「心の理論」がインストールされていなかった

目から鱗が落ちた本。

 

 気持ちのやりとりができない父親のことは少女時代から違和感を感じていた。そのせいもあってか家族問題や親子関係の本を多数読んだ。ライフワークの一環として。なぜこんなに言葉が通じないのだろう。なぜ私の気持ちが分からないのだろう。父親は常識を羅列することはあっても、なぜ「自分の気持ち」を語らないのだろう。「自分の気持ち」「本心」はあるのだろうか。無い人なんているのだろうか。

 本心に蓋をしているのは、10才で母親を病気をで亡くしたショックだからなのだろうか。10才で実母を亡くしているのに、実母について語ることは一切無い。父親の兄が大人になった私を見て「母そっくりだ」とショックを受けたことがある。そこで初めて「父親はなぜ母親の話をしないだろう?」と疑問に思ったのだ。10年ぶりに会った叔父さんですら話すのに。

 10才で実母を亡くす経験は人として大きいものなのかもしれない。深い悲しみに蓋をしているから感情が鈍感になり、浅くしか人の心を受け止められないのではないだろうか。父親という存在の謎をこのように解釈した。私の中の現時点の一つの答えだった。

 前置きが長くなりましたが、この本を読んで認識が大きく変わったのです。驚きましたがやけにストンと腑に落ちたのです。

 この本では、毒親」の大半は「非定型発達」した人であり、先天的に「心の理論」が理解できない人だ、と書いてあります。

 非定型発達とは発達障害の用語であり、発達のあり方を定型/非定型発達に区分。定型発達に対して偏りがある発達が非定型発達のと分けるわけですが、「心の理論」がわかるかどうかが重要になります。

 「心の理論」とは、サイモン・バロン=コーエンの「サリーとアンの実験」(サリーとアン課題 - Wikipedia)で「自閉症」(=非定型発達)の人が他人の心がどのように理解しているかを明らかにした理論です。

 この実験によって自閉症(=非定型発達)の人は「自分と他者が違う心をもつ人間で、他者にも自分にも内面があって、その内面はお互いに別々のものであり、他者の内面を自分は知ることはできないし、自分の内面も他者に知られることはない、ということがわからない」[234:心の病気ってなんだろう? (中学生の質問箱)]ことを明らかにしました。つまり、相手の視点に立って理解することができない、相手の心が分からないということを明らかにしたのです。

 毒親の大半は「非定型発達」の人であり、先天的に「心の理論」が理解できない人だとここまではっきり指摘した人はいないと思う。親というラビリンスで迷走していた私は、愛着理論や発達障害の本をたくさん読みながらもそれでも気づけませんでした。

父親が非定型発達?

 言われてみるとすべてが納得がいきます。もちろん発達「障害」まで程度が深くないので父親はサリーとアンの実験は定型発達と同じ回答できるでしょう。教養を愛する彼は有名な作家の小説は目を通しているのです。知識としては理解できているのです。どこまで感じ取れているかはわからないけれど。

 水島広子さんの「心の理論」なしの子育てについての章には、父親がよくいうフレーズがあふれています。配慮に欠いたコメントするが、その意図はただそのときに目に付いたことだから。本人は「だって事実だから」という感じ。そこに悪気はないし、子どもを傷つけようという意図もない。だけど、子どもにとっては一生の傷になるような人格否定的発言になる場合も多いのです。しかし、それを追求したところで「そんなことない」「気にしすぎ」など相手を否定するようなことを言う。「そんなことない」「気にしすぎ」「考えすぎ」ということはよく言われていました。

 無神経なふるまいの例として。病床の祖父を家族でお見舞いに行ったとき、祖父は兄弟の中で私だけがわからなくなっていました。それを見て父親は何度も私を説明するのです。そのたびに祖父は誰か分からない顔をするので、辛くて廊下に出て涙を拭きました。また病室に戻ると、しつこく祖父に私の名前よび説明するのです。「もうやめて」とは言えませんでした。なんで父親はここまで私を傷つけるのだろうか、黙って上を向いて涙が流れないように堪えていました。祖母が大丈夫?と声をかけてくれました。傍目で見ていても可哀相な状況だったのでしょう。でも、父親にはなぜ私が傷ついているのかが分かりませんでした。彼は事実の説明をしていただけなのです。

 このようなことが時々あり、そのたびに傷つきました。反抗期のときは父親に「なぜ私の気持ちがわからないのか」とよく詰りました。父親は「お前の気持ちはわかっている」と答えるのです。堂々巡りでした。

 

 でも、この本を読んで目からウロコが落ちたのです。ここに書かれている通りだし、これまで読んできた発達障害の本の知識からしてもあてはまるのです。

 私はずっと雪の女王の物語のカイ少年に刺さった鏡の破片を探していたました。彼の心を失わせたガラスの破片をずっと探してきたのです。

 でもそんなものは最初から無かったのです。後天的なトラウマのせいで相手の心がわからないわけではないのです。父親には「心の理論」が最初からインストールされていなかっただけなのです。先天的なものだったのです。

 鈍感に安易に傷つけてくる父親。人の気持ちのわからない父親は混乱を与えてきました。この本を読んでようやく私は父親の愛情を受け止めました。心の理論がインストールされていない父親なりの愛情を。あれが父親の精一杯の愛情だった。そのことをようやくこの年で理解したのです。彼は私の気持ちが分からない。その事実を文字通り受け止める。人の気持ちの分からないありのままの父親の愛情をありのままに受け入れる。あれが心の理論がインストールされていない彼なりの精一杯の「共感」であり愛情なのだ。こうして親を受容できるようになったのです。

 

 

 

【こぼれ話】

 脱線しますが、教授として社会生活を送りながらも非定型発達傾向が強い、下記の本の作者はサリーとアンの実験は難しく「自分なら天井から探す」と言っています。面白いですね。

 

大学教授、発達障害の子を育てる (光文社新書)