※sumita-mさんからのご指摘があり、「共同幻想」を「対幻想」に訂正します。ご指摘ありがとうございました*1。概念は原著確認して丁寧に使いたいと反省しました。
二度目のドライブ・マイ・カー。
3時弱の映画を2回も見るって2時間映画を三本見ることができるんですよね。
1回目は長いと感じた映画ですが、二回目はあっという間でした。
これは不思議な体験でした。
物語を知っているからこそより深く映像を堪能できる。
映画の劇中にもありますが、繰り返すことでテキストを堪能できるということでしょうか。
1回目の感想はこちら。
福嶋亮大さんの評論を読んで触発されて書いた感想がこちら。
二回目を見て一番驚いたのは、肝心な言葉を私が勘違いしていたことでした。
岡田将生が演じる高槻が車の中で音の物語の続きを語るところです。
一番最後のところを「死にたい 死にたい 死にたい」と記憶していましたが、勘違いでした。
実際には
「私が殺した 私が殺した 私が殺した」
殺したのは物語の文脈上、もう一人の空き巣です。
でも、これは比喩でしょう。
では音が殺したのは誰だったのか。
一つ考えられるのは、円満な夫婦関係を「殺した」ことでしょう。
誰にもばれたくない秘密を夫に見られていた。
でもそれを無かったことにされた。
何もないことにして監視カメラがつけられた。
世界が変わるくらいのことが起きたのに、何も起きていないかのように振る舞う。
まるで家福夫婦の姿ですよね。
そしてもう一つは、子供ではないでしょうか。
これは穿った見方かもしれませんが、子供を肺炎で亡くしたことを「私が殺した」と思うのは母親にはありうるでしょう。
一般論でも、子供を亡くした母親は自分のせいだと思うわけですし。
つまり、音は二重の自責の念にかられている。
子供を亡くしたこと、これまでの夫婦関係を壊したこと。
自分をコントロールできなくなった女が音です。
音は夫に手を振り離されて死にます。
家福は、音や高槻とは異なり、コントロールできる男です。
自己コントロール能力があり、理性的な近代的な男性です。
しかし、その家福こそ自己コントロール力があるからこそ罪を背負わなければいけなくなる男です。
家福は妻の二面性の謎と妻子を失い、すべての努力が水の泡だったのではないかと感じている男です。
アーニャ伯父さんの劇中の言葉が響く。
もう取り戻せないという絶望。
一番妻の側にいて一番妻を愛し、妻からも愛されていたはずだ。
それは嘘じゃない。でもだったらなぜ?
夫婦だからこそわかりあえるはずだ
愛し合っているからこそわかりあえるはずだ
それが対幻想でしょう。
音も夫は愛していたのだから「対」幻想としては成立します。
でも、その対幻想からはみ出してしまう「私」がいた。
音ははみだして浮気を繰り返してしまう。
家福はそんな音を見逃し知らないふりをして必死に対幻想を守ろうとする。
でも、それはありのままの音を見ていないことになる。
みさきは、夫婦関係よりもっと強固な「対幻想」のある「親子関係」を捨てた女だ。
みさきに言われてようやく気づくのだ。
対幻想を通した音ではなく、ありのままの音を受け入れることができた。
対幻想から出てきたのは他者としての音だ。
ありのままの音を受け入れるということはそのくらい難しいことだった。
対幻想はそのくらい男性にとって強固なものなのだろう。
ドライブ・マイ・カーは、近代的自我をもち自己コントロール能力の高い男が、
ありのままの他者としての妻を受容できなかったことで妻を失う物語だっだ。
思いのたけを音にそのままぶつけていたら。
関係は変わったとしても、死ぬことはなかったかもしれない。
妻を殺してしまうほど変化を求めない男の末路だ。
自己コントロール能力が高い、一貫性のある男の破綻の末路*2。
死んではじめて受容した。憐れな男。そして、憐れな妻だった。
家福はすべてを受け入れる。
高槻が逮捕されて空白になったアーニャ伯父さんの役を演じることを決める。
それは妻の死語、演じられなくなったアーニャ伯父さん役を再び演じることでもあった。
働かなければいけない。
どんなに苦しくても。
家福とみさきは働きつづける。それが生きるということだから。
で、ここから美しくない個人的な感想になります。
この映画そのものは、本当に素晴らしい映画だと思います。
2回見ても飽きるどころか、深く染みてきます。
が、やはり村上春樹の設定が古くないか?っていう思いは募ります。
自分がそうではないからなのかもしれないが、ここまでパートナーと「わかりあえるはずだ」という思い込みをもっているのがキツいというか。。。
私の場合、「親子とはわかりあえるはずだ」という対幻想をもっていました。
ここでの親とは父親です。
父親は父親で私のことはわかっているというんですが、全然わかっていません。
何度絶望しても親子という対幻想に私は囚われていました。
そこから解放されたのはつい最近です。
そんな履歴のある私ですので、夫婦における対幻想を強くもっていません。
でも、親子関係になぞらえて、共同幻想に囚われる辛さ、他者として受容することの難しさは想像することができます。
血縁関係の親子関係と比べたら、赤の他人の夫への対幻想度は低いんですよね。
そもそも家庭へのイメージが悪く、結婚する気もなかった私が
夫と結婚したのは自分とは全然違うタイプの人間だからです。
他者なので考え方なので違うことが多く、驚くこともありますが、
それでも言葉を尽くし、時間を共有することで「対幻想」という思い込みではない関係が築けていると思います。
で、村上春樹的なカップルの共同幻想、対幻想は今の日本のトレンドではないと思うんですよね。
男性はどうかわかりませんが、少なくとも女性にとってその対幻想は解体されている。
解体されている上で《他者》としての夫とどのように共同性を築くかってことが今のトレンドだと思うんですよね。
また、もう一つの最近のトレンドは毒親、親ガチャという言葉があるように親子関係という「共同幻想」「対幻想」の解体だと思うんですよね。
私が村上春樹を最後まで読みきれないのは、もうすでに自分には必要のないものだからなのだ、ということがblogを3回書いてわかったことでした。