kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

古海忠之(3)ーーー撫順管理所、監獄での「認罪」

 中国の「日本人戦犯」はご存知だろうか。

 こちらの記事のサブタイトルでもあるが、そもそも中華人民共和国の「日本人戦犯」は、極東裁判のA級戦犯やシベリア抑留ほど知られていない。まずは中国の「日本人戦犯」の全体像を示し、古海が日本人戦犯としてどのような経緯をたどったのかまとめていきたい。

 

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敗戦直後の中国の状況

 『決定版日中戦争*1を参照して終戦直後の中国大陸の状況をまとめておこう。終戦時、三つの軍隊が互いに勢力を争っていた。

①南京を拠点に、華北全体と長江中下流の主要都市とそれらを結ぶ鉄道沿線を支配して 

 いた日本軍(支那派遣軍南京) 105万人

重慶を拠点に、四川省雲南省など南西部の奥地を支配する国民政府軍(国民軍)

  400万人

華北の日本軍占領地を取り囲むように「辺区」(のちに解放区)を押さえている共産  

 党軍(八路軍、新四軍主体) 300万人  [256]

ここに「満州国」は含まれない。満州国以南の中国大陸の状況だ。

 旺盛な指揮を保っていた日本軍は突然の降伏に納得しなかったが、武装解除を進めた。国民党と共産党は争って日本軍の降伏を受け入れ、武器・装備を接収した[258]。日本軍はいいものをもっていたんですね。共産党軍との接収競争を制するために蒋介石は「以徳報怨」演説し、戦犯問題や賠償問題について強硬な姿勢をとらなかった[273-274]。

 連合国の中で最も被害を受けたのにも関わらず、共産党との内戦に打ち勝つために、自己都合のために日本軍を許し、協力を仰いだのだ。1949年1月に岡村総司令官の無罪判決を最後に国民党政府の軍事法廷を終了し、日本人戦犯251名が帰国、巣鴨プリズンに移管され内地服役となった[274]。その9ヶ月後、1949年10月に中華人民共和国が成立。国民党政府は崩壊直前に日中戦争の戦犯を解放したのだった。

中華人民共和国の「日本人戦犯」

 国民党政府は「日本人戦犯」の扱いがアメリカと比べて極めて寛大だったため、日中戦争敗戦処理の記憶がほとんど残らなかった。

 次に、中華人民共和国の日本人戦犯の全体像を押さえたい。古海忠之はこちらで裁かれるのだ。

 

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)

『中国侵略の証言者たち』を参照にまとめると、中華人民共和国の戦犯は、

満州を占領したソ連が自国に連行し、1950年に中国に引き渡した者969名

山西省に残留し、国共両党の内戦で国民党の閻錫山軍を助けて共産党軍と戦い、共産 

 軍の捕虜になった軍人など140名

の合計1109名だった[1]。このうち戦犯裁判を受けたのは45名だが、全員を戦犯と呼ぶのが通例となっている。それは中国の戦犯の定義に従ったものだからだそうだ。

 尚、古海忠之(1)(2)の記事で参照している『獄中の人間学*2の古海の対談相手の城野宏は山西省残留軍のトップの軍人だ。この二人は戦犯裁判45名の中に入っている。

 シベリアの抑留者からどのような基準で選ばれたのかは文書がないので不明だが、古海は前回の記事に書いてあるように、中国共産党の要請を受けて引き渡されたと分析している。私の勝手な想像だが、雑なソ連は千人を引き渡せば顔が立つと思って選んだんじゃないのかな。まず数字有りきな感じがします。 

 シベリアから引き渡された969名の内訳は下記のとおり[4-5]。 

満州国行政・司法関係 28名

満州国軍関係     25名

満州国警察関係     119名

満州国鉄路警護関係     48名

関東州庁関係その他     33名

関東憲兵隊関係           103名

関東軍隷下部隊           579名

 半数以上が下部組織の人間だった。さすがソ連、仕事が雑ですね。しかし、中国に送られたからこそ生き延びたかも知れません。シベリア抑留時は極寒の地で食料難のうえ重労働させられていたからです。彼らは撫順戦犯管理所に送られます。食料豊富で重労働もありませんでした。

  軍事法廷で裁かれた戦犯の内訳は下記のとおりです[8 表1案件別概要]。

陸軍関係      8名

満州国関係   28名

特務諜報関係 1名

山西残留関係 8名 

合計         45名

 ここから見てわかる通り、主に満州国戦争犯罪を裁いている。なぜなら、中国本土の戦争犯罪者は国民党が寛大な措置で対応して、すでに日本に帰国していて裁けなかったからだ。

 満州国戦争犯罪者として起訴された28名を区分すると「行政官」3名、司法官4名、憲兵10名、鉄路3名、警察8名[11 表3]であり、古海忠之は行政官、高級文官として満州国全般の各種政策、法令を立案した罪、「侵略政策を積極的に遂行した問題」[17]が裁かれている。

撫順戦犯管理所の生活

 シベリアから中国へ引き渡された「日本人戦犯」たちは旅順戦犯管理所で十分な食事を与えられ、重労働もなかった。拷問や虐待も無かった(小競り合いはあった。なぜなら自分の家族を殺した当事者が戦犯としていたから)。ありあまる時間のなかで、結果的に5年間かけて犯罪内容を調べて約千名の中から45名が起訴されたのだ。その5年間のありあまる時間のなかで彼らがしてきたことは「認罪」、罪を自覚し、認め、語る過程であった。この「認罪」教育は通常の戦犯収容所とは異なるものだ。今で言うと少年院の教育に似通っている。

 野田正明彰『戦争と罪責』*3によれば、「認罪」の過程は4つの過程をたどるという。まず反抗期、次に学習期、そのあとに取り調べ期、表現活動期だ。反抗期は容易に想像つくだろう。「戦争のせい」「上官の命令」「他国も植民地経営している」など。共産党への不信感も強く、そのころちょうど朝鮮戦争が起きて、日本でさえ負けた米国に中国が勝てるわけがない、米軍が勝てば自分たちは解放されるはずだという期待もあった。が、米軍が敗北し、停戦したのを知ってショックを受ける。

 暇を持て余す日々の中、管理所から新聞、雑誌、小説などが届けられるようになる。マルクスレーニンの本の学習会も始まる。貧しい農民や下層労働者出身の下士官、兵士ほど響くものがあったという。自発的な学習グループができるようになる。彼らは日本の戦争が「帝国主義的侵略」であったと認識できるようになった。それどころか過剰適応して「共産党万歳」と叫ぶこともあった。しかし、実際に手がけた罪行については話せないでいた。

 そこで戦犯管理所職員の金源は「軍国主義とは決して抽象的な実体のないものではありません。軍国主義をこしらえた者、それを実施した指導者、そしてそれを実践した部下がいたのです。では、あなたちはどの部類に属し、軍国主義のために何をしたのですか」*4

と提起し、「自白する者には寛大に、抵抗し拒む者には厳しく」[上記本120]と共産党政府の方針を繰り返し説明した。そしてついに、学習会で罪を告白するものが現れる。1番最初にカミングアウトしたのは宮崎弘で、赤裸々に語る姿にメンバーは呆然としてしまったが、そのあとは口火を切るように他のメンバーも語りはじめたのだった。「戦争だから」と押し込めていた気持ちが解放された瞬間だったのかもしれない。

 収容されて3年立つと検察官の取り調べが始まった。戦犯たちに「坦白書」(供述書)を書かせる。現地で被害調査を実施して照らし合わせる。戦犯たちの供述が薄いと具体的に詳細に書くように何度もやり直させる。検察官は事実と照らし合わせて検証していった。この過程で詳細な供述書を書くことで罪を認めていくようになっていった。具体的に示そう。先にあげた宮崎弘の供述*5によれば、「中隊長として初年兵の度胸付けのため中国人を銃剣で突き殺させる訓練を指揮したり、襲撃した村で老人や子供といった一般住民を次々と刺殺した上で焼き払った」、「柔道の絞め技を使って農民を絞め殺す」「捕虜の少年兵を刀で試し斬り」と語るのだ。こまで書くに至るのに数年かかった。

 自白しない戦犯は死刑を免れるために打算的な駆け引きをしてやり直しをさせられながら、最終的に洗いざらい語り、罪を認める「認罪」に至るのであった。犯罪をカミングアウトした戦犯は「生まれ変わった」ような心境に至ったと回想するものが多い[『中国侵略の証言者たち』34]。

 そして、カミングアウトした戦犯たちは、自分たちの行った加害行為を改めて文章にしたり、演劇するなどして表現活動するのであった。この演劇は加害者も被害者も戦犯が演じるのである。そう、被害者も演じることで、更に被害者の気持ちを理解する。。。自発的に始めた表現活動だが、まるでカウンセリングの過程のようですよね。少年院の教育過程をたどっているように見えます。  

 高級官僚の「認罪」ーーー中国側から見た古海忠之

  言われてみたら当然ですが、高官ほど罪を認めません。下っ端ほど実際に殺害行為を手がけて血に染まっていますが、高官は指令するだけなので「罪」の意識が乏しいわけです。そのため高級官僚ほど自白せず、認罪をしません。

 ここでようやく古海忠之の話になります。では古海忠之はどうだったのか。戦犯管理所長の金源『撫順戦犯管理所長の回想』を参考にまとめよう。

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

 金源は「「満州国」国務院総務庁次長の古海忠之と総務庁長官武部六蔵*6は、二人で組んで多くの悪辣な政策や法令を制定」[148]し、特に「1941年、わずか一年間に「産業統制法」、「鉱産統制法」、「産業組合法」、「金属回収法」などの法令を制定して、破壊的な経済略奪を行い、数千万の東北人民を飢餓線上に追いやった」。また「古海は、緊迫する軍事費の問題を解決するために「アヘン増産計画」を策定し、自ら上海、南京に赴きアヘンを販売した」[148]などの罪が問われた。

 金源から見た古海は他の高級戦犯と比べて「態度が誠実な方で、自分の犯行の一部を認めていた」[148]。ここで「一部」という点に注意を払っておきたい。 

 金源は「全戦犯が参加する大会で」古海に「自分の犯罪について話をさせた」という。「古海はためらうことなく、自分の罪状を淀みなく話した」[149]。「詳細に罪状を述べた後、彼は壇上でひざまずいて涙を流し」

私は許すべからざる罪を犯しました。日本の後の世代の教育の教育のため、そして人々に二度と残酷な戦争をさせないために、中国政府は私を極刑にしてください。私の罪は万死に値します。 [149]

と言ったのだった。金源によれば「古海の自白は、高級戦犯たちの思想の「砦」に大きな衝撃をもたらした」。「高級戦犯たちは一切過去のことを黙して語らなかったが、古海の自白が突破口となり、自分の犯行について口を開くようになったのだ」「149」。つまり、古海の自白はそれだけ高官に影響を与えたのだった。この点については、古海忠之(1)(2)で取り上げた『獄中の人間学』では一切語っていない。

古海忠之の撫順戦犯管理所/監獄時代の評価

  古海忠之(2)で取り上げたが、撫順戦犯管理所時代の話は少なめだ。古海は、中国へ引き渡されたあと「独房に入れられて取り調べが始まったが、『最初に取調官が、あなたは文官だから絶対に死刑にはしません』と言われたそうだ。それで少なくとも死刑はありえないと納得していたわけです」[『獄中の人間学』30]と説明している。古海の早期の自白は、死刑はないという理解があり、自白した方がものごとがスムーズにすすむと考えたかもしれない。また、自白のときの「中国政府は私を極刑にしてください。私の罪は万死に値します」というフレーズはおきまりのフレーズである。

 『阿片王』を書いた佐野眞一は古海忠之の謝罪を「坊主懺悔」[同書265]と評価している。では、古海忠之その瞬間は洗脳されたのか。洗脳には古海本人も共産党も否定している。中国共産党に反省の姿を見せるためには、これが1番なのだと賢い古海は、下っ端兵士を見て学んだのは間違いないだろう。反省の姿勢を相手に理解してもらうために演技していた点は否めない。しかし、では古海忠之は心にもないことをいう嘘つきで反省をしていないのか。私はそんなふうには思えない。「坊主懺悔」に過ぎないと私は断言できない。

 ここで金源の「犯行の一部を認めていた」というこの「一部」については真摯に反省したのだろうと考える。その一部とはおそらく阿片政策のことだ。古海は阿片政策についてかなり詳細について犯行を語っているのだ[『中国侵略の証言者たち』第2章]。財政を支えるために阿片依存症の人を犠牲にしていたことを理解できぬ古海ではないだろう。

 古海忠之(2)について詳述したが、「満州国」の五族共和の理念自体は否定していない。しかし、その価値観を押し付けたことはみとめているのだ。「侵略」かどうかは、古海は複雑な評価をしているが、日本の価値観を押し付けている点に満州国の失敗をあげているわけで、これは侵略的価値観を認めているといってよいだろう。

中国帰還者連絡会中帰連)との関係

 中国帰還者連絡会とは、戦犯が帰国後設立した組織であり、大半の日本人戦犯がメンバーになっている。尚、中帰連は当事者のみの団体であり、高齢化もあり2002年に解散したが、「反戦平和・日中友好」を願う団体として当事者以外も参加して「撫順の奇跡を受け継ぐ会」が継承している。

 古海忠之は中帰連について「別に洗脳されたわけじゃないんだが、左のほうを一所懸命になって宣伝していたね」[『獄中の人間学』73]と語り、「ぼくなんか、はじめから付き合っていないね」[『獄中の人間学』74]とそっけない態度だ。

 中帰連のメンバーが加害行為を語りつづける運動をしているのと比べると、古海の態度は冷めているだろう。これは、実際に殺害行為をしているかどうかがポイントになっているのではないだろうか。古海自身は文官であり、軍部でも官憲でもないので殺害行為はしておらず、他のメンバーと罪の受け止め方が全く異なるのだろう。

 とはいえ、学習会の委員長をしていたのだから彼らの具体的な自白を聞いていたはずだ。「あの戦争に関しては、文官は関係ないんだよ。駄目だって言っても兵隊がやると言ったら止まらないんだから。そういうシステムになっていた」[同所65]という言葉から、メンバーの加害行為と文官の自分とは明確に区分して、日本軍や官憲が行った残虐な加害行為への罪の意識はないように見える。日本軍の残虐政と侵略性は認めてはいても、それは自分が行ったことではないと分けているように見える。

 また、「軍国主義から共産主義に鞍替えしたわけだね。お粗末な人間ほど主義とか権威にしがみつくもんだね」[同書75]とエリート主義の嫌らしさを醸し出している。高学歴の高官の古海には選択肢があった。辞令を拒否することもできたし、帰国することもできた。すべて自分なりに納得して選択して満州国建国に邁進した古海には、軍国主義のシステムに巻き込まれ、官憲や兵士の下っ端として加害行為し、それに麻痺して大量虐殺してしまった人たちの気持ちへの理解にはまるで到らないのであった。これが古海忠之のエリートとしての限界だろう。

 尚、陸軍第59師団の師団長だった藤田中将、つまり軍高官は加害行為を深く反省し、服役した帰国後、中国帰還者連絡会の会長となって日中友好のため活動した。もちろん加害行為についても語っている*7

 

おわりに

 古海忠之は自分なりに罪を認め、自分の関与した政策について説明し、文書がほとんど残っていない阿片政策については詳細に供述している。逮捕された満州国の文官のトップは武部六蔵だったが収容中に脳卒中となり、軍事裁判では最長の刑期の判決を受けたが、病気のため即時解放され帰国した。その次の地位にあった古海忠之が18年の刑期を経て1963年になってようやく帰国することができたのだ。 

 古海が昭和19年の大蔵省の辞令の打診に応じていれば帰国することができたはずで、そうすれば満州国の日本人戦犯としては裁かれなかっただろう。渡満時の直属の上司星野直樹は、1940年に帰国、第二次近衛内閣の企画庁総裁、東条英機の書記官長となったことでA級戦犯として終身刑の判決を受けた(1958年出所)。1944年に古海が帰国していたらおそらく戦後処理の要役を担っただろう。

 しかし、辞任を断り、満州国にいることを選択した。満州国の設立から崩壊まで見た男は最後まで責任をとって贖罪を果たした。一方で、文官であることから実際に殺人等の加害行為した軍人や憲兵とは立ち位置が異なり、中帰連に入ることはなく、満州国時代に築いた岸信介や里見甫などのつきあいを帰国後も維持した。

 では、古海忠之は反省していなかったのか、侵略したとは思っていなかったのかと聞かれたら、そうではないと私は答えるだろう。自分の果たすべき役割を果たしたのだ。黙秘する高級官僚のなかで最初に自白したのは彼なのだ。中国人を直接殺害していないからこそ、罪を認め、自白して、高級官僚に大きな影響を与えた。阿片政策を詳述した供述書は当時を知ることができる貴重な証言だ。歴史的価値は高いだろう。

 では、日本が設立した満州国は侵略なのか否か。虚心坦懐に古海忠之の言葉を聞こう。

満州国というのは、確かに五族共和の旗を掲げて、民族が共和した理想の国家をつくろうと努力したことは事実ですよ。そこは良かったけど、満州国関東軍の関係を抜きにしては存立できなかったところに一つの問題があった。満州国が日本の属国である要素はたぶんにあったし、確かに中ソにはさまれて国防はしなければならない。その任務は関東軍にしかできなかったことも事実でね。しかし、何と言っても日本軍というのは侵略の道具であったことには間違いない。 [『獄中の人間学』80]

 少なくとも「日本軍というのは侵略の道具」だったことは82才の古海は認めているのだ。これは決して「洗脳」されて言わされた言葉ではない。

 

 

年譜

1949年1月 中華民国国 岡村総司令官無罪判決 

            日本人戦犯251名 解放

1949年10月 中華人民共和国 成立

*1:

決定版 日中戦争 (新潮新書)

*2:

獄中の人間学

*3:

戦争と罪責

*4:

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

*5:詳しくはこちらを参照

私たちは中国でなにをしたか―元日本人戦犯の記録

*6:引用注:管理所収容中に脳卒中となり看護される身に。そのため政策の供述の大半は古海が背負うことに、判決後に武部は即時釈放。健康な古海は監獄へ

*7:

なぜ加害を語るのか 中国帰還者連絡会の戦後史 (岩波ブックレット)