話題になった本です。
精神科医斎藤環と「いのっちの電話」という希死念慮のある方々の相談電話をしている坂口恭平さんの文通対談です。坂口恭平さんは、電話相談の仕事ではなくアーティストとして活動しながら電話相談するという精力的な方ですが、ご本人は双極性障害の当事者でもあります。
いのっちの電話は、坂口さんが一人で相談窓口をしており、すごく攻撃的な人以外はブロックしませんが(10年66人ブロック、延べ相談人数の0.3%)、自分がうまく受けいれられない相談相手には「僕には対応できない」と伝える変わった相談窓口です。それでもひっきりなしに電話がかかり、自分が対応できるときは電話に出つづけます。
いのっちの電話のあり方について、斎藤環は以下のように語ります。長くなりますが引用します。
恭平さんの責任の範囲は「個人として受け入れられる相談はいったんすべて受ける」「自分の体調が悪くならない限りは相談を継続する」「一回の相談には限りがあるのか、相談の期間には制限を設けない」というあたりになるでしょうか。
二四時間三六五日稼動する支援システムに比べて、なんと脆弱で頼りない窓口でしょうか。
でも、ここに一つの逆接があると思うのです。「いのっちの電話」は、それが個人事業であるがゆえの脆弱こそが信頼されているのではないか。
支援において重要なのは、絶対的に信頼できる強靭なシステムではなく、人間的な脆弱性をそなえ、時には不安定になったりする支援スタイルのほうではないか。
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いつでもつつがない支援「システム」は完璧で最強のような気がしますが、しかし、そのつつがなさ自体が実は支援から程遠くなるという皮肉。
これはべてるの家の精神科医鈴木敏明先生の話と通じる話しだと思います。
上記のblogにも書いていますが、
鈴木敏明先生は、
「精神病の人は、自分を自分で助ける方法を身につけられる」ーーーこれが、べてるが長い間かけて見つけたことの一つです。
逆に言うなら、暴れたら誰かが助けてくれる、抑えてくれる、そういう関係性でやっていると、遠慮なく、思いっきり激しく暴れてしまうわけですね。
と語り、完璧な精神科医や精神科のシステムは、実は逆説的に患者を病ませてしまうという。また、患者がいてはじめてそのシステムの目的を達成するので、システム自体が患者に依存していきます。患者もシステム=外部に依存するので、自分がコントロールできなくなります。互いに依存していくのです。
でも、「いのっちの電話」は、システムと違って完璧ではありません。なにより、恭平さんの体調が悪ければ電話にも出られません。恭平さんはいのっちの電話を生業にして生きているわけでありません(いのっちの電話は金銭の授受はありません)。自分の限界をさらし、そのうえで出られる電話に出て相談にのるという体制です。電話をかけるほうも恭平さんが完璧であることを求めていません。
脆弱で不安定。これを弱さというのならば、その弱さを開示しているからこそ、相手も頼れる限界を知って、それでも話をしてみたくて電話をしているのかもしれません。
べてるの家の精神科病棟の役割も、非常に限定的です。医者ができることは薬の調整くらいで、それ以上のことはできないという限界をわきまえています。
でも、それは患者を見放すということではないのです。精神科として患者にできることは限界があっても、その患者さんが人として生きていくのに限界はありません。その人がどのように生きていくかはその患者さんの選択です。鈴木先生は、べてるの地で同じ仲間から話を聞いてみたらと病院から社会に開放します。患者だったその人は、様々まな人の話を聞いているうちに、自らのことも語りはじめ自分の人生をいきはじめます。もちろんいったりきたりしながら。
ふと、『ブループリント 下』のこんな話を思い出しました。
図書館で借りて読んだので引用ではなく私の読書メモをもとに書きますが、PC上で人間とAIが協力して作業する実験をしたところ、AIにわざと間違うプログラムを組み込み「ロボットでも間違うことがあります」とコミュニケーションをとるAIと組み合わせたほうが、完璧なAIと作業させるより、集団の共同作業を円滑にできるというという内容でした。
人間は間違うことのない完璧なAIと作業するより、間違いをするプログラムを組まれたAIと作業するほうが、協力行動を行い、作業の成果もあがるという驚くべき実験です。人間は完璧なものに対しては主体的に関わろうとしなくなります。非常に興味深い実験ですよね。
完璧なシステムだからこそできないこと。脆弱性が無いということ自体が逆説的に多いに弱点になるのでした。システムが逆説的に生み出すものは、パターナリズムであり、共依存関係です。
脆弱性にはできることがある。限界があり、完璧ではないからこそ、その限界を引き受ける。限界があるからこそ依存できず、自分なりにふんばらないといけない部分が残る。その部分こそが当事者の自主性でしょう。そして、限界を互いに認め合っているからこそ、互いに協力するんですよね。
いのっちの電話、べてる、間違うようにプログラムされたAIの話がつながった、というお話でした。