戸時代の藩札と同じ感覚で準備した以上の通貨発行を行えるとの判断がそこにはあった、という*20。正貨準備に国内保有に成約されることなく経済状況に応じた通貨の国内供給の増加を可能にした。

 

 

 

<年表>

明治02年05月 太政官札と新紙幣交換の布告

明治04年05月 新貨幣条例 

明治05年04月 明治通宝(不換紙幣)、発行

明治05年11月 国立銀行条例(金兌換紙幣)、制定

明治07年09月 江戸時代からの通貨禁止、太政官札と明治通宝と交換

明治08年   国立銀行券の兌換廃止を政府に陳情

明治09年   国立銀行券の兌換停止

       秩禄処分

明治10年   西南戦争、激しいインフレに!

明治15年   日本銀行設立

       松方デフレ政策(明治19年頃からインフレ収まり景気回復)

明治18年   日本銀行日本銀行券(銀兌換券)を発行

 

*1:3032/4403をまとめた。

*2:本署脚注2によれば、布告の1ヶ月前にこの情報をキャッチして金札を下がっていた時下で買い集めて財をなしたのが、元富山藩士安田善次郎だったそうだ。3318/4403

*3:3032,3041/4403

*4:3041/4403

*5:3051/4403

*6:3051,3061/4403

*7:3076/4403からまとめた。

*8:3085/4403からまとめた。

*9:3097/4403からまとめた。

*10:設立要件から正貨保有の義務が無くなり、資本金の8割まで金禄債権などの公債を政府に供託し、残り二割を政府紙幣を保持すればよいとされた。

*11:3097,3108/4403からまとめた。

*12:3108,3120/4403からまとめた。

*13:3120/4403

*14:3131,3140/4403

*15:3150/4403

*16:3150,3163/4403

*17:3163/4403

*18:この制度を導入した富田鉄之助日銀総裁高橋是清と同じ仙台藩出身だった。諸外国になかった保証発行屈伸制制限度をど導入した富田は江戸時代以来の実務を重視した人だったそうだ。

注については3186/4403

*19:3174/4403

*20:3174/4403