kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

古海忠之(1)ーーー渡満から満州財政、そして阿片政策

 「満州国総務庁次長の古海忠之に関心をもっている人は今の日本では数名しかいないかもしれない。古海忠之を知れば知るほどひかれていくのだが、これまで読んだ本を踏まえて、忘れ去られつつある古海忠之を多角的に描いていきたいと思う。

 

 

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古海忠之※注1

渡満

 古海忠之は1900年生まれ京都府出身。旧制3校を経て東京帝国大学法学部卒業して大蔵省へ。超エリートです。野球を愛好し、3校時代は主将4番捕手。

 旧制三校出身の野球部で東大法学部の野球部といえば、戦前ラストの沖縄県知事の島田叡がいる。島田は1901年生まれなので古海の一つ下の後輩だ。高校大学ともに野球のチームメイトのはずだ。1900年生まれは敗戦時に45才前後。仕事盛りのときに過酷な運命が待ち受けています。

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 古海忠之が過去を回顧した本には、『忘れ得ぬ満州国』(1978年)注2、城野宏との対談集『獄中の人間学』注3がある。前者の本は入手できず未読なので後者の本から引用する。古海の満州国へ渡ったいきさつから。

 

別にぼくはみずから望んで満州へいったわけじゃないんだ。何か知らないけど満州国という国ができた(笑)。関東軍が先頭に立って、新しい国家をつくろうとしていたわけだね。その当時、日本の若者は満州国にあこがれを抱いていた。各民族が共和した、理想的な国家をつくるという建前だったからね。それにくらべて、ぼくたち若手の大蔵省の人間は、まず誰も大して興味は持ってなかった。好きこのんで理想を追っかける必要もないからね。日本にいれば、それなりのコースはたどれるからね。[同所76]

 決して理想主義者でないのが分かるだろう。渡満前は熱い思いがあったわけではない。上司の命令として引き受けているに過ぎない。

そのときのぼくの気持ちからいうと、はじめは気乗りしなかったんだよ。ちょうど昭和7年(※引用注1932年)の3月に事務官になったばかりでね。略、これで一生東京で暮らせると安心した矢先だったからね。本省の事務官になれば将来の見通しがつくわけだし、事務官というのは各局に二人しかいないんだ。局長から次官への出世の途は約束されているんだよ。略。そんなときに、満州に行ってくれないか、と言われたから、ぼくは驚いちゃった(笑)

しかし、直属上司の星野直樹さんが猛烈にやる気を出しているし、当時の大蔵大臣であった高橋是清さんが、これまた満州国の建国には大乗り気なんだ。それでぼくも断り切れなくなって、仕方なく行ったんだ。最初は別に大したことを考えて渡満したわけじゃないんだが、むこうに行ってからはそうじゃなかった。骨を埋める覚悟だった。[同書76-77]

 満州行きは理想に燃えて行くことを決めたわけではない。上司が熱くなったから道連れになったといってよいだろう。しかし、満州国設立後から敗戦時まで一貫して携わったのが古海忠之であった。満州国の生き字引のような存在だった。満州の国作りに関わることで骨を埋める気持ちになるのだ。

 「高橋是清満州建国に大乗り気」という言葉は歴史的に貴重な証言かもしれない。波多野澄雄ら『決定版 日中戦争』※注4によれば、高橋是清は1932年に組閣された犬養毅内閣の蔵相であり、以降は高橋路線を踏襲し、軍事費抑制・公債漸減方針をとり、軍部と対立していた。高橋財政路線時は対満投資額も漸減されていったのだ。古海の話によれば少なくとも1932年時点は高橋是清満州国への期待は大きかったのだろう。尚、1932年の5月15日に犬養毅は暗殺(五一五事件)、1936年2月26日に高橋是清が暗殺される(二二六事件)。

 『決定版日中戦争』によれば犬養毅満州国の独立国家案には反対だった。「満州国樹立は、しかし、まだ国策として確定した方針ではなかったのである」[同書25]。犬養毅としては、満州国における中国の主権を認めたうえで自治政府をつくるという構想(犬養構想)があったが515事件で暗殺されて頓挫する。満州国を承認しないから殺されてしまうのだ。暗殺後の9月に満州国が承認されたわけだが、高橋是清は承認後に乗り気になったのでしょうか。。。

 

日本の財政と満州国

二・二六事件と軍事費抑制路線の終焉

  ここで『決定版日中戦争』を参照して経済財政面から見た日中戦争をまとめたい。「金解禁不況から日本経済を立ち直らせると同時に、財政面から軍部の暴走を押さえようとした」[175]のが高橋是清だ。1932年以降、軍事費を押さえ込んで行き、1936年度予算編成で財政赤字を少しずつ縮減していく「公債漸減方針」を打ち出す。国防費は公債で賄われた。高橋は「ただ国防のみに専念して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するごときがあっては、国防も決して安固とはいえない」[177]と予算閣議で発言、1936年2月20日衆議院総選挙で高橋を支持する民政党が躍進、第1党になった。つまり軍事費抑制は国民の指示を得たのだ。

 軍事費抑制路線が支持されたのは、対満投資額が前年度比マイナスに転じ、「満州の経済的価値が判明すればするほど対満投資額は渋りがちになるのが事実」[178]と報じられるような状況だったからだ。満州事変当時の満州は大豆と石炭以外にはみるべき産業は無かった。一方で、当時の国内経済は絶好調だった。それは満州の投資が成功したからではなく高橋の金融政策が成功していたからだった。

 総選挙後の6日後に高橋是清は暗殺される(二二六事件)。事件後に成立した広田弘毅内閣は軍事抑制路線を転換し、軍事費の公債発行をすすめた。1936年時点においては金融政策のため経済は好調で、満州投資が景気回復させたのだと勘違いしてしまう。その後、公債は増えていき財政は悪化。満州国の投資のために国内投資は遅れ、疲弊していく。更に日中戦争、太平洋戦争に突入し、財政は悪化の一途をたどる。

満州国の経済政策

 軍事予算の増加で満州国の経済政策も動き出す。岡部牧夫ら『中国侵略の証言者たち』[5第2章]を参照にまとめていきたい。二二六事件後、1937年に産業開発5ヵ年計画を策定。1941年度で終了するが、42年からは第二次5ヵ年計画を策定し、1次計画の積み残しを重点化したが、アジア太平洋戦争の戦況悪化で国策として正式に決定できなかった。5ヵ年計画の修正過程で資金が総額49億54百万円から最終的に60億60万円に膨張した。[同書58-60]

 関東軍満州国の阿片政策

 関東軍ははやくから阿片政策の研究をはじめ、参謀部第三課長・原田熊吉、満州国総務次長代理・阪谷希一、財務部総務司長。星野直樹らが競技して根本方針を確定した[61]。大蔵省時代からの直属の上司・星野は古海に阿片の専売公署副署長を打診したが、古海は警察権の行使を伴う職務は不適任として難波経一を推したそうだ。それにより専売政策の担当者は難波となった。

 1933年4月に専売法を制定、4月には専売特別会計が設置され、1935年4月から専売署官制が公布された。署長が中国人だが、副署長が実験を握っていた。奉天には煙膏製造所(阿片精製工場)が設置。

 中国は阿片が蔓延していた。日本政府も満州国も阿片吸引の禁絶という理想と収入確保という現実の矛盾のなかで、建前よりも目先の財政収入として阿片専売制度が利用された。1938年には東条英機が即時断禁を主張した。制度の変更によって阿片収入は専売事業の会計から禁煙特別会計に移された。以後、治癒施設の支出が増えて。益金の一般会計の繰り入れは減ったが、特別会計の規模に大きな変化はなかった[64-65]。ようするに阿片で稼ぎつづけたわけだ。

 そして太平洋戦争がはじまる。1943年春、日本政府は東京に大陸諸地域の阿片関係者を召集して阿片会議を開催し、阿片の増産計画をたてた。阿片の利益で戦争政策に奉仕させるためである[65-66]。ここからさらに色々ありまして、外貨を稼ぐために密輸したり、貿易の決済のために阿片輸出したりしていたわけだ。古海は財政問題のために阿片政策に深く関わっていくことになる。里見甫とも親しい仲になりながら。

 『阿片王』から『忘れ得ぬ満州国』の孫引きになるが、古海は売り捌きに困った蒙古産阿片の販売を「私の親友里見甫」[167]に頼んだそうだ。「彼(※引用注、里見甫)は当時、南京政府直轄の阿片総元締売捌をやっていたので、手持ちの阿片を彼のもとに送りつけ、できるだけ高価に買い取ってもらい、なるべく多額の金を得ようとした」[阿片王167]とある。阿片取引で昵懇の仲になったようだ。里見が亡くなると、葬儀委員長は古海忠之が務めた仲だ。里見遺児の後援会にも名前の記載がある。

 この阿片政策は「戦犯」として厳しく問い詰められた政策なので繁雑だが詳述した。

 

人生のターニングポイント

上記した通り、古海は理想に燃えて渡満したわけではない。古海本人が語るターニングポイントは二つあったという。

 一つは、妻の叔母の嫁ぎ先が政友会の森恪だった。渡満の報告へ行くとなんと森は激怒するのだ。「満州国など日本の分家のようなもんだ、あんなところの大将になったって仕方がない」「大蔵省に入ったなら大蔵大臣になればいい、何も満州に行く必要はない」[78]とひどいいい様ですね。。。古海への期待が大きかったのでしょうか。森は二年間だけいってこい、二年経ったら呼び戻してやると息巻くわけですが、なんとその年の暮れにぽっくり亡くなってしまう。呼び戻すと息巻いていた政界の重鎮が無くなるわけです。

 もう一つが昭和19年に大蔵省から大倉次官として呼び返されていたが、辞退したときだ。辞退した理由を「どうしても戦局から見て、そのとき満州を捨てることができなかった。日本の命運は満州にかかっていたからね」[79]と責任感の強さから辞退する。

ただし古海は「仕事が面白かったんだね。はじめから中枢にいたし、事実上の政策はぼくがつくったようなものだ」と語っていますが。

 古海忠之、男やろ!!! しかし、その結果、満州国の責任を背負って日本人戦犯となるのだった。

 

 次は敗戦後の古海の行方を追っていきたい。続きはこちら。

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 年譜  

 1900年5月5日 誕生

 1932年3月 古海忠之 大蔵省事務官

          5月  515事件 犬養毅暗殺 

    9月 満州国承認 

 1936年2月 226事件

 1937年   満州国産業開発5ヵ年計画 

 1942年   満州国第2次産業開発5ヵ年計画(国策として政策決定されず)

    1943年   日本政府、阿片会議を開催

 

里見甫についてはこちらをどうぞ。

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中国の阿片についてはこちらをどうぞ。

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 日本の阿片政策を現場で携わっていた方の証言はこちら。及川勝三氏は1932年末から42年4月までの10年間、日本の阿片政策の現場で働いている。満州国。蒙疆政権、海南島でアヘン栽培。芥子畑の写真は貴重。海南島のアヘン栽培は失敗の連続だったが、及川氏が成功させる。阿片の種子選択などかなり細かい記載があり、詳細を書くと差し障りがありそうなので、まぁ読んで見てください。

証言 日中アヘン戦争 (岩波ブックレット)

 

 

 

注1

平山周吉 | 満州國グランドホテル 第十三回 「民族協和する」古海忠之の満洲国十三年と獄中十八

注2

忘れ得ぬ満洲国 (1978年)

 

 注3

獄中の人間学―対談

注4

決定版 日中戦争 (新潮新書)

注5

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)

阿片の中国史ーーー薬物依存は財政赤字を助く。富と流通のあだ花・芥子

 

 趣味で中帰連や日本人戦犯関連の本を読み進め、その流れで東亜同文書院を知り、里見甫の本を読むことで中国の「阿片」問題がひっかかるようになりました。また、あれだけ蔓延した阿片はなぜ中国から消えたのか疑問でいっぱいになりました。中国の阿片問題の全体像を知りたい。

 試しに譚璐美『阿片の中国史』を読んでみたら目から鱗が落ちる良書でした。中国の阿片史を簡潔かつ平易にまとめられたこれ以上の本には出会えないのではないでしょうか。

 

阿片の中国史 (新潮新書)

 

 明時代においても阿片は富裕者の一部しか購入できない高級嗜好品だった。清朝時代、なぜあそこでまで阿片が蔓延したのだろうか。よく言われる説は、英国と中国の貿易では中国から茶を購入する英国が膨大な貿易赤字を抱えていたので、阿片を清に輸出したからだ、という説。有名な三角貿易だ。それはもちろん前提にあるが、それだけでは庶民にまで蔓延しない。

 この本では流通に注目する。各時代の王朝は南から北へ通す大運河*1を拡充してきた。これは塩の道として使われた。つまり、中国の流通網がすみずみまで確立していたことを意味する。塩の道、流通が確立していたこと、これが阿片蔓延の前提にあることを指摘している。

 阿片戦争で負けて西洋各国は阿片で大稼ぎする。中国にはそれだけの莫大な富があった。何代もかけて築いた富は一気に阿片に溶けていった。中国は大きな蜜のはいったパイ。西洋列強の各国はむさぼり食った。

 辛亥革命がおき、群雄割拠する大陸。蒋介石の国民党時代となり、財政赤字から阿片マネーに依存する。青幣と手を結ぶ。青弊はもともと闇塩を輸送する組織。そう、塩の道つまり流通を制していた。流通を制するものが阿片を制するのだ。

 日本の関東軍満州国も阿片政策に取り組む。財政赤字を解消するための阿片生産。この本では詳しく書いていないが、関東軍満州国は鉄路と空路で阿片流通を確保するのだ(詳しくは佐野眞一『阿片王』参照)。

 

阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

 つまり、国民党も関東軍&満州国も戦争資金は阿片マネーで稼いでいた。中国共産党も阿片栽培を手がけていたらしい。また、日本も西洋列強国も植民地運営に阿片マネーを利用していた。この本では「関東州の経営の25%の収入が阿片」とあり、イギリスの植民地の香港政庁の総収に占める阿片専売収は46.6%、シンガポール政庁は55%、フランス領インドシナでは42.7%。どんだけやねん。

 これだけ阿片漬けの中国だったのに中華人民共和国が成立して3年後にはほぼ一掃される。なぜか。阿片禁止にして撲滅運動をしたから?確かにそれも一つの理由だ。でもそれは清時代だって、関東軍だって国民党だって建前はやっていた。ここまで徹底的に一掃されたのは流通が麻痺したからだ。阿片は消耗品。しかし、内戦で流通が確保できず、建国後は政治運動にあけくれ流通が長期的にストップしたのだ。結果として阿片が一掃された。

 

 

 さて、ここで一つ疑問がある。なぜ日本は阿片漬けにならなかったのか。それは江戸幕府の施策もあったが、それより国際情勢の変化が大きい。イギリスは中国だけでなくクリミア半島の出兵もあり、日本に開国を迫っている場合ではなかったが、これは日本にとって幸運なことだった。ペリーが開国を迫り日米修好通商条約を締結したが、その条約の中には阿片許容量が決められており、それ以上の持ち込みは幕府が没収してよいという内容だった。この条項は米国から提案してきたのだ。この本ではなぜアメリカがそんな条項を自ら持ち出したのかよく分からなかったが、イギリスへの不満があったのかもしれない。これ以降、幕府がイギリスなど他国と締結するときは米国の条約を継承したのだ。イギリスが最初に締結したらどうなっていただろうか。

 でも、阿片がそこまで普及しなかったのは、日本が中国ほど豊かではなく貧しかったからだ。中華人民共和国が阿片を一掃できたのは、流通寸断の長期化もあるが共産主義国になり貧しくなったからだ。貧しいと高級品の阿片は手に入らないし、庶民まで蔓延できないのだ。そう思うと中国は貧しくなることで阿片を一掃することができたのだ。皆同じく貧しくなることでしか阿片を手放せなかった。中国は近代化をすすめるためには共産主義国となり一様に貧しくなって阿片断ちをしなければいけなかった運命なのかもしれない。

 

 

※日本の阿片王里見甫についてはこちら

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*1:京杭大運河 

東亜同文書院と地下人脈(2)ーーー里見甫を中心に

 

こちらの記事の続きです。今回は里見甫を中心にまとめていきます。

 

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 『日中を懸ける』を読んで東亜同文書院について興味を持ちました。この本は巻末に索引までついているのですが、里見の名前は一切出てきません。私の中では里見甫は阿片王であり、東亜同文書院の名前は里見甫で知ったくらいなのにです。

 

日中に懸ける 東亜同文書院の群像

 

 私の勘違いかもしれないので里見甫について知りたくて積んでいた佐野眞一の『阿片王』をつい読んでしまいました。東亜同文書院、これは真っ黒ですよね。GHQにスパイ学校と言われるのもわからないでもない。東亜同文書院の中国語能力と学縁ネットワークがなければ、ここまで中国大陸に網はかけられないだろう。。。。『日中に懸ける』の著者藤田佳久氏は、ダークなものに向き合って歴史を書いてほしいですね。臭いものに蓋をしてよいことだけを書いた『日中に懸ける』はよいしょ本の域を出ません。愛知大学の名誉のために里見甫らのことを隠したのかもしれませんが、逆効果ではないでしょうか。現に私は里見甫について記載が無いため、里見甫について調べはじめてます。里見甫らのデータを愛知大学が所蔵しているなら隠さずオープンにするのが、今後の日本の歴史のためでしょう。

 『阿片王』を読んだので東亜同文書院に関わることをまとめていきたいと思います。

 

阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

 

 同文書院は、当時、一高、陸士、海兵と肩を並べる存在と言われるエリート校だった、という。徹底的な中国語教育でしられたエリート校と見なされる一方で「スパイ養成学校」と陰口を叩かれていたらしい。尚、『阿片王』では同文書院が戦後、愛知大学として再出発したことにはまったく触れていない。

里見甫について

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里見甫


 里見の個人基本台帳。GHQの取調べ。身長168センチ、体重約50kg、誕生日1896年1月22日。扶養家族一人(妻)。逮捕1946年3月1日。[237ページより抜粋]

 里見甫が東亜同文書院に入学した理由。「入試科目に苦手な数学がなく、月25円の学費で衣食住すべて賄ってくれる上、十日ごとに中国銀で1円の小遣いを支給される好条件は、貧しい里見家には願ってもなく、一も二もなく同文書院の進学を決めた」[同所88]。県推薦をとらなければならなかったため、頭山満が創設した玄洋社の二代目社長進藤喜平太に頼み込み、福岡市の留学生という身分で入学した[89]。

 里見甫の成績。「四年間終始ビリから二番で通し、授業の欠席も1番で、欠席大将と仇名された」[97]。13期生。

 学生時代の様子。「思いやりがあり、人の面倒もよくみる親分肌のところがあり、男にも女にも好かれる多情多恨、当時はやった村上浪六の小説を地でいった男、というのが同期の仲間の述懐である」[108]。

 卒業後は青島の新利洋行という貿易商社に就職。

 第一次世界大戦後の大恐慌で会社倒産。日本へ引き揚げ。下谷万年町の貧民窟に住み、日雇労働者に1年後の1921年に再び大陸に渡る。

 満州国通史社は主幹里見甫、総務部長・大矢信彦、通信部長・佐々木健児の同文書院トリオで設立。その後の過程は省略。阿片との関わりは本をどうぞ。

 巣鴨プリズンでは内大臣牧野伸顕と同房。「空腹に耐えられないで苦しんでいた牧野に自分の食事を分け与えてやっていた」[280]

 里見の墓の「里見家之墓」の文字は岸信介が書いた。里見は岸信介の初出馬の選挙資金を出している。それ以降、つきあいあり。

 

東亜同文書院の人々

 この本で出てきた書院出身の方々をまとめます。

 

大矢信彦  東亜同文書院16期生 

      満州国通信社(国通) 里見の下で働く

      戦後は鎌倉の広大な敷地に引き揚げ

 

佐々木健児 東亜同文書院21期生

      新聞記者

      新聞聯合から満州国通信社の通信部長に転職

 

波多野乾一 里見の4期先輩 9期生?

      『中国共産党史』(全7巻,時事通信社,1961)

      里見の面倒をみてくれた先輩。

      里美は中国共産党が支配する武漢政府を取材し、紅軍のビラなど

      柳行李二個分を集めた。この原資料が著作の資料に。 112

      波多野乾一 - Wikipedia

岩井英一  東亜同文書院18期生

      上海領事館副領事

 

徳岡 照  東亜同文書院27期生

      満鉄上海事務所に席を置いたまま横浜正金銀行の中に事務所を構え、

      里見のパートナーとして阿片販売に関わる。185

甘粕四郎  東亜同文書院20期生

      甘粕正彦の弟 満鉄上海事務所スタッフ

中西 功  東亜同文書院29期生 

      満鉄上海事務所スタッフ

      中共諜報団事件で検挙、無期懲役

西里龍夫  東亜同文書院26期生

      新聞聯合、読売新聞、同盟通信の記者をしながら反戦活動、死刑判決

 

近衛文隆 東亜同文書院に留学

     近衛文麿の息子。女スパイと付き合ったため、帰国

 

※中西、西里について先のblog参照

 

 以上となります。ここにあげた名前を『日中に懸ける』の索引で検索しましたが、中野、西里以外は記載無しでした。愛知大学には東亜同文書院のデータが残されているので、里見甫の大学時代やネットワークが明らかになるといいですよね。

 

フィールズ・グッド・マン

 

FEELS GOOD MAN  気持ちいいぜ

 

このドキュメンタリー映画、めちゃ面白かったです。

 

 マンガのカエルキャラ・ぺぺがネットミームになり、2chのアメリカ版の4ch(というか2chを真似したアメリカ版匿名サイト)で非モテのアイコンになり、トランプ大統領選のアイコンとなり、オルト・ライトのアイコンになっていく。。。。ただのカエルのキャラが差別アイコンになっていく。。。

 日本でいえば2chのモナー*1のネコアイコンが差別アイコンになっていくようなものなのかもしれない。日本の場合はにゃんこ大戦争などサブカルに留まったが、アメリカではサブにととまらず表の世界にまで飛びだし、突き動かしていくところが怖いところだ。

 

feelsgoodmanfilm.jp

 

 この映画を見終わったあと最初に思ったことは「アメリカはバカの層の厚みもすげーな!」ってことでした。

 マンガを描いたマット・フリューリーは、ペペが自分の手を離れてネットミーム化し、偶像化されて差別アイコンとなったことで、なんとかペペを取り戻そうとするがどうにもならない過程を描いています。ペペの作者を知らなくても、ペペは誰もが知る存在となった。ぺぺの「物象化」*2過程を描いているんですよね。しかもぺぺは仮想通貨にもなるんですよwww。アメリカすげーっ!!!あほの規模が日本とは段違いだよ!

 

 こういうのって記録が残りにくいんですよね。よくぞ映画にしてくれました。そこもアメリカっぽいなぁ。映画とは別にボーイズクラブのマンガとアニメを見たくなります。特にアニメは嗜僻性があると思います。

 

 パンフレットをもとに年譜をまとめておきます。

 

2005年 マット・フリューリー、ボーイズ・クラブを「MySpace」発表

     ネット投稿のマンガだったんですね。

4chの匿名掲示板で人気に。ぺぺのアイコン増殖。ニート非モテのアイコンとして様々なイラスト増殖。この時点では非モテアイロニーキャラだった。

 が、リア充の集まるインスタグラムでセレブがぺぺをアップすると、リア充にペペが広まる。顔を緑にぬるぺぺメイクが流行る。イイネが欲しくてみな真似をする。

 リア充の女どものインスタグラムのぺぺ祭りに4chの非モテニート=ベータは憤慨しインスタ・リア充の一般人=ノーミーへの怒りを描いたぺぺの動画やイラストをアップしはじめる。4chで怒りのぺぺが過激化。攻撃性を増していく。そしてついに事件が起きる。

 

2014年 エリオット・ロジャー事件

    非モテの銃乱射事件として4chでは祭りになる。ベータの反乱として崇めら        

    れる。

※事件の詳細はこちら。正式にはアイラビスタ銃乱射事件と言うらしい。

ja.m.wikipedia.org

   

 リア充への報復を煽りつづけついにペペのドヤ顔アイコンが生まれる。これです。

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ぺぺのドヤ顔

2015年 大統領選でドナルド・トランプが立候補

  ドヤ顔のペペの化身としてトランプが扱われる。人を小バカにした顔。あごに指を添えるのがポイントらしい。

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ペペ+トランプ

 このトランプとペペについては4ch現象として捕らえると世界の見方を誤るだろう。なぜなら映画ではトランプ陣営のSNS戦略担当だったマット・ブレイナードを取材しているからだ。ブレイナードは「政治に関心のない層を巻き込む」ための最適戦略としてペペを取り込んでいるのだ。そこに恣意性、思惑、戦略があるのだ。従来の共和党支持者ではない「政治に無関心」層を掘り起こして当選したことを我々は目の当たりに見ている。

 それだけではない。白人ナショナリストのリチャード・スペンサーや極右ネットニュースサイト「インフォウォーズ」司会者アレックス・ジョーンズはオルト・ライトのアイコンとして利用。ジョークを装いながら差別的なデマや陰謀論を流す。鍵十字のぺぺが誕生。

 これにより名誉毀損防止同盟(ADL)にヘイトシンボルとして登録。ADLは米国最大のユダヤ人団体。

 

 ヘイトシンボルになったぺぺの行方は。2019年8月に香港の民主化運動のシンボルとして復活。私もペペはここで存在を知りました。一方で、ペペはもともとヘイトのシンボルだったのにという声も聞こえてきたが、アメリカのネット文化に詳しくなくてよくわかりませんした。この映画をみてようやく理解しました。

 アメリカのネット文化はこちらの本が参考になります。

ダークウェブ・アンダーグラウンド 社会秩序を逸脱するネット暗部の住人たち

 

 2021年時点で見ると、トランプは再戦できず、最後にホワイトハウスを乗っ取り、祭りは終わったような気がします。4chのノリがホワイトハウス占拠にまでいきつくところにアメリカのあほ層の広さと奥行きを感じますね。そして、新型コロナ感染拡大で各国が国境を閉じている間に香港の民主化運動は終わりを告げました。香港に自由はなくなりました。

 ペペは消えていくのだろうか。またどこかで現れるのだろうか。ペペはマット・フリューリーの手を離れて集合意識の表徴としてネット空間を漂い続けている。

 

 

 

 こうやってまとめていても、アメリカのことがまったく他人事ではないというか。日本でも似たような事件がありますよね。銃社会ではないから車でナイフで大量殺人する「無敵の人」*3のテロなど。とはいえ、アメリカほど政治社会ではないからここまで深く政治に食い込んではいない。政治は高齢者のものだし。でも。。。オールド左翼と右翼が人口ボリューム層から去り、ネット勃興期の2ちゃんねら~の40代が高齢化していき、投票ボリュームゾーンになったら。。。私たちはアメリカを笑えるだろうか。共通する正義なんか既になく、共感なんかただの甘えでしかないと言われる優しくない社会で私たちは嗤うだけじゃないか。こんなクソみたいな社会はもっと腐っておもしろくなればいい。既得権益に預かれないなら草はえるくらい嗤わせてくれよ。ほの暗い欲求不満が広がる向こう側は消して彼岸ではないだろう。

 嗤うという行為がネット集合意識として社会を動かしていく。政治と結び付き、戦略的に利用される。ふと北田暁大の本を思い出しました。

嗤う日本の「ナショナリズム」 (NHKブックス)

 

終わらない「失われた20年」 (筑摩選書)

   

「満州国」総理の息子、張夢実

 日中戦争関連の本を読み進めているのですが、こちらの本は日本戦犯の管理所長の回想です。日本戦犯についてはもう少し本を積み重ねてから書きたいので今回ははしょりますが、満州国清王朝末期を支えた満州人の戦犯の話が興味深く、他では情報があまりないようなのでメモしておきたい。

 

撫順戦犯管理所長の回想 こうして報復の連鎖は断たれた

 

 私が興味を持ったのは満州国総理の張景徳の六男張紹紀=張夢実だ。張紹紀は戦後に張夢実に名前を変えている。著者の金源は夢実から当時の話を聞いている。

 

ja.m.wikipedia.org

 

 張景徳は、中国と国境を接するソ連がいずれは日本に代わって東北を支配すると考えていたようで、その日に備え、白系ロシア人を家庭教師として招いて夢実にロシア語を学ばせたため、流暢なロシア語を話せた。

 張景徳は夢実に名門の令嬢と結婚させたがったが、夢実は母の使用人の徐明に恋をしていた。二人の関係を断つために、夢実を日本に留学させることにした。日本での夢実の引受人はなんと東条英機(上記Wikipedia参照)だ。夢実は早稲田大学に留学し、東京の「愛国読書会」のメンバーと交際するようになる。この読書会は中国共産党の外郭組織であった。つまり、夢実は日本で中国共産党とつながることになる。驚きです。

 大学卒業して1943年に帰国すると、両親の反対を押し切り徐明と結婚する。帰国後は奉天株式会社の社長であったが、共産党の地下組織の責任者である李克農などと連絡をとって情報活動を行った。張景徳の名刺をもっていけばどこでも出入りでき、大量の情報を集めて地下組織に提供していたという。

 日本敗戦間近に、中国共産党ソ連に夢実を紹介した。その結果、ソ連満州国戦犯を逮捕できた。夢実は溥儀や父親らとともに満州国戦犯として「護送」された。ソ連の収容所で一緒に生活したが、夢実の本当の正体は父親ですら知らなかったという。

 夢実は満州国戦犯が中国に移送される二ヶ月前の1950年5月、周恩来の指示で帰国し、撫順戦犯管理所に配属、管理教育科で著者とともに6年間仕事をしたのだという。

 夢実はその後、北京国際関係学院の日本語学部主任となり、2004年に中華人民共和国の第7期全国政協委員となったそうだ(上記Wikipediaから)。

 なんて数奇な運命だろう。夢実の情報は少ないが、満州国総理の息子として育ちながら、日本で中国共産党と出会い、情報活動し、撫順戦犯管理所では自白を引き出した。

 張夢実について分かったことがあればここに書き記していきたい。

 

「あの頃。」と「くれなずめ」

 朝ドラ「おちょやん」で若葉竜也くんのファンになり、「若葉くん」が出演しているからたまたまこの二つの映画を見たのだ。ほんとにたまたまだ。空き時間があるから映画を見よう、若葉くんが出ているからこの映画でも見るか。そんな軽いノリで見ただけなのだが、二つの映画は共通点が多く、もしかして今を象徴した映画なのかもしれないと思いました。

 

 「あの頃。」は、主人公が「あやや」と出会い、モ-娘。ファンとなり、オタ友と出会う青春?物語。

 

phantom-film.com

 

 「くれなずめ」は、友人の結婚式の余興のため久しぶりに会った友人達が青春?時代を思い出す物語です。 

 

kurenazume.com

 

 

【以下ネタバレです】

 この男たちの友情物語は学生時代の話ではなく、アラサー手前の男たちの友情物語だ。友達になったきっかけは学校や趣味。偶然にも二つの映画は同じ6人グループ。男は6人グループが安定するのだろうか。そして、その中の一人が死にます。「くれなずめ。」に至っては、最初から一人死んでいます。6人グループが5人になる話。それでも日常が続くというお話です。それだけ?と言われたらそれだけなのですが、ありそうでなかった、あまり描かれてこなかった物語です。

 男の友情というとバディものが多いのではないでしょうか。バディ関係を絡ませた組織もの、ヤクザやヤンキーの闘争ものが多いと思いますが、この映画では闘争は出てきません。半ぐれものでなくてもスポーツや会社のライバル同士の男の友情物語も多いですが、この映画には競争も出てきません。戦わない友情ものです。6人は競い合わず、対立せず、それぞれの個性が尊重されています(キャラとしていじられたりはするが)。

 また、一昔前ならば「モラトリアム」の若者の青春として描かれたかも知れません。でも、モラトリアム期間の青春は終わりを意識した物語で、終わりがやってきます。しかし、二つの映画には終わりはやって来ません。定職についても、下手したら家族ができても、友人の死すらモラトリアムの終わりを告げる現象ではない。そこが新しい気がします。一昔前のモラトリアム映画では定職につき、家族を持つと「お前も大人になれ」と友人が明に暗に示してきます。でもそういうことは一切ない。

 男の物語には競争や闘争がつきものであり、「大人になること」を求められるストーリーが多いのですが、それらが一切ない映画です。恋愛すら補足的なものになっています。恋愛史上主義でもない。社会や組織の闘争もなければ、恋愛でもない男たちの友情、男たちの人間関係を描く。男を描くときの二大要素である闘争も性愛も出てこない。珍しい映画です。

 では監督達は何を描こうとしているのか。闘争よりも性愛関係よりも「俺達にとって大切ななにか」を描こうとしています。大切な何かを「男の友情」と書いてしまえばそれまでですが、俺達にとってありふれているけれどこれまで描かれなかった「普通の男たちの友情」を私小説のように描く。

 この男たちの機微は女には一見わかりにくいものです。友人が死んでも、いつもの男同士のノリで笑います。男たちは簡単に泣きません。一昔前なら黙って煙草を吸ったかも知れません。今は煙草をすいません。男たちは笑う。ただただ笑う。いつものノリを演じることが亡くなった友への餞なんですよね。変わらぬ友情、でも少しずつ変わっていくみんな。男達のノリの笑いが友情の証のように彼らは笑います。

 「あの頃。」は過去の話ですが何かを乗り越えるわけではない。友人の死すら笑い、また毎日が始まる。「くれなずめ」に至っては日が落ちるまでの永遠の合間を漂っているように笑う。あの頃の毎日も友人を亡くした痛みも笑って書き換える。日が暮れるまでの時間。。。人が生まれ死ぬまでの時間は暮れていくだけの時間。日が落ちるそのときまで、笑ってたゆたう一生。男たちは笑う。ウルフルズの「ゾウはネズミ色」が響く。男性監督が静かに描く男たちの物語は笑いと諦感、言葉にできない感情を描いた作品だった。

 

 

 

※blogを書いた後にくれなずめが松居大悟監督が過去に上演した戯曲の映画化と知りました。いろいろ納得。なにも知らずに見に行ったので。若葉くんはどちらも似たようなキャラでした。おちょやんのイメージだと気弱な優等生でしたが、こちらの映画ではどちらもヤンチャ男子でした。あの頃。では夢芝居を歌っていて感無量でした笑。

ミッドナイトスワン

  三回、見に行ってしまった。一回目は凪沙の物語をとして圧巻のストーリーを、二回目は一果に寄り添って、三回目でようやく全体を見通しながら。毎回、感動して放心してしまう映画でした。 

 

midnightswan-movie.com

 一言で語るのは難しい映画ですが、何度見ても引き込まれる映画です。トランスジェンダーが女になるということには色々な意味があると思うのですが、この映画では凪沙は母親になることを引き受けて「女」になります。なぜ凪沙はそこまで一果に尽くすのか。

 一果がアキバの個室撮影のあと、バイトができずバレエができなくなる不安からなのか不安定になります。叫びたくなるような苦しさを腕を噛むことでこらえます。苦しいときには噛むのが小さい頃からの癖でした。それを見た凪沙は驚きます。

 「うちらみたいなのは強くならなきゃあかんのじゃ」と抱きしめて涙を流す。女言葉ではなく方言で一果に語る。それは地の健二=凪沙が重なった声だ。一果の理不尽な苦しみに共感するのです(その前に一果は凪沙が泣く姿をただ見つめているときがあった。一果なりの苦しみを凪沙は知ることになるし、二人は苦しみを共有する)。

 その日は、凪沙をお店に連れていったが、お客と一騒動が起きます。喧嘩を横目に舞台で一果は踊る。凪沙は踊る一果を見つめます。きらきら光るスポットライトを浴びて踊る一果から目が離せません。あの少女はもう一人の私であり、私がなりたかった少女。。。いや、言葉にならない思いが込み上げたのでしょう。

 そこから凪沙は変わります。一果のバレエのスクール代や発表会の衣装代などを稼ぐために苦労します。バレエ教室の先生に「大変だと思いますが、お母さん一緒にがんばりましょう」と言われます。先生はいつもの口調で凪沙のことをお母さんと呼ぶ。凪沙は嬉しくて聞き返します「お母さんって」と嬉しそうに。凪沙は昼間は健二に戻り、「男」として稼ぎながら一果を支えます。

 コンクールの日。一果は緊張して舞台上で立ちすくみます。怪我で踊れなくなった友人りんちゃんが見つめている。。。。りんちゃんの踊りとあのジャンプは映画史上でも名シーンではないでしょうか。山岸凉子のマンガのシーンのようでした*1。それを動画で見ることができるなんて。。。と語りたいことは多いが今回ははしょります。

 立ちすくむ一果を「大丈夫。大丈夫やけぇ」とまるごと抱きしめたのは実の母親の早織でした。実母のまるごとの愛情。すべてを包み込む愛情。一果は舞台の緊張からは救われます。二人の姿を見た凪沙は決意して海外へ飛びます。

 実母と広島に帰った一果は以前のような目的のない生活を送ります。実母の大丈夫やけぇと飲み込むような愛情はあっても、行動は伴わない。母のそばにいても、のっぺりとした毎日。未来を与える母親ではない。そんな一果の実家に、健二=凪沙は「女」になって現れます。「私は女になった。」「私は母親にだってなれる」。凪沙の実の母親は驚き、涙を流し、元に戻ってと懇願する。凪沙は実の親を省みることなく一果にだけ伝えます。凪沙の決意。私は私のなりたいものになった。一果は?一果はなにをしたいの?自分を大切にして。

 女になった凪沙のあのシーンは母性というよりも父性だ。私は私がなりたいもののために行動した。結果で示した。まるごと飲み込むような母親の愛情ではない、凪沙だから示すことができたもう一つの形の愛情なのではないだろうか。

 ミッドナイトスワンは「母親」の物語ではない。凪沙は女になり、母親になり、私になった。一果、あなたもあなたになってほしい。あなたは夜を超えて。朝が来ても昼間に輝くあなたでいて。

 ミッドナイトスワンは少女が自立する物語だ。一果は凪沙に出会って運命が変わる。運命に立ち向かう強さを凪沙は与えた。そして、凪沙の中の「少女」が救われ、癒されるのだ。

 

 

 

 

 

 三回見て初めて気づいたのですが、最初の場面でお店のお客に水着のエピソードを語りますが、草剪君は激ヤセしています。ということは、ラストのシーンの近くであえてあのお店のシーンを撮って水着の話を挿入したわけです。凪沙の「少女」を象徴するシーンとして。なぜ私は海パンなの?なぜ私はあの水着を着れないの? 海岸の水際で遊ぶ少女、バレエを踊る少女。凪沙がなりたかったもの。凪沙は不幸だったのか。手術に失敗して後悔しているのか。そうではないだろう。一果がやりたいことをやり、なりたいものになることが凪沙と重なる幸せなのだ。一果の成功は、凪沙の癒しなのだ。ただ美しい。美しいもの見ることができた。

  凪沙の悲しい結末は演出を効果的にするための死だ。トランスジェンダーが不幸になる話はよくないという評価がある。しかし、女や母親は演出のために幾度となく殺され、死んでいく。女は演出上、死んでいきやすい。それは男が死ぬより美しい物語に見えるからだ。凪沙はトランスジェンダーだから死んだのではなく、ありふれた映画の演出手法として効果的に死んでいったのだと私は思った。

 だが、それをSNSに書いたところ、当事者から怒りの声を頂いた。そもそも、女になる手術には竿をとる手術と膣の造形手術があり、竿をとる手術では医療ミスでなくなることはまずないという。難易度の高い膣造形手術を「母親」になるためなら必要ない(男性と性交する一体感が欲しくて膣造形ならばわかるが、そういう話ではないじゃないか)と言われて、あっ!と思いました。当事者はそういう視点でみるのか、私にはまったくそういう観点はなかったな、と。だから当事者には違和感を与える面があるのは間違いない映画だろう。監督もそこまで考えが及ばなかったのではないだろうか。マジョリティには気づけなかった視点だ。

  とはいえ、それでも、私はこの映画がとても好きなのは変わらない。素晴らしい映画でした。

 

*1:

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