kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(16)軍拡の時代:盧構橋事件、通州事件、第二次上海事変ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 このシリーズでは明治維新からニニ六事件まで、日本の近代史に沿いながら財政問題の流れを追ってきた。教科書的には明治政府は「富国強兵」、「殖産産業」のイメージがあり、強くて金もある「大きな政府」と捉えている人が大半だろう。私も松元崇さんの本を読むまで強くたくましい政府をイメージしていました。

 しかし、日本の財政力は弱かった。財政を維持するため何度も軍縮を行った。それはワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議やの前からだ。はじまりは秩禄処分の徳川政権の武士層のリストラであった。これにより、徳川時代より「小さな」軍隊になったのだ。

 日清戦争日露戦争もギリギリの戦いであった。日清戦争では賠償金によって戦費を賄えたが、日露戦争では、借金に借金を重ねて戦争したが賠償金が払われず、その負担が重くのしかかった。借金と金流出(輸入超過の外貨流出)に悩みギリギリの財政の中で緊縮財政を行う。緊縮財政とは軍縮(軍事費削減)とセットであった。

 明治時代、大正時代は陸・海軍大臣財政問題をよく理解していたが(日露戦争で戦争を続けるのがいかに大変なのか将軍クラスは身に染みていた)、昭和にはいると若い将兵達の中から財務と軍事の関係を理解できない層が増えていく。高橋是清は決死の覚悟で昭和11年度予算編成を行うが、ニ・ニ六事件で惨殺される。

 高橋是清の死によって今までの財政規律のタガが外れて一気に崩壊していくのである。軍部は財政を破綻させていく。それは戦争で負けたから破綻したわけではない。軍部自ら破綻させていったのだ。国力に見合う戦力が財政規律を維持した軍事費だ。国力を超えた軍事費がいかにして国家に破滅をもたらずのか、その様子を追っていきたい。

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 今回から松元崇さんの本はこちらを参照します。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

帝国国防方針の改定、外地会計の剰余金の繰り入れ、予算3割にあたる大増税

 ニニ六事件後、広田弘毅内閣が組閣、大蔵大臣には日本勧業銀行総裁の馬場鍈一が就任した。広田内閣では早速、帝国国防方針が改定され、それまで高橋是清が守ろうとしていた軍事予算抑制路線が大転換された。陸軍は平時50師団(現有17師団)に、航空舞台は142中隊(現有54中隊)に、海軍の主力艦は12隻(現有7隻)、航空母艦は12隻(現有4隻)と大幅増強することした*1

 馬場蔵相は、高橋前蔵相の掲げていた「公債漸減主義」を形の上で守りつつ、そのような軍拡の財源を確保する方針を打ち出した。

 その方法の一つが、朝鮮や台湾の外地特別会計の剰余金を一般会計に繰り入れを行うということだった。軍拡は植民地にしわ寄せが来た。しかし、国会では外地特別会計の剰余金を一般会計に流用するのは姑息であると批判されたので、馬場蔵相は昭和12年度会計では内地の増税のみならず、国民負担の均衡を図ると答弁している*2

 その結果、馬場蔵相が打ち出した税制改革案は6億円という大増税に加えて、軍事費の大幅な膨張がもたらず将来の増税にも弾力的に対応できるようにしようとするものであった。この6億円という金額は、昭和11年度の一般会計歳出額22億8200万円に対して3割近い額であり、現在の100兆円規模の歳出額にすると30兆円の大増税を行おうとするものだった。

 国防方針改定による軍拡は、これだけの規模の増税をしなければ維持できないものだった。もちろんこのような大増税は反対を受けて御破算になるのだが。当たり前ですよね。

 前回のblogを思い出してほしいのだが、そもそもニニ六事件前の総選挙では、「軍事費抑制」「公債漸減主義」の民政党が躍進したのだ。民意は軍縮だったのにも関わらず、軍拡され大増税を求められたことで大きな批判が起こって広田内閣が倒れます。

 後継に林銑十郎(陸軍出身)内閣が組閣され、議会の主張に添っていったんは軍事費抑制の姿勢を見せた。内心は軍事費抑制を不服としていたため、陸軍相による重要産業五ヵ年計画(130億円の投資!国家予算の六倍!)を策定し、局面打開を図るため国会を解散した。しかし、この総選挙の結果は、政府の期待した政党(昭和会、国民同盟、東方会)が議席を減らし、逆に社会大衆党(20→36)が躍進する。広田内閣は退陣し、近衛文麿内閣が発足する。

 それは、ニニ六事件の後でも大正デモクラシーで花開いた明治憲法下の立憲政治が、まだ軍部への牽制機能を保持していたことを示したものだった*3

盧構橋事件、通州事件昭和12年7月)

 国民は軍拡に反対していたし、軍拡による大増税はもってのほかだった。では、なぜ国民は戦争に協力しようと思うようになったのか。

 軍拡反対の世論が大きく変化したのは、昭和12年7月7日に発生した盧構橋事件と関連して起きた通州事件(同年7月29日)でした。

 教科書的にはあまり有名ではないので*4、こちらの本を参照して補足しますが、通州事件は、もともと日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の中国保安体が、日本軍守備隊が北京攻撃に出払っている隙に、日本人居留民225人が殺害された事件です*5

傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史 (角川新書)

 松元崇の本に戻れば、通州事件では妊婦の腹をえぐり二歳の子供を射殺するという衝撃的な残虐行為が報じられると、世論とマスコミは「暴虐支那の膺懲」(暴虐な中国をこらしめようという意味)に大きく傾いていったという*6

 このような報道が続く中、軍部に批判的だった社会大衆党も軍部支持を打ち出し、議会は軍部を応援する翼賛機関になっていった

 当時の予算案は、政府から提出されると予算委員会に付託されて通常二十一日以内に審議を終えて本会議に報告することとされていたが、夜間軍事演習中に「中国軍」*7から発砲があったという危機的な事件発生、つまり盧構橋事件が発生し、その直後に召集された第71回特別議会に提出された約1億円の追加予算案は、衆議院予算委員長が「重大なる時機に遭遇」しているとして「質疑省略」を提案、全員が「異議なし」としてわずか30分あまりで可決されて本会議に報告された。

 支那駐屯軍華北で総攻撃を開始したあとに提出された4億円の追加予算案も一日の審議で可決された*8

 昭和12年9月召集の第72回臨時議会では、「臨時軍事費特別会計」が儲けられ、20億円に上る巨額の臨時軍事予算が簡単な審議で可決された*9。20億円って国家予算1年分に匹敵します!外務省の石射猪太郎東亜局長は日記に

議会本日終了。二十億と云う追加予算を精査もせずに通過した議会、他日国民に会わせる顔がなくなるであろう事を予想せる者、幾人ありや。

憲政はサーベルの前に屈し終んぬ。

と記していた*10

 国民が軍部を支持したのは、それがすぐに片付くと思っていたからであった*11。しかし、振り返ると盧溝橋事件が日中戦争の始まりとなり、泥沼化していくのである。

 

 その後の歴史を知る我々が、このときのアツくなった国民を批判できるだろうか。

 2001年の9.11テロ事件でアメリカ議会では対テロ戦争に反対したのは一人だけで、戦争が可決、戦時体制に入ったのだ。日本も200人を超える居留民が殺害されてアツくなり、一気に戦時体制に入っていたのだ。まさか、ここまで泥沼になるとは思わずに。。。。そういえばアフガン戦争も20年で撤退しましたね、アメリカは。アメリカ最大の長期戦でとなりました。。。

 でも、やっぱりアツくなったら負けなんですよね。勝っても負けても財政的にとんでもない負債を抱えます。でも、お金のことなんかアツくなっているときには考えられなくなってしまうもんなんですよね。。。

第二次上海事件(昭和12年8月)

 近衛内閣が盧構橋事件の不拡大方針を打ち出しているときに勃発しました。事変の原因は、蒋介石の承認を受けて国民党軍が日本陸戦隊に対して包囲先制攻撃を行ったことが始まりでした。これにより、中国は華北だけでなく上海を含む「全面戦争」に突入したことになります。

 なぜ蒋介石は日本と戦闘することを決めたのだろうか日中戦争は「日本が悪いから戦争したんだ」というライトなイメージしかなかったのですが、第二次上海事変は中国から仕掛けてきた戦闘でした。繁雑になるが、その理由を詳述しておきたい。

 蒋介石は積極的に戦闘を選択したのは、第一にドイツやアメリカなどからの支援があったこと、第二に日本との長期戦の場合、それに乗じて共産党の勢力が拡大して内戦に突入する可能性があったので、ここで日本を一気に叩いておかねばならなかったことがあげられる*12

 中華民国の航空委員会顧問には米国人であり元アメリカ陸軍航空隊将校であるシェンノート*13が中国空軍を指揮し、日本軍拠点へ爆撃を行った。また、昭和11年のドイツの武器輸出総額の57.5%は中国向けであり、それは中華民国の対日軍備拡充のためであった。第一次大戦の敗戦国ドイツは中国に武器を売って稼いでました。実は、中国に利権が無くなったドイツは、1921年に中国と平等条約を結び、関税自主権治外法権を撤廃していたのだった*14

 第一次上海事変とは異なり、第二次上海事変蒋介石がドイツからフォン・ゼークト元国防軍総司令官を招いて、対日戦にむけて十分備えてからの戦闘だった。つまり、第二次上海事変は空軍はアメリカ、陸軍はドイツの協力を得て体制を立て直していたのだ。蒋介石には日本に勝てるという自信があったのだ。

 尚、ゼークト元司令官は塹壕*15を得意とし、上海西方に塹壕を敷いていた。その攻略に日本軍は四万人の死傷者を出した。この数字は日露戦争の死傷者6万人の3分の2にあたる数値で、熾烈な戦いだったことがわかる。

 蒋介石は空軍力に対しても自信があり、日本に戦闘を仕掛けたが、空軍力は日本が圧倒しており、最終的に上海周辺の制空権は日本が制圧して覇権を握った*16

 11月に上海から撤退した国民党は重慶に遷都、日本軍は南京に進撃する。日本は和平工作(トラウトマン和平工作)を行い和平を模索していたが、なんと蒋介石が和平を拒否、南京を死守することを決定した。南京は国民党の元首都であり、孫文などの陵墓があるためメンツを守るための決断だった*17。ここで悲劇が起こる。あの悪名高き南京事件だ。

 蒋介石は徹底死守を主張しながらも総攻撃の直前に脱出した。また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。日本軍は中国軍に対して南京城を引き渡すよう投降勧告をしたが、国民党軍司令官はその呼びかけを拒否。揚子江をバックにした南京は退路を塞がれ、中国軍は混乱状況となり、市民を巻き込んで多数の犠牲者が出たのであった・・・以上の南京事件のあらましは『完全版日中戦争*18を参照した。松元崇さんは南京事件についてほとんど語っていないので誤解なきようお願いします。

 南京事件は、日本が悪いというイメージでしたが、これは蒋介石の失策もかなり大きいのではないでしょうか。投降すれば多くの市民の命は助かりました。しかも火を付けて逃げるとかありえない*19。。。蒋介石は南京以外でも日本軍への嫌がらせのため焼き打ちをよくやっているんですよね。。。人の命を軽く見ていると思います。『完全版日中戦争』を読めば読むほど蒋介石が嫌いになっていきます*20。もちろん日本だって最低なことしていますけどね*21

 というわけで、国民党政府が投降しなかったことで戦争は終わりませんでした。蒋介石は持久戦を選択し、英米の協力をとりつけて日本を倒すことに奔走するようになります。日本は泥沼に入り込みました。

 この南京攻略の二ヶ月後、昭和13年2月に、ヒトラーは国会で満州国を承認、中国に派遣していた軍事顧問団の引き揚げを表明し、蒋介石に対する支援を停止しました*22。ドイツは日本についた方が得だと考えたのでしょう。

 

 

今日はここまで!

 

一気に戦闘が進み、一気に予算が拡大してきました。。。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

1939年 第二次世界大戦勃発

    

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書4ロケーション403の730((電書4ロケーション403の730

*2:電書ロケーション4403の746

*3:電書ロケーション4403の777

*4:但し、右翼には有名な事件で、中国人が日本人を虐殺したことが戦争の理由だと正当化の根拠して言われることgあります。

*5:下記本の電書600/2710

*6:790/4403

*7:現在は偶発的な発砲事件であり、どちらが最初に撃ったかはわからないと『完全版日中戦争』と記載している。46ページ

*8:議会が翼賛的になっても議院の中には軍部への牽制を続けた者はいた。斎藤隆夫は反軍演説を行ったが、最終的に議会から除名されている。昭和15年の反軍演説がさいごの軍部批判となった。810/4403

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斎藤隆夫

出典:斎藤隆夫 - Wikipedia

*9:790/4403

*10:810/4403:『石射猪太郎日記』の引用から再引用。

*11:810/4403

*12:第一の点については松本崇の本837/4403、第二の点については『完全版日中戦争』69ページを参照

*13:

ja.m.wikipedia.org

*14:943/4403:西欧諸国の中で最初に平等条約を結んだのがドイツでした。

*15:第一次世界大戦の最大の激戦地「ソンムの戦い」を率いていたのがフォン・ゼークトだった。

ja.m.wikipedia.org

*16:74『完全版日中戦争

*17:78:『完全版日中戦争

*18:78ー81『完全版日中戦争

*19:まぁ、日本も沖縄を捨て石にし、広島、長崎に原爆を落とされてはじめて降伏したので蒋介石のことをとやかく言えないのかもしれませんが。。。

*20:蒋介石は日本の陸軍で学んでいるんですよね。降伏の仕方を教えてあげて欲しかった。あ、日本も降伏の仕方を知らなかったよね。。。

*21:南京事件の日本の虐殺については、他の情報をあたってみてください。

*22:872/4403:松元崇