こちらの記事の続きです。今回は里見甫を中心にまとめていきます。
『日中を懸ける』を読んで東亜同文書院について興味を持ちました。この本は巻末に索引までついているのですが、里見の名前は一切出てきません。私の中では里見甫は阿片王であり、東亜同文書院の名前は里見甫で知ったくらいなのにです。
私の勘違いかもしれないので里見甫について知りたくて積んでいた佐野眞一の『阿片王』をつい読んでしまいました。東亜同文書院、これは真っ黒ですよね。GHQにスパイ学校と言われるのもわからないでもない。東亜同文書院の中国語能力と学縁ネットワークがなければ、ここまで中国大陸に網はかけられないだろう。。。。『日中に懸ける』の著者藤田佳久氏は、ダークなものに向き合って歴史を書いてほしいですね。臭いものに蓋をしてよいことだけを書いた『日中に懸ける』はよいしょ本の域を出ません。愛知大学の名誉のために里見甫らのことを隠したのかもしれませんが、逆効果ではないでしょうか。現に私は里見甫について記載が無いため、里見甫について調べはじめてます。里見甫らのデータを愛知大学が所蔵しているなら隠さずオープンにするのが、今後の日本の歴史のためでしょう。
『阿片王』を読んだので東亜同文書院に関わることをまとめていきたいと思います。
同文書院は、当時、一高、陸士、海兵と肩を並べる存在と言われるエリート校だった、という。徹底的な中国語教育でしられたエリート校と見なされる一方で「スパイ養成学校」と陰口を叩かれていたらしい。尚、『阿片王』では同文書院が戦後、愛知大学として再出発したことにはまったく触れていない。
里見甫について
里見の個人基本台帳。GHQの取調べ。身長168センチ、体重約50kg、誕生日1896年1月22日。扶養家族一人(妻)。逮捕1946年3月1日。[237ページより抜粋]
里見甫が東亜同文書院に入学した理由。「入試科目に苦手な数学がなく、月25円の学費で衣食住すべて賄ってくれる上、十日ごとに中国銀で1円の小遣いを支給される好条件は、貧しい里見家には願ってもなく、一も二もなく同文書院の進学を決めた」[同所88]。県推薦をとらなければならなかったため、頭山満が創設した玄洋社の二代目社長進藤喜平太に頼み込み、福岡市の留学生という身分で入学した[89]。
里見甫の成績。「四年間終始ビリから二番で通し、授業の欠席も1番で、欠席大将と仇名された」[97]。13期生。
学生時代の様子。「思いやりがあり、人の面倒もよくみる親分肌のところがあり、男にも女にも好かれる多情多恨、当時はやった村上浪六の小説を地でいった男、というのが同期の仲間の述懐である」[108]。
卒業後は青島の新利洋行という貿易商社に就職。
第一次世界大戦後の大恐慌で会社倒産。日本へ引き揚げ。下谷万年町の貧民窟に住み、日雇労働者に1年後の1921年に再び大陸に渡る。
満州国通史社は主幹里見甫、総務部長・大矢信彦、通信部長・佐々木健児の同文書院トリオで設立。その後の過程は省略。阿片との関わりは本をどうぞ。
巣鴨プリズンでは内大臣牧野伸顕と同房。「空腹に耐えられないで苦しんでいた牧野に自分の食事を分け与えてやっていた」[280]
里見の墓の「里見家之墓」の文字は岸信介が書いた。里見は岸信介の初出馬の選挙資金を出している。それ以降、つきあいあり。
東亜同文書院の人々
この本で出てきた書院出身の方々をまとめます。
大矢信彦 東亜同文書院16期生
満州国通信社(国通) 里見の下で働く
戦後は鎌倉の広大な敷地に引き揚げ
新聞記者
新聞聯合から満州国通信社の通信部長に転職
波多野乾一 里見の4期先輩 9期生?
里見の面倒をみてくれた先輩。
柳行李二個分を集めた。この原資料が著作の資料に。 112
岩井英一 東亜同文書院18期生
上海領事館副領事
徳岡 照 東亜同文書院27期生
満鉄上海事務所に席を置いたまま横浜正金銀行の中に事務所を構え、
里見のパートナーとして阿片販売に関わる。185
甘粕四郎 東亜同文書院20期生
甘粕正彦の弟 満鉄上海事務所スタッフ
中西 功 東亜同文書院29期生
満鉄上海事務所スタッフ
西里龍夫 東亜同文書院26期生
新聞聯合、読売新聞、同盟通信の記者をしながら反戦活動、死刑判決
近衛文隆 東亜同文書院に留学
近衛文麿の息子。女スパイと付き合ったため、帰国
※中西、西里について先のblog参照
以上となります。ここにあげた名前を『日中に懸ける』の索引で検索しましたが、中野、西里以外は記載無しでした。愛知大学には東亜同文書院のデータが残されているので、里見甫の大学時代やネットワークが明らかになるといいですよね。