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『ブループリント 「よい未来」を築くための進化論と人類史』の感想②友情、友(内集団)/敵(外集団)、自己と他者、利他的行為

昨日も書いた感想だが、今日は下巻を中心に気になったところメモ。

 

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ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(下)

 

友情は道徳の基盤

 第7章動物の友達では、「友情は動物界ではめったに見られない」(58)を確認している。人間の人らしさの一つには「友情」が一つの指標であるようだ。友情の存在は、「固体を超越し、時空を超えて情報を伝える恒久的な文化を育む能力の基盤」(58)らしい。「友情の絆のネットワーク内に集まることで、道徳感情が出現する土台が築かれる」(59)そうだ。友情・・・意外と大切なものでした。

 

人間の美徳の大半は社会的美徳であるということだ。

人は、愛、公正、親切を大切にするかぎり、それらの美徳はほかの人々に関していかに実践するかを大切にする。

あなたが自分自身を愛しているか、自分自身に公正であるか、自分自身に親切であるかは、誰も気にかけない。

人が気にするのは、あなたがそのような資質を他人に対して示すかどうかだ。

それゆえに友情は道徳の基盤となるのである。

59

 

友情=内集団バイアス、そして敵

 著者は「友情と内集団バイアスは普遍的なものだ」(107)と主張する。「人はまず友達を選び、それから集団を形成し、ネットワークを形成する。そしてそれらの集団が、ほかの集団とポジティブにもネガティブにも相互交流する」(92)わけだが、ポジティブに交流するのが「内集団バイアス」であり、ネガティブな交流が敵と言えるだろう。著者は根本的な問いを立てる。なぜ人間はそもそも部外者に対して別の感情を抱くのだろうか?、なぜ人間は全員を好きにならないだろうか?

 言われてみたらそうだよな。なんでみんなを好きにならないのだろうか。。。

 集団アイデンティティは、「相互支援の規範が共有されている集団の一員であるということは」、協力関係を円滑にするに役立つ」(95)し、「たとえ相手が見知らぬ他人であっても、その他人が『われわれの一員』であるかぎり、人は互いに協力できる」(95)わけで生存戦略として役に立つわけですね。

 「自分の命を犠牲にしてでも内集団メンバーを助けるのが利他行動であり、一方、外集団のメンバーに対して敵意を向けるのが自民族中心主義(あるいは区域内至上主義)」(102)であり、この「利他行動も自民族中心主義も、ともに単独では進化していなかっただろうと示唆」(102:ボウルズ、崔のモデル)されているそうだ。つまり、「二つあわせてでないと進化しなかった」(102)のであり、「人間が他者に対して親切であるためには、『われわれ』と『かれら』を区別していなくてはならないらしい」(102)とある。

 親切=他者への利他行動は、われわれ/かれらの区別とセットで進化したそうなので、内集団バイアスと利他行動はセットで切り離せないのかもしれない。これが差別や偏見がなくならない理由だそうだ。

 これは特に「集団どうしは互いにさげすみあい、嫌いあう状態のままで生きていける」(105)とき内集団バイアスが加速し、外集団に敵意を持つようになる。しかし、「ひとたび接触や交わりが不可避になれば、倫理的な優越感を強く持っている集団ほど、激しい憎悪、他集団の奴隷化、植民地主義民族浄化戦争などに、するりと陥りやすい」(105)。問題は、人種差別や偏見の最悪のあらわれは、「外集団憎悪の極端な結果であって、内集団の仲良しの結果ではない」(105)だそうだ。問題なのは「外集団に対しての強いネガティブな見方が存在していることではなく、ポジティブな見方が存在していないこと」(105)だという。

 このことはある種の逆接を浮かび上がるそうだ。「独自性と個別性を強調し、個人的な特定の関係に基づいて友情を育める豊かな土壌を提供している社会ほど、実際には、人間ならではの共通の属性が容易に認められる社会になっている」(105)かもしれないらしい。実際に比較文化研究の成果から、「内集団バイアスも『われわれ』と『かれら』との区別の重視も、集団帰属の重要性を強調して個人を集団に組み込もうとする集産主義社会(共産主義社会も含めて)においてのほうが、自主性を重んじる(そして社会的相互依存が比較的少ない)個人主義社会においてより、顕著に見られ」(106)、同じように「個人が自らのアイデンティティをしっかりと身にまとえて、なおかつ一定の枠にとらわれずにいられる社会ほど、略、部外者を、ひいては誰をも許容できる社会になるのだ」(106)そうだ。

 人間は、内集団バイアスと利他行動をセットで進化させてきた。そのため、われわれ/かれらの区別は普遍的なバイアスだ。しかも、われわれ/かれらの区別は固体を区分する能力も進化させた。それは友/敵を区別するための能力であったが、なんと固体のアイデンティティを重視する社会は、集団の中に個人を埋没させる集産主義社会より内集団バイアスを乗り越えて利他主義を発揮できるという。

私たち人間は、個々の区別がつかなくてもかまわないウシの群のような集団で生きるように進化したのではなく、ネットワークのなかで生きるように進化した。そこではつねに個人が他の個人と特定のつながりをもち、その他人を知り、愛し、好きになっていくのだ。 109

この能力はわれわれ/かれら(友/敵)の能力とともに進化して、内集団バイアスを生み出し、差別や偏見を生み出すものでもあるが、さらに開かれた社会へ向かう能力でもあった、ということだろう。

 

自己と他者

人間の「顔」が進化した理由

著者は「自分の個人的アイデンティティをもち、他人の(とくに自分の配偶者や子孫以外の)個人的アイデンティティを認識できる能力というのは、実は動物界ではほぼみられないものである」(120)と主張し、顔立ちの豊富なバリエーションはアイデンティティの信号として顔が使われていること示す(120ー124)。

 顔の認識は、「血縁以外との協力関係から利を得ている種であれば、個別性を認識できることはとくに有益」(125)であり、友情関係や同盟関係、敵対関係を認識し、階層構造に注意を払うために必須だそうだ。

ミラーテスト(鏡像自己認知テスト)

社会性動物の実験により、「実験室で生まれ、孤立して育てられたチンパンジーは、総じて自己認知(128)できない。「自己意識を育み、自他の区別をつけられるようになるには、幼少期からの他者の存在が必要」(128)だそうだ。

なぜ人間は、安全な今日でも利己的ではないのか

 協力行動と利他行動は、長い間科学者の頭を悩ませてきた問題、だという(142)。「普通なら、自然選択は利己的な行動を好むはず」(142)だし、「集団のメンバー全員が集団に貢献すれば、メンバー全員でいい思いをできるかもしれないが、個人レベルでは、貢献しないでいたほうが自分だけいい思いができる」(142)わけです。いわゆる「フリーライダー問題」ですね。

 なぜ自分だけが得をする利己的な行動をせずに協力をするのか。進化生物学者のロバート・ボイドとピーター・リチャーソンは以下の点について数理的に明らかにした。人々が協力するか、裏切るかの二択のほかに他人とまったく交流しない「孤独者」の戦略を数理モデルに加えるたところ、「利他タイプの進化サイクルが生じた」(155)!。

 多数の協力者がいるときにはフリーライダーが得をするが、フリーライダーが増加すると協力者がいなくなる。そうなると協力者が一人もいなくなり、誰にも支えてもらえないので、フリーライダーは孤独者より分が悪くなり、今度は孤独者が増えはじめる。時間とともにフリーライダーが孤独者に入れ替わると、協力者が生き残りやすくなるので協力行動が増えてくる(155の説明を要約)。そして、このサイクルが繰り返されるという。

各タイプはーーー協力者、裏切り者、孤独者ーーーはどれも生き残れるが、これはひとえに、各タイプがそれぞれの天敵を打ち負かしてくれる別のタイプと共進化しているからである。各タイプの存続にはお互いが必要なのだ。 155

 つまり、この3タイプの3すくみのサイクルが続くため、どのタイプも完全には消滅できないし、完全に支配することもできない、という(155)。このプロセスのなりゆきとして、「必然的に多様性が維持される」(155)わけだ。

 この状況に「処罰者」を組み入れるとどうなるだろうか。

 処罰者とは、「第三者を傷つける誰かを罰するために進んで個人的コストを支払う」(149)人であり、それを「利他的他罰」(149)という。列に並んでいて誰かが割り込んできたら、割り込まれた本人でもないの注意する人がいるし、割り込まれたのが自分でもないのにむっとすることあるだろう。その感情の起源はなんなのだろうか。著者は事例をあげて示すことは、「よくない行いをした者を叱責したい願望よりも、正義を回復し、不当な扱いされた側に埋め合わせをしてやりたいという願望のほうが強く表れ」(154)、「利他的な罰は特定可能な被害者に短期的な報いを与える一方で、もっと重要なことに、集団レベルでの協力の出現を全般に促せる」(154)という。つまり、「処罰者が入っている集団では、ただそれだけで、処罰者が実際の処罰行為をいっさいしていなくても、協力レベルが高く上昇し、ずっと高いまま維持された」(154)。「罰は制度として機能する。その存在だけで人々の行動を変えられるのだ」(154)。

 先の数理モデルに処罰者を加えて実験すると、集団内の裏切り者は激減し、そうると処罰コストが下がり、処罰者のほうが孤独者や裏切り者より分がよくなるので、処罰者が増えるようになり、サイクルが一巡する(156要約)。

 ようするに、「基本的には、人々に社会的交流から完全に身を引く選択肢を与えることで、罰が実行可能な行動になりえて、それがひいては、最初から互いに関与しあい、協力し合っている人々を支えるのだ! 誰ともかかわらなくてもかまわない状態が、結果的に、集団の結束力を強化している」(156)そうだ。

 

 私がこの点について読んだとき思ったことは、経済学の人間観である利己的な個人は、理論のモデルとして不適切なんだということです。最低、三つのタイプが共進化して互いを相殺できない存在。そして、それに処罰者の存在が集団にいるとき、利己的な人間は少数派にならざるをえないのだと。但し、利己的な存在を消滅させることもできないが、抑制はできるということなんだけど。

 

 いろいろ興味深いことが書いてありました。

 今回はメモ的にまとめました。