kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(17)国内経済を犠牲にした満州開発ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(16)では、軍縮を支持していた世論が、盧構橋事件と連動して起きた通州事件で日本人居留民が虐殺されると、一気に軍部支持に傾いた。あっという間に軍拡のための予算がほとんど審議されず通ってしまった。明治維新からニニ六事件で高橋是清が惨殺されるまで守り抜いてきた財政規律が一気に崩れていったのである。

 でも、それは戦闘行為がすぐ終わるはずだから支持していただけだった。蒋介石が率いる国民軍から戦闘を行為をしかけられ第二次上海事変が勃発、日本は首都南京まで追い詰めるが、蒋介石は和平交渉には応じず、重慶に遷都して逃げてしまう。日中間の泥沼の戦いがはじまる。戦闘は終わらず長期化していったのである。

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 松元崇さんの本の第4章を中心にまとめていきます。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

当時の日米関係

 盧構橋事件当時の政府(近衛内閣)は、対英米強調路線だった。対英米貿易依存度は輸入で50ー60%、輸出で30ー50%だったこと、特にアメリカのシェアは輸出で38.8%、輸入で31.4%あり、経済合理性に基づいた当然の判断であった*1

 南京陥落前日に、揚子江の米国砲艦パネー号を日本軍が誤爆、撃沈したが、政府と軍部は責任を認めて米国に謝罪した。米国もそれを認めて大きく取り沙汰されていない。そのときの斎藤博駐米大使はすぐに全米中継の放送で謝罪し、米国もそれを多とし、昭和14年に斎藤が米国で亡くなると、その遺骸を最新鋭の巡洋艦アストリアで日本に五臓している*2。このような日米関係だったのだ。

 近衛内閣の蔵相は池田成彬であり、三井財閥の大番頭から日銀総裁を経て大蔵大臣に就任した人物である。筋金入りの合理的な資本主義者であった。

 池田は①日中戦の早期収拾、②対ソ戦に備えた戦時体制の整備、③対英米路線の維持継続を打ち出した。対英米強調路線の具体的な内容としては、華北における軍部主導の円ブロック形成政策の放棄、スターリング・ブロック向けの輸出拡大による外貨獲得に加えて米国資本の導入による満州地域の日米共同経営といったものであった。 当時、軍部の反対はあったが、大陸経営は日本の資本だけでは無理で英米の資本導入が必要と考えられていた。米国も、華北・華中を含めた中国全土という観点では中国経済の将来性を高く評価していたことから、池田蔵相の路線を基本的には受け入れるという姿勢だったという*3

満州経営ーーー見るべき産業もない不安定なマーケット 

 満州事変(1931年)が起こった頃の満州は大豆と石炭以外に見るべき産業もなく、インフラもほとんど未整備で日本の財閥資本にとってリスクを伴うだけの不安定なマーケットであった。意外ですよね。

 実は、満州は、満州族が建国した清朝の時代には、清朝父祖の地として漢族の立ち入りが禁止されていた地域だった。1911年の辛亥革命清朝が崩壊するまで人口は3000万人程度だった。清朝崩壊後には年間60万人のを下らない中国人が流入し、満州国建国後には人口5000万人を超えるようになっっていったという*4辛亥革命からたった20年で2000万人の人口が満州流入したのだ。清朝時代には人口規模は小さく、開発も手付かずの地域だった。

 満州事変後の昭和6年に出された「満蒙自由国設立大綱」では「徹底的に門戸開放、機会均等の政策を執り内外の資本および技術を取り入れ資源の開発、産業の振興を図る」ことがうたわれていた*5

 実際にも、昭和11(1936)年度には対満投資額はマイナスに転じ、「満州の経済的価値が判明すればするほど対満投資が渋りがちになるのが事実」報じられた*6

 そのような状況下で昭和11(1936)年8月には、広田弘毅内閣の有田八郎外相が英米との協調を前提として中国との経済提携をうたった「帝国外交方針」を打ち出した*7

 満州開発に関しては、民間でも高橋亀吉吉野作造石橋湛山清沢洌らが満州を日本が独占して開発しようとするのは無謀だと主張していた*8。清沢は、満州権益の中核は満鉄であるが、満鉄の財産総額は7億円、受けとる利益は5000万円、それは中国との貿易総額10億円の5%にすぎず、それを守るために一個師団をはるかに超える兵を常駐させているのは算盤に合わないと批判した*9

 この批判にはぐうの音も出ませんね。しかし、満州といえば満鉄であり、目覚ましく発展したイメージとして語られることが多いわけですが、当時から批判があり、資本家からすればおいしくないマーケットだったんですね。

 

国内経済を犠牲にした満州開発

資本の流出

 当時の満州では、昭和12(1937)年6月に発足した第一次近衛内閣が策定した「産業開発五ヵ年計画」のもと、撫順の炭鉱、鞍山や本渓湖の製鉄所が発展していた*10。同年8月には満映満州映画協会)が創業して国内の進歩的な映画人が積極的に採用され、満鉄では特急アジア号が走った。しかし、それは国際的に孤立しつつある日本が、なけなしの資本を満州に注ぎ込んだ結果として達成されたものであった*11。進歩的で革新的な満州の姿は今でも語られますが、それは国内経済を犠牲にしていたんですね。。。

 『宇垣一成日記』では

内地のセメント工場や紡績工場は現に何れも数割の操短を実行して居にも拘はらず満州にセメント工場を新に建設したり青島の破壊されたる紡績工場を復活せしめつつ政策は、日本を復活せしめつつある政策は、日本を枯渇せしめ窮乏に陥れて満州支那を王道楽土化せんとするものではないか?

昭和13(1936)年11月15日

と書かれている*12

 

 尚、「産業開発五か年計画」は、当時のソ連の五ヵ年計画にならって日満一帯の総合計各の下に満州国国家社会主義的な経済体制の国にしようとするものであった*13。それは、国家社会主義満州国を介して日中が経済ブロックを形成し、それを梃に国内の資本主義体制を変革するという関東軍の方針に沿ったものであった*14。王道楽を夢見た満州国建国に携わった当時の革新官僚たちは、満州開発によって東アジアの分業体制を確立して成長につなげると考えており、本国の犠牲において満州の開発に資源を注ぎ込む感覚はもっていなかったものと思われると、松元崇は述べている*15

労働力の流出

 中国大陸における戦争の長期化は大量の若者を兵隊として国内から大陸に送り込むことになった。高橋蔵相の軍備抑制路線の昭和7(1930)年に33万人だった日本軍の将兵数は、盧溝橋事件の起こった昭和12(1935)年には108万人に、日米開戦の昭和16(1939)年には242万人に膨れ上がった。9年で約八倍増えている。それだけの若い労働力が国内から失われれば生産が落ち込むことは当然であった。

 尚、日露戦争時には103万人まで膨らんだが、平時は約30万人程度の規模であり、現在の自衛隊とそれほど変わらない水準だそうだ*16

 

 

今日はここまで!

 

 次回について先取りして書くと、実は、日満ブロック経済、貨幣で言えば円元パー政策は、正貨(外貨)の流出を招くものだった。金融政策音痴の軍部が「円」にこだわったことで貴重な外貨が中国へ流出してしまうのである。アメリカのせいではなかった。

日本は自らの政策によって、資本、労働力、外貨が流出して「持たざる国」となっていってしまうのだ。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1934年 米国、銀買上げ法制定(銀本位制の中国経済が混乱)

1935年 華北分離政策の始まり

    土肥原・秦徳純協定(チャハル省から中国軍を追い出す)

    冀東防共自治政府を擁立

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

    リース・ロス英国元大蔵大臣、来日

    (林銑十郎内閣は華北分離工作に反対するが、第一次近衛内閣で引き継がれず

     華北分離工作支持。1938年に興亜院を設置)

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

    中国聨合準備銀行、設立(円元パー政策)3月

    池田構想(円元パー政策の放棄、英国と協調して法弊ベースの新たな通貨

         構想)5月

    池田構想が潰れる

    近衛首相「東亜新秩序建設」声明を表明

    興亜院設置(華北地域を内閣管轄下へ)

    米国、日本の「新秩序」認めず国民政府支持を明らかに

1939年 天津事件

    米国、日米通商航海条約、破棄 

    第二次世界大戦勃発

1940年 日米通商航海条約、失効 

    天津事件で英国と協定を締結  

    日独伊三国同盟  

1941年 南部仏印進駐

    米国、対日資産凍結

    石油禁輸

    真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書1265/4403

*2:同上

*3:1281/4403:安達誠司『脱デフレの歴史分岐』を参照文献としてあげている

*4:173ー174:松本崇「経済財政面から見た日中戦争」『完全版日中戦争

*5:1295/4403

*6:同上

*7:1295ー1305/4403

*8:1305/4403

*9:1305/4403

*10:当時の設備はソ連軍にすべて持ち去られため、現在の施設はその後の中国によって復興されたもの。1365/4403注記6

*11:1365-1376/4403

*12:1382/4403

*13:1392/4403

*14:同上

*15:1392/4403の注7

*16:1382-1392/4403