kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

貨幣経済を否定したらどうなるか

岡本隆司のこちらの本は学びの多い本でした*1。まとめると大変なので最も興味深く読んだ点についてだけメモしたいと思います。まずはモンゴル帝国がどれだけ栄えて経済発展したのか、それに対してなぜ明は商業を否定する政策をとったのかをみていきたいと思います。

 

世界史とつなげて学ぶ 中国全史

 

モンゴル帝国の興亡

 モンゴル帝国勃興の背景には温暖化の影響があり、気候が暖かく農作物が育ち、人口が増加しました。クビライ・ハンは在位30年で統治システムを作り上げます。中央アジアウイグルの商業資本はモンゴル軍とタイアップしながらシルクロード上に経済範囲を拡大していき、ユーラシア大陸が貫通されます。

 拡大した経済圏によってモンゴル帝国では紙幣が普及していきます。従来は銀経済ですが、銀と紙幣を兌換させる方法を編み出し、紙幣経済に信用を与えます。これだけの規模で紙幣経済が成立したのはモンゴル帝国が初でした。紙幣の信用を支えたのは銀だけでなく塩とも紐づいていたそうです。当時の塩は稀少かつ誰も必要とするもののため価値がありました(塩政制度)。中国では唐や宋の時代から塩を専売にして原価に対して高額の税金をかけていて莫大な利益をえるのです。この塩専売を扱う商人も莫大な富を得ます。

 なぜ紙幣なのか?銅銭は重いが紙幣は軽い。軽いから便利なのです。銅銭で買い物するとそれだけの量を持っていく必要があり、物理的に重いし場所も取るし大変です。

 モンゴル帝国は紙幣経済によって発展し、広大な領域の経済圏を構築します。グローバリゼーションによって発展し、経済を支えたのがイラン系ムスリムウイグル人であり、彼らの行動をバックアップしたのがモンゴルやトルコ系の遊牧民によるモンゴル帝国の軍事力でした。

 しかし、地球の寒冷化によってモンゴル帝国は崩壊します*2

 

明朝の成立

 モンゴル帝国遊牧民と農耕民、商人と軍隊など多元的なユニットでを共存していました。民族も多種多様で混成な社会でした。それを可能にしたのは地球温暖化による恩恵と紙幣経済の技術の発達であり、それがグローバリゼーション経済を可能にしました。 

 しかし、寒冷化によってモンゴル帝国体制は崩壊します。寒冷化によって食料の奪い合いが起こります。交易によるメリットよりも自分たちの地域で食料を囲い込まざるをえません。中国の歴史、いや世界の歴史は寒冷化と温暖化によって農耕民と遊牧民の対立と融合の歴史を繰り返しています。

 明のターンでは、漢民族によって農耕民だけの分離・独立、「多元的な社会を『中華』と『外夷』に分断し、差別化すること」(155)です。著者は「『中華』とは空間的には、農耕世界」(155)のことだと言い切ります。

 明朝はモンゴル帝国への抵抗と否定が出発点とした政府です。しかし、国内にはモンゴル人も多数残っており、「モンゴル帝国が残した遊牧と農耕を結合する、あるいは文化経済と政治軍事を統合するベクトルと、両者を分離するベクトルとの間で揺れ動くことになります」(156)。

 

貨幣と商業の排除

 ようやく本題に入れます。モンゴル帝国の否定が基本の明朝の創始者朱元璋鎖国し、朝貢一元体制をとります。民間の貿易を禁止し、商取引をしたい人はこの朝貢手続きをとらなければいけなくなります。

モンゴル帝国の崩壊によって中国国内は以下のような状況になります。

 

基軸通貨だった紙幣は紙切れになり、貨幣や貴金属は退蔵されて市場の流通から消えました。その結果、経済は物々交換の世界に逆戻りしたところさえ出てきます。もちろん商業は壊滅的な打撃を受け、深刻な不況に直面していました。

159

 朱元璋は現物経済の状況をデフォとして財政経済政策を組み立てます。具体的には「土地からは農産物を現物で取り立て、人からはナマの労働力を提供させる」(160)という体制にしました。これが明朝の徴税の二本柱であり、貨幣を介在させないのが大きな特徴でした。この体制のありかたについて、

明朝が構想した経済財政に、商人や商業は登場しないということです。だから商業取引は存在しないし、貨幣も必要ない。いわば「農本主義」であり、「反商業」でした。 160

とまとめています。モンゴル帝国であれだけグローバリゼーションが広がり、紙幣経済が発達したのにも関わらず、現物経済にまで退化したのです!!!

 朱元璋も一応紙幣(大明通行宝鈔)を発行しました。しかし、モンゴル帝国のように銀や塩と紐づいていないのでただの紙切れにしか過ぎませんでした。そのため普及しません。明は現物主義、物々交換が主体のため普及しませんでした。

 この貨幣経済の否定は鎖国=外界との交通の遮断とも無関係ではなかったそうです。外国と貿易するためには外貨が必要であり、当時においてはその役割を果たしたのは貴金属、中国の場合は銀でした。しかし、明朝においては紙幣と銀は兌換しません。そのため市場に銀が出回ることはありません。市場に銀が流通すれば民間は外国と取引しやすくなりますが、銀の流通がないため取引自体が難しいのです。明朝はここまで考えて反商業主義、鎖国システムを選択したのです*3

 

南北格差の解消のために江南を弾圧!

 格差の解消には二通りの方法があります。一つは下を上にあげる方法、もう一つは上が下にあわせる方法です。もともと中国は気候が温暖な南が経済的に優位なのですが、朱元璋はまさかの方法を選択します。南を弾圧して、豊かさを減らすという選択です。ここも本を読んで衝撃を受けたところです。

 一般的には華北を江南に合わせて引き上げたほうが全体が潤うはずなのですが、明朝には引き上げる力がありません。江南を弾圧して貧しくさせ、華北の水準に合わせました。昔の共産党も似たようなことしていましたよね。。。朱元璋は過激な弾圧を行いますが、具体的には本を読んでください。これは単に反商業政策のためというだけでなく、豊かな南には有力者も多かったので有力者の弾圧という側面もあったそうです。江南の人々を露骨に差別、冷遇もしたそうです*4

 

そこまでしても南は豊かになり銀が流通しはじめる

 朱元璋は反商業のシステムを構築したわけですが、それでも江南デルタは綿花、生糸の一大産地となり、南は豊かになるのです。物々交換が基本の明朝ですが、現物経済はやはり不便なのです。民間で私鋳銭が流通するようになり、結局、非公式通貨として銀が流通するようになります。明時代から中国では地域別の通貨が流通するようになります。統一通貨が達成されるのは1930年代です。モンゴル帝国で銀兌換、塩兌換制の紙幣経済システムが発達しますが、明代には物々交換経済まで退化します。でも、やっぱり不便なので、民間の私鋳銭が地域ごとに発達し、結局、銀のレートで取引をするようになります。

まとめ

 そもそもモンゴル帝国が近代並の貨幣システムをそなえて経済発展したいこと自体が驚きでした。さらに、そこまで発達した貨幣経済が崩壊し、物々交換まで退化するなんて。。。

 中国共産党は一応共産主義であり、共産主義は資本主義社会を打倒としていますが、ある意味で中国では過去に一度そこまでの経験をしていたわけです。銀(塩)本位制紙幣経済が崩壊して物々交換しているわけですから。

 でも結局、経済が発展すると物々交換は不便なんですよね。本来ならばモンゴルのように国が通貨を管理するべきなのに、モンゴル帝国へのトラウマからなのか、明、清時代は結局、統一通貨は生まれません。漢民族だけでは、農耕民族のための経済システムだけでは、モンゴル帝国のようにはできなかったのかもしれませんね。

 1930年代に、中国国民党はイギリスの協力を得て統一通貨を実現します*5。詳細は注記を見てほしいですが、関東軍満州国は通貨政策に失敗し、戦争に負ける一因になりました。軍事力だけでなく、経済政策でも負けてしまうわけです。通貨政策は重要です。

 

 中国の歴史はすごいですよね。共産主義社会が来る前にすでに貨幣経済が失われた状態、物々交換経済を経験しているのですから。

*1:こちらの本もオススメです。セットで読むと知見が広がります。

中国史とつなげて学ぶ 日本全史

*2:以上、124ー151を私なりにまとめました。

*3:以上、154ー163を私なりにまとめました

*4:以上163ー169を私なりにまとめめました

*5:中国の統一通貨についてはこちらを参考にしてください。

kyoyamayuko.hatenablog.com