kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

まなざし不在の地獄、生の慟哭、大量殺人もしくは子殺し

 もう一つの声(3)を書こうと思ったのだけど、『令和元年のテロリズム』を一気読みしてしまったので、「自律/自立した個人」であることから疎外された苦しみ、ダークな側面について書いておきたい。「弱者」男性の身の奥底から響く雄叫びについて触れておかないといけないだろう。オルタナティブなライフスタイルとセットの現象なのだから。

 

令和元年のテロリズム

 

 この本は川崎殺傷事件(カリタスの小学生を狙った殺傷事件)の岩崎隆一、元農水相事務次官長男殺人事件の熊沢英一郎(被害者)、京アニ放火殺傷事件の青葉真司の三つの事件のルポだが、社会問題化されず個人問題に帰せられることに著者は憤りを感じている。社会から疎外された男たちの「テロリズム」と主張することで社会問題のフレームワークで語ろうとする。

 著者は、この殺伐とした社会はいったいなんなのか言葉にならない虚しさを言葉にしようと迷いながら考えつづけている。その姿勢には好感がもてる。但し、これがテロリズムなのかと問われたら、ちょっと違うような気もする。

 三つの事件は近い時期に起きた事件だが、事務次官の事件は長男は被害者だ。川崎殺傷事件、京アニ事件はともに「死にたいなら一人で死ね」と批判殺到した事件だ。「他人を巻き込んで死ぬな」と社会は断罪した。元事務次官は、この自己責任論による究極の結果として子殺しを手がけた。「息子が殺人事件を起こしたら困るから息子を殺す」。「殺人する可能性」の「予防」のため殺される。「社会に迷惑をかけそうな子供を殺した親」に対して称賛の声があがり、父親の刑の寛大な処置を求める署名活動が起こる。

まなざしの地獄/まなざしの不在の地獄。透明人間の苦しみ

 著者は見田宗介の『まなざしの地獄』を引用して分析している。この本は連続射殺事件の永山則夫を分析した社会学のモノグラフである。この論文ではイニシャルでN・Nとされる地方出身の永山則夫は、家族や貧困から「自由」を求めて上京するも都市の「まなざし」の中で、どこまでいっても「まなざされる」者として規定され、自由にはなれない末に起きた事件を社会学的に分析している。この本では階級のリアリティとして表現されるが、今でいうならば地域格差、経済格差によって「自由になれるはず」の東京に行ってもどこまでもついてまわり、自由になれない苦しみについて描いていると言ってよいだろう。文化資本の違いによって社会的上昇をはねつけられる苦しみだ。

まなざしの地獄

 

一方で見田は、秋葉原無差別殺傷事件について「まなざしの不在の地獄」について語っている*1。また、上記の『まなざしの地獄』の大澤真幸も「まなざしの不在の地獄」について解説で語っている。

 

現代社会はどこに向かうか-高原の見晴らしを切り開くこと (岩波新書)

 

 日本が一定の豊かさを享受して、地方ですらどこまでも東京の郊外のように変貌した社会となった。わかりやすい貧困や格差は見えにくい社会となった。

 秋葉原無差別連続殺人事権の加藤智大は、ネットで殺害予告しながらも誰からのレスポンスがないことに絶望して、事件を起こした。誰からも「まなざされない」苦しみ。

アキハバラの犯罪の出発点になったのは、犯人TKが仕事に出てみると、自分用のつなぎ(作業服)がなかったことである。TKはいったん自分の部屋に帰って、自分は結局「だれからも必要とされていない人間」であると感じる。それから人生をふりかえってみても、だれからも必要とされていなかった人間であると感じる。(Mature man needs to be needed.「成熟した人間は、必要とされることを必要とする」エリクソン*2

 加藤は家族から虐待を受け、見捨てられていたと感じていた。近代化は共同体を解体し、核家族という最後の砦までも解体した。血縁関係であっても心の交流はない。また、派遣労働は正社員労働より取り替え可能な労働力であり、労働力の部品でしかない。ようするにその仕事ができるのならば「誰でもいい」存在だ。

 川崎殺傷事件、京アニ事件の加害者は東京郊外に生まれ、育ち、「透明人間」となった。事務次官の息子も都心に住みながらも「透明人間」になった。父親だけが関わり続けたが、それが逆に不幸な結末に及んだ。家族とも社会とも接点がないまま透明化した彼らが、社会に名前を知られたのは殺人事件によってだ。透明人間の彼らは最後に人との「接触」を求めて殺人を犯す。そうすることで初めて名前を取り戻した。彼らの行為はテロではないだろう。政治的メッセージというよりは、生の雄叫び、動物の慟哭に近い。見田の言葉を借りれば「実存」の叫びだ。

 殺人はもちろん許されないことだ。「人を巻き込むな。一人で死ね」と社会は言う。 

もう既に彼らはずっと一人だ。そして、ひきこもり*3や、アキハバラ事件の加藤のような立場の大多数の人間は事件すら起こさず、一人で死んでいっている方が多いだろう。一人で死んだ場合はニュースにすらならない。誰も気づかない。誰にも呼ばれない。問題は可視化されない。

 あるとき、殺人事件によって社会にふっと残酷な顔が現れる。残酷な事件は「個人の問題」と処理され、忘れられる。長男殺しの農林水産省事務次官は裁判で「息子に能力があれば」と語る。「自己責任」は「製造者責任」へと連なり、生真面目な親が子供を殺す。

 バブル崩壊による景気後退は90年代半ばの余剰労働者、特に新卒一括採用から漏れた若者が派遣労働者やひきこもりになった。これは実質的な「うばすて」だろう。社会が養うことができない若者を「社会的に」間引いた。決して彼らの「能力」のせいではない。マクロで見て労働力が足りている。だからそれ以外は必要がない。資本主義経済、市場経済による人口調整弁に過ぎない。

 そして彼らは透明人間になった。核家族に経済力があれば家の内に閉じこもり、家庭が崩壊していれば京アニの青葉のように郊外の安いアパートの1室に閉じこもる。たった一人で、そして孤独に蝕まれて精神が失調して。。。。。。弱者男性は裏返り「無敵の人」*4として突然、社会に現れ、雄叫びをあげる。透明人間は殺人者として初めて名前を呼ばれるのだ。親すら呼ばなくなって久しい彼の名前を社会は呼んで「一人で死ね」と糾弾する。

 この社会は生きることの意味を失っている。私たちはどうすればよいのだろうか。

 

 

※あえて加害者名を実名で記載した。ご了承ください。 

 

注記

*1:104-111ページに記載。下記本は2018年出版だが、まなざしの不在については講演会で話していたのを記憶している。いつだったか覚えていないのですが、2008年出版の『まなざしの地獄』で大澤真幸の解説で「まなざしの不在の地獄」について語っているが、おそらくその前に既に本人が語っていたと思う。

*2:上記105ページ

*3:約62万いるという。特集2 長期化するひきこもりの実態|令和元年版子供・若者白書(概要版) - 内閣府

*4:無敵の人とは (ムテキノヒトとは) [単語記事] - ニコニコ大百科