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私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『炎上社会を考える』の感想@キャンセルカルチャーのまとめ

 伊藤昌亮氏の新刊の『炎上社会を考えるーーー自粛警察からキャンセルカルチャーまで』は、読むなら「今でしょ!」(死語)という感じのドンピシャな本でした。

 この本はSNSトラブルの社会史であり、この新しい現象を読み解く視座を与えてくれます。東浩紀より鮮やかに読み解いていると思います。デュルケムとの相性の良さに驚かされました。

 いろいろと学びの多い本だったのですが、本の内容を詳細に読書ノートをしてしまうと新刊の営業妨害になるのでキャンセルカルチャーのみ、簡単にまとめていきたいと思います。

 

炎上社会を考える-自粛警察からキャンセルカルチャーまで (中公新書ラクレ, 752)

 

キャンセルカルチャーとは

 キャンセルカルチャーとは「著名人の過去の言動を告発し、その点を批判するだけではなく、その人物の活動をボイコットして、はてはその地位を剥奪してしまうような風潮」(180)であり、「その人物を社会から『キャンセル』してしまおうとする意味で」(180)呼ばれているものだ。最近の事例では小山田圭吾事件がまさにそれに該当する。

 キャンセルカルチャーは2019年の米国大統領選挙で「リベラル派の過激な動きを批判するために保守派が好んで使うようになった」(181)もので、著者は「ポリティカルコクトネス(政治的な正しさ)」と同様の言葉だと位置づけている(181)。

 しかし、もともとキャンセルカルチャーとは、

社会的弱者としてのマイノリティを擁護する立場から、権力の上にあぐらをかいているマジョリティの横暴な言動を告発し、その特権的な地位を揺るがそうとする動きを意味するものだった。

つまり、古い価値観や旧来の権力構造をキャンセルすることで、社会を変革していこうとするポジティブな志向がそこには込められていた。 181

 キャンセルカルチャーは「被害者に力を与えるもの」「エンパワー」するもの(183)であったはずだが、なぜ今は個人攻撃するようなものになっていたのだろうか。著者は、「SNSが駆動されたネット社会のダイナミズムは、権力の布置の不安化」(185)をもたらし、「エンパワーされた群集が、それ自体として一つの権力となってしまう」(185)ことがあり、「キャンセルカルチャーがある種の暴力となってしまうことがある」(185)と指摘する。

 

 ネット以前の社会は、自分の意見を直接社会に表出する手段はなかった。テレビや新聞などに投書などをして示したり、アンケート調査のように集合意識として傾向を把握する方法しかなかった。もしくは、政治的には「上」の人間に意見を出して、上の人が更に上の人に庶民の民意を伝える方法や選挙のように一票として示すほかなかった。しかし、SNSの到来で、誰もがダイレクトに自分の意見をつぶやき、示す技術が現れたのだ。ハッシュタグアクティヴィズムの#metoo運動のように、自分の体験をつぶやきながら群れることが可能になった。また、その群集の力が権力性を帯びるようになった、ということだろう。

 

キャンセルカルチャーの特徴

 キャンセルカルチャーの特徴として①リベラリズムの規範、②不寛容性、③過去の行為の問題化、があるという(191)。

 ①リベラリズムの規範とは、社会的弱者としてのマイノリティを擁護する立場のことで、弱い立場にある人々の人権を侵害するような言動を行った者、とりわけ権力者がターゲットになることが多いという(191ー192)。②不寛容性とは、リベラルの規範に抵触する行為には、事情いかんを問わず厳しい処罰を求めること(192)、③過去の行為問題化とは、どんなに遠い過去になされたことであっても厳しい処罰を求められること(192)である。

 キャンセルカルチャーが批判されるのは、②、③が問題にされる。しかし、不寛容性の問題は、実は政治学が社会思想の領域で古くから繰り広げられている問題だという。「寛容な社会を守って行くためには、不寛容な者に対してわれわれは寛容になるべきか、不寛容になるべきか」(193)問題である。

 

寛容のパラドクス

 この問いは「寛容のパラドクス」と呼ばれ、哲学者のカール・ポパーが答えを出しているという(194)。

 ポパーは、「不寛容な者に対しては不寛容でなければならない」という答えを出したが、それは条件付きであった(196)。ポパーの「不寛容者」とは、「理性的な議論に耳を傾けないように支持者に命じたり、拳と銃を用いて議論に応じるように諭したり」する人々(196)のことを指している。一方で、「理性的な議論で対抗したり。世論のチェックをしたりすること」が可能な場合にはそうすべきではない(196)ということだ。

 つまり、ポパーの不寛容者への不寛容は「特定の例外的な場合にのみ、やむなく(不寛容をー引用注)黙認」(197)するものであった。しかし、今、SNS上で起きている不寛容は、「例外状況」だからではなく気軽に不寛容な態度をとっているといえるだろう。

 著者は、「キャンセルカルチャーは、いわば『最後の手段』として用いるべきものではないだろうか」と主張する。キャンセルカルチャーは「最後の手段」であって「最初の手段」ではない。「最初の手段」としてキャンセルカルチャーを使うと、「すべてのケースに一律にキャンセルが求められること」(199)になり、東浩紀が指摘するように「超法規的なリンチ」となってしまうのだ(199)。 

 

世界は混沌としており、曖昧さに満ちている*1

 キャンセルカルチャーは、「いかに道理的で一貫した行動であろうとも、やはり無制限に肯定されるべきものではない」(200)と著者は主張する。

 

人間の中には多義性があり、世界の中には曖昧さや複雑さがある。つまり、矛盾を抱えながらも共存しているさまざまな性向や動向がある。

そうした点を一切考慮することなく、ある種の合理性や一貫性のみをあくまで押し通そうとすれば、キャンセルカルチャーは人間社会の現実から遊離したものになってしまうだろう。200

 

 著者の言うことはもっともなことだろう。

 

 では、なんでみんなキャンセルカルチャーにはまるのか。それは、SNSでは共感を数値化できるようになったこと(共感市場主義)、それによって総「自己顕示」欲社会になったこと(キャンセルカルチャーに参加すれば「意識高い系」になれること)などがある。そもそも、これだけSNSで毎日大騒ぎする現象とは、ネット社会の「規範」が形成される途上であるからと解説しています。詳しくは本を読んでほしい。

 一番大切なことは、今は新しい社会に向けた規範形成過程の最中であるという自覚だろう。アツくなって感情に駆られて毎日Twitterにつぶやいてしまう人ほど、この本を読んでほしいと思いました。

 

 この本の「祭と血祭り」の項目、規範形成過程のエキセントリックな状況を読んでいるときは『はじまりのブッダ』が思い浮かびました。たぶん、「新しいなにか」が生まれるときはこういう状況なのかもしれませんね。

 

熟慮と省察の人ブッダにとっての目には、世間にむかってやみくもに二者択一を迫る論争家たちは、結局、他人の苦痛を増やすだけでなく、自分自身の煩悩にエサをやるおかしな人々に過ぎない。    183

 

2千年前のブッダのように世界宗教=規範が、今まさに形成されているのかもしれませんね。対立の極相林、多様化の極相林の先に、新しい規範が生まれてくるのかもしれません。


はじまりのブッダ: 【初期仏教入門】

*1:バラク・オバマの言葉、200