kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

古海忠之(2)ーーー日本人戦犯として

 

 『獄中の人間学*1に沿って敗戦後の古海の流れを追いたい。昭和20年9月に新京でソ連軍に逮捕されてシベリアへ抑留、5年間に及んだ。

ソ連のラーゲルでの日々

 ソ連の取り調べを受けているうちに相手の意図が分かってきた。満州国にも侵略の意図があったのではないか、ということで文官の古海が逮捕されたのだ。「ぼくは知らぬ存ぜぬで押し通した」[10]。ソ連侵略の意図があったことを立証するまでは監獄へ入れるわけにはいかなかったので、ソ連は監獄ではなくラーゲルに抑留した。

 ラーゲルにいた5年間で10ヶ所転々とした。朝から晩まで重労働して食べ物もわずか、食べられそうな野草はすべて食べた。毒草にあたって死んだものもいる。

 重労働で腰が抜けてラーゲルの門番にまわされた。夜、門番をしていると栄養失調の下痢で便所にいくやつがいた。こうなったらおしまいで間もなく死ぬそうだ。

 捕虜に関する国際協定からいけば、将校以上は重労働につかせることはできないので「ぼくは民間人だが、兵隊なら中将だ、ぼくが承諾していないのに重労働させるのはおかしいではないか」と抗議したところ、ソ連側は「おまえは抑留者であって捕虜ではない」というのが答えで「敵もさるものだね(笑)」[24]と笑ってます。そして「中国に送られてよかったよ。あのままシベリアに置かれていたら生きては帰れなかった」[22]と述懐している。

ラーゲルでの生活

 ラーゲルでは将官ばかりの収容所で下っ端の兵隊が帰っちゃったので、将官は威張って飯も作らない。ある少将がおれがやるって言い出して、それに付き合い、料理ができるように。ラーゲルで初めて料理をするようになる。

 ラーゲルでは「反動の親玉でブルジョアジーの典型」としてつるしあげをくらう。古海は黙ってやり過ごす。「連中がなぜそういうことをするからも分かっているからだ。要するに、共産主義に共鳴している、ソ連に忠実だということを見せれば、早く帰してもらえるだろうと思ってやっているんだ。そんな手合いに応答するのは馬鹿馬鹿しい。だから黙っていた」[41]。一週間くらい黙っていると吊るし上げが終わった。

 関東軍将官ばかりの第13ラーゲルの話は貴重だ。

関東軍の将校とはほとんど顔見知りだから、顔を合わせれば挨拶する。ところが連中は顔を見ると、すうーっと横道に逃げるんだな。

そのころ、ソ連は赤化教育の意味もあって、捕虜や抑留者のあいだに民主委員会を作らせて、かつての上官の吊るし上げをやらせていたんだな。熱心にやれば、早く日本に帰れると信じて、つるし上げはエスカレートしていたからね。

さしずめ、ぼくなんかは戦犯、反動の筆頭とみられていたから、あんなのと仲良くしたら大変だということだったらしい。[42]

 シベリアで出会ったのが瀬島龍三だ。瀬島ともう一人の男だけが変わらず話しかけてきた。瀬島も「古海のような反動ブルジョアジーと親しくするのはけしからんというわけで、他の連中から物凄い吊るし上げにあう」[42]なか態度は変わらなかったという。

 このソ連抑留の吊るし上げには注目だ。中国でも吊るし上げにあうが、古海の対応は異なるからだ。追って記載したい。

 

撫順戦犯管理所の日々 

 こちらの写真は撫順監獄で撮影されたもの。古海忠之(1)の写真*2と比べると暗い顔していますね。 

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撫順戦犯管理所の古海忠之

 

 1950年に中国に移されて、6年間の調査期間を経て1956年に軍事裁判、有罪宣告を受けて監獄へ。撫順戦犯管理所(有罪刑以降は撫順監獄)は、古海が満州国国務院総務院主計処長時代に建てられたもの。「あとで自分が入ることが分かっていれば、もっと立派なやつを建てるんだったと、監獄にはいってから後悔したよ(笑)」[7]と語っている。

 古海は「満州国の高級官僚、大将クラスの男が、みっともないことはできない」[58]という気概で自分を支えた。

 ソ連は1080名を選んで中国へ引き渡したが、中国側の意向が強く働いていると古海は分析している。中華人民共和国は1949年に成立し、1950年に引き渡し。古海の見立てによれば

 中国政府は当初から、日本と手を握っていかないと中国の発展はないと考えていたことは確かで、中国共産党の方針にすでに組み込まれていたんだよ。これは蒋介石ばかりではなく毛沢東にしても同じ考えだったと思う。早々と日本総軍や関東軍の幹部を日本に帰したのは、その証左だとぼくは思う。

ところが、中国の一般大衆はそれを納得しない。特に華北だ。関東軍が無茶なことをやったからで、中国共産党も公然と方針を打ち出すわけにはいかない。略

そこで、日本の軍国主義者を罰する必要が生じた、建前としてだが、体面上、軍国主義者を裁判にかけ、戦犯として処刑しなければならない。ところが、すでに日本軍の幹部は帰国している。そこで考えたんだと思う。関東軍やぼくのような満州国高官はソ連に抑留されている。戦犯にできるような目ぼしい人間は中国にいないわけだ。

歴史の皮肉かね。1949年、毛沢東ソ連を訪問している。周恩来も同行している。略、中国側は抑留者の中から戦犯容疑者を引き渡してくれと要請し、それにソ連も同意した。その結果、1080名がソ連から中国に引き渡され、その中にぼくも入っていたというわけだ。[10-11]

ということだそうだ。

 『獄中の人間学』では撫順戦犯管理所の話は乏しいが拾い上げていこう。撫順では民主的な批判会があったが、古海は「その批判会は、ぼくが委員長だったよ(笑)」[48]と語り、「ぼくも委員長をやりながら、立派な奴はあまりいないもんだなと、なかばあきれていたよ(笑)」[49]と話す。時間がたっぷりあったので左翼の勉強し、資本論を2年かけて書き写す。 

出獄

 刑期18年を経て帰国することになったのが1963年3月だった。敗戦後、ソ連抑留期間から数えて半年まけてもらっての出獄だった。帰国前に周恩来総理と面談することになった。「周総理が日中友好日中関係の改善を図ろうと考えられて、私に対して中国政府の考え方、政策を詳細にわたって説明し」[68]、「その時の原稿を複写して日本に持ち帰った」[68]。古海を日中のパイプ役として使ったのだ。周総理は「池田さんによろしく伝えてくださいと言っていたよ。岸さんは、ちょっと困りますとも言ったがね(笑)」[69]とある。周恩来、面白いですね。

 対談後の送別会で中国政府の関係者に古海は「刑期中に一所懸命、左翼の勉強をして日本に帰ったら共産党に入党して左翼革命を起こす使命を感じたこともあったが、いま帰国するに際して、その意志はサラサラございません」とイヤミをかましたら、「私たちもそんなことには賛成しない」[69]とあっさり返してきたという。

 帰国後、日本では戦犯らは洗脳されたのではないかという騒動が起きるが、古海のこの発言からしてみても洗脳されたとはいえないだろう。

 香港で古海の引き渡しが行われたが、日本からは二名しかお迎えがなかった。古海は二人から観察され洗脳されていないと判断されたそうだ*3。日本の自宅へ戻ると池田勇人総理から電話があり監獄の話や満州時代のことは話さないように釘を刺された。池田勇人は大蔵省時代の同僚だ。「おかしなことを言うなと思ったが、現職の総理大臣の言うことだから黙って聞いておいた」[72]が、公安にも身辺調査されたという。古海がアカになったのではないかと恐れていたのだ。これには古海も「中国側の考えていることはまったくその逆のことなんだが、それが日本ではちっとも分かっていないんだ(笑)」[72]と語る。

満州国の評価

 ここで古海自身は満州国についてどう思っていたのかまとめたい。

満州国というのは、確かに五族共和の旗を掲げて、民族が共和した理想の国家をつくろうと努力したことは事実ですよ。そこは良かったけど、満州国関東軍の関係を抜きにしては存立できなかったところに一つの問題があった。満州国が日本の属国である要素はたぶんにあったし、確かに中ソにはさまれて国防はしなければならない。その任務は関東軍にしかできなかったことも事実でね。しかし、何と言っても日本軍というのは侵略の道具であったことには間違いない。 [80]

また、

あの戦争に関しては、文官は関係ないんだよ。駄目だって言っても兵隊がやると言ったら止まらないんだから。そういうシステムになっていた。 [65]

最大の問題点は、軍の決定権を天皇が握っている統師権という制度ですよ。これは政治家や官僚ではどうにもならないんだ。アメリカのように大統領が全軍の決定権を握っていたら、日本はあの大戦には突っ込まなかったかも知れない。

本質を突いているだろう。古海は日本軍の侵略性を認めている。また、軍部に歯止めをかけるシステムがなかった問題を指摘する。

 五族協和について

 「基本理念は五族共和、つまり日中友好ということだが、軍部をはじめその他の条件があまりにも悪かったために実践できなかった。ある意味では机上の理論的面のあったことも否めないね」[75]と語る。

 昭和7年に民族共和を指導する『共和会』を設立し、やりてがいないので「余り乗り気ではなかったが」[82]が指導部長に就任する。しかし、石原莞爾と対立し、関東軍内部で共和会の方針を討議することになった。会議の席上で石原が提案したものは全面否決され、古海の方針が勝った。それで石原莞爾が怒って無断で帰国。将官なら天皇の許可がないと動けないはずなのに無断帰国したので、石原一派は病気と称して入院させた。「満州国建国の功労者なんだから、みんなから尊敬を受けるはずなのに、みんなに嫌われて日本に逃げて帰ることになってしまうんだね」[84]というのが古海評。古海は喧嘩両成敗ということで共和会の指導部長を辞め求職処分となり、海外視察旅行へいかされたのだった。

 改めて民族共和について総括している。

民族共和という理想は正しかった。だが、日本人が他民族を理解することに欠けていた。日本人のやり方、物の見方、考え方が正しいとしても、それを押しつけてしまったことが失敗の原因だったんじゃないかと思うね。[87]

中国人とも朝鮮人とも考え方は、まったく違っているんだね。この基本的な相違点を認識して、真の五族共和、民族共和を図るべきだったんだね。この点は満州国の問題だけじゃなく、現在でも言えることだと思うよ。

対談相手の城野の日本民族特殊論の話を受けてこう語る。

まぁ、そういう考え方が八紘一宇だの、人類一家の考え方につながるんだからこれを早まって押しつけちゃだめだ。それで失敗したのが満州国だよ(笑) [89]

 

 満州国の実質的なトップだった古海忠之の満州国評価を私たちは忘れてはいけないだろう。古海忠之は身をもって贖罪したのだ。古海忠之の言葉を素直に受け止めたい。

 

 中国内戦のため関東軍将校の大半は罪に問われることなく早々と日本へ帰国して責任を取らなかった。文官の古海忠之は満州国の責任者として戦犯となり、罪を購ったのだ。満州国を作り、贖罪する数奇な人生であった。

 

※写真の右側が78才になった古海忠之。いいお顔してますね。

 

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岸信介元首相と。 昭和53年(1978)、 古海の著書『忘れ得ぬ満洲国』出版記念祝賀会で (『回想 古海忠之』より)

※写真の引用先*4

 

 

 

 と、ここまで古海の言葉から人生を振り返ったが、撫順戦犯管理所時代の話を異なる角度から検証したい。また古海の違う側面が見えてくるのだ。

 

 

年譜

1945年8月 敗戦

   9月 ソ連軍に逮捕、シベリア抑留

1949年   中華人民共和国、成立

1950年   中国へ引き渡し

1956年   軍事裁判 18年の実刑

1963年   帰国

1983年8月23日 永眠