blogのタイトルは大屋雄裕の『自由か、さもなくば幸福か?ーーー二十一世紀の<あり得べき社会>を問う』から引用したものです。
前のblogでは『<普遍性>をつくる哲学 「幸福」と「自由」をいかに守るか』について読書ノートをまとめたのですが、この本を読みながら、私は大屋雄裕の本が思い浮かびました。互いに互いを批判しうる立場にあります。大屋からすれば自由と幸福は同時に成立しないものだが、岩内からすれば成立するものです。
「自由」と「幸福」は対立する概念なのか、それとも両立する概念なのか。思想史としては、そもそもは両立する概念として登場したそうだ。
読書ノートのblogについてはこちらです(三回シリーズです)。
大屋雄裕の社会像
まず、大屋の本について簡単にまとめておこう。
自由と幸福は両立可能なのだろうか。あるいは、
我々が何を望むかについてあらかじめ配慮されることは、我々の幸福を約束してくれるのだろうか。
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と、最初に問う。それに対する著者の回答はこうだ。少し長くなるが引用します。
自由と幸福の両立可能性という古典的な問題について、両者を親和的にとらえていた十九世紀から、個人の能力不足を社会システムによって埋めることを選択せざるをえなくなった二十世紀、そしてより積極的・直接的に個人の幸福を配慮するためにその人格性や自律性すら危機にさらされることになった二十一世紀という対比のももとに描きたい。言い換えればそれは、
自由で自律的な自己決定的「個人」という美しい夢見られた十九世紀が、戦争と革命の二十世紀において敗北し、二十一世紀において新たな統制のモードを構築することを迫られた物語である。
浸透する監視と配慮は「個人」という夢が敗れたことの必然的な帰結であったのだ。
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雑にまとめると、自由と幸福が両立した概念である「自律した個人」という自己像の賞味期限がきていて自由と幸福は両立しないと主張している。
そして、
可能な未来像のうち、どれを・どのような理由で選択するのか。
自由・快適・公正といった、相互に両立しない価値のどれを・どのような理由で優先するのか
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という観点から、それぞれの概念は相互に両立しないことを前提に三つの社会像を提示している。それは、(1)「新しい中世」の新自由主義、(2)総督府功利主義のリベラリズム、(3)ハイパー・パノプティコン、であるという。簡単に要約していこう。
(1)「新しい中世」の新自由主義
複雑化する規制の下で個々の被治者がそれらの布置状況を確認し、リスクとベネフィットを考慮して行為を選択しなくてはならないという「新しい中世」のモデルをそのまま肯定する、あるいはむしろそれで何が悪いのかと問い直す態度である。グローバリゼーション、資本の論理。それぞれが正しいと信ずるもの相互の対立・矛盾などから実力行使が拡大し、終わりのない神々の戦いが再現される社会の到来をも意味しているだろう。
222-224
こちらは現在の状況として提示している。弱肉強食の社会だ。
19世紀システムにおいて問題となった個人の弱さ、すなわち、それぞれの人間は、自己の幸福ないし快楽を最大化する選択肢が何かを十分に判断することができないし、それを実現するための十分な意思力をもっていないという問題を克服するために、各人が自由に振る舞うとしても社会全体の幸福が自動的に実現する社会を、アーキテクチャ的に制度として実現するというモデル。
224
前近代や十九世紀システムの再建を無反省に目指す選択肢と、新たなコミュニティの再建を目指すホラーハウス社会化の傾向をともに批判し、人格や「個人」の存在を断念することによって幸福の最大化をもくろむ「感覚のユートピア」を可能な選択肢として認めつつ、全構成員が超監視の下に平等に置かれる「ミラーハウス」を、正義にかなったもう一つの可能性として指摘する17/239
大屋雄裕の「自由」と「幸福」
自由について
十九世紀のリベラリズムにおいて、自分自身で自己の生き方を選択できるという意味における自由と幸福は、一致するものととらえられていた21/239
個々の主体が自己の幸福について正当な判断を下せる状態を作り出すことが社会の理想状態として想定されていた。略彼ら(引用者注:子供など未成熟な主体)も十分に整備された教育システムーーー個人を作り出す機会へと内包することによって、その外側においては個人によって構成される社会、自由と幸福とが一致している社会を作り出すことを理想されていた略そのような構想を「自由と幸福の十九世紀システム」と呼んでおきたい30/239
法によって支配されるのがいま現在のこの私であるに対し、支配するのは(法を作った)過去の我々だという事実である。その同一性を何らかの形で説明しない限り、そこにあるのはやはり私ならざるものによる私への支配に他ならない。118/239
幸福について
岩内章太郎の「自由」と「幸福」
(一)普遍性は人間を超えて存在する実体ではない。
(二)普遍性は事実として存在しない。
(三)普遍性は閉じられていない。
(四)普遍性は無条件に存在しない。
(五)普遍性の根拠は実存にあるのだから、普遍性の側から実存を規定してはならない。
269-270:各項目の最初の文章を引用
自由がそのつどの規定性を超えていく運動だとしたら、
幸福は欲望が充足して安定している一時的な状態である。
278
現代人の幸福の類型を「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」の二つを示していますが、それは総量化しなくてよいものです。総量化する必要があるでしょうか。功利主義はそれぞれ個人の効用を足し合わせた最大値が「社会」にとって最大幸福とありますが、そんな「全体(社会)」から幸福は考える必要はないのではないでしょうか。個人が充たされたらそれでよいのだから。
とはいえ、これは物質的に生活が安定している社会での話です。そもそも財が不足して基本的な生命活動が脅かされている社会では、功利主義の考え方も成立するとは思います。
水源を維持するために、山奥の村を沈めてダムを作る、というのは、山奥の村人にとっては不幸な出来事ですが、社会全体にとっては幸福な(物質的な豊かさ)ことかもしれません。功利主義の幸福総量とは、このような残酷な面を持ち合わせているのです。でも、生存のため物質的基盤が整備された社会では、このような幸福の総量は問われて来ないでしょう。個々人のそれぞれの幸福を充たすことを、あえて総量化する必要はない。
岩内正太郎さんの社会論も読んでみたいですね。どのような社会を構想するのだろうか。