岡本隆司さんの本をまとめていきたいと思います。
日清対立の争点は朝鮮半島*1ーーー朝鮮は属国が独立国か
日清修好条規の第1条相互不可侵条約で清朝が想定してのは朝鮮半島でした。しかし、日本が属国のはずの琉球王国を日本に組み入れたことに衝撃を受け、修好条規では日本を行動を縛ることはできないと痛感したそうです*2。
そこで清朝はアメリカや西欧諸国と朝鮮との間で条約を締結し、朝鮮半島は清朝の属国だと認めさせる戦略をとります。しかし、アメリカは「朝鮮が清朝の属国である」(195)と明記することには難色を示します。そこで、清朝は「照会」という公文書、親書を作成し、「朝鮮はかねてから中国の属国だったが、内治外交はずっと大朝鮮国君主が自主してきた」(196)という内容の文書を作成し、条約とセットで照会文書を作ります*3。同時に「朝鮮が中国の属国であることは、アメリカとはまったく関係のない話」とし、だから朝鮮とアメリカは対等条約を締結しても問題ないと主張。これによってアメリカは軟化し、1882年に米朝修好通商条約が締結されます。これにより、清朝は「照会」文書をもって、清朝と朝鮮の属国関係を主張するようになります*4。
しかし、清朝は一歩遅かったのでした。
1876年、日本と朝鮮は「日朝修好条規」を締結し、「朝鮮は自主の国」と明記されました*5。そのため、当時の日本は朝鮮は独立国とみなしていました。
ここでも朝鮮の位置づけに齟齬が起きました。日朝修好条規は独立国、米朝修好通商条約では属国と解釈されたわけです。
この本では朝鮮の人々の気持ちについてはかかれていませんが、複雑な気持ちだったでしょうね。
朝鮮の内乱
米朝修好通商条約を締結した二ヶ月後、1882年に壬午軍乱が起きます。兵士が蜂起して時の政権を倒して新政権を樹立します。日本公使館も襲撃され、複数の日本人が殺害されました。
これに対して日本は軍隊を派遣し、朝鮮政府を相手に賠償金と事後処理の交渉を行います。それを見た清朝も、朝鮮半島を日本に奪われることを警戒して軍を派遣します。そして、清朝は宗主国として反乱軍を鎮圧し、前政権を復活させると、そのままソウルに駐留しました。
清朝による内政干渉で不満を抱いた朝鮮人の人々は1884年に甲申政変を起こします。クーデターを起こして政権を打倒するが、駐留する清朝軍から反撃を受けて三日で戻りました。このとき、クーデター側は日本に軍隊の支援を求めました。しかし、清朝、日本ともに軍備が不十分だったため大規模な戦闘にはなりませんでした*6。
著者によれば、日本はこの経緯に大きなショックを受けたそうです。朝鮮が清朝の属国に過ぎないことを目の当たりにしたからです。日本は朝鮮を見下す姿勢はあったものの、独立国として日本のように近代化してほしいという望みをもっていたそうです*7。福沢諭吉はこの一件から「脱亜論」を主張するようになるそうです。日本は清朝を仮想的国として見るようになります*8。
二回の内乱、三回目はない!ーーー日清戦争に突入
そして、1894年に甲午農民戦争(東党の乱)が起こります。朝鮮の政府は清朝に鎮圧を依頼します。それに対して、日本は「覚悟」を決めていたそうです*9。日本軍は過去二回の内乱で清朝の軍隊に圧倒されています。三度も同じことを繰り返すと、日本の立場が劣勢になると考えていました。そのため、日本は覚悟を決めて戦争をはじめます。それが日清戦争です。ただし、明治政府も一枚岩ではなく、伊藤博文は開戦に反対でしたが、外務大臣の陸奥宗光などに押されて、開戦やむなしという方向に向かったそうです*10。
日ロ対立のはじまりーー日清戦争でロシアをよびこむはめにーー
日本からしかけた日清戦争は圧勝で終わります。朝鮮半島のみならず遼東半島まで制圧し、北京に迫る勢いでした。しかし、著者いわくこの「勝ち過ぎ」が、その後の日本に禍根を残すことになります。。。
清朝は戦争に負けて、日本にいっそう脅威を感じるようになります。そのため、清朝はロシアと組むしかないと考えます*11。あー!歴史って難しいですね・・・
清朝は東三省(マンチュリア・・・遼寧・吉林・黒龍江)の利権を代償にロシアを引き入れるのです。この東三省とはいわゆる「満洲」です*12。
北京から見ると地政学的に、朝鮮半島と遼東半島は一帯であり、朝鮮半島の安全を確保したければ東三省=満洲を押さえなければいけない地域なのです*13。清朝は満洲民族であり、満洲は聖域です。清朝時代は満洲人以外は居住できませんした*14。清朝は「満洲」の安全のために朝鮮半島に固執したわけですが、日清戦争に負けてしまいます。そのため、禁断のロシアに接近するわけです。
また、日本は戦争に勝利したにもかかわらず三国干渉を受けます。それでも、日本はロシアに対し満洲と朝鮮半島で棲みわけしようと提案しますが、ロシアは拒否します。ロシアは日本を見下していたということもありますが、ロシアも清朝と同じように満洲と朝鮮半島を一帯として捉えていたからです*15。
そして、1904年に日露戦争に突入します。著者は、日清戦争も日露戦争も「朝鮮半島をめぐる勢力争い」(204)と評価し、「日露戦争は日清戦争の再来」(204)と位置づけています。
そして、日本は日露戦争に勝利すると、以前の清朝やロシアのように朝鮮半島と満洲を一体に捉え、固執するようになっていくのです*16。日本も深みにはまっていくことになります。
まとめ
日本は近代化した。日本は官民一体社会のため、西欧社会に触れて国をあげて開国し、近代化をすすめた。これまでの文化のお手本は中国であり、漢語であった。日本は西洋社会の言葉を最初は漢語の古典から探した。次に民間に容易に西洋社会について普及するために、古典に紐づけず漢字を当てる「翻訳語」を生み出した。ここから、中国と日本は用語の使い方に齟齬が生まれはじめます。同じ漢字を使っていても中国と日本では意味が異なるようになります*17。
江戸時代から清朝の商人は渡来していましたが、開国してからは更に華人の商人がやってきます。そこで日清修好条規を締結しますが、ここで「属する邦土」という用語で解釈の齟齬が生まれます。清朝は近世の政治システムを前提としており、朝貢国は属国だと解釈します。しかし、日本は近代国家システムの「領土」と解釈します。その結果、台湾と琉球王国は日本に組み入れられます*18。
清朝は日清修好条規の不可侵条約をあっさり踏みにじる日本に警戒心を抱きます。朝鮮半島だけは死守しなければいけないと画策します。朝鮮国内の政治は不安定で内乱が続く中、ついに日清が激突して戦争がはじまります。日本は勝利しますが、それがロシアを呼び込むことになります。そして、朝鮮半島と満洲に固執せざるをえなくなるのです。
近世の中国の政治システムと日本の近代の政治システムがぶつかりあう。日本史の教科書では一瞬で終わる部分ですが、非常に大切な部分ですよね。今回、岡本隆司さんの本を読んでポイントを掴むことができました。
ここから更に興味のある部分を深堀していきたいと思います。特に、朝鮮政府はどのように考えていたのか知りたいところですよね。
(年表)
1876年 日朝修好条規(江華島条約)
1882年 米朝修好通商条約
壬午軍乱
1884年 甲申政変
1894年 甲午農民戦争(東学の乱)
1904年 日露戦争