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ホモソーシャルな関係の乗り越え方ーーー『「非モテ」からはじまる男性学』の感想

 

 ネットでも日常でも「非モテ」という言葉は聞かれるし、男性自ら「俺は非モテ」と自称するする人もいるが、非モテとはいったんなんなのだろうか。一般的なイメージでは「モテない男」というイメージだし、weblioでも同様の定義をしている*1

 「非モテ」の当事者研究を行う社会学者西井開は、研究を通じて、非モテとは恋人の有無ではなく、男性同士の人間関係から生じた性質であること明らかにしている。「非モテ」の行動様式が、どのように形成され、意味づけられ、評価され、価値内面化してくのを明らかにしたのだ。結果として「恋人がいない」ことを強調されるが、それは「非モテ」現象の一部分に過ぎない。

 「『非モテ』男性はモテないから苦しいのだろうか」(電書 24/174)という問いは重要だろう。男性をめぐる様々な問題が「モテない」という言葉しかなく、モテないことに集中していることが問題なのだ。この「男性をめぐるさまざま問題体系」(電書 24/174)を著者は明らかにしていきます。

 

「非モテ」からはじめる男性学 (集英社新書)

 

非モテ」とは

 当事者研究の発言を分析して下記のとおりまとめている。

第三章では、「非モテ」男性が男性集団内で追い詰められ、そして自分で自分を追い詰めていく過程を描いた。

〈集団内の中心メンバー〉から、〈からかい〉や〈緩い排除〉を受けて周縁化される「非モテ」男性は、被害を受けているにもかかわらず、彼らとの親密な関係性を維持するために、自ら〈いじられ役〉を引き受けていく。

また、〈男らしさの達成〉をしようとしても、中心メンバーは別の要素を見つけてからかい続けるために、「非モテ」男性はいつまでも「自分は一人前の人間ではないのではないか」という〈未達の感覚〉と〈疎外感〉を抱き続けることになる。

この緩い排除と〈仲間入りの焦燥〉という絶え間ない往還の果てに、「非モテ」男性は自分自身を否定的な存在として見出す〈自己レイベリング〉に至る。

電書 118/174

つまり、「非モテ」とは、

「からかいや緩い排除を通じて未達の感覚や疎外感を抱き、孤立化した男性が、メディアや世間の風潮などの影響を受けながら女性に執着するようになり、その行為の罪悪感と拒否された挫折からさらなる自己否定を深めていく一連のプロセス」

電書 122/174

として定義している。

 また、著者はだからこそ、「『非モテ』の苦悩の背景にからかいや緩い排除による微細な傷つきがあるとのであれば、なぜそうした問題ではなく、女性と親密な関係を結べないことばかりが男性の問題として前景化するのか」(電書 122/174)についてさらに分析していきます。

 そのあたりの概要ははしょりますが、この一文は宮台真司への痛烈な批判のように私には見えました。宮台は非モテについて、これまでナンパ術のような形で対応してきましたが、それでは根本的な解決にはならないでしょう*2

 

ホモソーシャルな関係からうまれる疎外感と未達の感覚ーーー男性集団内の周縁化作用

 「非モテ」の背景にはホモソーシャル関係(男性同士の社会的関係)がある。男性同士の関係の「イジり/イジられ」関係で劣位におかれた男性達が、イジる側の評価に振り回されて、自己肯定感が蝕まれていきます。どこまでいっても優位者(イジる側)から評価されず「未達感」が残ったまま疎外されていく。評価されるように必死になればなるほど笑われる。

 著者はこのからかいを「あるはずのないドーナツの中心を目指して走り続けるような状況」(電書 127/174)に例える。

 

 「非モテ」男性に対するからかいが「標準的な男性像」から逸脱していることを理由になされており、その上「標準的な男性像」は集団内で権力を持つ男性がカスタマイズして繰り出している可能性について言及した。

いわば称揚される「男らしさ」とは不定形で実体のないフィクションなのだが、にもかかわらず、「男らしさ」言説は圧倒的な力をもって「非モテ」男性を縛り付ける。「非モテ」男性は、自分は人間として十分な条件を満たしていない劣った存在なのだという意識を抱いて苦悩し、また「男らしさ」を達成するために強迫的に努力する。まるであるはずのないドーナツの中心を目指して走り続けるような状況にある。 

(電書 126-127/174)

 

 あってないような評価基準は「イジる」側にある。それは感覚的なものであり、既に優位にある物が劣位を笑えばそれが基準になるに過ぎない。劣位におかれた男性は「集団への帰属と存在証明の切迫さ」(129/174)で必死なのだ。

 

 つまり、「非モテ」の背景にあるのは、男性集団内の力学であった。そして非モテに追い込まれる現象を「男性集団内の周縁化作用」(134/174)と定義する。

男性集団の権力性と競争を背景に自信にレッテルを付与し、自己否定に陥る。周囲と自己によって、「非モテ」男性は周縁に追いやられていく/追いやっていくのである。この一連の過程を「男性集団内の周縁化作用」と名付けたい。

電書 133-134/174

 

隣り合って「男」を探求するということ*3

 ホモソーシャルな関係は対等な関係ではなく優劣のある関係であるのが特徴だろう。なぜそういう関係になるのかこの本では明確にかかれていないが、一般論としていえば、資本主義社会では競争社会であるがゆえに男性は競争にさらされる。序列をつけられる。同性同士集まれば、社会像を反映して優劣関係がうまれ、イジり/イジられ関係が生まれる。

 男性が女性に同じことをすれば「差別」として扱われ、その行為は言語化された。しかし、男性同士の場合、劣位におかれた者の「生きづらさ」は語られない。言語化されない。その中で、唯一表徴されたのが「モテない」であり、だからこそ「非モテ」という言葉が、「あの感じ」を表すものとして使われるようになった。でも非モテという言葉が一般化されるにつれ、削ぎ落ちているものがあった。著者の立ち上げた「非モテ研究会」は、言語化されにくかった男性の問題を言語化していった。

 本を読んで思ったことは、男は「男らしい男」については豊富に言語化されているのに、そうではない男の表現が貧困だったということだ。いや、貧困というと語弊がある。青年マンガでは数多くの「イジられた男性」達が表現されている。しかし、彼らはつねに脇役で、主役になるには「男らしい男になる」しかなかった。いま、求められるのは「ありのまま男」を描くことだ。著者は友達とはまた違う当事者研究の仲間と、「ありのままの男」を探求する。隣り合って「男」を探求する。普通の男の普通の語りこそ、最も言語化されていない最後の秘境だった。

 

*1:

「非モテ(ひモテ)」の意味や使い方 Weblio辞書

*2:例えば『小説幻冬』12月号。上野千鶴子宮台真司鈴木涼美の対談「限界からはじまる」では性愛について対談していますが、性愛についてばかり語ってもわからないわけです。西井開の研究の方が重要な指摘していることがわかるでしょう。

小説幻冬 2021年 12 月号 [雑誌]

*3:終章のタイトル