日中対立の始まり(2)日清修好条規、台湾出兵、琉球処分ーーー『中国史とつなげて学ぶ日本全史』
こちらの本をまとめていきます。近代以降をまとめますが、それ以前の時代もすばらしい内容なので、ぜひお時間のある方はどうぞ。オススメです。
日清修好条規
日米修好条約は日本史で習っても日清修好条規はそのほか他国と同じような扱いで、その具体的な中身はこの本を読むまでまったく知りませんでした。今の日中関係を読み解くためには、この日清修好条規まで遡らないといけません。
明治維新直後の1871年に日清修好条規は締結されます。西洋に開国した日本政府ですが、実は西洋だけでなく華人の商人、商社も多かったのです。そのため清国との条約は欠かせないものでした。
日本は条約交渉の過程で対等条約と西洋に見習った不平等条約の二案を清に提示しますが、もちろん不平等条約は却下されます(笑)。日本は国交樹立を急いでいたので平等条約を締結します。日本が清と締結したのは「平等条約」でした*1。また、清朝にも領事裁判権を日本は認めました*2
なんで清は日本と対等の条約を結んだのでしょうか。世界の中心にいる中国は野蛮なはずの日本と対等になる必要はありません。対等条約を結んで当然という感覚は、現代の感覚でしょう。なぜなら近世までアジアの中心は中国だったのですから。
条規の中身ーーー「属する邦土」の解釈の齟齬
第一条
此後大日本國と大淸國は彌和誼を敦くし天地と共に窮まり無るへし又兩國に屬したる邦土も各禮を以て相待ち聊侵越する事なく永久安全を得せしむへし*3
この「両国に属したる邦土」が、お互いに侵してはならないという意味でいわば「相互不可侵」条項だそうだ*4。著者によると、清朝300年の歴史は日本の暴走をいかに止めるかであり、条約を締結して日本がおとなしくなるならばそれに越したことはないという感覚だったそうです*5。野蛮な夷狄にアメをなめさせて手懐けようとしたそうです。西欧諸国にしたように。まぁ、その結果、西洋諸国や日本に食い散らかされるわけですが。。。
しかし、ここで「属したる邦土」の解釈で日本と清朝で齟齬がありました。清朝にとって「属邦」とは「属国」=朝貢国を意味しており、主に「朝鮮」を指していたそうです*6。
一方で日本は、翻訳漢語つまり西洋の用語として「国土」「領地」と解釈しています*7。それは、「近代の国際法的な観点から、国境線で明確に区切られ、主権と実行支配が行き届いている領土」(181)という意味で使っていたのです。この解釈によれば朝鮮半島は清朝の領地では無くなります*8。
すでにここで解釈の齟齬があった。日清戦争の火種はもうあった。しかし、その前に台湾出兵事件が起こります。
台湾出兵事件ーーー宮古島の人々はどこの国に属するのか?
日清修好条規が締結された1871年に琉球王国の宮古島の島民が乗った琉球御用船が台湾の南端に漂着し、そのうち54名が現実の先住民・「生蕃」に殺害される事件が起こります。
日本は台湾を清朝の「邦土」とみなしていたため、この件について清朝に賠償を求めます*9。しかし、清朝は、「生蕃」は生粋の野蛮人であり、中華文明はそこに及んでおらず、実行支配もしていないとして、賠償に応じません。また、琉球王国は日本人でないと指摘し、二重の意味で賠償する義理はないと返答したそうです*10。
その結果、日本は台湾は清朝の実行支配していない土地ならば国際法上は主権者のいない「無住の地」だとして、1874年に台湾に出兵します。
これには清朝は猛然と避難します。「『生蕃』は『化外』だが、台湾自体は中国に属している。そこに軍隊を送り込むのは、明らかに日清修好条規の第一条(不可侵条項)に違反する」(183)と主張しました。しかし、清には海軍が無かったため日本を実力で阻止する力はなかったそうです*11。
清朝と日本は、最終的に「北京専条」協定を結びます。この協定の前文には「生蕃」が危害を加えたのが「日本国属民等」と明記されます。ここではじめて宮古島の人々、つまり琉球王朝の人々は「日本人」であると認めさせたそうです*12。そして、これを機に日本は琉球を正式に日本に組み込もうと考えます。
琉球処分ーーー明治政府、清朝のそれぞれの思惑
ここで琉球王国の話になります。有名な話ですが、琉球王国は薩摩藩を通じて日本に支配されるとともに、中国の柵封国でもありました。つまり「両属」していたわけですが、この両属は近世だから成立した関係であり、近代国家ではありえない関係でした。日本が、明治政府が近代国家を形成した以上、両属はありえない関係となります。
では、当事者の琉球王国はどのように捉えていたのでしょうか。「琉球王国は清朝の朝貢を続けながら、薩摩藩に支配されていることを(清朝に)報告しなかった」(187、()は私が補足)わけです。琉球王国は日本に支配されていることを江戸時代は隠しつづけてきたわけです。
しかし、宮古島の人々が台湾の生蕃にって殺害された事件によって琉球王国の扱いについて清朝と明治政府で問題になります。明治政府は事件の翌年に琉球王国に「琉球藩」を設置します。1874年に北京専条で宮古島の人々は日本国民扱いとみなされたことで、1879年に琉球の廃藩置県が行われ、琉球王国が崩壊し、「沖縄県」が発足します。これにより沖縄県が日本の一部に組み込まれました。
と、あっさり書くと琉球が何も抵抗していないように見えますが、琉球王国のエリートは、中国文化への造詣が深く、清朝に亡命し、王政復古運動する人々もいたそうです。危機感を募らせた明治政府は、1975年に「処分官」を琉球に派遣して、琉球処分を進めて1979年に沖縄県が成立します。国王だった尚泰は東京に住まわせます。
尚、西欧諸国は1872年に琉球は日本に帰属するとみなしていたそうです*13。
では、清朝はどのように捉えたのでしょうか。なにぶん、メールどころか電話もない時代の話です。清朝は琉球からの朝貢が途絶えた1877年に異変に気づいたそうです!。清朝の駐日大使は明治政府に講義文書を提出します。著者によれば、清朝の抗議文は穏便な内容だったそうですが、明治政府は無礼な暴言として態度を硬化し、廃藩置県を断行します。既成事実作りに専念したわけです*14。
清朝は衝撃を受けます。清朝の立場からすると、日清修好条規違反でした。清朝にとっては琉球は朝貢国のため「属国」であり、不可侵条約があるのにも関わらず違反したように見えたのです。もちろん、日本から見ると琉球王国は独立国であり、その国を日本に組み入れたという話になりますが。近世の政治システムと近代の政治システムの齟齬が生み出したのが琉球王国の帰属問題でした。清朝にとって重要な問題は、「属国」が簡単に滅ぼされるという前例ができたことでした。
また、著者の本を読んで驚いたことなんですが、中国の立場は下記のようなスタンスだそうです。
現在も、中国は「琉球処分」を認めてはいません。
つまり沖縄県の存在も、そこが日本の領土であることも、この時以来一貫して肯定していないのです。
194
え~~~!!!
まじか~~~!!!
沖縄県はすっかり日本だと思い込んでいたわけです。両国の了解を得て日本の国土だと認め合っていると思っていましたが、中国は認めていない。。。沖縄の帰属すら中国と日本で見解が違うなんて信じられません。
という私の感想はさておき、長くなったので今日はここまで。
次は本丸の朝鮮半島問題に突入です。
清朝から見ると、あっさり日清修好条規の不可侵条約違反をしています。
次は朝鮮半島が狙われるという読みはあたっていたわけです。
(年表)
宮古島の島民が台湾の生蕃に殺害
1872年10月 琉球藩を設置
1874年 北京専条
1975年 明治政府、琉球藩に処分官を派遣