kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

日本の通貨制度①江戸の通貨制度ーーー松元崇『持たざる国への道』第二部軍部が理解しなかった金本位制の読書ノート

 松元崇さんの本を通して、財政・金融面からなぜ日本は戦争を選択したのかをまとめたのがこちらの記事ですが、軍部の財政・金融政策がいかにおかしかったかを理解するためには通貨制度を理解する必要があります。が、それを通史と一緒にまとめるとややこしくなるので、前回の記事ではそこまで触れませんでした。

 今回のシリーズでは、江戸時代から通貨日本の通貨・金融政策の特徴をまとめていきたい。近世から近代へ移行し、四苦八苦しながら通貨制度を確立していき、デフレとインフレと戦った血と汗の歴史をみていきたい。その歴史を知ったとき経済音痴の軍部がいかに日本の財政と金融を壊したのかわかるだろう。

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 通貨制度について、松元崇さんの本から学んでいきたい。数字は電子書籍のページ数を意味します。ご了承ください。

「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか (中公文庫)

江戸の通貨制度ーー金貨の流通が見られない金本位制

 松元崇は一つの問いを提起する。「なぜ、我が国においては金本位制を導入しても金貨の流通が見られなかったのであろうか」(2678/4403)。日本は明治30(1897)年に金本位制を導入したが、金貨はほとんど流通しなかった。

 金本位制の辞書的な意味は下記のとおりである。「各国の中央銀行が発行した紙幣と同額の金を保有し、いつでも相互に交換することを保証する」(下記サイト)ものであり、イギリスなどでは実際に金貨と交換することは多かった。

www.nomura.co.jp

 実際に、明治維新期に日本を訪れた欧米諸国の商人は金貨に対する執着は強く、明治維新政府が太政官札を金貨ではなく紙幣に交換しようとしたときには激しく抵抗したという*1

 日本は金本位制を導入したので金貨と兌換できるはずだが、日本銀行に金貨と兌換するために人が殺到することはなかった。松元崇はその理由を「そもそも人々が金貨ではなく紙幣の流通を一般に受け入れていたから」(2678/4403)と説明する。では、なぜ人々は紙幣を受けれいているのか。

実は、我が国では江戸時代から金貨は一般には流通せず、藩札や銭が幅広く流通していた。

商業上の決済には為替や手形が用いられており、大判や小判といった金貨の利用は贈答用に限られていたのである。

2789/4403

 庶民にとって身近なのは金貨や銀貨ではなく紙幣(手形など含む)や銭だった。

 

江戸時代の管理通貨的な通貨制度

 江戸時代の全国的な通貨制度は徳川家康によって確立された。家康は関ヶ原の戦いに勝利すると、その十日後には石見銀山を差し押さえ、その翌年には佐渡金山、田島生野銀山、伊豆金山など各地の金銀山を幕府の直轄にした。これらの金銀を背景に全国的な通貨制度を確立した*2。そして、慶長14(1609)年には、諸藩の金、銀貨の鋳造禁止令を出した。最終的に各藩の金銀流通が消滅するのは元禄8(1695)年の貨幣改鋳によってだった。改鋳された元禄小判は慶長小判の金の含有量は3分の2であり、悪貨が良貨を駆逐する形で国の幣制が確立した*3。通貨制度が確立するまで約90年かかっているんですよね。

 江戸時代は8回にわたって貨幣改鋳が行われた。江戸幕府は米価の維持を第一に考えており、極端な品位低下をともなう貨幣改鋳は行われず、安定的な運用が行われた*4。「徳川幕府が管理通貨制度的な金本位制を実施していた言ってよいものであった」(2731/4403)という。

 更にややこしいことに、地域ごとに管理通貨制度があった。江戸時代で実際に多く用いられていたのは藩札という地方貨幣だった。藩札を最初に発行したのは寛文元(1661)年の福井藩だった。藩札については幕府は禁止令を出したこともあるが、吉宗の時代、享保十五(1730)年に許可制となった。藩札は廃藩置県となった明治4(1871)年において244の藩札があったそうだ*5。 藩札は西日本に顕著であり、専売制度の運営、産業育成の目的をしたものが多く、投資銀行的な役割を果たしたという*6

 

江戸時代の為替

 各藩では藩札が流通していたが、幕府の直轄地である天領の大坂や京都の商人が使ったのが手形だった。江戸では手形よりも金銀貨取引が多かったが、京都では50%、大坂では99%が手形だった。降り出された手形は正貨である大判、小判に引き換えられることなく転々と流通し(廻り手形)、現金と同じ役割を果たした。そのような環境の中で両替商は十分な正貨の引き当てをもたない空手形を発行するようになり、一万両の資本で六、七万両の手形を降り出すこともあった*7。著者は「今日の銀行の信用創造の原型といえる」(2787/4403)と評価する。

 江戸時代は為替が発達する。遠隔地決済の発展だ。近代的な為替手形は、寛永五(1628)年、大坂の天王寺屋五兵衛によって創設された。江戸時代には政治の中心である江戸、経済の中心である大坂との間の商品流通が盛んで、為替取引が発達した*8。商人達の江戸と大坂の為替送金への意識は高く、1763年には大坂で金銀の先物取取引所が設立され、為替差損を最小限にとどめようとした。江戸時代は為替レートを意識の高い社会だった。江戸時代に為替が発達していたからこそ、明治六年にはいちはやく為替関連法制を整備できたことから伺える*9

 また、藩札も各藩によって価格がまちまちだったことから為替レート問題を発生させた。藩によって藩札の価格がまちまちなのは、財政が苦しいときに藩札が増発され、価格が低迷することがあった*10

 江戸時代の人々にとって、藩札という通貨の価格が日常的に変動する相対的なものと認識していたが、正貨である金貨も相対的な価値の通貨と認識されていた。そのような状況で活躍したのが両替商だったそうだ。

両替商は、武士の俸禄である米の藩札を銭に交換した。また、品質が様々の銭を相互に交換した。銀についても品質がまちまちな領国銀(各藩が鋳造していたもの)が幕府の禁令にもかかわらず出回っていたことから、その交換も行っていた。丁銀(ナマコ形の銀塊)と豆板銀(丁銀の補助貨幣)であったが、どちらも軽量貨幣で、その都度、量目を計って使用されていたことからそれを交換して銭に交換するといった業務もあった。

2853/4403

 

めっちゃ大変じゃん!!!

今の時代よりややこしくないか?

国内の取引でこんなにややこしいとは。。。

 

これだけややこしいことを日常的に行っていた江戸時代。

 

大坂では米や金銀の先物取引市場が創設された。

実は江戸時代は金融が発達した社会だったのだ。

複雑な金融取引を支えた背景には和算の発達があった*11

 

米本位制ーーー安定的な幣制の背景にあったもの*12

ようやく結論になります。

江戸時代の通貨はなぜ概ね安定していたのだろうか。

 

 江戸時代の通貨制度は、幕府は各藩に藩札を許可しながらも、幕府自体は紙幣の発行をしなかった。通貨制度の総元締めの幕府が紙幣を発行しなかったので、フランスのジョン・ロー事件や米国のコンチネンタル事件のような紙幣が紙屑になる事件は起こらなかった。

 幕府は米価の安定を重視したことから、安易な通貨増発に流れることもなかった。江戸時代、武士の俸禄が扶持米として支給されていたため、米価の安定は国民の大部分を占めていた農民層だけでなく支配層の武士の生活にとって大きな意味があった*13

 米価は豊作で下落し、凶作で上昇する。幕府は米価安定の政策を行い、260年の江戸時代において、江戸初期は20匁だった米価は40 ~100匁で推移した*14天明の大飢饉で132匁、天保の大飢饉では172匁だった*15

幕府が米価安定策をとったことが、中央銀行という通貨の番人が存在しないにもかかわらず通貨制度に対する人々の信任を確立させ、金貨の流通がほとんど見られない通貨システム一般化させる背景になったのである。

それは、米本位制ともいうべき安定的な通貨制度であった。

2928/4403 

 

幕府崩壊ーー米本位制の終焉

 安定した米本位制の通貨制度に終わりがきます。日米通商修好条約の締結(1857年)で、米国総領事館ハリスから国際レートの三分の一という金銀交換レートを押し付けられます。これは不当なレートでした。

 このレートを利用した外国商人の鞘取りで日本から大量の金が流出し、大量の銀が流入した。これは外国商人によって金貨が三分の一の品位の銀貨に改鋳されたようなものだった。外国商人は莫大な利益を得ることになった。

 幕府も1863年に貨幣改鋳し出目(改鋳差益)を歳入している。その結果、物価が狂乱した!。安政五(1858)年に114匁だった米価は慶応三(1868)年には870匁と約八倍となり庶民の生活を直撃した*16

 米価高騰は農村を突然豊かにした。このお金で農村から繰り出して「ええじゃないか」のお陰参りのお祭り騒ぎが起きたという*17

 日米通商修好条約後に流出した金は1957万両に達し、明治元年の通貨流通残高の4倍に上る膨大なものだった*18鎖国から開国し、不当なレートで大量の金が流出。国内の米価に影響を与えインフレは止まらなかった。江戸幕府の安定した米価政策が崩壊し、江戸幕府も崩壊したのだった。。。

 開国は経済秩序の大混乱をもたらし、政治と経済システムのバージョンアップ(近代化)をせざるを得なくなったのだった。

 

(まとめ)

・幕府は金貨銀貨の鋳造を独占、しかし紙幣の発行は無し

・各藩は藩札を発行

・民間は手形取引が盛ん

・江戸時代が安定した通貨制度だったのは米本位制だったから

 

米が貨幣価値を安定させていた。

そんなことはあるのだろうか。

過去に紙幣と塩、銀と紐づけた社会がありましたね。中国の元です*19

ーーーーーー

このシリーズはまとめるのが大変かも。

時間のあるときにぼちぼちまとめていきたいと思います。

 

*1:2642/4403を参照にまとめた。また、欧米商人の金貨への執着の背景には、18世紀フランスのジョン・ロー事件や米国におけるコンチネンタル紙幣事件があったという。ようするに紙幣が紙屑になった経験があるので金貨に執着するのだ。2654,2668/4403

*2:以上、2701/4403

*3:2716/4403

*4:2731/4403

*5:2744/4403

*6:同上

*7:2787/4403をまとめた。

*8:2794/4403

*9:2807/4403

*10:2829/4403。久留米藩の銀札騒動。薩摩藩調所広郷のデフォルト。なお。明治維新太政官札の発行が可能だったのは財政担当者が福井藩由利公正だったことが大きいと説明している

*11:2865/4403。和算は庶民にまで浸透し、神社仏閣には算額が奉納されていた。算額 - Wikipedia

*12:2905/4403の章タイトル

*13:2913/4403からまとめた

*14:同上

*15:同上

*16:2940/4403をまとめた。

*17:同上

*18:同上

*19:

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システムにはできず脆弱さにできることーーー『いのっちの手紙』を読んで

話題になった本です。

 

 精神科医斎藤環と「いのっちの電話」という希死念慮のある方々の相談電話をしている坂口恭平さんの文通対談です。坂口恭平さんは、電話相談の仕事ではなくアーティストとして活動しながら電話相談するという精力的な方ですが、ご本人は双極性障害の当事者でもあります。

 

いのっちの手紙

 いのっちの電話は、坂口さんが一人で相談窓口をしており、すごく攻撃的な人以外はブロックしませんが(10年66人ブロック、延べ相談人数の0.3%)、自分がうまく受けいれられない相談相手には「僕には対応できない」と伝える変わった相談窓口です。それでもひっきりなしに電話がかかり、自分が対応できるときは電話に出つづけます。

 いのっちの電話のあり方について、斎藤環は以下のように語ります。長くなりますが引用します。

 

恭平さんの責任の範囲は「個人として受け入れられる相談はいったんすべて受ける」「自分の体調が悪くならない限りは相談を継続する」「一回の相談には限りがあるのか、相談の期間には制限を設けない」というあたりになるでしょうか。

二四時間三六五日稼動する支援システムに比べて、なんと脆弱で頼りない窓口でしょうか。

でも、ここに一つの逆接があると思うのです。「いのっちの電話」は、それが個人事業であるがゆえの脆弱こそが信頼されているのではないか。

支援において重要なのは、絶対的に信頼できる強靭なシステムではなく、人間的な脆弱性をそなえ、時には不安定になったりする支援スタイルのほうではないか。

68-69

 

 いつでもつつがない支援「システム」は完璧で最強のような気がしますが、しかし、そのつつがなさ自体が実は支援から程遠くなるという皮肉。

 

これはべてるの家精神科医鈴木敏明先生の話と通じる話しだと思います。

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上記のblogにも書いていますが、

鈴木敏明先生は、

「精神病の人は、自分を自分で助ける方法を身につけられる」ーーーこれが、べてるが長い間かけて見つけたことの一つです。

逆に言うなら、暴れたら誰かが助けてくれる、抑えてくれる、そういう関係性でやっていると、遠慮なく、思いっきり激しく暴れてしまうわけですね。

べてるの家の「当事者研究」 (シリーズ ケアをひらく) 266

 と語り、完璧な精神科医や精神科のシステムは、実は逆説的に患者を病ませてしまうという。また、患者がいてはじめてそのシステムの目的を達成するので、システム自体が患者に依存していきます。患者もシステム=外部に依存するので、自分がコントロールできなくなります。互いに依存していくのです。

 

 でも、「いのっちの電話」は、システムと違って完璧ではありません。なにより、恭平さんの体調が悪ければ電話にも出られません。恭平さんはいのっちの電話を生業にして生きているわけでありません(いのっちの電話は金銭の授受はありません)。自分の限界をさらし、そのうえで出られる電話に出て相談にのるという体制です。電話をかけるほうも恭平さんが完璧であることを求めていません。

 

 脆弱で不安定。これを弱さというのならば、その弱さを開示しているからこそ、相手も頼れる限界を知って、それでも話をしてみたくて電話をしているのかもしれません。

 

 べてるの家の精神科病棟の役割も、非常に限定的です。医者ができることは薬の調整くらいで、それ以上のことはできないという限界をわきまえています。

 でも、それは患者を見放すということではないのです。精神科として患者にできることは限界があっても、その患者さんが人として生きていくのに限界はありません。その人がどのように生きていくかはその患者さんの選択です。鈴木先生は、べてるの地で同じ仲間から話を聞いてみたらと病院から社会に開放します。患者だったその人は、様々まな人の話を聞いているうちに、自らのことも語りはじめ自分の人生をいきはじめます。もちろんいったりきたりしながら。

 

 ふと、『ブループリント 下』のこんな話を思い出しました。

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(下)

 

 図書館で借りて読んだので引用ではなく私の読書メモをもとに書きますが、PC上で人間とAIが協力して作業する実験をしたところ、AIにわざと間違うプログラムを組み込み「ロボットでも間違うことがあります」とコミュニケーションをとるAIと組み合わせたほうが、完璧なAIと作業させるより、集団の共同作業を円滑にできるというという内容でした。

 人間は間違うことのない完璧なAIと作業するより、間違いをするプログラムを組まれたAIと作業するほうが、協力行動を行い、作業の成果もあがるという驚くべき実験です。人間は完璧なものに対しては主体的に関わろうとしなくなります。非常に興味深い実験ですよね。

 

 完璧なシステムだからこそできないこと。脆弱性が無いということ自体が逆説的に多いに弱点になるのでした。システムが逆説的に生み出すものは、パターナリズムであり、共依存関係です。

 脆弱性にはできることがある。限界があり、完璧ではないからこそ、その限界を引き受ける。限界があるからこそ依存できず、自分なりにふんばらないといけない部分が残る。その部分こそが当事者の自主性でしょう。そして、限界を互いに認め合っているからこそ、互いに協力するんですよね。

 

 

 いのっちの電話、べてる、間違うようにプログラムされたAIの話がつながった、というお話でした。

【訂正】ドライブ・マイ・カー

近くの映画館に来たので二回目を見に行きました。

 

一回目で勘違いしていたところ訂正します。

車のなかで高槻が話す音の物語の続きの言葉を勘違いしていました。

文中で訂正します。

 

ーーーーーーーーーーーーーーー

見たいと思いつつ気づいたら上映が終わってしまった。

が!

たくさん受賞したので、ブルーレイ販売が始まったのに、イオンの映画館で上映してくれてようやく見れた作品です。

田舎に住んでいても見ることができました。

dmc.bitters.co.jp

 

映画館でこそみたい作品です。

 

素朴な感想としては、

 

滋味深い、しみじみと染みる映画でした。

 

そして、この映画ではじめて村上春樹の描きたいものがわかわりました(笑)

 

遅いよね。

そうなんです。

有名作家だから村上春樹にチャレンジして何度も投げ出しているのが私です。

なぜか最後まで読めない。

みんなのよくある感想のように、セックスの話ばかりなんなの、

厨二感強すぎwというのが正直な感想だったのでした。

 

この映画でもそうなんです。

エクスタシーを感じると物語を語りはじめるとか、

第二人格とか

厨二感じゃないですか?

小説で読むとどうしてもシラけてしまって投げ出してしまう。

いや、ドラマや映画だってシラけてしまうかもしれない。

 

 

でも、この映画は最後まで魅せました。

映画の脚本とそれを受肉して演じる俳優の力の凄さなんでしょう。

 

この映画は多重の「声」が響く。

家福の妻の音の声。

ワーニャ伯父さんを台詞を淡々と読む妻の音の声。

ワーニャ伯父さんの舞台俳優の声。

 

でも、最後は「声」を発声することができない女優が手話で演じる。

その手話が「人として生きる核心」を無声で表現する。

静けさの中に響く手話の音。

声にはならないその音。

言葉で表現尽くせぬ音。

 

書いていて気づきました。

妻の「音」の名前はその名前にすべてがつまっていました。

 

 

この映画では「声」を聞く者がいる。

主人公の家福悠介。

子供を亡くしたあと、音はエクスタシーを感じると物語を紡ぐ。

その物語を書き留めるのが悠介でした。

妻亡きあとは

悠介は台詞を録音した妻のテープを聞きつづける。

そして、専属ドライバーの渡利みさき。

みさきは、母親の第二人格の声を聞いている。

「声」を聞く側の二人は、生き残りです。

 

いったいなんの「生き残り」なのか。

この辛い人生からの生き残りなのです。

二人は生き続けるしかない。

なぜならそれが生きるってことだからです。

 

こどもを亡くした家福夫婦は、

それでも夫婦を続けていた。

あるとき、妻の音がセックスすると物語を語るようになり、

それを脚本にして投稿したところ受賞し、脚本家としてデビューする。

子を失って茫然自失となっていた音の第二の人生が始まったかのようだった。

でも、それは、秘密があった。

脚本したドラマのたびに若い俳優を連れ込む*1

夫はそのことを知っていたが夫婦関係を壊すことが怖くて知らないふりをします。

でも、あるとき、妻から「話があるの」と言われる。

待ち合わせの時間にいけず、夜中に帰ってくると

妻は倒れていた。脳溢血で音の話を聞けないまま亡くなります。

 

そこから悠介の混乱がはじまります。

なぜ音は悠介を愛しながら、多数の男を連れ込んだのか

音は、自分が浮気していることを悠介は知っていると知っていたのではないか。

音がわからない。

 

この謎は映画を見ている観客にとっても謎です。

最後の浮気相手の高槻耕史は恋多き男です。

高槻はメッセンジャーです。

彼は悠介に近づき、音の物語の続きを最後にカミングアウトします。

「私が殺した 殺した 殺した」*2

 

 

 

音はこどもを亡くし、脚本家となり、第二の人生を送っているかのように見えた。

でも、違ったのです。

喪失は埋まらない。

たくさんの男と寝ても埋まらない。

もちろん愛する夫と寝ても埋まらない。

秘密とは多数の男と不倫していることでしょうか?

そうではないでしょう。

このどうしようもない喪失感。

誰とも共有できない喪失感。

何をもってしても埋めることができない喪失感。

あなたが目をそらしつづけるもの。

だから、音は死んでしまう。この物語で。

喪失感は「謎」となり悠介を困惑しつづける。

 

長年連れ添った「音」とはいったい誰だったのだろうか。

 

渡利みさき。

みさきは岬。暗闇に明かりを燈し、道を示す。

みさきは、悠介の先を歩いている人でした。

母親と別人格を見殺しにしたみさきは、すべてを受け入れて生きている人だった。

みさきは家福夫妻の亡くしたこどもと同じ年齢だった。

みさきも、悠介と出会い、過去に向き合うのだった。

 

音とはいったい誰だったのか。

 

悠介はみさきと旅に出て、ようやく受け止めることができる。

ありのままの音を。

そしてこの音は、アーニャ叔父さんの手話の音と重なる。

声にすらならない、言葉にならないすべてを受け入れる。

 

 

家福・・・かふく・・・

 

この変わった苗字は、禍福は糾える縄の如しという慣用句があるように、「禍福」からきているだろう。「家」のなかの「禍福」。

 

音の物語にでてくる「山賀(やまが)」は、山の中の家という意味でしょうか。

いつかばれることを待っているのに、

ばれても無かったことにされた場所。

こんなに大変なことが起きているのに、外はまるで平和で、

まるで何もなかったかのように振る舞う。

秘密を守りつづけるために監視カメラをつけられた。

悠介は、ありのまま受け止められず目をそらし、外の世界にばれないようにつけられた監視カメラになってしまった。

 

幸福な日々も罰も受け止めて悠介は今日も生きていくのだ。

ドライブ・マイ・カー

気づいたら私たちは車に乗っていて、動けなくなるその日まで運転するしかない。

*1:不倫は一人なのか、多数なのか、語りしかないので判別できませんが、私は多数の男と寝ている説をとります。というのも、映画の最初の方で悠介は音から若い俳優を照会される。二人が去ったあと、ジャケットを椅子に投げつけていました。おそらくこれから不倫することを悠介は予測できているからでしょう。

*2:1回目を見たときの感想では「死にたい 死にたい 死にたい」と書いていましたが、私の勘違いでした。「死にたい」より「私が殺した」という言葉の方が痛々しいですね。物語の文脈上、「殺した」のはもう一人の空き巣です。この空き巣の比喩は誰でしょうか。一つは家福が理想に思う夫婦像であり、もう一つはこどもでしょう。二重の自責が音に重しとなっていたわけです。こどもを殺してしまったという言葉にすらできない後悔、理想の夫婦だった夫婦関係を他の男と寝て壊した後悔。後者は明らかに自分が自ら犯した罪です。それなのに、なかったことにされる。家福は見逃すことで妻と向き合わなかった。音に責任を取らせないことで、音が苦しむことになる。言葉でぶつかり合わないことで最終的に、物理的に妻が亡くなり、永久にコミュニケーションがとれなくなるわけですね。 

【完】日中対立の始まり(3)日清戦争ーーー『中国史とつなげて学ぶ日本全史』

 琉球処分まで書きました。ここでようやく日清戦争になります。

 

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 岡本隆司さんの本をまとめていきたいと思います。

中国史とつなげて学ぶ 日本全史

 

 

日清対立の争点は朝鮮半島*1ーーー朝鮮は属国が独立国か

 日清修好条規の第1条相互不可侵条約で清朝が想定してのは朝鮮半島でした。しかし、日本が属国のはずの琉球王国を日本に組み入れたことに衝撃を受け、修好条規では日本を行動を縛ることはできないと痛感したそうです*2。 

 そこで清朝アメリカや西欧諸国と朝鮮との間で条約を締結し、朝鮮半島清朝の属国だと認めさせる戦略をとります。しかし、アメリカは「朝鮮が清朝の属国である」(195)と明記することには難色を示します。そこで、清朝は「照会」という公文書、親書を作成し、「朝鮮はかねてから中国の属国だったが、内治外交はずっと大朝鮮国君主が自主してきた」(196)という内容の文書を作成し、条約とセットで照会文書を作ります*3。同時に「朝鮮が中国の属国であることは、アメリカとはまったく関係のない話」とし、だから朝鮮とアメリカは対等条約を締結しても問題ないと主張。これによってアメリカは軟化し、1882年に米朝修好通商条約が締結されます。これにより、清朝は「照会」文書をもって、清朝と朝鮮の属国関係を主張するようになります*4

 しかし、清朝は一歩遅かったのでした。

 1876年、日本と朝鮮は「日朝修好条規」を締結し、「朝鮮は自主の国」と明記されました*5。そのため、当時の日本は朝鮮は独立国とみなしていました。

 ここでも朝鮮の位置づけに齟齬が起きました。日朝修好条規は独立国、米朝修好通商条約では属国と解釈されたわけです。

 この本では朝鮮の人々の気持ちについてはかかれていませんが、複雑な気持ちだったでしょうね。

 

朝鮮の内乱

 米朝修好通商条約を締結した二ヶ月後、1882年に壬午軍乱が起きます。兵士が蜂起して時の政権を倒して新政権を樹立します。日本公使館も襲撃され、複数の日本人が殺害されました。

 これに対して日本は軍隊を派遣し、朝鮮政府を相手に賠償金と事後処理の交渉を行います。それを見た清朝も、朝鮮半島を日本に奪われることを警戒して軍を派遣します。そして、清朝宗主国として反乱軍を鎮圧し、前政権を復活させると、そのままソウルに駐留しました。

 清朝による内政干渉で不満を抱いた朝鮮人の人々は1884年に甲申政変を起こします。クーデターを起こして政権を打倒するが、駐留する清朝軍から反撃を受けて三日で戻りました。このとき、クーデター側は日本に軍隊の支援を求めました。しかし、清朝、日本ともに軍備が不十分だったため大規模な戦闘にはなりませんでした*6

 著者によれば、日本はこの経緯に大きなショックを受けたそうです。朝鮮が清朝の属国に過ぎないことを目の当たりにしたからです。日本は朝鮮を見下す姿勢はあったものの、独立国として日本のように近代化してほしいという望みをもっていたそうです*7福沢諭吉はこの一件から「脱亜論」を主張するようになるそうです。日本は清朝を仮想的国として見るようになります*8

 

二回の内乱、三回目はない!ーーー日清戦争に突入

 そして、1894年に甲午農民戦争(東党の乱)が起こります。朝鮮の政府は清朝に鎮圧を依頼します。それに対して、日本は「覚悟」を決めていたそうです*9。日本軍は過去二回の内乱で清朝の軍隊に圧倒されています。三度も同じことを繰り返すと、日本の立場が劣勢になると考えていました。そのため、日本は覚悟を決めて戦争をはじめます。それが日清戦争です。ただし、明治政府も一枚岩ではなく、伊藤博文は開戦に反対でしたが、外務大臣陸奥宗光などに押されて、開戦やむなしという方向に向かったそうです*10

 

日ロ対立のはじまりーー日清戦争でロシアをよびこむはめにーー

 日本からしかけた日清戦争は圧勝で終わります。朝鮮半島のみならず遼東半島まで制圧し、北京に迫る勢いでした。しかし、著者いわくこの「勝ち過ぎ」が、その後の日本に禍根を残すことになります。。。

 清朝は戦争に負けて、日本にいっそう脅威を感じるようになります。そのため、清朝はロシアと組むしかないと考えます*11。あー!歴史って難しいですね・・・

 清朝は東三省(マンチュリア・・・遼寧吉林黒龍江)の利権を代償にロシアを引き入れるのです。この東三省とはいわゆる「満洲」です*12

 北京から見ると地政学的に、朝鮮半島遼東半島は一帯であり、朝鮮半島の安全を確保したければ東三省=満洲を押さえなければいけない地域なのです*13清朝満洲民族であり、満洲は聖域です。清朝時代は満洲人以外は居住できませんした*14清朝は「満洲」の安全のために朝鮮半島固執したわけですが、日清戦争に負けてしまいます。そのため、禁断のロシアに接近するわけです。

 また、日本は戦争に勝利したにもかかわらず三国干渉を受けます。それでも、日本はロシアに対し満洲朝鮮半島で棲みわけしようと提案しますが、ロシアは拒否します。ロシアは日本を見下していたということもありますが、ロシアも清朝と同じように満洲朝鮮半島を一帯として捉えていたからです*15

 そして、1904年に日露戦争に突入します。著者は、日清戦争日露戦争も「朝鮮半島をめぐる勢力争い」(204)と評価し、「日露戦争日清戦争の再来」(204)と位置づけています。

 そして、日本は日露戦争に勝利すると、以前の清朝やロシアのように朝鮮半島満洲を一体に捉え、固執するようになっていくのです*16。日本も深みにはまっていくことになります。

 

まとめ

 日本は近代化した。日本は官民一体社会のため、西欧社会に触れて国をあげて開国し、近代化をすすめた。これまでの文化のお手本は中国であり、漢語であった。日本は西洋社会の言葉を最初は漢語の古典から探した。次に民間に容易に西洋社会について普及するために、古典に紐づけず漢字を当てる「翻訳語」を生み出した。ここから、中国と日本は用語の使い方に齟齬が生まれはじめます。同じ漢字を使っていても中国と日本では意味が異なるようになります*17。 

 江戸時代から清朝の商人は渡来していましたが、開国してからは更に華人の商人がやってきます。そこで日清修好条規を締結しますが、ここで「属する邦土」という用語で解釈の齟齬が生まれます。清朝は近世の政治システムを前提としており、朝貢国は属国だと解釈します。しかし、日本は近代国家システムの「領土」と解釈します。その結果、台湾と琉球王国は日本に組み入れられます*18

 清朝日清修好条規の不可侵条約をあっさり踏みにじる日本に警戒心を抱きます。朝鮮半島だけは死守しなければいけないと画策します。朝鮮国内の政治は不安定で内乱が続く中、ついに日清が激突して戦争がはじまります。日本は勝利しますが、それがロシアを呼び込むことになります。そして、朝鮮半島満洲固執せざるをえなくなるのです。

 近世の中国の政治システムと日本の近代の政治システムがぶつかりあう。日本史の教科書では一瞬で終わる部分ですが、非常に大切な部分ですよね。今回、岡本隆司さんの本を読んでポイントを掴むことができました。

 ここから更に興味のある部分を深堀していきたいと思います。特に、朝鮮政府はどのように考えていたのか知りたいところですよね。

 

(年表)

1876年 日朝修好条規(江華島条約)

1882年 米朝修好通商条約

     壬午軍乱

1884年 甲申政変 

1894年 甲午農民戦争(東学の乱)

     日清戦争

1904年 日露戦争

 

*1:章タイトルは194ページの章タイトルを引用。

*2:195を参考にまとめました。

*3:195ー196

*4:195ー196を参考にまとめました。

*5:196

*6:197ー198をまとめました

*7:198ページをまとめた。

*8:199ー200

*9:201

*10:201ー202をまとめた

*11:203

*12:203

*13:203

*14:満洲聖域の話はこちらのblogを参考にしてください。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*15:204ページをまとめました。

*16:205

*17:以上が(1)の内容です。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*18:以上はこちらのまとめです。

kyoyamayuko.hatenablog.com

香川1区ーーー組織的な投票行動に勝つのは、個人の一人一人の力だった

ドキュメンタリー映画「香川1区」は立憲民主党の国会議員・小川淳也ドキュメンタリー映画だ。

www.kagawa1ku.com

 

 この映画は「なぜ君は総理大臣になれないのか」の映画の続編になる。こちらの作品を見なくても「香川1区」から見ても、単体の作品として楽しめるが、やはり「なぜ君」から見た方がより楽しめるのは間違いない。なぜなら選挙の空気が一変しているからだ。www.nazekimi.com

 

 この映画はのどちらも共通しているのは、小川淳也の政策についてはほぼふれていない。選挙戦の様子を撮っているが、ありのままの小川淳也さんが映し出されているわけだ。両方見ても小川淳也の印象は変わらないだろう。ひたすら真っすぐ、見方によっては青臭い政治家だ。青臭いんだけど嫌いにはなれない。いいやつなのはよくわかるからだ。50歳になってもピュアさは変わらない(笑)。ある意味すごいやろ。

 選挙区の香川1区は、香川県の新聞社とテレビ社を牛耳る一族・平井卓也自民党議院が支配する地域だ。三世議院であり、デジタル大臣になったので有名だろう。かたや小川淳也は、パーマ屋の息子であり、地盤、看板なし。一族に政治経験者はゼロ。しかし、彼は東大法学部出身のエリートで自治省勤務後に「日本を変えたい」と出馬している。公立高校の野球部。庶民の出なんだけど、頭がよかったんですね。地方の進高校にはこういう頭のいい人はたまにいますよね。都会の私立進学校にはいそうもない、直球勝負の青臭さは地方出身エリートの特徴かもしれませんね。

 「なぜ君」より「香川1区」は二人の国会議員の対比を強調するようになりましたが、しかし、選挙の様子を映しているのには変わりはありません。

 

 正直言って、香川1区が二時間半もある映画だと知って「長いな」と思ってました。でも「いま君」も見たし、義務感で見に行ったのですが、

 

いや~~!!!

 

おもしろかったです!!!

 

二時間半、あっという間でした。!!!

 

 

この面白さはなんなんだろな。

「いま君」は選挙の大変さを余すことなく映して負ける映画なんだけど、

「香川1区」は選挙の大変さが報われる爽快感があった。

 

明らかに風は変わった。小川淳也さんに吹く風は変わった。

変えたのはもちろん「いま君」のドキュメンタリー映画でしょう。

でも、映画はやはり媒体に過ぎない。

映画を見て、小川淳也の人となり、奥さんと子供達、両親、選挙を手伝う人々の姿を見て、「普通の人が国政選挙をするってこんなに大変なのか」

「ここまでやっても勝てないのか」ということを知ったわけなんですよね。

で、香川県の人だけでなく日本中の人が小川淳也さんを知っちゃったんですよね。

 

正直いって、党内の権力闘争についてもよくわかっていなかったんですよ。

比例復活組は党内で昇進できない。党内で役職につけなければ、自分の実現したい政策を主張できない。。。

あぁ、そうなのかって思ったんですよね。

小選挙区で勝てず比例復活するという厳しさを初めて理解したわけです。

だって、みんなこう思ってますよね。

「落ちたくせに比例復活とはいいご身分だよね」と。

でも、比例復活ではダメなのだ。総理を目指す男ならなおさらだ。

 

「いま君」のラストは安アパートでの夫婦の姿の撮影でした。

国会議員がこんなところに住むなんて信じられません。

次の選挙のお金のために節約していたのかもしれません。。。

 

 

そして、「香川1区」です。

明らかに選挙の風景が違うのです。

「いま君」を見た無数の無党派の方々が、小川淳也さんの選挙事務所に来て手伝う。

小川淳也さんの人となりを知って、手伝いたくなってしまった人たち。

それまでは家族とおそらく労組中心の選挙運動だったわけですが、小川淳也にほれた人たちが手伝いはじめた。

町で選挙運動していると、みなが話しかけてくる。

無党派の女性が小川淳也さんに質問する姿は感動的だった。

香川1区の市民は、小川淳也さんなら自分の意見をいってみたいという思いに駆られたのではないだろうか。

 

「いま君」と比べるとよくわかる。

こちらは小川淳也の青臭いからまわり劇場だった。

でも、その空回りする小川淳也さんを見て、心を動かされた人がたくさんいた。

こんなに頑張っている人がいるんだと気づいた。

「香川1区」は変化する市民を映した映画だった。

 

もう一つの面白さは、平井卓也陣営の姿だろう。

余裕しゃくしゃくだった平井陣営が徐々に余裕が無くなり、攻撃しはじめる。

プロデューサーの前田亜紀さんの根性に脱帽だ。

怖かったと思いますよ。

また、パー券問題や不在投票を管理するシステムを暴いたのも見所の一つだろう。

映画を撮っていることを知って、不満を抱えている平井派の市民が情報提供したわけだ。

でも、これは映画の余波の一つに過ぎない。

正義のために既存の古い政治システムを暴くドキュメンタリーでは決っしてない。

小川淳也を撮っていたら、闇が勝手に暴かれたに過ぎない。

映画が選挙の風通しをよくしたのだ。

 

 

この映画の面白さはなんだろう。

うまく言葉にできないが、何かが変わって動いていることを映したのは間違いない。

「いま君」ではわりと冷めていた監督も、

「香川1区」ではアツくなっている!

監督すら傍観者ではいられなくなっている。

必死に傍観者になろうとしてもなれなくなっていることがわかる。

これが選挙の魔力だろう。

 

政治は組織票の世界だ。

「香川1区」の小川淳也の壮行会では連合の人が挨拶をしていた。

小川淳也陣営だって労組の組織票に依存している。

映画では触れていないが、選挙運動に動員しているかもしれない。

でも、決して組織票だけではどうにもならない部分を映したのがこの二つのドキュメンタリー映画ではないのだろうか。

既存の政治システムに穴をあけたのは、組織票の世界に穴をあけたのは、個人一人一人の応援だった。

ドキュメンタリーを媒介に小川淳也を知った人々が、それぞれ動いたのだ。

この人のために何かしたい、

この人ならもっとよい社会になるんじゃないのか

希望を小川淳也に託したのだ。

 

このドキュメンタリー映画は、香川県の市民の政治意識を明らかに変えたのだ。

保守的な地方都市に風が吹いたのだ。

「いま君」では50歳で政治家を辞めると主張していた小川淳也は、

50歳からが第二の人生のはじまりなのかも知れない。

ロード・オブ・ザ・総理大臣。

ようやく第一歩を踏み出したのだ。

 

そして、ラストにはまたあの安アパートが映る。

子供は独立し、小川夫妻が住むアパート。

玄関には花のブーケが飾られていて、リビングの片隅も飾り付けしている。

選挙では自分の時間なんかない奥さん(名前忘れてごめんなさい)の

日常を楽しむ様子が垣間見られた。

外のお花にも水をたっぷりあげて高松の生活を楽しむ姿が想像できた。

毎回、選挙の手伝い、お疲れ様です。

 

 

 

 

余談になりますが、パンフレットを読んで

大島新監督が大島渚監督の息子だと知りました。

いわば二世なわけです。

二世は二世なりの辛さがあることを知っている人でしょう。

監督が平井卓也をどのような思いで撮ったのか、聞いてみたい気になりました。

日中対立の始まり(2)日清修好条規、台湾出兵、琉球処分ーーー『中国史とつなげて学ぶ日本全史』

 こちらの本をまとめていきます。近代以降をまとめますが、それ以前の時代もすばらしい内容なので、ぜひお時間のある方はどうぞ。オススメです。

 

 

中国史とつなげて学ぶ 日本全史

 

日清修好条規

 日米修好条約は日本史で習っても日清修好条規はそのほか他国と同じような扱いで、その具体的な中身はこの本を読むまでまったく知りませんでした。今の日中関係を読み解くためには、この日清修好条規まで遡らないといけません。

 明治維新直後の1871年日清修好条規は締結されます。西洋に開国した日本政府ですが、実は西洋だけでなく華人の商人、商社も多かったのです。そのため清国との条約は欠かせないものでした。

 日本は条約交渉の過程で対等条約と西洋に見習った不平等条約の二案を清に提示しますが、もちろん不平等条約は却下されます(笑)。日本は国交樹立を急いでいたので平等条約を締結します。日本が清と締結したのは「平等条約」でした*1。また、清朝にも領事裁判権を日本は認めました*2

 なんで清は日本と対等の条約を結んだのでしょうか。世界の中心にいる中国は野蛮なはずの日本と対等になる必要はありません。対等条約を結んで当然という感覚は、現代の感覚でしょう。なぜなら近世までアジアの中心は中国だったのですから。

 

条規の中身ーーー「属する邦土」の解釈の齟齬

第一条

此後大日本國と大淸國は彌和誼を敦くし天地と共に窮まり無るへし又兩國に屬したる邦土も各禮を以て相待ち聊侵越する事なく永久安全を得せしむへし*3

 この「両国に属したる邦土」が、お互いに侵してはならないという意味でいわば「相互不可侵」条項だそうだ*4。著者によると、清朝300年の歴史は日本の暴走をいかに止めるかであり、条約を締結して日本がおとなしくなるならばそれに越したことはないという感覚だったそうです*5。野蛮な夷狄にアメをなめさせて手懐けようとしたそうです。西欧諸国にしたように。まぁ、その結果、西洋諸国や日本に食い散らかされるわけですが。。。

 しかし、ここで「属したる邦土」の解釈で日本と清朝で齟齬がありました。清朝にとって「属邦」とは「属国」=朝貢国を意味しており、主に「朝鮮」を指していたそうです*6。 

 一方で日本は、翻訳漢語つまり西洋の用語として「国土」「領地」と解釈しています*7。それは、「近代の国際法的な観点から、国境線で明確に区切られ、主権と実行支配が行き届いている領土」(181)という意味で使っていたのです。この解釈によれば朝鮮半島清朝の領地では無くなります*8

 すでにここで解釈の齟齬があった。日清戦争の火種はもうあった。しかし、その前に台湾出兵事件が起こります。

 

台湾出兵事件ーーー宮古島の人々はどこの国に属するのか?

 日清修好条規が締結された1871年琉球王国宮古島の島民が乗った琉球御用船が台湾の南端に漂着し、そのうち54名が現実の先住民・「生蕃」に殺害される事件が起こります。

 日本は台湾を清朝の「邦土」とみなしていたため、この件について清朝に賠償を求めます*9。しかし、清朝は、「生蕃」は生粋の野蛮人であり、中華文明はそこに及んでおらず、実行支配もしていないとして、賠償に応じません。また、琉球王国は日本人でないと指摘し、二重の意味で賠償する義理はないと返答したそうです*10

 その結果、日本は台湾は清朝の実行支配していない土地ならば国際法上は主権者のいない「無住の地」だとして、1874年に台湾に出兵します。

 これには清朝は猛然と避難します。「『生蕃』は『化外』だが、台湾自体は中国に属している。そこに軍隊を送り込むのは、明らかに日清修好条規の第一条(不可侵条項)に違反する」(183)と主張しました。しかし、清には海軍が無かったため日本を実力で阻止する力はなかったそうです*11

 清朝と日本は、最終的に「北京専条」協定を結びます。この協定の前文には「生蕃」が危害を加えたのが「日本国属民等」と明記されます。ここではじめて宮古島の人々、つまり琉球王朝の人々は「日本人」であると認めさせたそうです*12。そして、これを機に日本は琉球を正式に日本に組み込もうと考えます。

 

琉球処分ーーー明治政府、清朝のそれぞれの思惑

 ここで琉球王国の話になります。有名な話ですが、琉球王国薩摩藩を通じて日本に支配されるとともに、中国の柵封国でもありました。つまり「両属」していたわけですが、この両属は近世だから成立した関係であり、近代国家ではありえない関係でした。日本が、明治政府が近代国家を形成した以上、両属はありえない関係となります。

 では、当事者の琉球王国はどのように捉えていたのでしょうか。「琉球王国清朝朝貢を続けながら、薩摩藩に支配されていることを(清朝に)報告しなかった」(187、()は私が補足)わけです。琉球王国は日本に支配されていることを江戸時代は隠しつづけてきたわけです。

 しかし、宮古島の人々が台湾の生蕃にって殺害された事件によって琉球王国の扱いについて清朝と明治政府で問題になります。明治政府は事件の翌年に琉球王国に「琉球藩」を設置します。1874年に北京専条で宮古島の人々は日本国民扱いとみなされたことで、1879年に琉球廃藩置県が行われ、琉球王国が崩壊し、「沖縄県」が発足します。これにより沖縄県が日本の一部に組み込まれました。

 と、あっさり書くと琉球が何も抵抗していないように見えますが、琉球王国のエリートは、中国文化への造詣が深く、清朝に亡命し、王政復古運動する人々もいたそうです。危機感を募らせた明治政府は、1975年に「処分官」を琉球に派遣して、琉球処分を進めて1979年に沖縄県が成立します。国王だった尚泰は東京に住まわせます。

 尚、西欧諸国は1872年に琉球は日本に帰属するとみなしていたそうです*13

 では、清朝はどのように捉えたのでしょうか。なにぶん、メールどころか電話もない時代の話です。清朝琉球からの朝貢が途絶えた1877年に異変に気づいたそうです!。清朝の駐日大使は明治政府に講義文書を提出します。著者によれば、清朝の抗議文は穏便な内容だったそうですが、明治政府は無礼な暴言として態度を硬化し、廃藩置県を断行します。既成事実作りに専念したわけです*14

 清朝は衝撃を受けます。清朝の立場からすると、日清修好条規違反でした。清朝にとっては琉球朝貢国のため「属国」であり、不可侵条約があるのにも関わらず違反したように見えたのです。もちろん、日本から見ると琉球王国は独立国であり、その国を日本に組み入れたという話になりますが。近世の政治システムと近代の政治システムの齟齬が生み出したのが琉球王国の帰属問題でした。清朝にとって重要な問題は、「属国」が簡単に滅ぼされるという前例ができたことでした。

 また、著者の本を読んで驚いたことなんですが、中国の立場は下記のようなスタンスだそうです。

現在も、中国は「琉球処分」を認めてはいません。

つまり沖縄県の存在も、そこが日本の領土であることも、この時以来一貫して肯定していないのです。

194

 

え~~~!!!

まじか~~~!!!

 

沖縄県はすっかり日本だと思い込んでいたわけです。両国の了解を得て日本の国土だと認め合っていると思っていましたが、中国は認めていない。。。沖縄の帰属すら中国と日本で見解が違うなんて信じられません。

 

という私の感想はさておき、長くなったので今日はここまで。

次は本丸の朝鮮半島問題に突入です。

 

清朝の属国であるはずの琉球王国が日本に組み入れられました。

清朝から見ると、あっさり日清修好条規の不可侵条約違反をしています。

次は朝鮮半島が狙われるという読みはあたっていたわけです。

 

 

 

 

(年表)

1871年   日清修好条規

       宮古島の島民が台湾の生蕃に殺害

1872年10月 琉球藩を設置

1874年   北京専条

       台湾出兵

1975年   明治政府、琉球藩に処分官を派遣

1879年   廃藩置県沖縄県の成立、琉球王国の崩壊

       琉球処分

*1:以上、177ー179要約

*2:西洋諸国との不平等条約を改正するためには、まず清朝との領事裁判権の問題を解決しないといけないという意識を明治政府はもっていますが、交渉はうまくいきませんでした。193ー194参照

*3:

大日本國大淸國修好條規(日清修好条規) - データベース「世界と日本」

*4:180ー181

*5:181

*6:181

*7:181

*8:181

*9:182

*10:182

*11:183

*12:183

*13:以上、186ー191

*14:以上、191をまとめました。

日中対立の始まり(1)「開国・和魂洋才」の日本と「開港・中体西用」の中国ーーー『中国史とつなげて学ぶ日本全史』

岡本隆司さんの『中国史とつなげて学ぶ日本全史』から均整の終わりから近代のはじまりについて日中関係に焦点をあけてまとめていきたい。

 

中国史とつなげて学ぶ 日本全史

 

幕藩体制の崩壊

 中国についてはこちらのblogにまとめましたが、日中比較するために重要な概念は「官民一体」「官民乖離」です。参考にしてもらえると助かります。

 なぜ藩体制が崩壊したのかといえば、時代の要請にこたえられなくなったからと言えます。官民一体だからこそいち早く西洋化し、政治体制を含めて変革していくのが日本なのです。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

幕府が作り上げてきたシステムは、「鎖国」の体制が前提でした。

藩と庶民をカッチリと組織し、三千万の人口を維持したまま、政治も経済も文化・思想も高密度で凝集させたことが大きな特徴です。海外の存在をほとんど想定する必要がなかったからこそ、なせる業でした。

163

しかし、「開国」を迫られ鎖国体制の前提が崩れます。凝集性の高い社会だからこそ「黒船の空砲一発で社会全体が大きく揺らいだ」(163 ).。

 上記のblogにも書きましたが官民一体の日本は、開国を迫られていち早く対応していきますが、官民乖離している中国は流動性の高い社会でバラバラ。各地域が海外と勝手に貿易していて統制がとれていません。だからこそ「アヘン戦争で沿岸地域が打撃を受けても、全体の体制に」「大きな影響はなかった」(163)。「権力による社会の組織化の荒さがいわばクッションとなって、『西洋の衝撃』を吸収してしまったのです」(163)。

 アヘン戦争を見て恐れたのは中国より日本でした。それが幕府を倒し、新しい政府を作る原動力になっていきます。

 

漢語で西洋文化を吸収し、漢語から離脱する日本

 日本は西洋文化を吸収するために洋書を翻訳するようになりますが、洋書の文字を置き換えるのに漢語は便利でした。そのため明治維新以降は日本語が漢語化していきます。ここがまず第一変化です*1

 次に起きるのが、漢語が難しいので俗語で語ることがはじまります。ここで大きく貢献したのは福沢諭吉だそうです。

 従来、漢語を使うと言うことは、古典を踏まえて書くということでした。これが第一段階です。次に、俗語が普及します。これは漢語の古典を離れて、つまり「その語彙の由来や古典の結び付きに縛られず、ストレートに意味が伝わるような漢字を使って静養の翻訳後を編み出す」(172)になります。

 この第二段階で、中国のオリジナルな漢語と関係なく、西洋の言葉を翻訳した漢語が日本で生まれます。このインパクトは大きかったと著者は言います。まず「西洋の文明・文化を直輸入する道筋が成り立ったこと」(173)、「手段として漢字をつかいながら、実はそこに関わるはずの儒教や中国の歴史と切り離したこと」(173)、最後に「文章語として漢文の訓読体・読み下しという新しい文体の日本語が普及したこと」(173)です。

 このインパクトは大きかった。それは中国と比べるとよくわかります。中国の場合は、多元社会のため言葉を普遍的な価値・意義として置き換える必要があり、西洋の事物は「古典など中国由来のものとして還元することで」(175)使えるようになるため、「中国は古典を捨てられない」(175)わけです。多種多様な民族が誤解せず概念を使えるようにするため、古典に翻訳して共通理解を得るシステムになっているわけですね*2

 日本とはまったく別なんですね。漢語をまずは古典に意味を探し、なければ漢字を当てて漢語を作ることができるのは、多元性の小さい日本社会だからできたのかもしれません。

 

和魂洋才と中体西用

 日本の「和魂洋才」は日本の精神をもって西洋の知識を取り入れるという意味合いですが、政府も民間も基本的には西洋の知識を導入します。ここでも官民一体です。しかし、中国の「中体西用」の「西用」するのはあくまで民間人であり、「『中体』を大言するのは皇帝をはじめてする中央の政治家や知識人」(176)であり、政府や中枢の知識人は西用しない。ここでも官民乖離の構造が現れています。

 その結果、中国は「開港」はしても「開国」はしません。開港して外国の一部と取引をしても、開国して外国とつきあい関係にはならない。日本と比べるとよくわかるでしょう。

 

 

今日はここまで!

幕藩体制を崩壊させた通過体制についても触れたかったけれど、通貨制度については松元崇さんとコンボでまとめたほうがよいので、時間がとれたときにまとめます。

*1:170ー172を私なりに超約しました。

*2:これは中国に限らず、イスラム世界でも同様だそうです。西洋社会がラテン語に立ち返るのも同じかもしれませんね