kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

まなざし不在の地獄、生の慟哭、大量殺人もしくは子殺し

 もう一つの声(3)を書こうと思ったのだけど、『令和元年のテロリズム』を一気読みしてしまったので、「自律/自立した個人」であることから疎外された苦しみ、ダークな側面について書いておきたい。「弱者」男性の身の奥底から響く雄叫びについて触れておかないといけないだろう。オルタナティブなライフスタイルとセットの現象なのだから。

 

令和元年のテロリズム

 

 この本は川崎殺傷事件(カリタスの小学生を狙った殺傷事件)の岩崎隆一、元農水相事務次官長男殺人事件の熊沢英一郎(被害者)、京アニ放火殺傷事件の青葉真司の三つの事件のルポだが、社会問題化されず個人問題に帰せられることに著者は憤りを感じている。社会から疎外された男たちの「テロリズム」と主張することで社会問題のフレームワークで語ろうとする。

 著者は、この殺伐とした社会はいったいなんなのか言葉にならない虚しさを言葉にしようと迷いながら考えつづけている。その姿勢には好感がもてる。但し、これがテロリズムなのかと問われたら、ちょっと違うような気もする。

 三つの事件は近い時期に起きた事件だが、事務次官の事件は長男は被害者だ。川崎殺傷事件、京アニ事件はともに「死にたいなら一人で死ね」と批判殺到した事件だ。「他人を巻き込んで死ぬな」と社会は断罪した。元事務次官は、この自己責任論による究極の結果として子殺しを手がけた。「息子が殺人事件を起こしたら困るから息子を殺す」。「殺人する可能性」の「予防」のため殺される。「社会に迷惑をかけそうな子供を殺した親」に対して称賛の声があがり、父親の刑の寛大な処置を求める署名活動が起こる。

まなざしの地獄/まなざしの不在の地獄。透明人間の苦しみ

 著者は見田宗介の『まなざしの地獄』を引用して分析している。この本は連続射殺事件の永山則夫を分析した社会学のモノグラフである。この論文ではイニシャルでN・Nとされる地方出身の永山則夫は、家族や貧困から「自由」を求めて上京するも都市の「まなざし」の中で、どこまでいっても「まなざされる」者として規定され、自由にはなれない末に起きた事件を社会学的に分析している。この本では階級のリアリティとして表現されるが、今でいうならば地域格差、経済格差によって「自由になれるはず」の東京に行ってもどこまでもついてまわり、自由になれない苦しみについて描いていると言ってよいだろう。文化資本の違いによって社会的上昇をはねつけられる苦しみだ。

まなざしの地獄

 

一方で見田は、秋葉原無差別殺傷事件について「まなざしの不在の地獄」について語っている*1。また、上記の『まなざしの地獄』の大澤真幸も「まなざしの不在の地獄」について解説で語っている。

 

現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

 

 日本が一定の豊かさを享受して、地方ですらどこまでも東京の郊外のように変貌した社会となった。わかりやすい貧困や格差は見えにくい社会となった。

 秋葉原無差別連続殺人事権の加藤智大は、ネットで殺害予告しながらも誰からのレスポンスがないことに絶望して、事件を起こした。誰からも「まなざされない」苦しみ。

アキハバラの犯罪の出発点になったのは、犯人TKが仕事に出てみると、自分用のつなぎ(作業服)がなかったことである。TKはいったん自分の部屋に帰って、自分は結局「だれからも必要とされていない人間」であると感じる。それから人生をふりかえってみても、だれからも必要とされていなかった人間であると感じる。(Mature man needs to be needed.「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」エリクソン*2

 加藤は家族から虐待を受け、見捨てられていたと感じていた。近代化は共同体を解体し、核家族という最後の砦までも解体した。血縁関係であっても心の交流はない。また、派遣労働は正社員労働より取り替え可能な労働力であり、労働力の部品でしかない。ようするにその仕事ができるのならば「誰でもいい」存在だ。

 川崎殺傷事件、京アニ事件の加害者は東京郊外に生まれ、育ち、「透明人間」となった。事務次官の息子も都心に住みながらも「透明人間」になった。父親だけが関わり続けたが、それが逆に不幸な結末に及んだ。家族とも社会とも接点がないまま透明化した彼らが、社会に名前を知られたのは殺人事件によってだ。透明人間の彼らは最後に人との「接触」を求めて殺人を犯す。そうすることで初めて名前を取り戻した。彼らの行為はテロではないだろう。政治的メッセージというよりは、生の雄叫び、動物の慟哭に近い。見田の言葉を借りれば「実存」の叫びだ。

 殺人はもちろん許されないことだ。「人を巻き込むな。一人で死ね」と社会は言う。 

もう既に彼らはずっと一人だ。そして、ひきこもり*3や、アキハバラ事件の加藤のような立場の大多数の人間は事件すら起こさず、一人で死んでいっている方が多いだろう。一人で死んだ場合はニュースにすらならない。誰も気づかない。誰にも呼ばれない。問題は可視化されない。

 あるとき、殺人事件によって社会にふっと残酷な顔が現れる。残酷な事件は「個人の問題」と処理され、忘れられる。長男殺しの農林水産省事務次官は裁判で「息子に能力があれば」と語る。「自己責任」は「製造者責任」へと連なり、生真面目な親が子供を殺す。雄叫びを上げることすら奪われたのだ。

 バブル崩壊による景気後退は90年代半ばの余剰労働者、特に新卒一括採用から漏れた若者が派遣労働者やひきこもりになった。これは社会的な「捨て子」とよんでよいだろう。社会が養うことができない若者を「社会的に」間引いた。決して彼らの「能力」のせいではない。マクロで見て労働力が足りている。だからそれ以外は必要がない。資本主義経済、市場経済による人口調整弁に過ぎない。

 そして彼らは透明人間になった。核家族に経済力があれば家の内に閉じこもり、家庭が崩壊していれば京アニの青葉のように郊外の安いアパートの1室に閉じこもる。たった一人で、そして孤独に蝕まれて精神が失調して。。。。。。弱者男性は裏返り「無敵の人」*4として突然、社会に現れ、雄叫びをあげる。透明人間は殺人者として初めて名前を呼ばれるのだ。親すら呼ばなくなって久しい彼の名前を社会は呼んで「一人で死ね」と糾弾する。

 この社会は生きることの意味を失っている。私たちはどうすればよいのだろうか。

 

 

※あえて加害者名を実名で記載した。ご了承ください。 

 

注記

*1:104-111ページに記載。下記本は2018年出版だが、まなざしの不在については講演会で話していたのを記憶している。いつだったか覚えていないのですが、2008年出版の『まなざしの地獄』で大澤真幸の解説で「まなざしの不在の地獄」について語っているが、おそらくその前に既に本人が語っていたと思う。

*2:上記105ページ

*3:約62万いるという。特集2 長期化するひきこもりの実態|令和元年版子供・若者白書(概要版) - 内閣府

*4:無敵の人とは (ムテキノヒトとは) [単語記事] - ニコニコ大百科

もう一つの声(2)1ーーー脱サラ、フリーター、そしてニート、ひきこもりの登場

 

 近代の「自律/自立した個人」ではない生き方の模索として、前回はコミューンまで書きました。その続きです。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 「半分降りる」生き方を書く前に、もう一つ押さえておきたい生き方を書いておこう。

脱サラ、フリーター

 日本では1970年代に総中流社会に突入して、新卒一括採用・終身雇用が当たり前になりました。2021年の今の時代では信じられないのですが、バブルとミニバブルが崩壊するまで、就職するということは「敷かれたレールの上を走る」、「社会の歯車」になることが苦痛だという悩みがあった。今では想像がつかない苦しみだと思うので説明をすると、新卒で就職すると定年までその会社で働く、つまり60才までの生活が想像がつき、繰り返しの毎日を想像するだけでうんざりするという感情があったのだ。この時代は大企業が倒産することなんて「ありえない」と信じられた時代です。まぁこのあと、バブル崩壊後の金融不安で大企業も倒産する時代に突入するんですけどね。倒産回避のためにリストラする社会が当たり前になった現在から見るとちょっと信じられない時代ですよね。今の時代は10年先も見通せないので贅沢な悩みに見えるかもしれません。

 終身雇用とは異なる生き方として注目されたのが「脱サラ」だ。「安定」したサラリーマンという身分を捨てて独立することです。よくあるのが蕎麦屋とか飲食店の自営業ですね。

 「新卒一括採用」が当たり前のバブル時代に、「やりたいことなんかわからないも~ん」という若者が自分探しのために就職せずフリーターとして働くことが流行ります。彼らに焦りがないのは、人不足の時代なのでアルバイト需要があり、時給もよかった。カッコイイからコンビニで働く時代もあったんです(笑)。終身雇用を前提にした新卒一括採用の新卒の給与は低いわけですが、フリーターの稼ぎは彼らの月給を超える時代があったのです。

 脱サラもフリーターも「社会の歯車」になることを否定し、「自分らしく」生きることを求めました。

 しかし、それは日本経済が好調だったからできたことでした。今や転職は当たりまえだし、独立することも珍しくなくなり「脱サラ」は死語となりました。労働は流動化し、派遣労働が当たり前になりました。

 「フリーター」は新卒で採用されなかった高卒・大卒のように見られ、貧困を象徴する存在になりました。景気悪化で人余りとなり、時給は上がらず、8時間労働しても新卒採用の一ヶ月分の給与に届かなくなりました。

ニート、ひきこもりの登場

 人あまり時代には新たな言葉が生まれます。「ニート」、「ひきこもり」です。 この言葉の登場で「脱サラ」、「フリーター」という言葉は「働く」ことを前提とした肯定的な言葉だったことが分かります。終身雇用が当たり前の社会ではオルタナティブが生き方が「かっこよく」見えた時代でした。キラキラした用語だったんですよね。

 「ニート」、「ひきこもり」は自発的にその状態になったのか、環境によってそうなったのか渾然一体としていますが、ようは「働かない/働けない」状態です。ここにきて初めて「働かない/働けない」存在が社会に認知されるようになりました。

 

 脱サラやフリーターは働く意欲があり、労働そのものには肯定的です。フリーターは80年代と現在では意味合いが異なりますが、それでも「働く」ことを前提とした生き方です。「働ける」人間であり、労働に積極的にでも消極的にでもコミットして継続して働ける人間なのです。

 ニートやひきこもりになるパターンは様々ですが、そもそもは経済悪化による労働人口のミスマッチが原因です。90年代半ばはベビーブーマーである団塊の世代のJrが就職する時代でした。しかし、その時期に新卒一括採用がぎゅっと狭まりました。終身雇用制に乗れなかった人たちがたくさんいます。.彼ら彼女らは派遣労働として働くようになります。しかし、そこにも乗れない層がニートやひきこもりになりました。

 景気悪化で正社員の新卒採用を狭めましたが、その狭き門をくぐって入った職場では何が起こったかというと仕事量自体が減ってはいないので、過重労働を強いられるブラック化でした。低給料で過重労働を背負います。「社畜」という言葉が登場します。しかも企業の資金繰りも厳しくリストラも多い。いつ首を切られるか分からない。心身の体調が崩れ、会社を辞めます。転職もままなりません。ニートやひきこもりになっていきます。そんなことがよくある経済社会になりました。

 「働く」ことにポジティブなイメージがもてない。頑張って働いてもむくわれない。もう働きたくない。

 90年代後半以降、こういう層が静かに増えていったのです*1厭戦ならぬ厭労働の雰囲気が静かに広く深く広がっていったのです。彼らの中から「定職」で働かない生き方を模索する人たちが出てきます。

 

つづく。

*1:もちろん、その逆の動きも進行しました。大学は遊ぶ場所ではなく、就職するために一生懸命勉強し、資格を取る場所に。もしくは就職活動の履歴書に自分の「頑張り」をメモするために社交的に生きる場所になりました。

コントが始まる

テレビをほとんど見なくなってしまいましたが、このドラマだけは見ていました。

仲野太賀くんが出ていると教えてもらい、見はじめたらはまりました。

6月19日が最終回。

どんな終わり方をするのだろうか、楽しみにしていました。

以下、ネタバレ。ご注意あれ。

www.ntv.co.jp

 

3人組コントのお笑い芸人「マクベス」が解散する。

10年間やってきたけれど、この時間はいったい無駄だったのだろうか。

菅田将暉が演じる春斗は一人もんもんとする。

(他の二人は自分なりに答えをだしている)

 

これは「夢を追いかける」人たちすべてに関わる問いだろう。

お笑い芸人だけなく歌手でもスポーツ選手でも、

トップで輝けるのはごく一握りの人間なのだ。

このドラマはその一握りでは「ない」人たちの夢の畳み方の物語だ。

ドラマの始まりから「解散」で、10話かけて畳んでいく。

夢を畳みながら次に向かうために抱えていた問題を整理していく。

 

一昔前のドラマは「成功もの」が多かったはずだ。

苦労して成功する物語。最後はハッピーエンド。

正直いって、私は3人組を解散しても春斗だけはもう一度お笑いをやり、

一人成功するのではないかと想像していました。

「あのときの3人組があったから今の俺がある」という物語になるのではないか、

と昭和ドラマ脳な展開を予想していました。

見事に予想を外し、現実的な終わり方をしました。

 

一方で、では淋しい終わり方かと言えばそうではない。

解散の過程を丁寧に描くんだけれども、

それでもわいてくるこの10年間は無駄だったのではないかという空しさは、

熱烈なファンである里穂子の感謝の言葉で救われる。

働くのが怖くなった彼女を救ったのがマクベスのコントだった。

今後、いくら面白い芸人が出てきたとしてもあなた以上のものはない、

私にとって特別な芸人はあなたしかいない。

三人組は解散しても、彼らの作ったコントは里穂子に刺さった。

彼女が永遠に忘れない。

 

無駄ではなかった。

 

春斗はすべてを肯定することができた。

 

だから次のステップに向かう力となった。

 

このドラマは若者向けとは言っても出演者はアラサー設定だ。

一昔前のよう流行した10代向けの学生ドラマや恋愛ドラマは減少し、

アラサーを対象にしている時点でテレビの視聴者が高齢化している証拠だ。

夢に向かう過程ではなく夢の畳み方を丁寧に描く。

30才で折り合いをつけなければいけない。

それは芸能人である出演者の誰もが身に染みていることじゃないだろうか。

演技力に定評のある出演者ばかりだが、生々しい迫力があった。

 

突然、話は飛びますが朝ドラ「おちょやん」も

現実との折り合いの付け方のドラマでした。

おちょやんもコントが始まるも

現実を受け止め、折り合いをつけていく。

今までの苦労は無駄だったのか。

胸にふとわくむなしさに、

丁寧に描いた物語は「そうではない」と説得力を与える。

 

現実は厳しい。

勝ち負けは社会的評価に過ぎない。

問題は社会的評価ではなく、自分の心との折り合いの付け方だ。

 

人口減少社会の日本には必要な物語なのかもしれない。 

 

なぜ日本は「侵略」という認識をもたなかったのか

 ようやくこの問いにたどり着きました。

 私は「正しい」歴史認識の闘士ではないし、正直に言うとグロテクスな好奇心から中帰連の証言を趣味で読んでいました*1。グロテクスな好奇心とは人間の残虐な行為への関心のことです。最低ですね。

 しかし、読めば読むほど、なんでこの事実を日本人が知らないのかよくわかりません。歴史マニアや戦争好きは知っているかもしれないけれど、大半の日本人は知らないわけです。断片的に情報があり、残虐な行為への興味から、つまりサブカル的な関心から読まれているくらいで。。。

 読めば読むほど謎が深まります。証言者が嘘をついているわけではない。日本政府が隠しているわけでもない。中国政府も隠してはいない。ではなぜ? これがわかるためには中国の歴史を知らないといけないのです。

日本敗戦後、中国は内戦突入で戦争犯罪を裁けなかった

 わかると理由は単純なのですが、これに尽きるわけです。

『決定版日中戦争』を参照して終戦直後の中国大陸の状況をまとめておこう。

決定版 日中戦争 (新潮新書)

終戦時、三つの軍隊が互いに勢力を争っていた。

①南京を拠点に、華北全体と長江中下流の主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線を支配して 

 いた日本軍(支那派遣軍南京) 105万人

重慶を拠点に、四川省雲南省など南西部の奥地を支配する国民政府軍(国民軍)

  400万人

華北の日本軍占領地を取り囲むように「辺区」(のちに解放区)を押さえている共産  

 党軍(八路軍、新四軍主体) 300万人  [256]

ここに「満州国」は含まれない。満州国以南の中国大陸の状況だ。

 旺盛な指揮を保っていた日本軍は突然の降伏に納得しなかったが、武装解除を進めた。国民党と共産党は争って日本軍の降伏を受け入れ、武器・装備を接収した[258]。日本軍はいいものをもっていたんですね。共産党軍との接収競争を制するために蒋介石は「以徳報怨」演説し、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢をとらなかった[273-274]。

 連合国の中で最も被害を受けたのにも関わらず、共産党との内戦に打ち勝つために、日本軍を許し、協力を仰いだのだ。1949年1月に岡村寧司総司令官の無罪判決を最後に国民党政府の軍事法廷を終了し、日本人戦犯251名が帰国、巣鴨プリズンに移管され内地服役となった[274]。その9ヶ月後、1949年10月に中華人民共和国が成立。国民党政府は崩壊直前に日中戦争の戦犯を解放したのだった。

 つまり、内戦を制するために日本軍を味方にするしかなかった。そのため、日本軍の戦争犯罪を不問としたわけです。総司令官が無罪判決ですからね。国民党政府のこの対応が日中間の歴史認識に大きな影を落としました。

                ◆

 国民党政府は共産党に負け、中華人民共和国が成立しました。内戦当時から中国共産党は、国民党政府の戦犯裁判が不徹底と批判し、アメリカに対しても戦犯の処罰が不徹底であると批判を加え、釈放したA級戦犯岸信介ら)容疑者に対する裁判の権利を主張していた*2。岡村総司令官と既決戦犯(260名)が日本へ返されると、再審の権利と戦犯の引き渡しを何度も要求している*3。しかし、日本は応じませんでした。

 そのため、中国共産党中華人民共和国成立後に、ソ連に抑留されていた満州国華北地域の日本人の引き渡しを要求。中国へ引き渡しされ、「日本人戦犯」は「認罪」プログラムを経て、詳細に戦争犯罪が記録されたのです。詳しくはこちらの記事をどうぞ。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 これにより、日本人が中国で行った具体的な犯罪行為が歴史的資料として残ったわけです。自白だけでなく、自白に基づいて検察が現場を確認して検証されています。

 文官は別にして、これらの戦争犯罪行為は、連合国の裁判ではB級犯罪にあたり、死刑もしくは重罪にあたる行為です。しかし、戦争法廷で裁かれたのはたったの45名であり、死刑はゼロです。中華人民共和国がこれだけ寛大な措置をとったのは、新しい国が再興するためには日本の協力が不可欠だったからです。中国で被害にあった人々からすると許せないかもしれませんが、国の都合で寛大な対応をしたわけです。

                ◆

 日本は、1951年にサンフランシスコ講和条約を署名し、1952年に台湾に逃げた国民党政府と日華平和条約を署名します。日華平和条約の交渉では、サンフランシスコ講話条例第11条と同じく「戦犯規定」が挿入されていたが、日本側が裁判管轄権は中国の手を離れており不要としたため、中国もあっさり削除に応じた経緯があります*4。また、賠償問題については戦中から詳細な被害調査を行い、平和条約交渉時には賠償を求めていた。しかし、サンフランシスコ講和条約では、米英が賠償放棄の立場を明らかにしたことから、国民党政府も賠償放棄を宣言するに至った。戦犯も裁けず賠償金も取れなかったのだ。

 中華人民共和国は国家設立後、戦犯返還を要求しても日本政府は応じなかった。そもそも国交が無かった。新しい中国は、ソ連に抑留されていた日本人戦犯を裁くことしかできなかった。

 世界の冷戦と二つの中国の複雑な歴史により、中国大陸での日本の戦争犯罪は実質的には満州国の文官とごく一部の日本兵憲兵しか裁かれなかった。これが日本が「侵略」を認識できなかった要因です。

 今や戦争経験者の大半は鬼籍に入り、76才以下は「戦争を知らない世代」だ。「侵略」なのかいなかの概念闘争よりも、リアルな加害行為の証言を読もう。こういうことはしてはいけないし、させてはいけない。中国の被害者はもちろんのこと、残虐な加害行為をした人々もある意味で犠牲者なのだ。戦争だからしょうがなかったと相殺することは、彼らの証言を無駄にすることになるだろう。

 

 一つ願うことがあるとするならば、この記事に書いたことは、個人が趣味的に調べて理解することではなく、共通認識で理解すべき内容のため教科書に記載してほしい。私はこの点を理解するために日中戦争の本まで読んでしまった。だってわからないんだもん。なんでこんなことすら知らないのか。自分が何を知らないかすらわかっていないので、相当の本を読みましたよ。でも、これは趣味で理解すべき事項ではなく、共通認識として知っておいた方がよい情報だと思いました。

 

 

書籍案内

●当事者の証言

私たちは中国で何をしたか―元日本人戦犯の記録

 

・軍医の生体解剖の日常。戦場という特殊な空間でたまたま行ったのではなく、医学スキルをつけるために日本の医学部が陸軍に振り分けられて、システマティックに生体解剖しています。

消せない記憶―日本軍の生体解剖の記録

●戦犯管理所長から見た日本人戦犯

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

●全体像を把握する

決定版 日中戦争 (新潮新書)

 

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)

日本人の「罪」意識の分析

戦争と罪責

 

注記

*1:中帰連については90年代から知ってはいて、NHKの特集番組も見ていたように思います。でも、最近一連の本を読みはじめたのはたまたまでした。数年前にNHKの戦争中の精神疾患の特集を見て、そこでコメントしていた一人が野田正彰氏でした。名前を検索すると『戦争と罪責』という本があり、面白そうなので購入していたがそのまま忘れていたのです。コロナで暇になり本棚を整理していたらこの本が出てきてw、読んでみると興味深く、そこから軍医・湯浅の『消せない記憶』や図書館から借りて中帰連の証言を読みはじめました。湯浅軍医は残留組で戦後も山西軍に従軍したわけですが、全然意味が分からないわけです。山西軍ってなに!?て感じなわけです。それで『完全版日中戦争』など日中戦争の本を読んでようやく理解できました。日中戦争の本もこれだけではなく、いろいろ読んだのですが、この新書が一番わかりやすかったです。コンパクトなので全体像が把握できるわけです。グロテスクな好奇心と結び付けると、私の趣味で追いかけているテーマの一つにロボトミー手術(精神外科ともいう)がありまして(どんな趣味やねんw)、湯浅氏の本の前に『精神を切る手術』という本を読んでまして、日本人初の精神外科医の話なんですが、陸軍や海軍の軍医として従軍した精神科医たちが外科手術の訓練を軍で学んだことが書いてありまして。湯浅氏の本を読むとよくわかるんですが、1940年代に軍医で中国へいっている人は、まず生体解剖しています。手術の訓練しているんですよ。本物の人間で。その人間は中国人です。精神外科の本を、戦争と関連づけて読んでいたわけではないんです。たまたまグロテクスな関心から読んでいたら「つながった」わけです。戦後すぐ、日本で精神外科手術が行われるのは、おそらく手術に慣れていてためらいがないからなんですよ。戦地で精神的にやられた兵隊は、戦後、ロボトミーされているんですよね。。。。これは日本だけではなくアメリカもなんですが。。。。この話は語ると長くなるのでここでやめておきますが、いつかblogに書きたいです。

*2:21ページ

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)

*3:同上22ページ

*4:『決定版日中戦争』274ページ。

飯守重任ーーー体制側に過剰適応する男

 中国帰還者連絡会中帰連)はヒダリと言われているが、日本人戦犯のなかでミギに転向した人もいるので取り上げよう。その名は飯守重任(いいもりしげとう)。興味深い人物である。

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飯守重任

※写真の引用*1

※日本人戦犯についてはこちら

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 飯守重任は1906年生まれで兄は最高裁判所長官の田中耕太郎だ。満州国では満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した人物である*2尚、飯守は軍事裁判の45名には含まれていない。起訴されなかった帰国組だ。

 ここでは、満州国治安維持法に関与した人物だということに注意を払おう。「思想」には一家言あるのだ。

帰国後は右派裁判官として活躍

 日本人戦犯は帰国後、中帰連に加盟し、自分の加害行為について語り継ぐ運動するものが多かった。そんななか、帰国後に再び右翼思想に転じたのが飯守重任だ。1958年に帰国後、飯守は兄で当時の最高裁裁判長の田中耕太郎の推薦で東京地裁の裁判官に復職した。

 1960年には「ハガチー事件」*3安保闘争の事件)で被告側弁護士を法廷秩序を乱したとして置換、1961年には右翼テロの「嶋中事件」*4の背後にいる赤尾敏に対して東京地検が「暴力行為」「殺人・殺人未遂教唆」で勾留請求した時に「暴力行為」について勾留を認めただけで、「殺人・殺人未遂教唆」の取調べは認めず、勾留請求を却下した。その際に、「安保反対の集団的暴力の横行が事件の根本的原因で集団的暴力対策の貧困が政治テロを生んだ」という所見を発表し、最高裁から注意処分を受けた*5

  その後、鹿児島地裁所長となるが、1970年に部下の9人の裁判官に対して、「青法協*6をどう思っているのか」「革命的体質を持つ全司法労組の体質は合憲的かどうか」「天皇制についてどう思うか」「階級闘争は合憲か違憲か」といった公開質問を出し大きな問題となった。いわゆる思想チェックだ。その結果、最高裁は飯守を東京地裁に異動させようとするが、それを拒否したので、最高裁は初めての措置としてただちに鹿児島地裁・家裁所長を解職して地方判事に格下げした*7。これを受けて飯守は辞職し、弁護士に。その後、京都産業大学の教授に就任している*8

飯守の言い分

 ここで飯守の言い分を聞いてみよう。鹿児島地裁所長の1970年5月に「反体制団体は憲法違反ーー誤った政治的中立は国を危うくする」*9[『経済時代』36(6):32-37]という論考を発表している。『戦争と罪責』からの孫引きになるが論考の内容を引用しよう。

体制とは、憲法体制としての民族史的天皇制度、階級強調路線上の議会制民主主義制度、修正資本主義制度の三つの制度を指し、

天皇と資本主義に関する憲法の規定は、戦後も戦前も根本的な変化はなかった

とし、それに反対する「反体制勢力に対しては中立はありえない」と述べ、それ故に

私は日共党員が公務員になっていることを発見した場合は、公務員として当然失格扱いするべきものと解釈しておりますし、反体制政党として日共に近い社会党の党員も、基本的に公務員法による『官職に必要な適格性を欠く場合』として公務員の資格を欠くことになると思います*10

と解雇事件裁判の指針を示した。そして、鹿児島地裁の裁判官の思想チェックを行ったため、最高裁から地方判事の降格辞令が出された。戦後初の降格人事だった。上記したように飯守は辞令拒否したので解職された。最高裁としては、飯守の主張はもちろん認めていない。

 なぜ飯守重任は、保守より保守的で右派的な態度をとったのか。中帰連の反応と戦犯時代の様子をみてみよう。

中帰連からの批判

 ハガチー事件とは、全国各地で起きたアイゼンハワー米大統領の来日反対のデモが起こり、デモ隊がアメリカ特使の車を壊し、多くの逮捕者がでる事件であり、飯守はこの裁判で被告の弁護士まで有罪にして収監した*11。これを別名「飯守事件」というらしい。

 中帰連は飯盛の「除名」を決定し、中国での犯罪を明るみにだし、撫順管理所で反省の弁を述べた彼の録音放送を放送し、飯守の罷免を要求したという*12。「除名」されたということは、それまで飯守はメンバーだったわけだ。加入はしていたんですね。その後、1970年の鹿児島地裁での思想チェック問題で解職されるまで、中帰連は飯守への抗議活動を繰り広げていたのだろう。

飯盛重任の撫順戦犯管理所の様子

 では撫順管理所では飯守はどのような様子だったのだろうか。管理所で一時同室だった富永正三が語る飯守の姿を引用しよう。

彼(=飯守)は日本カソリック教会の代表であった当時のT(=田中耕太郎)最高裁判長の実弟だろいうことだったが、シベリヤや中国に来てから一緒にいた人の話では『ペンより重いものを持ったことがない、ピアノのない家には住めない。。。』等々、育ちや毛並みのよさを誇る言動が多く、まわりの人々の反発を買っていた。

彼のはいって来た姿は私にはきわめて異常に見えた。病室に入るときは、誰でも持ち物は最小限にし、普通、洗面具だけ持ってくるものだが、彼は災害時の避難民のように、背負えるだけのものを背負い、持てるだけ持つというかっこうでやって来た。それに、その持ち物が、デコボコのはんごうや、空き缶の灰皿、うすよごれた布類など、ガラクタばかりである。自分のものは肌身離さず持ち歩かなければ気がすまないのだろうか。

あまりに豊かに『上品に』育った彼に、シベリヤでの厳しい生活が身にしみて、その対極がこうなったのだろうか。

そういえばハルピン(※引用注:朝鮮戦争時は撫順からハルピンに移された)の監獄で運動のとき、彼らのグループと一緒になったとき、彼が一人グループを離れて私たちが運動していた広場の隅のゴミ捨て場に来て、タバコの吸い殻を拾っているのを見かけたことがある*13

 飯守の姿はあまりに哀れだ。

 また、中帰連には戦犯達の書いた文書が多数保存されており、飯守が書いたものも含まれる。ここで飯守本人が書いた文書を紹介しよう。

僕は何んと抗日愛国の中国人民を徹底的に弾圧することが正しい処置であると考えていたのだ。この法律(=治安維持法)を立法することによって、僕は所謂熱河甫正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国中国人民を、一千七百名も死刑に処し、約二千六百人の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している*14

そして、

僕達は今、資本主義を宗教にも道徳にも反する制度として徹底的に否定しよう。そして共産主義を論理的に正しい経済制度、社会制度として僕たちの宗教と結合して肯定しよう。そして、日本の独立及び民主化の為に徹底的に奮闘し、帝国主義の生み出す侵略戦争を防止し、世界の恒久平和を勝ち取る為に闘争しようじゃないか」*15

この手記を涙ながらに皆の前で発表し,「今、最高裁裁判所の長官をしている田中耕太郎は自分の兄であり、帰国すれば彼と対決し、彼を民主的に変えるのが自分の任務である」*16と語っていたのだ。

 しかし、帰国後に辿った経緯はまったく真逆だった。中国では共産主義へ転向し、帰国後は再度右派に転向した。治安維持法という思想統制法のプロがしたことは、自分の「思想」を簡単に変えて、相手に擦り寄ることだった。帰国後は共産党への恨みを晴らすように、自分の権力を笠に来て反体制側に対して厳しい態度をとった。彼の気持ちは晴れたのだろうか。

 戦犯管理収容所という特殊な空間だから仕方がないという見方もあるかもしれない。飯守本人も坊主懺悔したとうそぶいている。

 『獄中の人間学』で城野宏は、共産主義に転向した人がなぜ早く帰さないのか中国側に聞いたところ「連中には帝国主義の悪弊が残っている、だからつるし上げたり、申し子的な態度で、虎の威を借って威張り散らすからだ」*17という返事だった。中国側も本質を見抜いているのだ。城野は続けざまに「古海さんは向こうでも、こちらでも変わらない。生きざまという言葉は嫌いだが、態度が一貫している。だから、みんなあなたの周りに集まって来る」と話すと、古海忠之は君もそうじゃないかとお互い褒めあいながら「作為なしに原則を押し通して生きることが、信頼を得る道だと痛感しているよ」*18と語るのだ。

 飯守重任、法の番人である裁判官のはずなのに、自分の信念や思想の「原則」のない男は体制側に擦り寄って意見をころころ変える男であった。洗脳されたのではなく、変わり身の男であった。原則のない男には厚い信頼が寄せられることはなかったのである。少なくとも古海と城野のように対談する相手も、当時の苦労を語る中帰連のような仲間もいないのだ。

  

略歴

1906年 誕生

1945年 シベリア抑留

1955年  中華人民共和国へ引き渡し 

1958年 帰国、その後、東京地方裁判所に復職 

1960年 ハガチー事件

1961年 嶋中事件で最高裁から厳重注意

1970年 鹿児島地裁所長、部下の裁判官の思想チェックで最高裁から降格処分の上、     

    解職。辞任。弁護士に。

1972年 京都産業大学 教授に就任

1980年 死去

 

古海忠之(3)ーーー撫順管理所、監獄での「認罪」

 中国の「日本人戦犯」はご存知だろうか。

 こちらの記事のサブタイトルでもあるが、そもそも中華人民共和国の「日本人戦犯」は、極東裁判のA級戦犯やシベリア抑留ほど知られていない。まずは中国の「日本人戦犯」の全体像を示し、古海が日本人戦犯としてどのような経緯をたどったのかまとめていきたい。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

敗戦直後の中国の状況

 『決定版日中戦争*1を参照して終戦直後の中国大陸の状況をまとめておこう。終戦時、三つの軍隊が互いに勢力を争っていた。

①南京を拠点に、華北全体と長江中下流の主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線を支配して 

 いた日本軍(支那派遣軍南京) 105万人

重慶を拠点に、四川省雲南省など南西部の奥地を支配する国民政府軍(国民軍)

  400万人

華北の日本軍占領地を取り囲むように「辺区」(のちに解放区)を押さえている共産  

 党軍(八路軍、新四軍主体) 300万人  [256]

ここに「満州国」は含まれない。満州国以南の中国大陸の状況だ。

 旺盛な指揮を保っていた日本軍は突然の降伏に納得しなかったが、武装解除を進めた。国民党と共産党は争って日本軍の降伏を受け入れ、武器・装備を接収した[258]。日本軍はいいものをもっていたんですね。共産党軍との接収競争を制するために蒋介石は「以徳報怨」演説し、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢をとらなかった[273-274]。

 連合国の中で最も被害を受けたのにも関わらず、共産党との内戦に打ち勝つために、自己都合のために日本軍を許し、協力を仰いだのだ。1949年1月に岡村総司令官の無罪判決を最後に国民党政府の軍事法廷を終了し、日本人戦犯251名が帰国、巣鴨プリズンに移管され内地服役となった[274]。その9ヶ月後、1949年10月に中華人民共和国が成立。国民党政府は崩壊直前に日中戦争の戦犯を解放したのだった。

中華人民共和国の「日本人戦犯」

 国民党政府は「日本人戦犯」の扱いがアメリカと比べて極めて寛大だったため、日中戦争敗戦処理の記憶がほとんど残らなかった。

 次に、中華人民共和国の日本人戦犯の全体像を押さえたい。古海忠之はこちらで裁かれるのだ。

 

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)

『中国侵略の証言者たち』を参照にまとめると、中華人民共和国の戦犯は、

満州を占領したソ連が自国に連行し、1950年に中国に引き渡した者969名

山西省に残留し、国共両党の内戦で国民党の閻錫山軍を助けて共産党軍と戦い、共産 

 軍の捕虜になった軍人など140名

の合計1109名だった[1]。このうち戦犯裁判を受けたのは45名だが、全員を戦犯と呼ぶのが通例となっている。それは中国の戦犯の定義に従ったものだからだそうだ。

 尚、古海忠之(1)(2)の記事で参照している『獄中の人間学*2の古海の対談相手の城野宏は山西省残留軍のトップの軍人だ。この二人は戦犯裁判45名の中に入っている。

 シベリアの抑留者からどのような基準で選ばれたのかは文書がないので不明だが、古海は前回の記事に書いてあるように、中国共産党の要請を受けて引き渡されたと分析している。私の勝手な想像だが、雑なソ連は千人を引き渡せば顔が立つと思って選んだんじゃないのかな。まず数字有りきな感じがします。 

 シベリアから引き渡された969名の内訳は下記のとおり[4-5]。 

満州国行政・司法関係 28名

満州国軍関係     25名

満州国警察関係     119名

満州国鉄路警護関係     48名

関東州庁関係その他     33名

関東憲兵隊関係           103名

関東軍隷下部隊           579名

 半数以上が下部組織の人間だった。さすがソ連、仕事が雑ですね。しかし、中国に送られたからこそ生き延びたかも知れません。シベリア抑留時は極寒の地で食料難のうえ重労働させられていたからです。彼らは撫順戦犯管理所に送られます。食料豊富で重労働もありませんでした。

  軍事法廷で裁かれた戦犯の内訳は下記のとおりです[8 表1案件別概要]。

陸軍関係      8名

満州国関係   28名

特務諜報関係 1名

山西残留関係 8名 

合計         45名

 ここから見てわかる通り、主に満州国戦争犯罪を裁いている。なぜなら、中国本土の戦争犯罪者は国民党が寛大な措置で対応して、すでに日本に帰国していて裁けなかったからだ。

 満州国戦争犯罪者として起訴された28名を区分すると「行政官」3名、司法官4名、憲兵10名、鉄路3名、警察8名[11 表3]であり、古海忠之は行政官、高級文官として満州国全般の各種政策、法令を立案した罪、「侵略政策を積極的に遂行した問題」[17]が裁かれている。

撫順戦犯管理所の生活

 シベリアから中国へ引き渡された「日本人戦犯」たちは旅順戦犯管理所で十分な食事を与えられ、重労働もなかった。拷問や虐待も無かった(小競り合いはあった。なぜなら自分の家族を殺した当事者が戦犯としていたから)。ありあまる時間のなかで、結果的に5年間かけて犯罪内容を調べて約千名の中から45名が起訴されたのだ。その5年間のありあまる時間のなかで彼らがしてきたことは「認罪」、罪を自覚し、認め、語る過程であった。この「認罪」教育は通常の戦犯収容所とは異なるものだ。今で言うと少年院の教育に似通っている。

 野田正明彰『戦争と罪責』*3によれば、「認罪」の過程は4つの過程をたどるという。まず反抗期、次に学習期、そのあとに取り調べ期、表現活動期だ。反抗期は容易に想像つくだろう。「戦争のせい」「上官の命令」「他国も植民地経営している」など。共産党への不信感も強く、そのころちょうど朝鮮戦争が起きて、日本でさえ負けた米国に中国が勝てるわけがない、米軍が勝てば自分たちは解放されるはずだという期待もあった。が、米軍が敗北し、停戦したのを知ってショックを受ける。

 暇を持て余す日々の中、管理所から新聞、雑誌、小説などが届けられるようになる。マルクスレーニンの本の学習会も始まる。貧しい農民や下層労働者出身の下士官、兵士ほど響くものがあったという。自発的な学習グループができるようになる。彼らは日本の戦争が「帝国主義的侵略」であったと認識できるようになった。それどころか過剰適応して「共産党万歳」と叫ぶこともあった。しかし、実際に手がけた罪行については話せないでいた。

 そこで戦犯管理所職員の金源は「軍国主義とは決して抽象的な実体のないものではありません。軍国主義をこしらえた者、それを実施した指導者、そしてそれを実践した部下がいたのです。では、あなたちはどの部類に属し、軍国主義のために何をしたのですか」*4

と提起し、「自白する者には寛大に、抵抗し拒む者には厳しく」[上記本120]と共産党政府の方針を繰り返し説明した。そしてついに、学習会で罪を告白するものが現れる。1番最初にカミングアウトしたのは宮崎弘で、赤裸々に語る姿にメンバーは呆然としてしまったが、そのあとは口火を切るように他のメンバーも語りはじめたのだった。「戦争だから」と押し込めていた気持ちが解放された瞬間だったのかもしれない。

 収容されて3年立つと検察官の取り調べが始まった。戦犯たちに「坦白書」(供述書)を書かせる。現地で被害調査を実施して照らし合わせる。戦犯たちの供述が薄いと具体的に詳細に書くように何度もやり直させる。検察官は事実と照らし合わせて検証していった。この過程で詳細な供述書を書くことで罪を認めていくようになっていった。具体的に示そう。先にあげた宮崎弘の供述*5によれば、「中隊長として初年兵の度胸付けのため中国人を銃剣で突き殺させる訓練を指揮したり、襲撃した村で老人や子供といった一般住民を次々と刺殺した上で焼き払った」、「柔道の絞め技を使って農民を絞め殺す」「捕虜の少年兵を刀で試し斬り」と語るのだ。こまで書くに至るのに数年かかった。

 自白しない戦犯は死刑を免れるために打算的な駆け引きをしてやり直しをさせられながら、最終的に洗いざらい語り、罪を認める「認罪」に至るのであった。犯罪をカミングアウトした戦犯は「生まれ変わった」ような心境に至ったと回想するものが多い[『中国侵略の証言者たち』34]。

 そして、カミングアウトした戦犯たちは、自分たちの行った加害行為を改めて文章にしたり、演劇するなどして表現活動するのであった。この演劇は加害者も被害者も戦犯が演じるのである。そう、被害者も演じることで、更に被害者の気持ちを理解する。。。自発的に始めた表現活動だが、まるでカウンセリングの過程のようですよね。少年院の教育過程をたどっているように見えます。  

 高級官僚の「認罪」ーーー中国側から見た古海忠之

  言われてみたら当然ですが、高官ほど罪を認めません。下っ端ほど実際に殺害行為を手がけて血に染まっていますが、高官は指令するだけなので「罪」の意識が乏しいわけです。そのため高級官僚ほど自白せず、認罪をしません。

 ここでようやく古海忠之の話になります。では古海忠之はどうだったのか。戦犯管理所長の金源『撫順戦犯管理所長の回想』を参考にまとめよう。

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

 金源は「「満州国」国務院総務庁次長の古海忠之と総務庁長官武部六蔵*6は、二人で組んで多くの悪辣な政策や法令を制定」[148]し、特に「1941年、わずか一年間に「産業統制法」、「鉱産統制法」、「産業組合法」、「金属回収法」などの法令を制定して、破壊的な経済略奪を行い、数千万の東北人民を飢餓線上に追いやった」。また「古海は、緊迫する軍事費の問題を解決するために「アヘン増産計画」を策定し、自ら上海、南京に赴きアヘンを販売した」[148]などの罪が問われた。

 金源から見た古海は他の高級戦犯と比べて「態度が誠実な方で、自分の犯行の一部を認めていた」[148]。ここで「一部」という点に注意を払っておきたい。 

 金源は「全戦犯が参加する大会で」古海に「自分の犯罪について話をさせた」という。「古海はためらうことなく、自分の罪状を淀みなく話した」[149]。「詳細に罪状を述べた後、彼は壇上でひざまずいて涙を流し」

私は許すべからざる罪を犯しました。日本の後の世代の教育の教育のため、そして人々に二度と残酷な戦争をさせないために、中国政府は私を極刑にしてください。私の罪は万死に値します。 [149]

と言ったのだった。金源によれば「古海の自白は、高級戦犯たちの思想の「砦」に大きな衝撃をもたらした」。「高級戦犯たちは一切過去のことを黙して語らなかったが、古海の自白が突破口となり、自分の犯行について口を開くようになったのだ」「149」。つまり、古海の自白はそれだけ高官に影響を与えたのだった。この点については、古海忠之(1)(2)で取り上げた『獄中の人間学』では一切語っていない。

古海忠之の撫順戦犯管理所/監獄時代の評価

  古海忠之(2)で取り上げたが、撫順戦犯管理所時代の話は少なめだ。古海は、中国へ引き渡されたあと「独房に入れられて取り調べが始まったが、『最初に取調官が、あなたは文官だから絶対に死刑にはしません』と言われたそうだ。それで少なくとも死刑はありえないと納得していたわけです」[『獄中の人間学』30]と説明している。古海の早期の自白は、死刑はないという理解があり、自白した方がものごとがスムーズにすすむと考えたかもしれない。また、自白のときの「中国政府は私を極刑にしてください。私の罪は万死に値します」というフレーズはおきまりのフレーズである。

 『阿片王』を書いた佐野眞一は古海忠之の謝罪を「坊主懺悔」[同書265]と評価している。では、古海忠之その瞬間は洗脳されたのか。洗脳には古海本人も共産党も否定している。中国共産党に反省の姿を見せるためには、これが1番なのだと賢い古海は、下っ端兵士を見て学んだのは間違いないだろう。反省の姿勢を相手に理解してもらうために演技していた点は否めない。しかし、では古海忠之は心にもないことをいう嘘つきで反省をしていないのか。私はそんなふうには思えない。「坊主懺悔」に過ぎないと私は断言できない。

 ここで金源の「犯行の一部を認めていた」というこの「一部」については真摯に反省したのだろうと考える。その一部とはおそらく阿片政策のことだ。古海は阿片政策についてかなり詳細について犯行を語っているのだ[『中国侵略の証言者たち』第2章]。財政を支えるために阿片依存症の人を犠牲にしていたことを理解できぬ古海ではないだろう。

 古海忠之(2)について詳述したが、「満州国」の五族共和の理念自体は否定していない。しかし、その価値観を押し付けたことはみとめているのだ。「侵略」かどうかは、古海は複雑な評価をしているが、日本の価値観を押し付けている点に満州国の失敗をあげているわけで、これは侵略的価値観を認めているといってよいだろう。

中国帰還者連絡会中帰連)との関係

 中国帰還者連絡会とは、戦犯が帰国後設立した組織であり、大半の日本人戦犯がメンバーになっている。尚、中帰連は当事者のみの団体であり、高齢化もあり2002年に解散したが、「反戦平和・日中友好」を願う団体として当事者以外も参加して「撫順の奇跡を受け継ぐ会」が継承している。

 古海忠之は中帰連について「別に洗脳されたわけじゃないんだが、左のほうを一所懸命になって宣伝していたね」[『獄中の人間学』73]と語り、「ぼくなんか、はじめから付き合っていないね」[『獄中の人間学』74]とそっけない態度だ。

 中帰連のメンバーが加害行為を語りつづける運動をしているのと比べると、古海の態度は冷めているだろう。これは、実際に殺害行為をしているかどうかがポイントになっているのではないだろうか。古海自身は文官であり、軍部でも官憲でもないので殺害行為はしておらず、他のメンバーと罪の受け止め方が全く異なるのだろう。

 とはいえ、学習会の委員長をしていたのだから彼らの具体的な自白を聞いていたはずだ。「あの戦争に関しては、文官は関係ないんだよ。駄目だって言っても兵隊がやると言ったら止まらないんだから。そういうシステムになっていた」[同所65]という言葉から、メンバーの加害行為と文官の自分とは明確に区分して、日本軍や官憲が行った残虐な加害行為への罪の意識はないように見える。日本軍の残虐政と侵略性は認めてはいても、それは自分が行ったことではないと分けているように見える。

 また、「軍国主義から共産主義に鞍替えしたわけだね。お粗末な人間ほど主義とか権威にしがみつくもんだね」[同書75]とエリート主義の嫌らしさを醸し出している。高学歴の高官の古海には選択肢があった。辞令を拒否することもできたし、帰国することもできた。すべて自分なりに納得して選択して満州国建国に邁進した古海には、軍国主義のシステムに巻き込まれ、官憲や兵士の下っ端として加害行為し、それに麻痺して大量虐殺してしまった人たちの気持ちへの理解にはまるで到らないのであった。これが古海忠之のエリートとしての限界だろう。

 尚、陸軍第59師団の師団長だった藤田中将、つまり軍高官は加害行為を深く反省し、服役した帰国後、中国帰還者連絡会の会長となって日中友好のため活動した。もちろん加害行為についても語っている*7

 

おわりに

 古海忠之は自分なりに罪を認め、自分の関与した政策について説明し、文書がほとんど残っていない阿片政策については詳細に供述している。逮捕された満州国の文官のトップは武部六蔵だったが収容中に脳卒中となり、軍事裁判では最長の刑期の判決を受けたが、病気のため即時解放され帰国した。その次の地位にあった古海忠之が18年の刑期を経て1963年になってようやく帰国することができたのだ。 

 古海が昭和19年の大蔵省の辞令の打診に応じていれば帰国することができたはずで、そうすれば満州国の日本人戦犯としては裁かれなかっただろう。渡満時の直属の上司星野直樹は、1940年に帰国、第二次近衛内閣の企画庁総裁、東条英機の書記官長となったことでA級戦犯として終身刑の判決を受けた(1958年出所)。1944年に古海が帰国していたらおそらく戦後処理の要役を担っただろう。

 しかし、辞任を断り、満州国にいることを選択した。満州国の設立から崩壊まで見た男は最後まで責任をとって贖罪を果たした。一方で、文官であることから実際に殺人等の加害行為した軍人や憲兵とは立ち位置が異なり、中帰連に入ることはなく、満州国時代に築いた岸信介や里見甫などのつきあいを帰国後も維持した。

 では、古海忠之は反省していなかったのか、侵略したとは思っていなかったのかと聞かれたら、そうではないと私は答えるだろう。自分の果たすべき役割を果たしたのだ。黙秘する高級官僚のなかで最初に自白したのは彼なのだ。中国人を直接殺害していないからこそ、罪を認め、自白して、高級官僚に大きな影響を与えた。阿片政策を詳述した供述書は当時を知ることができる貴重な証言だ。歴史的価値は高いだろう。

 では、日本が設立した満州国は侵略なのか否か。虚心坦懐に古海忠之の言葉を聞こう。

満州国というのは、確かに五族共和の旗を掲げて、民族が共和した理想の国家をつくろうと努力したことは事実ですよ。そこは良かったけど、満州国関東軍の関係を抜きにしては存立できなかったところに一つの問題があった。満州国が日本の属国である要素はたぶんにあったし、確かに中ソにはさまれて国防はしなければならない。その任務は関東軍にしかできなかったことも事実でね。しかし、何と言っても日本軍というのは侵略の道具であったことには間違いない。 [『獄中の人間学』80]

 少なくとも「日本軍というのは侵略の道具」だったことは82才の古海は認めているのだ。これは決して「洗脳」されて言わされた言葉ではない。

 

 

年譜

1949年1月 中華民国国 岡村総司令官無罪判決 

            日本人戦犯251名 解放

1949年10月 中華人民共和国 成立

*1:

決定版 日中戦争 (新潮新書)

*2:

獄中の人間学

*3:

戦争と罪責

*4:

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

*5:詳しくはこちらを参照

私たちは中国でなにをしたか―元日本人戦犯の記録

*6:引用注:管理所収容中に脳卒中となり看護される身に。そのため政策の供述の大半は古海が背負うことに、判決後に武部は即時釈放。健康な古海は監獄へ

*7:

なぜ加害を語るのか 中国帰還者連絡会の戦後史 (岩波ブックレット)

 

古海忠之(2)ーーー日本人戦犯として

 

 『獄中の人間学*1に沿って敗戦後の古海の流れを追いたい。昭和20年9月に新京でソ連軍に逮捕されてシベリアへ抑留、5年間に及んだ。

ソ連のラーゲルでの日々

 ソ連の取り調べを受けているうちに相手の意図が分かってきた。満州国にも侵略の意図があったのではないか、ということで文官の古海が逮捕されたのだ。「ぼくは知らぬ存ぜぬで押し通した」[10]。ソ連侵略の意図があったことを立証するまでは監獄へ入れるわけにはいかなかったので、ソ連は監獄ではなくラーゲルに抑留した。

 ラーゲルにいた5年間で10ヶ所転々とした。朝から晩まで重労働して食べ物もわずか、食べられそうな野草はすべて食べた。毒草にあたって死んだものもいる。

 重労働で腰が抜けてラーゲルの門番にまわされた。夜、門番をしていると栄養失調の下痢で便所にいくやつがいた。こうなったらおしまいで間もなく死ぬそうだ。

 捕虜に関する国際協定からいけば、将校以上は重労働につかせることはできないので「ぼくは民間人だが、兵隊なら中将だ、ぼくが承諾していないのに重労働させるのはおかしいではないか」と抗議したところ、ソ連側は「おまえは抑留者であって捕虜ではない」というのが答えで「敵もさるものだね(笑)」[24]と笑ってます。そして「中国に送られてよかったよ。あのままシベリアに置かれていたら生きては帰れなかった」[22]と述懐している。

ラーゲルでの生活

 ラーゲルでは将官ばかりの収容所で下っ端の兵隊が帰っちゃったので、将官は威張って飯も作らない。ある少将がおれがやるって言い出して、それに付き合い、料理ができるように。ラーゲルで初めて料理をするようになる。

 ラーゲルでは「反動の親玉でブルジョアジーの典型」としてつるしあげをくらう。古海は黙ってやり過ごす。「連中がなぜそういうことをするからも分かっているからだ。要するに、共産主義に共鳴している、ソ連に忠実だということを見せれば、早く帰してもらえるだろうと思ってやっているんだ。そんな手合いに応答するのは馬鹿馬鹿しい。だから黙っていた」[41]。一週間くらい黙っていると吊るし上げが終わった。

 関東軍将官ばかりの第13ラーゲルの話は貴重だ。

関東軍の将校とはほとんど顔見知りだから、顔を合わせれば挨拶する。ところが連中は顔を見ると、すうーっと横道に逃げるんだな。

そのころ、ソ連は赤化教育の意味もあって、捕虜や抑留者のあいだに民主委員会を作らせて、かつての上官の吊るし上げをやらせていたんだな。熱心にやれば、早く日本に帰れると信じて、つるし上げはエスカレートしていたからね。

さしずめ、ぼくなんかは戦犯、反動の筆頭とみられていたから、あんなのと仲良くしたら大変だということだったらしい。[42]

 シベリアで出会ったのが瀬島龍三だ。瀬島ともう一人の男だけが変わらず話しかけてきた。瀬島も「古海のような反動ブルジョアジーと親しくするのはけしからんというわけで、他の連中から物凄い吊るし上げにあう」[42]なか態度は変わらなかったという。

 このソ連抑留の吊るし上げには注目だ。中国でも吊るし上げにあうが、古海の対応は異なるからだ。追って記載したい。

 

撫順戦犯管理所の日々 

 こちらの写真は撫順監獄で撮影されたもの。古海忠之(1)の写真*2と比べると暗い顔していますね。 

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撫順戦犯管理所の古海忠之

 

 1950年に中国に移されて、6年間の調査期間を経て1956年に軍事裁判、有罪宣告を受けて監獄へ。撫順戦犯管理所(有罪刑以降は撫順監獄)は、古海が満州国国務院総務院主計処長時代に建てられたもの。「あとで自分が入ることが分かっていれば、もっと立派なやつを建てるんだったと、監獄にはいってから後悔したよ(笑)」[7]と語っている。

 古海は「満州国の高級官僚、大将クラスの男が、みっともないことはできない」[58]という気概で自分を支えた。

 ソ連は1080名を選んで中国へ引き渡したが、中国側の意向が強く働いていると古海は分析している。中華人民共和国は1949年に成立し、1950年に引き渡し。古海の見立てによれば

 中国政府は当初から、日本と手を握っていかないと中国の発展はないと考えていたことは確かで、中国共産党の方針にすでに組み込まれていたんだよ。これは蒋介石ばかりではなく毛沢東にしても同じ考えだったと思う。早々と日本総軍や関東軍の幹部を日本に帰したのは、その証左だとぼくは思う。

ところが、中国の一般大衆はそれを納得しない。特に華北だ。関東軍が無茶なことをやったからで、中国共産党も公然と方針を打ち出すわけにはいかない。略

そこで、日本の軍国主義者を罰する必要が生じた、建前としてだが、体面上、軍国主義者を裁判にかけ、戦犯として処刑しなければならない。ところが、すでに日本軍の幹部は帰国している。そこで考えたんだと思う。関東軍やぼくのような満州国高官はソ連に抑留されている。戦犯にできるような目ぼしい人間は中国にいないわけだ。

歴史の皮肉かね。1949年、毛沢東ソ連を訪問している。周恩来も同行している。略、中国側は抑留者の中から戦犯容疑者を引き渡してくれと要請し、それにソ連も同意した。その結果、1080名がソ連から中国に引き渡され、その中にぼくも入っていたというわけだ。[10-11]

ということだそうだ。

 『獄中の人間学』では撫順戦犯管理所の話は乏しいが拾い上げていこう。撫順では民主的な批判会があったが、古海は「その批判会は、ぼくが委員長だったよ(笑)」[48]と語り、「ぼくも委員長をやりながら、立派な奴はあまりいないもんだなと、なかばあきれていたよ(笑)」[49]と話す。時間がたっぷりあったので左翼の勉強し、資本論を2年かけて書き写す。 

出獄

 刑期18年を経て帰国することになったのが1963年3月だった。敗戦後、ソ連抑留期間から数えて半年まけてもらっての出獄だった。帰国前に周恩来総理と面談することになった。「周総理が日中友好日中関係の改善を図ろうと考えられて、私に対して中国政府の考え方、政策を詳細にわたって説明し」[68]、「その時の原稿を複写して日本に持ち帰った」[68]。古海を日中のパイプ役として使ったのだ。周総理は「池田さんによろしく伝えてくださいと言っていたよ。岸さんは、ちょっと困りますとも言ったがね(笑)」[69]とある。周恩来、面白いですね。

 対談後の送別会で中国政府の関係者に古海は「刑期中に一所懸命、左翼の勉強をして日本に帰ったら共産党に入党して左翼革命を起こす使命を感じたこともあったが、いま帰国するに際して、その意志はサラサラございません」とイヤミをかましたら、「私たちもそんなことには賛成しない」[69]とあっさり返してきたという。

 帰国後、日本では戦犯らは洗脳されたのではないかという騒動が起きるが、古海のこの発言からしてみても洗脳されたとはいえないだろう。

 香港で古海の引き渡しが行われたが、日本からは二名しかお迎えがなかった。古海は二人から観察され洗脳されていないと判断されたそうだ*3。日本の自宅へ戻ると池田勇人総理から電話があり監獄の話や満州時代のことは話さないように釘を刺された。池田勇人は大蔵省時代の同僚だ。「おかしなことを言うなと思ったが、現職の総理大臣の言うことだから黙って聞いておいた」[72]が、公安にも身辺調査されたという。古海がアカになったのではないかと恐れていたのだ。これには古海も「中国側の考えていることはまったくその逆のことなんだが、それが日本ではちっとも分かっていないんだ(笑)」[72]と語る。

満州国の評価

 ここで古海自身は満州国についてどう思っていたのかまとめたい。

満州国というのは、確かに五族共和の旗を掲げて、民族が共和した理想の国家をつくろうと努力したことは事実ですよ。そこは良かったけど、満州国関東軍の関係を抜きにしては存立できなかったところに一つの問題があった。満州国が日本の属国である要素はたぶんにあったし、確かに中ソにはさまれて国防はしなければならない。その任務は関東軍にしかできなかったことも事実でね。しかし、何と言っても日本軍というのは侵略の道具であったことには間違いない。 [80]

また、

あの戦争に関しては、文官は関係ないんだよ。駄目だって言っても兵隊がやると言ったら止まらないんだから。そういうシステムになっていた。 [65]

最大の問題点は、軍の決定権を天皇が握っている統師権という制度ですよ。これは政治家や官僚ではどうにもならないんだ。アメリカのように大統領が全軍の決定権を握っていたら、日本はあの大戦には突っ込まなかったかも知れない。

本質を突いているだろう。古海は日本軍の侵略性を認めている。また、軍部に歯止めをかけるシステムがなかった問題を指摘する。

 五族協和について

 「基本理念は五族共和、つまり日中友好ということだが、軍部をはじめその他の条件があまりにも悪かったために実践できなかった。ある意味では机上の理論的面のあったことも否めないね」[75]と語る。

 昭和7年に民族共和を指導する『共和会』を設立し、やりてがいないので「余り乗り気ではなかったが」[82]が指導部長に就任する。しかし、石原莞爾と対立し、関東軍内部で共和会の方針を討議することになった。会議の席上で石原が提案したものは全面否決され、古海の方針が勝った。それで石原莞爾が怒って無断で帰国。将官なら天皇の許可がないと動けないはずなのに無断帰国したので、石原一派は病気と称して入院させた。「満州国建国の功労者なんだから、みんなから尊敬を受けるはずなのに、みんなに嫌われて日本に逃げて帰ることになってしまうんだね」[84]というのが古海評。古海は喧嘩両成敗ということで共和会の指導部長を辞め求職処分となり、海外視察旅行へいかされたのだった。

 改めて民族共和について総括している。

民族共和という理想は正しかった。だが、日本人が他民族を理解することに欠けていた。日本人のやり方、物の見方、考え方が正しいとしても、それを押しつけてしまったことが失敗の原因だったんじゃないかと思うね。[87]

中国人とも朝鮮人とも考え方は、まったく違っているんだね。この基本的な相違点を認識して、真の五族共和、民族共和を図るべきだったんだね。この点は満州国の問題だけじゃなく、現在でも言えることだと思うよ。

対談相手の城野の日本民族特殊論の話を受けてこう語る。

まぁ、そういう考え方が八紘一宇だの、人類一家の考え方につながるんだからこれを早まって押しつけちゃだめだ。それで失敗したのが満州国だよ(笑) [89]

 

 満州国の実質的なトップだった古海忠之の満州国評価を私たちは忘れてはいけないだろう。古海忠之は身をもって贖罪したのだ。古海忠之の言葉を素直に受け止めたい。

 

 中国内戦のため関東軍将校の大半は罪に問われることなく早々と日本へ帰国して責任を取らなかった。文官の古海忠之は満州国の責任者として戦犯となり、罪を購ったのだ。満州国を作り、贖罪する数奇な人生であった。

 

※写真の右側が78才になった古海忠之。いいお顔してますね。

 

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岸信介元首相と。 昭和53年(1978)、 古海の著書『忘れ得ぬ満洲国』出版記念祝賀会で (『回想 古海忠之』より)

※写真の引用先*4

 

 

 

 と、ここまで古海の言葉から人生を振り返ったが、撫順戦犯管理所時代の話を異なる角度から検証したい。また古海の違う側面が見えてくるのだ。

 

 

年譜

1945年8月 敗戦

   9月 ソ連軍に逮捕、シベリア抑留

1949年   中華人民共和国、成立

1950年   中国へ引き渡し

1956年   軍事裁判 18年の実刑

1963年   帰国

1983年8月23日 永眠