kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(13)満州事件のツケ・日貨排斥運動の広がりーーー松元崇の財政分析から学ぶ

※政府が事後的に満州事変を認めた背景、第一次上海事件、満州事変の国内の評価の項目を追加しました。

 

 シリーズ(10)(11)(12)では国際グローバルスタンダードであった金本位制が崩壊し、グローバル経済が維持できなくなりブロック経済化していった状況を説明した。当時の常識であった金本位制を維持するの政策によって各国はデフレと金利上昇に見舞われ、経済が悪化し社会不安が広がった。これが当時の大恐慌の概要である。そのような状況のなかで陸軍が動きはじめます。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 今回も松元崇先生の本の12章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

中国大陸の情勢と満州事件

 昭和6(1931)年の中国情勢は、父親を日本陸軍に爆殺された張学良が「国権回復」の方針の下、日本が日露戦争でロシアから得た南満州鉄道の権益を奪還する動きに出ていた。張学良は日本人経営の工場や鉱山を武装警察官まで使って襲撃させていた。中国官憲も加わった排日運動の激しさは、日本国内では満蒙の危機が叫ばれる自体を招き、それを許す政府の「軟弱外交(国際協調外交)」を攻撃する世論が高まった。同年7月に満州満宝山事件が起きる。

ja.m.wikipedia.org

 初めて聞く事件なのでWikipediaの説明を貼っておきます。この事件はWikiによれば「入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件」だった。日本国民となった朝鮮人を守るために日本の警察と中国人農民が衝突したわけです。この事件では死者はでなかったが、この事件をきっかけになって排日運動が上海を中心に中国全土に広がっていきました。

 このような状況で満州事変が起こります。南満州鉄道警備隊であった兵力1万の関東軍が、戦車40両、軍用機50機を持ち機関銃や迫撃砲を標準装備していた二十数万の張学良軍を駆逐するという「大成功」を収めたのが満州事件であった*1

政府の対応

 満州事変に対して若月内閣は国際協調主義のため不拡大の方針をとった。完全装備の張学良軍20万に対して鉄道警備隊1万人という兵力で対峙する関東軍に対して朝鮮からの援軍派遣も認めないとした。

 そのような若槻内閣の方針は軍部に無視されて朝鮮から援軍が派遣されることになったが、昭和天皇の許可を受けたわけではなかった。そのような軍の行動は、軍による統帥権干犯という憲法違反にほかならなかった。しかし、若槻首相が事故的にカネを出すことに同意してしまったことから、軍の責任がウヤムヤになってしまった。ウヤムヤになったどころか、満州に越境した朝鮮軍司令官の林銑十郎は「越境将軍」ともてはやされ、二・二六事件の後には総理にまでなったのである*2。 

軍による「統帥権干犯」ーーー軍国主義国家の誕生*3

 このような軍の出先(関東軍)による統帥権干犯行為がまかり通ったことは、満州事変以降、誰も軍部の出先の暴走を抑えることができなくなるという結果を招いた。満州事変以降、軍の出先は政府の方針を無視していうことをきかなくなっていった。これは明治憲法が全く想定していなかった軍国主義国家の誕生であった*4

 陸軍の軍人の暴走を助長させたのは、満州事変で張学良軍がほとんど戦わず退却した事実であった。この後も、中国軍との多くの戦闘は、このような形で中国が戦いを避け、日本軍が駆逐するという展開が多くなる。著者はその理由を中国の兵法によると記述しているが、下記の本を私なりに解釈して超要約すると、中国国内の国民党、共産党は互いに本丸の敵はお互いであって日本ではなかった。日本が本丸の敵ではないので、日本軍との戦いで戦力を浪費しないように逃げていた、ということができる。中国の兵法というよりは、日本軍は本丸の敵ではないので戦力浪費しない戦略がとられていた。

中国共産党、その百年 (筑摩選書)

 しかし、日本軍の立場から見れば、逃げる軍閥や国民党、共産党の軍との戦闘は弱腰に見えてたわけで(実際に日本軍は強かった。兵数は中国が多くても訓練されていないのですぐ逃げてしまうのだ)、中国大陸で泥沼の戦いにのめりこんでしまう。

 その結果、短期決戦の備えしかなかった日本軍は個々の戦闘ではほとんど負けることはなかったが、全体の戦争では英米の支援を受けて持久戦の態勢を整えた中国に敗れることになる*5

 

政府が満州事変を事後的に認めた背景*6

 国際協調路線の若槻内閣が事後的に満州事変を認めたのは、欧米諸国が、当初は満州国について基本的には承認の方向で「華北地域については、その権益を共同管理する意向であり、日本に対して協力的な態度で挑んでいた」(安達誠司『脱デフレの歴史分析』)ことがあった*7。これは高校の歴史の教科書とは異なる見解ですね。一般的には。、満州事変で国際的に孤立したというイメージですが、じつは満州事変の軍事的行動そのものよりも、このあとの日本の対応が、特に陸軍の勝手な行動がひどかったことから国際的に浮いてしまいます。

 米国はもともとロシアの勢力圏だった満州を日本と共同開発しようという思惑を持っていた*8南満州鉄道への米国の投資は、日露戦争からの懸案であり、田中義一内閣(1927ー1929)の時に井上日銀総裁とモルガン銀行総裁ラモントとの間で具体的な合意までなされたが、中国政府の反対で挫折した経緯があった。マジか・・・。日本にとってはここで共同開発してくれたらという思いがあるが、中国にとっては我等の国土でなに勝手なことしてんねん!って感じなんですかね。

 ラモントは満州で日本が「満鉄付属地」を管理しているのは米国がパナマ運河地帯を管理しているようなものであると理解しており、井上蔵相の金解禁を強く進めたのも、満州に対して日本と共同出資する地ならしという思惑があったそうだ*9

 尚、満州事変が起こった時点では清朝は滅亡しており、それに変わる国家も成立していなかったため、清国の主権尊重という問題もなくなっていたことも満州事変が欧米の強い反発を招かなかった要因であったそうだ。正直言って、それは欧米の詭弁だと思いますけどね。蒋介石は怒っているわけだし。

 では、一般的に流布する満州事変による国際的孤立するという話はどこからやってきたのか、みていきたい。満州事変後、日本軍が欧米諸国を排除して権益拡大しようとしたことに加えて、欧米諸国の虎の尾を踏んだからである。それが上海事変だった。

第一次上海事件で欧米諸国の対日観が激変

 昭和7(1932)年1月、第一次上海事件が勃発*10

 当時の上海は、列強の対中国投資の7割以上が集中する極東最大の都市で、アジアの金融の中心であった。英国、フランス等の租界が形成されていた。その上海を日本軍が攻撃したことは、西欧諸国の日本に対する見方を劇的に変えることになった。上海事変満州事変から世界の関心をそらすための日本軍の出先が起こした事件と言われるが*11、実際にもたらされた結果は、西欧諸国の厳しい批判をくらうことになった。

 国際金融の重鎮で親日家のラモント総裁(モルガン銀行)は「上海事変はそのすべてを変えた。日本に対して何年にもわたって築き上げてきた好意は、数週間で消滅した」(三谷太一郎「国際金融資本とアジアの戦争」*12)とまで述べるようになった。

 米国の具体的な対日外交方針の変更がなされるのはルーズベルト大統領になってからであった。具体的には、ソ連を承認(1933年)して友好関係を築き、日本を牽制する態度を示した。ソ連は1934年には国際連盟の加盟を認められることになる。日本が脱退した国際連盟に。。。

 ソ連満州事変の起こった昭和6(1931)年から日本に不可侵条約の締結を提起して関係改善を求めてきたが、米国の対ソ外交方針が変化した結果、態度を徐々に変化させ、日本への対決姿勢を強めていった。

 日本は満州事変そのものではなく、上海事変で国際的金融センターで戦闘行為して国際的な顰蹙を買った。満州への「侵略」ではなく、上海を戦場にしたことで欧米諸国の日本への態度が変わったのだ。それが日貨排斥運動につながっていくし、ブロック経済化するなかで、日本だけが取り残されていくことになる原因であった。

満州事変のツケ①ーーー日貨排斥運動

 満州事変によって日貨排斥運動が決定的なものとなった。日貨排斥とは日本製品不買運動のことだ。国民党政府は、在華日本企業と日本個人への中国人の労働提供は禁じられ、違反した場合には売国奴として死刑を含む刑罰と私有財産の没収が科された。昭和7(1932)年の第一次上海事件で日中衝突が起こると運動は暴力化していった。

 日貨排日運動の結果、1920年代中期まで日本の総輸出額の20%のシェアを占めていた中国本土との貿易は、昭和12(1937)年には5%台まで落ち込んだ。満州事変の結果、日本は中国本土との貿易の利点を失い、市場を他に求める必要に迫られることになった。しかし、昭和5(1930)年のスムート・ホーリー関税法によって米国市場から締め出された日本にとって厳しいものであり、昭和7年8月に英国のスターリング・ブロック形成で世界がブロック経済化が決定したことでさらに深刻化していった。

満州事変のツケ②ーーー世界に広がる日貨排斥運動

 満州事件が起きた当時はシリーズ(12)でまとめたように金本位制が崩壊し、ブロック経済へ向かう途上であった。満州事変をきっかけに中国以外の市場から、日本製品の制限をもたらした。特に昭和8(1933)年3月の国際連盟脱退は、国際的な「日貨排斥」を決定的にした。

 昭和9(1934)年には中南米諸国が日本に対して貿易規制を導入、昭和10(1935)年にはエジプトが対日通商取決を破棄した。

中近東とアフリカ諸国は、日本が国際連盟を脱退したことによって差別待遇を受けるのは当然とし、(国内の)幼弱産業を保護するために堂々と日本の貿易に対する差別措置を手を携えて採用した。(中略)日本が国際連盟の一員に留まる限り、すべての加盟国と同じく、条項に記されている通りの関税と通商取り扱い上の平等を保証されていた。(中略)しかし現状は、法的にも実際的にも、もはや一変してしまった。

池田美智子『対日経済封鎖』*13

 

 上海事件を引き起こすきっかけとなった満州事変は、日本経済の苦境を追い込む「大失敗」だったと松元崇は評価する。国際連盟の脱退は、保護貿易をしたい各国の名目となったのだ。

国内の満州事変の評価

 満州事変の背景には無理な金解禁による不況が農村の疲弊を加速させ、大きな社会不安を醸し出していた状況のなかで起こった。農村の疲弊から、国土の狭い日本からは移民によって海外に新天地を求めざるを得ないという論理が主張された。その代表が北一輝だった。ちょうどその頃、アメリカは1924年に排日移民法で日本人移民を全面禁止し、1930年にスムート・ホーリー関税法によってアメリカの市場を閉ざしていた。日本人の新天地は満州に目が向けられた。無産政党は、満州事変に対していち早く支持を表明し、大多数の国民が圧倒的に支持した。満州事変は、軍への不信を信頼に転換させた転機となる事件だった。

 マスコミも満州事変を支持した。朝日新聞社は事変に関しての自社製作映画公開4024回、観衆動員数1000万人、毎日新聞も朝日以上の大宣伝を繰り広げた。但し、朝日新聞社は事変後しばらくすると軍に対して批判的な姿勢に戻り、五一五事件を批判したことが原因で、ニニ六事件では国賊として襲撃されている。

 少数ではあったが満州事変を批判した者もいた。安岡正篤*14は「いかに日本の生命線の擁護であり、自衛権の発動であり、特殊権益の確保であるにせよ、要するには外国からいえば、それは日本の利益問題である。(中略)そこで世界は果たして日本の侵略主義、軍閥主義といってあらゆる避難攻撃を始めた」(安岡正篤論語の活学』*15)と述べている。

 また、満州事変直前の昭和6年9月11日に、満蒙での不穏な動きを察知した元老の西園寺公望陸軍大臣に対して「満蒙といえでも支那の領土である以上、こと外交に関しては、すべて外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかくいうのは甚だけしからん」(半藤一利『昭和史』*16)と注意していた。

 しかし、元老の注意も虚しく、軍部への牽制は無視され、事変後の批判は少数に過ぎなかった。こうして、満州事変は、軍部の暴走の前に、明治憲法下の議会制民主主義と財政規律がともに崩壊していく時代の始まりの事件となったのであった。

 

 

 

 今日はここまで!

 複雑に絡み合う戦争への道ですが、もし時間を戻せるならば、第一次上海事件は絶対止めなければいけないだろう。満州事変までは仕方ないとして、満州を欧米諸国と共同管理すれば、国際連盟を脱退することもなかっただろう。上海事件さえ起こさなければ、もしかしたら日本もスターリング・ブロック経済に参加させもらうことができたかもしれないし、そうすれば日中戦争大東亜戦争には向かわなかっただろう。第一次世界大戦の時のように、欧州戦争で稼ぎ、経済は回復で来たかもしれない。もちろ満州の共同管理は中国の主権を侵すことではありますが。。。この方向で動いていたら、中国統一はまだ先で内戦が当面続いていたかもしれませんね。。。

  日本が満州国を建国し、日中戦争をおっぱじめて中国全域で戦闘をおこなったことが、中共、国民党の統一の敵として日本が立ち現れ、広い中国をナショナリズムでまとめあげていくことになる*17。日本が真珠湾攻撃をしかけたことで、英米を中国国民を結び付け、国民党は逃げ回って日本が戦争に負けるのを待つわけです。日本が満州を一人占めにしなければ、中国の歴史も大きく変わっていたでしょう。おそらく中国共産党国家は設立できなかったのではないでしょうか。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    血盟団事件井上準之助団琢磨暗殺)

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:302:なんてわかりやすい説明だろうか。今の時点から振り返ると軍国主義化の第一歩、関東軍の暴走のように説明されることが多いが、張学良の脅威の排除と説明されると、なるほどとうなずいてしまう。もちろんよいことではありませんよ。法を超えて勝手に動いているので。

*2:304

*3:304のタイトル引用

*4:304

*5:305:松元崇「上海事変と物の予算」を参照してまとめている。

*6:12章313ー319参照

*7:313。著者の引用を再引用

*8:アメリカのこの点についてはこちらのblogに記載しています。

kyoyamayuko.hatenablog.co

*9:314

*10:本では満州事変のが飛び火した事件として簡単に紹介されているが、Wikipediaでは阿片利権の接収と通信網を確保するためと説明しています。

ja.m.wikipedia.org

*11:と著者は説明しております。

*12:315:本の引用を再引用。

*13:から引用した部分を再引用した。

*14:陽明学者。安岡正篤 - Wikipedia

*15:引用は本から再引用

*16:317:引用を再引用

*17:

中国共産党、その百年 (筑摩選書)