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自由か、さもなくば幸福か?ーーー自由と幸福は対立するのか、ともに成り立つのか

 blogのタイトルは大屋雄裕の『自由か、さもなくば幸福か?ーーー二十一世紀の<あり得べき社会>を問う』から引用したものです。

 前のblogでは『<普遍性>をつくる哲学  「幸福」と「自由」をいかに守るか』について読書ノートをまとめたのですが、この本を読みながら、私は大屋雄裕の本が思い浮かびました。互いに互いを批判しうる立場にあります。大屋からすれば自由と幸福は同時に成立しないものだが、岩内からすれば成立するものです。

 「自由」と「幸福」は対立する概念なのか、それとも両立する概念なのか。思想史としては、そもそもは両立する概念として登場したそうだ。

 

自由か、さもなくば幸福か?: 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う (筑摩選書)

 

読書ノートのblogについてはこちらです(三回シリーズです)。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

大屋雄裕の社会像

 まず、大屋の本について簡単にまとめておこう。

自由と幸福は両立可能なのだろうか。あるいは、

我々が何を望むかについてあらかじめ配慮されることは、我々の幸福を約束してくれるのだろうか。

14/239

と、最初に問う。それに対する著者の回答はこうだ。少し長くなるが引用します。

自由と幸福の両立可能性という古典的な問題について、両者を親和的にとらえていた十九世紀から、個人の能力不足を社会システムによって埋めることを選択せざるをえなくなった二十世紀、そしてより積極的・直接的に個人の幸福を配慮するためにその人格性や自律性すら危機にさらされることになった二十一世紀という対比のももとに描きたい。言い換えればそれは、

自由で自律的な自己決定的「個人」という美しい夢見られた十九世紀が、戦争と革命の二十世紀において敗北し、二十一世紀において新たな統制のモードを構築することを迫られた物語である。

浸透する監視と配慮は「個人」という夢が敗れたことの必然的な帰結であったのだ。

15/239

 

 雑にまとめると、自由と幸福が両立した概念である「自律した個人」という自己像の賞味期限がきていて自由と幸福は両立しないと主張している。

 

そして、

可能な未来像のうち、どれを・どのような理由で選択するのか。

自由・快適・公正といった、相互に両立しない価値のどれを・どのような理由で優先するのか

17/239

という観点から、それぞれの概念は相互に両立しないことを前提に三つの社会像を提示している。それは、(1)「新しい中世」の新自由主義、(2)総督府功利主義リベラリズム、(3)ハイパー・パノプティコン、であるという。簡単に要約していこう。

 

(1)「新しい中世」の新自由主義

複雑化する規制の下で個々の被治者がそれらの布置状況を確認し、リスクとベネフィットを考慮して行為を選択しなくてはならないという「新しい中世」のモデルをそのまま肯定する、あるいはむしろそれで何が悪いのかと問い直す態度である。グローバリゼーション、資本の論理。それぞれが正しいと信ずるもの相互の対立・矛盾などから実力行使が拡大し、終わりのない神々の戦いが再現される社会の到来をも意味しているだろう。

222-224

こちらは現在の状況として提示している。弱肉強食の社会だ。

 

(2)総督府功利主義リベラリズム

19世紀システムにおいて問題となった個人の弱さ、すなわち、それぞれの人間は、自己の幸福ないし快楽を最大化する選択肢が何かを十分に判断することができないし、それを実現するための十分な意思力をもっていないという問題を克服するために、各人が自由に振る舞うとしても社会全体の幸福が自動的に実現する社会を、アーキテクチャ的に制度として実現するというモデル。

224

 
こちらは中国をイメージしている。
 
それぞれの社会像を批判的に検討しながら、今後の社会のすすむべき方向性について検討し、「ミラーハウス」社会を提示している。具体的には、
前近代や十九世紀システムの再建を無反省に目指す選択肢と、新たなコミュニティの再建を目指すホラーハウス社会化の傾向をともに批判し、
人格や「個人」の存在を断念することによって幸福の最大化をもくろむ「感覚のユートピア」を可能な選択肢として認めつつ、全構成員が超監視の下に平等に置かれる「ミラーハウス」を、正義にかなったもう一つの可能性として指摘する
17/239
 素朴に、こんな社会、嫌じゃないですか?こんな社会像しか選択肢がないのだろうか。これが我々の待ち受けている未来の社会の方向性なのだろうか。
 

大屋雄裕の「自由」と「幸福」

自由について

 大屋にとって「自由」と「幸福」はどのように定義されているのだろうか。それは別々の概念としてではなく、
十九世紀のリベラリズムにおいて、自分自身で自己の生き方を選択できるという意味における自由と幸福は、一致するものととらえられていた
21/239
そして
個々の主体が自己の幸福について正当な判断を下せる状態を作り出すことが社会の理想状態として想定されていた。略
彼ら(引用者注:子供など未成熟な主体)も十分に整備された教育システムーーー個人を作り出す機会へと内包することによって、その外側においては個人によって構成される社会、自由と幸福とが一致している社会を作り出すことを理想されていた
そのような構想を「自由と幸福の十九世紀システム」と呼んでおきたい
30/239
とあるが、ここで気をつけておきたいのは、幸福について規定しはいないことだ。自由に判断できること、そのものが幸福というふうに受け取れる。
 
 また、大屋は「自由と幸福の一致、個人の自由な自己決定と国家の集合的意思決定の一致」(118/239)させる十九世紀の社会システムの問題点についてふれる。それは一言でまとめると「私と我々の距離」(同上)として現れる。端的にいうと
法によって支配されるのがいま現在のこの私であるに対し、支配するのは(法を作った)過去の我々だという事実である。
その同一性を何らかの形で説明しない限り、そこにあるのはやはり私ならざるものによる私への支配に他ならない。
118/239
 また、「自己決定」という自由については、「自由からの逃走」などを取り上げて自由であるがゆえの責任の重さに耐えられない個人の問題についても触れている。
 大屋は、「自由」については自己決定という意味合いで使っている。

幸福について

 では、幸福はどうだろうか。大屋は功利主義を補助線にして幸福を語るが、注意すべきはこの幸福とは「総量」としての幸福だ。「功利主義」の目標は、個々人のそれぞれの幸福と福祉の「総量の最大化」であり、その分布には拘泥しない(194/239)そうだ。功利主義は「総量」を前提にするため、個々人は融解する。このように個々人が隔たれることなく、種の垣根すら超えて、快楽を最大化する状態を「感覚のユートピア」(199/239)と大屋は呼ぶ。
 功利主義を突き詰めるとそういうことになるが、しかし、実体は難しいだろう。SFではよく出てくるギミックではあるけれど。さすがに無理やろ。
 ここで確認しておくべきことは、「個々人」つまり、「個人」を基盤におかないで全体、総量を主体にすると簡単に個人が吹き飛んでしまうことだ。そこは簡単に吹き飛ばしてはまずいだろう。功利主義に対するよくある批判でもありますが。
 だからこそ、大屋は個人を前提にしながら、フーコーの権力論、不安社会、ゲーテッド・コミュニティ論を踏まえたうえで、塔の内部だけでなく、「塔の外部の空間すべてとそこにいる主体の監視の対象にするようなアーキテクチャ」(207/239)によって安全・安心を与える社会を構想するわけだ。
 この社会論の目新しさは、フーコーの監獄論やゲーテッドコミュニティのような「偏在する監視」(215/239)ではなく、普く相互監視社会で公正を担保しようとすることだろう。犯罪者や貧困者と隔離して安心するだけでは足りない。情報技術の発展で相互監視が可能となった。「等しく」それぞれの個人が監視されるのならば公正ではないか。あますことなく監視される、鏡のようにあますことなく映し出される。それによって、公正を担保され、安心が与えられる。そんな社会は公平かもしれないが、本当に幸福なのだろうか。
 
でも、誰が監視するのよ?
この監視者は新たなリヴァイサンなのか。
一つ間違うと権力者の恣意性によって管理されますよね。
例えば中国のように。
そこに自由と幸福はあるのだろうか。
 

岩内章太郎の「自由」と「幸福」

 と、ここまで書いてきてようやく岩内章太郎さんの話に戻ります。
 (長くてすまん。。。)
 
ここで岩内の普遍性の本質について参考にしたい。

(一)普遍性は人間を超えて存在する実体ではない。

(二)普遍性は事実として存在しない。

(三)普遍性は閉じられていない。

(四)普遍性は無条件に存在しない。

(五)普遍性の根拠は実存にあるのだから、普遍性の側から実存を規定してはならない。

 

269-270:各項目の最初の文章を引用

 監視社会の「監視者」はすべてに抵触しませんか。大屋のミラーハウスには、実は、監視者が間違うことのない神のように立ち現れています。そんなことは可能でしょうか。結局は恣意的に監視者を利用するものが現れませんか。その恣意性をどのように排除できるのか。排除は可能なのか。
 おそらく、やりかたによっては可能なのだろう。その方法とは岩内章太郎ののロジックで。徹底して個人から<普遍性>を求めてやり抜く。みなが納得すること、手続きは常に開かれていること。個人を基盤にその都度、やりぬく。先人が決めたルール(法)であっても、納得すればそれでよいし、違和感があるのなら意義申立てをして改善する。常によりよき普遍性=監視者を求めて。。。監視者って言葉よくないなぁ。なんて言えばよいのだろうか。
 
 最後にもう一つだけ。実は、大屋は「自由」と「幸福」について定義していません。自由はせいぜい選択の自由の意味合いであり、幸福は個人の効用であり、幸福を語るときに社会全体から、つまり功利主義から語ろうとします、だから、なんだかおかしい社会論になっていくのではないでしょうか。
 
 特に幸福を「総量」から見ることは意味がないのです。社会全体の「幸福」ってなんでしょうか。功利主義の社会的効用関数による幸福の総量っていったい何を示したものなのでしょうか。「社会の幸福」っていったいなに?万人が認めるよいものはそれは「善」なのではないでしょうか。善は社会的なものだけど、幸福は個人的なものなのではないでしょうか。
 なぜなら、幸福は個人の充足なので、他人と比較不能だし、総量化して計算する必要がないものなのではないでしょうか。
 
ここで、岩内の自由と幸福の定義を確認すると

自由がそのつどの規定性を超えていく運動だとしたら、

幸福は欲望が充足して安定している一時的な状態である。

278

 現代人の幸福の類型を「関係性の充足」と「ソロ充の快楽」の二つを示していますが、それは総量化しなくてよいものです。総量化する必要があるでしょうか。功利主義はそれぞれ個人の効用を足し合わせた最大値が「社会」にとって最大幸福とありますが、そんな「全体(社会)」から幸福は考える必要はないのではないでしょうか。個人が充たされたらそれでよいのだから。

 とはいえ、これは物質的に生活が安定している社会での話です。そもそも財が不足して基本的な生命活動が脅かされている社会では、功利主義の考え方も成立するとは思います。

 水源を維持するために、山奥の村を沈めてダムを作る、というのは、山奥の村人にとっては不幸な出来事ですが、社会全体にとっては幸福な(物質的な豊かさ)ことかもしれません。功利主義の幸福総量とは、このような残酷な面を持ち合わせているのです。でも、生存のため物質的基盤が整備された社会では、このような幸福の総量は問われて来ないでしょう。個々人のそれぞれの幸福を充たすことを、あえて総量化する必要はない。

 岩内正太郎さんの社会論も読んでみたいですね。どのような社会を構想するのだろうか。

まとめ

 私なりに色々考え込んでしまった。大屋の社会像に相応のリアリティがあったとしても何かモヤモヤするものがある。その原因を岩内の本から教えてもらいました。
 <私>と<我々>には大きな隔離(ジャンプ)がある。だからといって、手法として<全体>から、言い換えると実在するかのように普遍性から物事を考えてしまうと足元を掬われる。まるで全体を把握して調整して統合できる「何か」があるかのように考えてしまうと、個人は非常に無力だ。大きな「何か」の力に対して無力な存在になる。それは自由でも幸福でもないだろう。
 幸福の総量から社会を考えるよりも、全員が納得できる「善」について再帰的に考える方が個々人にとってよっぽど自由で幸福だろう。
 
 
 
おそまつさまでした。
今の段階の考えです。