kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

生きろ 島田叡[あきら]ーーー戦中最後の沖縄県知事

 

 こんな知事がいたのか。軍部が絶対の時代、「軍民一体」を推し進める軍に対し県民の命を重視した。「県庁解散」という手法で軍命から職員と県民を解放する。驚きました。

ikiro.arc-films.co.jp

【ネタバレ注意】

 太平洋戦争末期、1945年1月に沖縄県知事に任命された男がいた。島田叡、当時44才。戦前の知事は内務省からの任命制だったが、島田の前の知事である泉守紀は1944年12月24日に東京へ出張して帰ってこない。仕事の名目で出張したが、知事交代を訴えていたらしい。そこで次の知事として任命されたのが島田だった。

 兵庫県出身で、野球が得意。京都第三高等学校に進学し、野球部に入部、一校との名試合で名を馳せ、東大法学部に進学後も野球部でスター選手として有名だった。東京ドームの野球殿堂博物館にも名を刻まれている。Wikipediaによれば沖縄県高等学校野球新人中央大会の優勝校には「島田杯」が授与されるのが習わしとなっているそうだ。在任5ヶ月足らずなのに、人々の記憶にのこっているんですよね。平和な時代に任命されて野球をしてほしかったなぁ。

 卒業後は内務省に就職し、警察畑を歩むが、中央の無理難題な指示には従わないなど気骨ある人物だそうだ。なぜ島田が沖縄県知事に任命されたのかは分からないが、前知事と軍部との関係が悪く疎開も進まない状態だったようで、若く体力もあり、沖縄駐留軍第32軍の参謀長・長勇と懇意だったからかもしれない。

 沖縄県知事となった島田が疎開を進め、米を備蓄するために台湾まで飛行機で行き、交渉に成功(ただし、大半が輸送できなかったが)。

 沖縄戦は西南から米軍が陸上し、県庁のあった首里城で籠城決戦する予定だったが、1945年決壊しつつあったため、牛島満は南部撤退論を訴え、今の沖縄空港方面に移動し、戦場を移すことに。これには島田は大反対だった。というのも、南部撤退すると、平野部に住む住人が多く、今以上に被害が甚大になるからだ。戦術には疎い私ですが、北から日本軍、西南から米軍がくるので住民の背後は海で逃げ場がないことはわかります。島田は何度もやめるよう訴えたが、牛島満の覚悟は決まっていた。この南部撤退で沖縄の住民の犠牲者の半分を占めたという。

 島田は、戦況悪化で食料も手に入らない状況から、作物は食べる分だけは、人の畑であっても自由に取っていいいと許可します。内務省官僚が非常時だからそれを許すわけです。最終的に県庁を解散し、職員、警官を解放し、生き残るように伝えます。生き残った県庁職員の女性はこう言われた。女子供は手を挙げたら米軍だって殺さない。兵隊がきたら手を挙げなさい、と。軍国少女だった彼女は「いまさらそんなこというんですか!」と怒るが、長い時間が経ったのち島田知事の真意が分かったという。生き延びてほしい、生きて、荒れ果てた沖縄を戦後立て直してほしい、という島田の心中を。県庁解散後、島田は壕から出て消息を絶った。未だに遺骨は見つかっていない。

 

 島田は『葉隠』と『南洲翁遺訓』をもって沖縄に来た。南洲翁とは西郷隆盛。つまり敗戦の将としてどうあるべきか西郷隆盛から学んだのだろう。民を守るためにできるだけのことをして、責任をとって最後は亡くなったのだ。しかし、できれば生き残り、戦後を立て直して欲しかった。。。

 また、牛島満は鹿児島県出身でもちろん西郷隆盛を敬愛していた。しかし、二人のとった姿勢には大きな違いがあるだろう。「県民」を守るために行動した島田叡、と「國軆」を守るために沖縄を捨て石にする決断をした牛島満。小を守れず大を守れるか。大を守るために小を切り捨てるとき大虐殺が起こる。

 牛島満は南京攻略戦に参加した人物だ。逃げ道を塞ぎ大量の住民の死者が出たのだ。沖縄戦では日本軍が国民党の立場となり、愚作を展開した。南京攻略戦を知る牛島満は住民が犠牲になることが分かった上で、国民党と同じく「時間稼ぎ」したのが南部撤退作戦だ。南京と沖縄は繋がっている。

 最後に、島田の前知事は泉守紀は1984年まで生存している。泉守紀、島田叡、牛島満。それぞれの選択に考えさせられた。リーダー像は様々であっても、殺されて死ぬのは大多数の一般人だ。この映画でもし自分がでる場面があるとするならば、名も無き市民の遺体の姿であろう。自分で死に方を決められた島田叡も牛島満も、不幸な未来を予測して逃げた泉守紀も死に方を決められただけ幸せだったろう。合掌。

 

参考文献

映画パンフレット

島田叡 - Wikipedia

牛島満 - Wikipedia

泉守紀 - Wikipedia