kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

【追加】東亜同文書院と地下人脈(1)ーーー反戦運動と阿片ネットワーク

※20210601 中西功記事追加 ,西里龍夫の情報追加

※20210531 西里龍彦、中西功の部分を追加

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 たまたまブックオフで見つけたこの本を読んだらとても面白かったのだ。日本人が上海で設立したビジネスマン育成の大学であり、愛知大学の前身である。1901年に設立され、清王朝末期から辛亥革命後の大陸の激動期を過ごした学校である。学生達は自分たちで旅行を企画して大陸のあちこちを旅行して研究した。書院50年の歴史で700コースにも及ぶ。中国の風土、地理、商慣行、近代化以前の中国の姿を記録している。学生達は暴動、革命や日中戦争にもへこたれずあちこち旅行しているのだ。

 

日中に懸ける 東亜同文書院の群像

 

 書院は中華学生部も設立し、中国人も学んでいたが、1921年に上海で中国共産党が結成され、中華学生部の学生も大きく影響を受けた。梅電竜をリーダーに共産党細胞が作られた。書院は日系の学校のため、その学生寮には中国側の官憲も手が届きにくく、学生寮は格好の活動拠点となったそうだ。反帝国主義運動をする学生達が逮捕されると書院の先生は学生の引き受けのために走り回ったそうである[同上165頁]。

 中華部学生の思想や行動は日本人書院生にも影響し、共産主義青年団組織ができ、西里龍夫、安斎庫治、中西功らが反戦運動をするようになった。30年には日本海軍陸戦部隊、32年には日本軍人にビラをまいて逮捕されたという。その結果、34年には拠点である中華学生部が廃止された[同上165]。

 日本では1925年に治安維持法が制定されている。しかし、ここは上海。国内法では取り締まれなかったのだろうか。今や忘れ去られている活動だが、上海で反戦活動していた日本人の姿を記録しておく価値はあるだろう。満州事変後の反戦運動なのだ。

 

 西里龍夫[1907-1987年]は書院26期生で、在学中に「日支闘争同盟」を結成し、日本海軍陸戦隊にビラをまく事件を起こした。戦後は日本共産党熊県委員長として活躍した。下記の本を出版しているが、タイトルによれば戦前は中国共産党の党員として活躍した日本人なのだろう。

 佐野眞一の『阿片王』を読んでいたら興味深い文章を発見した。「中西と同じ東亜同文書院出身で、新聞聯合、読売新聞、同盟通信などの記者をしながら、中西らと連携して反戦運動に従事し、死刑判決を受けた(敗戦で出獄)西里龍彦」[同所194]とある。死刑判決を受けていたのか!!!この本では出典がなく、事実確認できないが、おそらく間違いではないのだろう。情報が見つかれば追加していきたい。

 『メディア展望』第591号平成23年4月1日号、鳥居英晴「華文部の1日9千語を放送」で西里について触れている。

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://www.chosakai.gr.jp/wp/wp-content/uploads/2018/10/20110400_591.pdf&ved=2ahUKEwjo8N30gfXwAhXVyYsBHYdSBCM4ChAWMAR6BAgCEAI&usg=AOvVaw3iRE8OQe8PgwUURl_8Le1D

 

 中西功[1910-1973年]は日本共産党参議院議院として有名だが、書院出身(29期生)である。Wikipediaによれば「非公然活動では西里龍夫らと共に、中国共産党と通じ、毛沢東中共指導部へ情報を提供し、反戦活動、抗日活動などを援助していた」とある。満鉄調査部にいながら中国共産党にも通じていたようだ。西里龍夫との共著も存在する。

 佐野眞一『阿片王』によれば、満鉄上海事務所のスタッフであり、「中国共産党に機密情報を流した中共諜報団事件で検挙され、無期懲役刑(のちに釈放)を受けた」[同所194]とある。しかも中西功を満鉄に紹介したのは尾崎秀実だそうだ。尾崎秀実はゾルゲ事件で死刑判決を受けいている。

 中西功らが関わった中共諜報事件の特高の尋問調書が残っている。北九州平和館所蔵。

mainichi.jp

 

 

戦後民主変革期の諸問題―一九四五年十月-一九四六年六月の政治展望 (1972年) (校倉選書)

中国共産党と民族統一戦線 (1946年)

 

 安斎庫治[1903-1993年]は書院27期生でともに活動していたが、書院卒業後には満鉄調査部に所属。戦後は日本共産党中央委員となる。1967年1月に宮本顕治 指導部批判の意見書を提出し除名される。1974年、新左翼団体の日本共産党マルクス・レーニン主義)全国委員会を結成したそうだ。

安斎庫治聞き書き 日本と中国のあいだで

 この三人とも中国共産党と通じていたのだろう。今や忘れられた歴史となっている。

 

 さて、東亜同文書院で最も有名な人物といえば里見甫[1896-1965年]だろう。同上の『日中に懸ける 東亜同文書院の群像』については里見甫についてはまったく触れていなかったが、「満州の阿片王」として有名な人物だ。民間で唯一のA級戦犯として逮捕された(のちに不起訴)。里見も書院出身(13期生)であり、満鉄との関わりがある。Wikipediaによれば

1937年11月、上海に移り、参謀本部第8課(謀略課)課長影佐禎昭に、中国の地下組織や関東軍との太い人脈と、抜群の中国語力を見込まれ、陸軍特務部の楠本実隆大佐を通じて特務資金調達のための阿片売買を依頼される。1938年3月、阿片売買のために三井物産および興亜院主導で設置された宏済善堂[3]の副董事長(事実上の社長)に就任する。ここで、三井物産三菱商事大倉商事が共同出資して設立された商社であり実態は陸軍の特務機関であった昭和通商や、中国の地下組織青幇紅幇などとも連携し、1939年、上海でのアヘン密売を取り仕切る里見機関を設立[4]ペルシャ産や蒙古産の阿片の売買によって得た莫大な利益を関東軍の戦費に充て、一部は日本の傀儡であった汪兆銘南京国民政府にも回した。 

とある。『日中に懸ける』では、書院出身者は商社への就職が多く、三井物産三菱商事、大倉商事への就職が多い。商社系で最も早く清国に進出した三井物産には合計70人就職しているそうだ[同上190]。

 里見についてはこのあたりを読めば深く知ることができるだろう。

阿片王・里見甫の生涯 其の逝く処を知らず (集英社文庫)

阿片王―満州の夜と霧 (新潮文庫)

 

 『日中を懸ける』ではまったく触れられていなかった里見甫。この本ではGHQスパイ疑惑をかけられたため「東亜同文書院」の名は継承できず「愛知大学」という学名になったと説明する。

 東亜同文書院の存在は両義的だろう。里見甫のような人物もいれば共産党系の活動家もいた。右も左も満鉄にいながらつながりはあったのか、なかったのか。おそらくあったのではないだろうか。里見と彼ら三人のつながりをもっと知りたくなった。お互い騙しあっていたのか、それとも協力していたのか。。。

 近年、里見甫は阿片王として光が当てられて検証が進んでいる。共産主義活動家の三人は歴史に埋もれつつあるが、日の目があたり歴史が掘り起こされることを期待したい。

 

 

里見甫についてまとめました。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

■参考サイト

中西功 - Wikipedia

里見甫 - Wikipedia