kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

ミッドナイトスワン

  三回、見に行ってしまった。一回目は凪沙の物語をとして圧巻のストーリーを、二回目は一果に寄り添って、三回目でようやく全体を見通しながら。毎回、感動して放心してしまう映画でした。 

 

midnightswan-movie.com

 一言で語るのは難しい映画ですが、何度見ても引き込まれる映画です。トランスジェンダーが女になるということには色々な意味があると思うのですが、この映画では凪沙は母親になることを引き受けて「女」になります。なぜ凪沙はそこまで一果に尽くすのか。

 一果がアキバの個室撮影のあと、バイトができずバレエができなくなる不安からなのか不安定になります。叫びたくなるような苦しさを腕を噛むことでこらえます。苦しいときには噛むのが小さい頃からの癖でした。それを見た凪沙は驚きます。

 「うちらみたいなのは強くならなきゃあかんのじゃ」と抱きしめて涙を流す。女言葉ではなく方言で一果に語る。それは地の健二=凪沙が重なった声だ。一果の理不尽な苦しみに共感するのです(その前に一果は凪沙が泣く姿をただ見つめているときがあった。一果なりの苦しみを凪沙は知ることになるし、二人は苦しみを共有する)。

 その日は、凪沙をお店に連れていったが、お客と一騒動が起きます。喧嘩を横目に舞台で一果は踊る。凪沙は踊る一果を見つめます。きらきら光るスポットライトを浴びて踊る一果から目が離せません。あの少女はもう一人の私であり、私がなりたかった少女。。。いや、言葉にならない思いが込み上げたのでしょう。

 そこから凪沙は変わります。一果のバレエのスクール代や発表会の衣装代などを稼ぐために苦労します。バレエ教室の先生に「大変だと思いますが、お母さん一緒にがんばりましょう」と言われます。先生はいつもの口調で凪沙のことをお母さんと呼ぶ。凪沙は嬉しくて聞き返します「お母さんって」と嬉しそうに。凪沙は昼間は健二に戻り、「男」として稼ぎながら一果を支えます。

 コンクールの日。一果は緊張して舞台上で立ちすくみます。怪我で踊れなくなった友人りんちゃんが見つめている。。。。りんちゃんの踊りとあのジャンプは映画史上でも名シーンではないでしょうか。山岸凉子のマンガのシーンのようでした*1。それを動画で見ることができるなんて。。。と語りたいことは多いが今回ははしょります。

 立ちすくむ一果を「大丈夫。大丈夫やけぇ」とまるごと抱きしめたのは実の母親の早織でした。実母のまるごとの愛情。すべてを包み込む愛情。一果は舞台の緊張からは救われます。二人の姿を見た凪沙は決意して海外へ飛びます。

 実母と広島に帰った一果は以前のような目的のない生活を送ります。実母の大丈夫やけぇと飲み込むような愛情はあっても、行動は伴わない。母のそばにいても、のっぺりとした毎日。未来を与える母親ではない。そんな一果の実家に、健二=凪沙は「女」になって現れます。「私は女になった。」「私は母親にだってなれる」。凪沙の実の母親は驚き、涙を流し、元に戻ってと懇願する。凪沙は実の親を省みることなく一果にだけ伝えます。凪沙の決意。私は私のなりたいものになった。一果は?一果はなにをしたいの?自分を大切にして。

 女になった凪沙のあのシーンは母性というよりも父性だ。私は私がなりたいもののために行動した。結果で示した。まるごと飲み込むような母親の愛情ではない、凪沙だから示すことができたもう一つの形の愛情なのではないだろうか。

 ミッドナイトスワンは「母親」の物語ではない。凪沙は女になり、母親になり、私になった。一果、あなたもあなたになってほしい。あなたは夜を超えて。朝が来ても昼間に輝くあなたでいて。

 ミッドナイトスワンは少女が自立する物語だ。一果は凪沙に出会って運命が変わる。運命に立ち向かう強さを凪沙は与えた。そして、凪沙の中の「少女」が救われ、癒されるのだ。

 

 

 

 

 

 三回見て初めて気づいたのですが、最初の場面でお店のお客に水着のエピソードを語りますが、草剪君は激ヤセしています。ということは、ラストのシーンの近くであえてあのお店のシーンを撮って水着の話を挿入したわけです。凪沙の「少女」を象徴するシーンとして。なぜ私は海パンなの?なぜ私はあの水着を着れないの? 海岸の水際で遊ぶ少女、バレエを踊る少女。凪沙がなりたかったもの。凪沙は不幸だったのか。手術に失敗して後悔しているのか。そうではないだろう。一果がやりたいことをやり、なりたいものになることが凪沙と重なる幸せなのだ。一果の成功は、凪沙の癒しなのだ。ただ美しい。美しいもの見ることができた。

  凪沙の悲しい結末は演出を効果的にするための死だ。トランスジェンダーが不幸になる話はよくないという評価がある。しかし、女や母親は演出のために幾度となく殺され、死んでいく。女は演出上、死んでいきやすい。それは男が死ぬより美しい物語に見えるからだ。凪沙はトランスジェンダーだから死んだのではなく、ありふれた映画の演出手法として効果的に死んでいったのだと私は思った。

 だが、それをSNSに書いたところ、当事者から怒りの声を頂いた。そもそも、女になる手術には竿をとる手術と膣の造形手術があり、竿をとる手術では医療ミスでなくなることはまずないという。難易度の高い膣造形手術を「母親」になるためなら必要ない(男性と性交する一体感が欲しくて膣造形ならばわかるが、そういう話ではないじゃないか)と言われて、あっ!と思いました。当事者はそういう視点でみるのか、私にはまったくそういう観点はなかったな、と。だから当事者には違和感を与える面があるのは間違いない映画だろう。監督もそこまで考えが及ばなかったのではないだろうか。マジョリティには気づけなかった視点だ。

  とはいえ、それでも、私はこの映画がとても好きなのは変わらない。素晴らしい映画でした。

 

*1:

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