なぜ中国の近代化は遅れたのかーーー『世界史とつなげて学ぶ中国全史』から学ぶ
現代の中国を紐解くために明朝、清朝について書き足していきたい。なぜ中国は日本とは異なる近代化の過程を経たのかわかります。一昔前まで、なぜ中国は近代化できないのかという問いが社会科学の世界にありました*1。岡本隆司さんの『世界史とつなげて学ぶ中国全史』は鮮やかに分析します。
明朝から官民乖離がはじまった!
明朝についてはこちらに記事を書きました。モンゴル帝国の崩壊で紙幣経済が崩壊し、明朝は物々交換まで退化します。モンゴル帝国の崩壊で民間は疲弊し、経済を大幅に縮小し、地域経済の疲弊を解消することが先決でした。そのため当初は物々交換も機能していたのですが、民間が回復して来ると、やはり物々交換は不便なので、非公式通貨として銀が流通するようになります。明朝は最後まで通貨の管理を行いませんでした。
明代の初めは権力が民間社会を掌握していましたが、民間の力が増大していきます。その結果、明朝政府は民間を掌握できなくなっていきます。清朝ではさらに民間乖離が進んでいきます*2。
清朝の成立
清朝は満洲人が建国した国です。明朝は漢民族の政権であり、「華夷殊別」の方針でした。つまり漢民族が一番、蛮族は下です。でも清は満洲人の国なので明代の方針はとれません。清朝は「華夷一家」をスローガンにします。多民族による多元的な国を目指すわけです。スローガンの下に版図を広げ、明朝時代の全土に加え、モンゴルとチベットを帰順させました。モンゴル人がチベット仏教を信仰していたためチベットを取り込みました。また中央アジアの東半分も取り込みます。この時期の中央アジアはムスリムです。つまり、清朝は多種多様な宗教と民族を支配下においた多元的な国家だったのです*3。
この指摘は盲点でした。清朝が多元的な国家というイメージが私にはまったくなかったのです。しかも、今に続くチベット問題や中央アジアのムスリムのウイグル人問題まで影響しているんですよね。
清朝の統治も複雑です。一般的に満洲人と漢人の「直轄領」、モンゴル、チベット、ムスリムの間接統治の「藩部」、周辺の友好国の朝貢国の三種類に分けて統治したと言われているそうですが、著者いわく清朝は直轄領、間接統治を分けていなかったと主張しています。「華夷一家」の清朝は「因俗而治」(俗に因りて治む)で、それぞれの在地システムで統治が運営されていたそうです。最上部だけは清朝の皇帝が君臨する。それによって一つにまとめ相互にトラブルを起こさないようにしたそうです*4。五大種族のトップに立つ皇帝は名君でならなければならばかった。なぜなら暗君や暴君ならば他の種族から認められないからです。実際に名君というよりも、名君である装置として善政を標榜しないといけないという仕組みです*5。
経済活性化による銀不足デフレとお茶貿易によるデフレ克服!
明時代から継続しているが、経済活性化してくると銀が不足します。清朝は海外から大量の銀の調達をはかります。明代・16世紀の最大の調達先はなんと日本でしたが、ヨーロッパやメキシコ、フィリピンなどからも調達していたそうです!。グローバル!!
しかし、18世紀にはいると、日本は金銀を採り尽くします。その結果、日本は「鎖国」に入り、輸入品を国内生産に切り替えていきます。江戸幕府の鎖国にも理由がありました。また、ヨーロッパも寒冷化で不況に陥りヨーロッパからの銀が途絶えました。
清朝は、日本やヨーロッパから銀が途絶えマネーサプライが乏しくなり、一大デフレに突入します!
そんななか産業革命を経たイギリスが登場します。イギリスは都市部に労働者が急増し、お茶が流行ります。その茶葉のため中国と貿易を始めます。その結果、大量の銀が中国に流入します*6!
究極の「小さな政府」清朝
清朝は18世紀半ばには1億人弱だった人口が19世紀初頭には3億人を超えます!。人口が爆発的に増えました。それに対して行政都市や官僚機構の数はさほど増えていません。これの意味するところは、人口が増加に対して、行政の管理も権力の行使も行き届かない庶民が大量に発生したことを意味します。人口が三倍に増えたのに行政機関が増えなければそうなります。こうして官民乖離が進んでいきます。
極度な「小さな政府」がする仕事は税金の取り立てと犯罪の取り締まりレベル。それ以外は民間任せになります。著者いわくこの官民乖離による民間任せの風潮は今日にも続く中国政治の基本スタンスなんだそうです(212)。現代の中国は中国共産党による監視国家のイメージが強いのですが、むしろ実態は逆で、管理できないからこそ民間任せ。でも、必要なときに厳しく取り締まり示しをつける。。。
清の時代に増加してあふれた人口はついに東三省(領寧、吉林、黒龍江)にながれ開発されます。大豆の一大産地になっていきます。このあたりが近代の日本に関わりが出てくるところですね。先取りしてはなすと清朝が倒れたあとは、聖地であり満洲人しか住めなかった「満洲」地域に大量の人が流れ込みます*7 。
人口が増えると民間コミュニティが増大します。民間は自力でコミュニティを守ります。何もしてくれない政府に対して不満を募らせて、宗教に走ったり、秘密結社を作ります。政府が弾圧しても武装して反抗するまでになります。有名なところでは白蓮教徒の乱、太平天国の乱、義和談事変がおこります*8。
経済的な分立で清朝もバラバラに
ヨーロッパが金本位制を導入したことで、銀価格が下落します。銀安、つまり通貨安によって中国の輸出が増大します。これが経済を活性化し、中国地域の分業が進み、分立するきっかけになります。
各地域は直接海外の国と取引するようになります。東三省は大豆製品をドイツ、日本へ、長江流域は商品作物をヨーロッパに、華中沿海は北米に。
中国はもともと地域分業がすすみ国内で各地の物資を取引するシステムでした。しかし、19世紀後半になると取引先は国内ではなく、海外に変わっていきました。近代化を果たした欧米、日本の列強との取引を加速していきます。これにともない、各地域の地方官の総監・巡撫は権力をもつようになります。
このあとは詳しく書きませんが、清朝は阿片戦争で権威を失墜し、日本も琉球処分、台湾出兵します。朝鮮は清の朝貢国でしたが離脱し、最終的に日本の植民地となります。ベトナムも清の朝貢国でしたがフランスの植民地になります。清朝は列強国に直轄値すら奪われていきます。清朝は西瓜が切り分けられて行くように「瓜分」されていきます。この「瓜分」危機からようやく国民国家の「中国」としてのアイデンティティが生まれます。でも時既に遅し。清朝は倒され、波乱の時代が続きます*9。
なぜ中国の近代化は遅れたのか
ようやく本題です。日本の社会科学の世界では、なぜ中国は近代化できないのかという問いとセットでなぜ日本はアジアの中で近代化できたのかというテーマがありました。今や懐かしい問いです。
著者は官民乖離の程度の差の違いが大きいと主張します。日本は末端まで官僚機構が管理していますが、中国では管理しているのは一部であり官民乖離度合いが著しく大きいのです。日本は「官民一体」だが、中国は「官民乖離」している。
実はヨーロッパの近代国家や国民国家とは「単一構造的な社会だからこそ生まれたシステム」(248)でした。多元的な中国社会にはそぐわないシステムでした。
明朝から中国の統治をバトンタッチした清朝の時代、とりわけ18世紀には、中国のみならず東アジアの全域の統合・平和が成し遂げられたかのようにみえました。
しかしヨーロッパの近代が加速してアジアへの進出を本格化させると、中国社会の多言構造はいっそう深刻かつ鮮明になりました。在地の勢力はますます増大して、「小さな政府」で在地在来に委ねる清朝的な統治方法では、けっきょく産業革命以後の近代に対応しきれなかったのです。
248
まとめると中国は多元過ぎて国民国家システムに適合しない。簡単には「一つになれない」からこそ、欧米や日本のように近代化が進まなかったと理解できます。
そうすると現在の共産党がアピールする「一つの中国」というのは、歴史的に多元過ぎる中国の見果てぬ夢のように聞こえてきます。中国は永遠に「一つの中国」に向けて革命を続けているのかもしれません。それは常に分裂する、分立するかもしれない恐怖と表裏一体なわけですね。
(補論)宗教の効能と限界ーーアジアの視点
著者は、多元的な社会を一つにまとめる試みとして宗教について触れています。多元的な社会を一つにまとめる手段が宗教です。
世界三大宗教と呼ばれるイスラーム、キリスト教、仏教は、いずれもアジア発祥です。
それはおそらく、多元性をまとめるための普遍性やイデオロギー、あるいは秩序体型を提供することが、アジアの全史を貫く課題だったからでしょう。
252
アジアのポイントは「一つの宗教・信仰に限定したわけではない」(252)ことです。清朝の皇帝のように、一人の君主が複数の宗教を奨励、信奉し、それぞれの地域の人々をつなぎとめて、共存させた。
アジア各地では宗教という普遍的なものも、多元的に存在してたのです。
252
重大な指摘だろう。ここがヨーロッパ諸国と根本的に異なるところだろう。
ヨーロッパで政教分離が成立したのは、そもそも社会も信仰も単一均質構造でまとまっていたからです。分離しても社会が解体、分裂しない確信が、その背後に厳存しています。
252
これを言い換えると「アジア史において政教分離は成立しにくい」(252)ということです。アジアは複数の普遍性を重層させないと安定した体制が存続できないことが多いのです。
では、日本は?日本は島国ということもあって他のアジア諸国と比べると多元性は小さい。ヨーロッパ諸国のように単一均質構造*10だったと言えます。
中国は、統合の象徴として儒教・朱子学がありましたが、これは漢人のイデオロギー・普遍性です。そのため、近代にはいると、儒教から「国民国家」、「一つの中国」が統一のシンボルとして代替していきます。
外から見ていると中国は中国共産党が支配する「大きな政府」、「監視社会」というイメージが強いわけですが、もしかしたら実態は違うのかもしれませんね。常に分裂する危険性をはらんでいる。管理しきれない庶民がたくさんいる。「一つの中国」は多元過ぎて一つになれない中国の永遠の夢なのかもしれません。単一均質社会の日本に住む私たちには中国が裏腹に抱える不安には到底気づけないのかもしれません。
*1:裏返しの問いとして、アジアの中でなぜ日本だけが近代化したのかという問いがありました。今や古びた問題設定ですが。
*2:以上は184ー193を私なりにまとめました
*3:以上196ー201を私なりにまとめました
*4:以上200ー204から私なりにまとめた
*5:205ー206からまとめた
*6:イギリスは中国に外貨が流出するわけです。だから、かの有名な三角貿易をはじめます。インドで阿片を生産し、清朝に阿片を販売して銀を取り戻すわけです。詳しくはこちらをどうぞ。
上記blogでは塩の道がでてきますが、この塩の道が阿片の道にもなるわけですね。
*7:詳しくはこちらを参照。
*8:以上211ー216から私なりにまとめた
*10:もちろん明治政府は多様だった地域社会を統一していくわけですけどね。あくまで他のアジアの国と比べると単一だったという話です