kyoyamayukoのブログ

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飯守重任ーーー体制側に過剰適応する男

 中国帰還者連絡会中帰連)はヒダリと言われているが、日本人戦犯のなかでミギに転向した人もいるので取り上げよう。その名は飯守重任(いいもりしげとう)。興味深い人物である。

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飯守重任

※写真の引用*1

※日本人戦犯についてはこちら

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 飯守重任は1906年生まれで兄は最高裁判所長官の田中耕太郎だ。満州国では満州国司法部に移り、審判官や司法部参事官を務め、治安立法や統制経済法の立法に関与した人物である*2尚、飯守は軍事裁判の45名には含まれていない。起訴されなかった帰国組だ。

 ここでは、満州国治安維持法に関与した人物だということに注意を払おう。「思想」には一家言あるのだ。

帰国後は右派裁判官として活躍

 日本人戦犯は帰国後、中帰連に加盟し、自分の加害行為について語り継ぐ運動するものが多かった。そんななか、帰国後に再び右翼思想に転じたのが飯守重任だ。1958年に帰国後、飯守は兄で当時の最高裁裁判長の田中耕太郎の推薦で東京地裁の裁判官に復職した。

 1960年には「ハガチー事件」*3安保闘争の事件)で被告側弁護士を法廷秩序を乱したとして置換、1961年には右翼テロの「嶋中事件」*4の背後にいる赤尾敏に対して東京地検が「暴力行為」「殺人・殺人未遂教唆」で勾留請求した時に「暴力行為」について勾留を認めただけで、「殺人・殺人未遂教唆」の取調べは認めず、勾留請求を却下した。その際に、「安保反対の集団的暴力の横行が事件の根本的原因で集団的暴力対策の貧困が政治テロを生んだ」という所見を発表し、最高裁から注意処分を受けた*5

  その後、鹿児島地裁所長となるが、1970年に部下の9人の裁判官に対して、「青法協*6をどう思っているのか」「革命的体質を持つ全司法労組の体質は合憲的かどうか」「天皇制についてどう思うか」「階級闘争は合憲か違憲か」といった公開質問を出し大きな問題となった。いわゆる思想チェックだ。その結果、最高裁は飯守を東京地裁に異動させようとするが、それを拒否したので、最高裁は初めての措置としてただちに鹿児島地裁・家裁所長を解職して地方判事に格下げした*7。これを受けて飯守は辞職し、弁護士に。その後、京都産業大学の教授に就任している*8

飯守の言い分

 ここで飯守の言い分を聞いてみよう。鹿児島地裁所長の1970年5月に「反体制団体は憲法違反ーー誤った政治的中立は国を危うくする」*9[『経済時代』36(6):32-37]という論考を発表している。『戦争と罪責』からの孫引きになるが論考の内容を引用しよう。

体制とは、憲法体制としての民族史的天皇制度、階級強調路線上の議会制民主主義制度、修正資本主義制度の三つの制度を指し、

天皇と資本主義に関する憲法の規定は、戦後も戦前も根本的な変化はなかった

とし、それに反対する「反体制勢力に対しては中立はありえない」と述べ、それ故に

私は日共党員が公務員になっていることを発見した場合は、公務員として当然失格扱いするべきものと解釈しておりますし、反体制政党として日共に近い社会党の党員も、基本的に公務員法による『官職に必要な適格性を欠く場合』として公務員の資格を欠くことになると思います*10

と解雇事件裁判の指針を示した。そして、鹿児島地裁の裁判官の思想チェックを行ったため、最高裁から地方判事の降格辞令が出された。戦後初の降格人事だった。上記したように飯守は辞令拒否したので解職された。最高裁としては、飯守の主張はもちろん認めていない。

 なぜ飯守重任は、保守より保守的で右派的な態度をとったのか。中帰連の反応と戦犯時代の様子をみてみよう。

中帰連からの批判

 ハガチー事件とは、全国各地で起きたアイゼンハワー米大統領の来日反対のデモが起こり、デモ隊がアメリカ特使の車を壊し、多くの逮捕者がでる事件であり、飯守はこの裁判で被告の弁護士まで有罪にして収監した*11。これを別名「飯守事件」というらしい。

 中帰連は飯盛の「除名」を決定し、中国での犯罪を明るみにだし、撫順管理所で反省の弁を述べた彼の録音放送を放送し、飯守の罷免を要求したという*12。「除名」されたということは、それまで飯守はメンバーだったわけだ。加入はしていたんですね。その後、1970年の鹿児島地裁での思想チェック問題で解職されるまで、中帰連は飯守への抗議活動を繰り広げていたのだろう。

飯盛重任の撫順戦犯管理所の様子

 では撫順管理所では飯守はどのような様子だったのだろうか。管理所で一時同室だった富永正三が語る飯守の姿を引用しよう。

彼(=飯守)は日本カソリック教会の代表であった当時のT(=田中耕太郎)最高裁判長の実弟だろいうことだったが、シベリヤや中国に来てから一緒にいた人の話では『ペンより重いものを持ったことがない、ピアノのない家には住めない。。。』等々、育ちや毛並みのよさを誇る言動が多く、まわりの人々の反発を買っていた。

彼のはいって来た姿は私にはきわめて異常に見えた。病室に入るときは、誰でも持ち物は最小限にし、普通、洗面具だけ持ってくるものだが、彼は災害時の避難民のように、背負えるだけのものを背負い、持てるだけ持つというかっこうでやって来た。それに、その持ち物が、デコボコのはんごうや、空き缶の灰皿、うすよごれた布類など、ガラクタばかりである。自分のものは肌身離さず持ち歩かなければ気がすまないのだろうか。

あまりに豊かに『上品に』育った彼に、シベリヤでの厳しい生活が身にしみて、その対極がこうなったのだろうか。

そういえばハルピン(※引用注:朝鮮戦争時は撫順からハルピンに移された)の監獄で運動のとき、彼らのグループと一緒になったとき、彼が一人グループを離れて私たちが運動していた広場の隅のゴミ捨て場に来て、タバコの吸い殻を拾っているのを見かけたことがある*13

 飯守の姿はあまりに哀れだ。

 また、中帰連には戦犯達の書いた文書が多数保存されており、飯守が書いたものも含まれる。ここで飯守本人が書いた文書を紹介しよう。

僕は何んと抗日愛国の中国人民を徹底的に弾圧することが正しい処置であると考えていたのだ。この法律(=治安維持法)を立法することによって、僕は所謂熱河甫正工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国中国人民を、一千七百名も死刑に処し、約二千六百人の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している*14

そして、

僕達は今、資本主義を宗教にも道徳にも反する制度として徹底的に否定しよう。そして共産主義を論理的に正しい経済制度、社会制度として僕たちの宗教と結合して肯定しよう。そして、日本の独立及び民主化の為に徹底的に奮闘し、帝国主義の生み出す侵略戦争を防止し、世界の恒久平和を勝ち取る為に闘争しようじゃないか」*15

この手記を涙ながらに皆の前で発表し,「今、最高裁裁判所の長官をしている田中耕太郎は自分の兄であり、帰国すれば彼と対決し、彼を民主的に変えるのが自分の任務である」*16と語っていたのだ。

 しかし、帰国後に辿った経緯はまったく真逆だった。中国では共産主義へ転向し、帰国後は再度右派に転向した。治安維持法という思想統制法のプロがしたことは、自分の「思想」を簡単に変えて、相手に擦り寄ることだった。帰国後は共産党への恨みを晴らすように、自分の権力を笠に来て反体制側に対して厳しい態度をとった。彼の気持ちは晴れたのだろうか。

 戦犯管理収容所という特殊な空間だから仕方がないという見方もあるかもしれない。飯守本人も坊主懺悔したとうそぶいている。

 『獄中の人間学』で城野宏は、共産主義に転向した人がなぜ早く帰さないのか中国側に聞いたところ「連中には帝国主義の悪弊が残っている、だからつるし上げたり、申し子的な態度で、虎の威を借って威張り散らすからだ」*17という返事だった。中国側も本質を見抜いているのだ。城野は続けざまに「古海さんは向こうでも、こちらでも変わらない。生きざまという言葉は嫌いだが、態度が一貫している。だから、みんなあなたの周りに集まって来る」と話すと、古海忠之は君もそうじゃないかとお互い褒めあいながら「作為なしに原則を押し通して生きることが、信頼を得る道だと痛感しているよ」*18と語るのだ。

 飯守重任、法の番人である裁判官のはずなのに、自分の信念や思想の「原則」のない男は体制側に擦り寄って意見をころころ変える男であった。洗脳されたのではなく、変わり身の男であった。原則のない男には厚い信頼が寄せられることはなかったのである。少なくとも古海と城野のように対談する相手も、当時の苦労を語る中帰連のような仲間もいないのだ。

  

略歴

1906年 誕生

1945年 シベリア抑留

1955年  中華人民共和国へ引き渡し 

1958年 帰国、その後、東京地方裁判所に復職 

1960年 ハガチー事件

1961年 嶋中事件で最高裁から厳重注意

1970年 鹿児島地裁所長、部下の裁判官の思想チェックで最高裁から降格処分の上、     

    解職。辞任。弁護士に。

1972年 京都産業大学 教授に就任

1980年 死去