kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

『妊娠・出産をめぐるスピチュアリティ』の感想

 子宮系、体内記憶、自然なお産。。。妊娠、出産した女性にとって、雑誌やネットで見かける言葉たち。「自然なお産」なんてあまりにナチュラルな言葉過ぎて、スピチュリアリティと関係があるなんて自覚も無く、それらの言葉に触れている。

 これらの言葉はどこから来ていたのか気になっていました。なので、この新書の出版は嬉しかった。出産を経験した女性にとって、これらの言葉をまったく触れずに出産、育児している人たちは極めて稀だろう。特に、「自然なお産」は女性の憧れる出産のように語られることも多いのだから。

 

妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティ (集英社新書)

 

 各論点については本を読んでもらうとして、全体の流れをおさえると、伝統的共同体にとって出産と宗教は結び付いていた、月経や出産はケガレと見なされ、男女の差異を強調し、文化や社会的制度レベルで区分されていた。ようするに社会が管理していたわけだ。

 しかし、近代化によって妊娠、出産は個人の問題とされるようになる。出産も助産婦の介助から医療化がすすむ。伝統社会では管理されていたものが、近代化によって個人化が進んだ。

 個人化が進んだことと、女性の社会進出の結果、妊娠・出産は個人の女性の「選択」の問題となっていった。「選択」という選択肢があるということは、積極的に産まない選択肢が増えたからだ。この選択肢が増えたのは、女性の抑圧解放のため運動したフェミニズムが大きな成果をあげた。「女性は母になるのが当たり前」という常識を「母親である前に一人の人間だ」と主張したのだ。女は「母親」という常識から距離をおき、「女である前に人間だ」という抽象的な人間像を新たに社会に訴えて、認められたのだ。このあたりのフェミニズムの話は、この本を超えて私が解釈するフェミニズムです。

 フェミニズムは一人の人間としての新しい女性の生き方を提示した。子供を生まず働く女性の生き方を提示し、受け入れられた。フェミニズムの功績は大きいだろう。選択肢が増えると言うことは、自由が増えたということなのだ。

 でも。ここからがこの本の主張するところだが、働きつづけようが続けなかろうが出産して母親になる女性はいるわけで。妊娠・出産が「選択」できるということは、それだけ女性に判断の負荷がかかります。産むのが当たり前の世界では産めない/産まない女性が苦しむ世界でした。その世界を解放したのがフェミニズムだった。でも、産むことが選択になったときに、「私」が選択しなければなりません。フェミニズムは産むことの選択に寄り添ってくれるわけではない。フェミニズムは「産むこと」を暖かく支えてくれる理論ではありません(むしろ冷たく突き放すところがあります)。

 産むことを積極的に肯定し、支えてくれるもの。それがスピチュアリティだった。子宮系、体内記憶、自然なお産は、女性の妊娠・出産を肯定します。

 スピチュアリティがここまで普及したのは、能力がある女性だけでなく普通の女性が働きつづける社会が到来したからだ。そして、ネットの普及、SNSの普及が大きかった。

 

 ネット以前の社会では、新宗教の話が印象的だった。例えば、オウム真理教について、「子どもを遠ざけることで、母親としてではない個人としての自分自身を獲得することを重視する事例」(33)として説明していて、なるほどなあと思いましたね。自分自身のための人生を生きようとすると子供は邪魔です。その受け皿にオウム真理教はなっていた。。。

 まぁ、これは極端な例ですが、子育てに悩む女性は、宗教団体に入り支援されているんですよね。今でもそうですが創価学会とかね。カルトになるとエホバなど。

 今の時代、宗教団体に入信するのはハードルが高く手間なので入る人の方が少ないだろう。スピチュアリティは個人主義化した迷える女性を、優しく包み込むのだ。。。

 

 著者はフェミニズム運動が、妊娠・出産を肯定的に評価しなかったと批判する。また、先に読んだ元橋利恵の『母性の抑圧と抵抗』もそうですね。母親になること、マザーリングという視点をいれて、フェミニズム思想を変えていこうとしています。

 私はこの流れに賛成ですね。フェミニズムの「女の前に一人の人間」という運動は一定の効果があったけれど、役割を終えつつあるんだと思う。もちろん男女平等を求めて活動しつづけてもいいと思うが、女性の妊娠、出産、育児を肯定する思想が生まれてもよいと思います。でなければ普通の女性はスピチュアリティにすくいとられ続けるだろう。

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