kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(17)国内経済を犠牲にした満州開発ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(16)では、軍縮を支持していた世論が、盧構橋事件と連動して起きた通州事件で日本人居留民が虐殺されると、一気に軍部支持に傾いた。あっという間に軍拡のための予算がほとんど審議されず通ってしまった。明治維新からニニ六事件で高橋是清が惨殺されるまで守り抜いてきた財政規律が一気に崩れていったのである。

 でも、それは戦闘行為がすぐ終わるはずだから支持していただけだった。蒋介石が率いる国民軍から戦闘を行為をしかけられ第二次上海事変が勃発、日本は首都南京まで追い詰めるが、蒋介石は和平交渉には応じず、重慶に遷都して逃げてしまう。日中間の泥沼の戦いがはじまる。戦闘は終わらず長期化していったのである。

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 松元崇さんの本の第4章を中心にまとめていきます。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

当時の日米関係

 盧構橋事件当時の政府(近衛内閣)は、対英米強調路線だった。対英米貿易依存度は輸入で50ー60%、輸出で30ー50%だったこと、特にアメリカのシェアは輸出で38.8%、輸入で31.4%あり、経済合理性に基づいた当然の判断であった*1

 南京陥落前日に、揚子江の米国砲艦パネー号を日本軍が誤爆、撃沈したが、政府と軍部は責任を認めて米国に謝罪した。米国もそれを認めて大きく取り沙汰されていない。そのときの斎藤博駐米大使はすぐに全米中継の放送で謝罪し、米国もそれを多とし、昭和14年に斎藤が米国で亡くなると、その遺骸を最新鋭の巡洋艦アストリアで日本に五臓している*2。このような日米関係だったのだ。

 近衛内閣の蔵相は池田成彬であり、三井財閥の大番頭から日銀総裁を経て大蔵大臣に就任した人物である。筋金入りの合理的な資本主義者であった。

 池田は①日中戦の早期収拾、②対ソ戦に備えた戦時体制の整備、③対英米路線の維持継続を打ち出した。対英米強調路線の具体的な内容としては、華北における軍部主導の円ブロック形成政策の放棄、スターリング・ブロック向けの輸出拡大による外貨獲得に加えて米国資本の導入による満州地域の日米共同経営といったものであった。 当時、軍部の反対はあったが、大陸経営は日本の資本だけでは無理で英米の資本導入が必要と考えられていた。米国も、華北・華中を含めた中国全土という観点では中国経済の将来性を高く評価していたことから、池田蔵相の路線を基本的には受け入れるという姿勢だったという*3

満州経営ーーー見るべき産業もない不安定なマーケット 

 満州事変(1931年)が起こった頃の満州は大豆と石炭以外に見るべき産業もなく、インフラもほとんど未整備で日本の財閥資本にとってリスクを伴うだけの不安定なマーケットであった。意外ですよね。

 実は、満州は、満州族が建国した清朝の時代には、清朝父祖の地として漢族の立ち入りが禁止されていた地域だった。1911年の辛亥革命清朝が崩壊するまで人口は3000万人程度だった。清朝崩壊後には年間60万人のを下らない中国人が流入し、満州国建国後には人口5000万人を超えるようになっっていったという*4辛亥革命からたった20年で2000万人の人口が満州流入したのだ。清朝時代には人口規模は小さく、開発も手付かずの地域だった。

 満州事変後の昭和6年に出された「満蒙自由国設立大綱」では「徹底的に門戸開放、機会均等の政策を執り内外の資本および技術を取り入れ資源の開発、産業の振興を図る」ことがうたわれていた*5

 実際にも、昭和11(1936)年度には対満投資額はマイナスに転じ、「満州の経済的価値が判明すればするほど対満投資が渋りがちになるのが事実」報じられた*6

 そのような状況下で昭和11(1936)年8月には、広田弘毅内閣の有田八郎外相が英米との協調を前提として中国との経済提携をうたった「帝国外交方針」を打ち出した*7

 満州開発に関しては、民間でも高橋亀吉吉野作造石橋湛山清沢洌らが満州を日本が独占して開発しようとするのは無謀だと主張していた*8。清沢は、満州権益の中核は満鉄であるが、満鉄の財産総額は7億円、受けとる利益は5000万円、それは中国との貿易総額10億円の5%にすぎず、それを守るために一個師団をはるかに超える兵を常駐させているのは算盤に合わないと批判した*9

 この批判にはぐうの音も出ませんね。しかし、満州といえば満鉄であり、目覚ましく発展したイメージとして語られることが多いわけですが、当時から批判があり、資本家からすればおいしくないマーケットだったんですね。

 

国内経済を犠牲にした満州開発

資本の流出

 当時の満州では、昭和12(1937)年6月に発足した第一次近衛内閣が策定した「産業開発五ヵ年計画」のもと、撫順の炭鉱、鞍山や本渓湖の製鉄所が発展していた*10。同年8月には満映満州映画協会)が創業して国内の進歩的な映画人が積極的に採用され、満鉄では特急アジア号が走った。しかし、それは国際的に孤立しつつある日本が、なけなしの資本を満州に注ぎ込んだ結果として達成されたものであった*11。進歩的で革新的な満州の姿は今でも語られますが、それは国内経済を犠牲にしていたんですね。。。

 『宇垣一成日記』では

内地のセメント工場や紡績工場は現に何れも数割の操短を実行して居にも拘はらず満州にセメント工場を新に建設したり青島の破壊されたる紡績工場を復活せしめつつ政策は、日本を復活せしめつつある政策は、日本を枯渇せしめ窮乏に陥れて満州支那を王道楽土化せんとするものではないか?

昭和13(1936)年11月15日

と書かれている*12

 

 尚、「産業開発五か年計画」は、当時のソ連の五ヵ年計画にならって日満一帯の総合計各の下に満州国国家社会主義的な経済体制の国にしようとするものであった*13。それは、国家社会主義満州国を介して日中が経済ブロックを形成し、それを梃に国内の資本主義体制を変革するという関東軍の方針に沿ったものであった*14。王道楽を夢見た満州国建国に携わった当時の革新官僚たちは、満州開発によって東アジアの分業体制を確立して成長につなげると考えており、本国の犠牲において満州の開発に資源を注ぎ込む感覚はもっていなかったものと思われると、松元崇は述べている*15

労働力の流出

 中国大陸における戦争の長期化は大量の若者を兵隊として国内から大陸に送り込むことになった。高橋蔵相の軍備抑制路線の昭和7(1930)年に33万人だった日本軍の将兵数は、盧溝橋事件の起こった昭和12(1935)年には108万人に、日米開戦の昭和16(1939)年には242万人に膨れ上がった。9年で約八倍増えている。それだけの若い労働力が国内から失われれば生産が落ち込むことは当然であった。

 尚、日露戦争時には103万人まで膨らんだが、平時は約30万人程度の規模であり、現在の自衛隊とそれほど変わらない水準だそうだ*16

 

 

今日はここまで!

 

 次回について先取りして書くと、実は、日満ブロック経済、貨幣で言えば円元パー政策は、正貨(外貨)の流出を招くものだった。金融政策音痴の軍部が「円」にこだわったことで貴重な外貨が中国へ流出してしまうのである。アメリカのせいではなかった。

日本は自らの政策によって、資本、労働力、外貨が流出して「持たざる国」となっていってしまうのだ。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1934年 米国、銀買上げ法制定(銀本位制の中国経済が混乱)

1935年 華北分離政策の始まり

    土肥原・秦徳純協定(チャハル省から中国軍を追い出す)

    冀東防共自治政府を擁立

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

    リース・ロス英国元大蔵大臣、来日

    (林銑十郎内閣は華北分離工作に反対するが、第一次近衛内閣で引き継がれず

     華北分離工作支持。1938年に興亜院を設置)

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

    中国聨合準備銀行、設立(円元パー政策)3月

    池田構想(円元パー政策の放棄、英国と協調して法弊ベースの新たな通貨

         構想)5月

    池田構想が潰れる

    近衛首相「東亜新秩序建設」声明を表明

    興亜院設置(華北地域を内閣管轄下へ)

    米国、日本の「新秩序」認めず国民政府支持を明らかに

1939年 天津事件

    米国、日米通商航海条約、破棄 

    第二次世界大戦勃発

1940年 日米通商航海条約、失効 

    天津事件で英国と協定を締結  

    日独伊三国同盟  

1941年 南部仏印進駐

    米国、対日資産凍結

    石油禁輸

    真珠湾攻撃、太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書1265/4403

*2:同上

*3:1281/4403:安達誠司『脱デフレの歴史分岐』を参照文献としてあげている

*4:173ー174:松本崇「経済財政面から見た日中戦争」『完全版日中戦争

*5:1295/4403

*6:同上

*7:1295ー1305/4403

*8:1305/4403

*9:1305/4403

*10:当時の設備はソ連軍にすべて持ち去られため、現在の施設はその後の中国によって復興されたもの。1365/4403注記6

*11:1365-1376/4403

*12:1382/4403

*13:1392/4403

*14:同上

*15:1392/4403の注7

*16:1382-1392/4403

なぜ日本は戦争を選択したのか(16)軍拡の時代:盧構橋事件、通州事件、第二次上海事変ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 このシリーズでは明治維新からニニ六事件まで、日本の近代史に沿いながら財政問題の流れを追ってきた。教科書的には明治政府は「富国強兵」、「殖産産業」のイメージがあり、強くて金もある「大きな政府」と捉えている人が大半だろう。私も松元崇さんの本を読むまで強くたくましい政府をイメージしていました。

 しかし、日本の財政力は弱かった。財政を維持するため何度も軍縮を行った。それはワシントン軍縮会議やロンドン軍縮会議やの前からだ。はじまりは秩禄処分の徳川政権の武士層のリストラであった。これにより、徳川時代より「小さな」軍隊になったのだ。

 日清戦争日露戦争もギリギリの戦いであった。日清戦争では賠償金によって戦費を賄えたが、日露戦争では、借金に借金を重ねて戦争したが賠償金が払われず、その負担が重くのしかかった。借金と金流出(輸入超過の外貨流出)に悩みギリギリの財政の中で緊縮財政を行う。緊縮財政とは軍縮(軍事費削減)とセットであった。

 明治時代、大正時代は陸・海軍大臣財政問題をよく理解していたが(日露戦争で戦争を続けるのがいかに大変なのか将軍クラスは身に染みていた)、昭和にはいると若い将兵達の中から財務と軍事の関係を理解できない層が増えていく。高橋是清は決死の覚悟で昭和11年度予算編成を行うが、ニ・ニ六事件で惨殺される。

 高橋是清の死によって今までの財政規律のタガが外れて一気に崩壊していくのである。軍部は財政を破綻させていく。それは戦争で負けたから破綻したわけではない。軍部自ら破綻させていったのだ。国力に見合う戦力が財政規律を維持した軍事費だ。国力を超えた軍事費がいかにして国家に破滅をもたらずのか、その様子を追っていきたい。

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 今回から松元崇さんの本はこちらを参照します。

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

帝国国防方針の改定、外地会計の剰余金の繰り入れ、予算3割にあたる大増税

 ニニ六事件後、広田弘毅内閣が組閣、大蔵大臣には日本勧業銀行総裁の馬場鍈一が就任した。広田内閣では早速、帝国国防方針が改定され、それまで高橋是清が守ろうとしていた軍事予算抑制路線が大転換された。陸軍は平時50師団(現有17師団)に、航空舞台は142中隊(現有54中隊)に、海軍の主力艦は12隻(現有7隻)、航空母艦は12隻(現有4隻)と大幅増強することした*1

 馬場蔵相は、高橋前蔵相の掲げていた「公債漸減主義」を形の上で守りつつ、そのような軍拡の財源を確保する方針を打ち出した。

 その方法の一つが、朝鮮や台湾の外地特別会計の剰余金を一般会計に繰り入れを行うということだった。軍拡は植民地にしわ寄せが来た。しかし、国会では外地特別会計の剰余金を一般会計に流用するのは姑息であると批判されたので、馬場蔵相は昭和12年度会計では内地の増税のみならず、国民負担の均衡を図ると答弁している*2

 その結果、馬場蔵相が打ち出した税制改革案は6億円という大増税に加えて、軍事費の大幅な膨張がもたらず将来の増税にも弾力的に対応できるようにしようとするものであった。この6億円という金額は、昭和11年度の一般会計歳出額22億8200万円に対して3割近い額であり、現在の100兆円規模の歳出額にすると30兆円の大増税を行おうとするものだった。

 国防方針改定による軍拡は、これだけの規模の増税をしなければ維持できないものだった。もちろんこのような大増税は反対を受けて御破算になるのだが。当たり前ですよね。

 前回のblogを思い出してほしいのだが、そもそもニニ六事件前の総選挙では、「軍事費抑制」「公債漸減主義」の民政党が躍進したのだ。民意は軍縮だったのにも関わらず、軍拡され大増税を求められたことで大きな批判が起こって広田内閣が倒れます。

 後継に林銑十郎(陸軍出身)内閣が組閣され、議会の主張に添っていったんは軍事費抑制の姿勢を見せた。内心は軍事費抑制を不服としていたため、陸軍相による重要産業五ヵ年計画(130億円の投資!国家予算の六倍!)を策定し、局面打開を図るため国会を解散した。しかし、この総選挙の結果は、政府の期待した政党(昭和会、国民同盟、東方会)が議席を減らし、逆に社会大衆党(20→36)が躍進する。広田内閣は退陣し、近衛文麿内閣が発足する。

 それは、ニニ六事件の後でも大正デモクラシーで花開いた明治憲法下の立憲政治が、まだ軍部への牽制機能を保持していたことを示したものだった*3

盧構橋事件、通州事件昭和12年7月)

 国民は軍拡に反対していたし、軍拡による大増税はもってのほかだった。では、なぜ国民は戦争に協力しようと思うようになったのか。

 軍拡反対の世論が大きく変化したのは、昭和12年7月7日に発生した盧構橋事件と関連して起きた通州事件(同年7月29日)でした。

 教科書的にはあまり有名ではないので*4、こちらの本を参照して補足しますが、通州事件は、もともと日本の傀儡政権である冀東防共自治政府の中国保安体が、日本軍守備隊が北京攻撃に出払っている隙に、日本人居留民225人が殺害された事件です*5

傀儡政権 日中戦争、対日協力政権史 (角川新書)

 松元崇の本に戻れば、通州事件では妊婦の腹をえぐり二歳の子供を射殺するという衝撃的な残虐行為が報じられると、世論とマスコミは「暴虐支那の膺懲」(暴虐な中国をこらしめようという意味)に大きく傾いていったという*6

 このような報道が続く中、軍部に批判的だった社会大衆党も軍部支持を打ち出し、議会は軍部を応援する翼賛機関になっていった

 当時の予算案は、政府から提出されると予算委員会に付託されて通常二十一日以内に審議を終えて本会議に報告することとされていたが、夜間軍事演習中に「中国軍」*7から発砲があったという危機的な事件発生、つまり盧構橋事件が発生し、その直後に召集された第71回特別議会に提出された約1億円の追加予算案は、衆議院予算委員長が「重大なる時機に遭遇」しているとして「質疑省略」を提案、全員が「異議なし」としてわずか30分あまりで可決されて本会議に報告された。

 支那駐屯軍華北で総攻撃を開始したあとに提出された4億円の追加予算案も一日の審議で可決された*8

 昭和12年9月召集の第72回臨時議会では、「臨時軍事費特別会計」が儲けられ、20億円に上る巨額の臨時軍事予算が簡単な審議で可決された*9。20億円って国家予算1年分に匹敵します!外務省の石射猪太郎東亜局長は日記に

議会本日終了。二十億と云う追加予算を精査もせずに通過した議会、他日国民に会わせる顔がなくなるであろう事を予想せる者、幾人ありや。

憲政はサーベルの前に屈し終んぬ。

と記していた*10

 国民が軍部を支持したのは、それがすぐに片付くと思っていたからであった*11。しかし、振り返ると盧溝橋事件が日中戦争の始まりとなり、泥沼化していくのである。

 

 その後の歴史を知る我々が、このときのアツくなった国民を批判できるだろうか。

 2001年の9.11テロ事件でアメリカ議会では対テロ戦争に反対したのは一人だけで、戦争が可決、戦時体制に入ったのだ。日本も200人を超える居留民が殺害されてアツくなり、一気に戦時体制に入っていたのだ。まさか、ここまで泥沼になるとは思わずに。。。。そういえばアフガン戦争も20年で撤退しましたね、アメリカは。アメリカ最大の長期戦でとなりました。。。

 でも、やっぱりアツくなったら負けなんですよね。勝っても負けても財政的にとんでもない負債を抱えます。でも、お金のことなんかアツくなっているときには考えられなくなってしまうもんなんですよね。。。

第二次上海事件(昭和12年8月)

 近衛内閣が盧構橋事件の不拡大方針を打ち出しているときに勃発しました。事変の原因は、蒋介石の承認を受けて国民党軍が日本陸戦隊に対して包囲先制攻撃を行ったことが始まりでした。これにより、中国は華北だけでなく上海を含む「全面戦争」に突入したことになります。

 なぜ蒋介石は日本と戦闘することを決めたのだろうか日中戦争は「日本が悪いから戦争したんだ」というライトなイメージしかなかったのですが、第二次上海事変は中国から仕掛けてきた戦闘でした。繁雑になるが、その理由を詳述しておきたい。

 蒋介石は積極的に戦闘を選択したのは、第一にドイツやアメリカなどからの支援があったこと、第二に日本との長期戦の場合、それに乗じて共産党の勢力が拡大して内戦に突入する可能性があったので、ここで日本を一気に叩いておかねばならなかったことがあげられる*12

 中華民国の航空委員会顧問には米国人であり元アメリカ陸軍航空隊将校であるシェンノート*13が中国空軍を指揮し、日本軍拠点へ爆撃を行った。また、昭和11年のドイツの武器輸出総額の57.5%は中国向けであり、それは中華民国の対日軍備拡充のためであった。第一次大戦の敗戦国ドイツは中国に武器を売って稼いでました。実は、中国に利権が無くなったドイツは、1921年に中国と平等条約を結び、関税自主権治外法権を撤廃していたのだった*14

 第一次上海事変とは異なり、第二次上海事変蒋介石がドイツからフォン・ゼークト元国防軍総司令官を招いて、対日戦にむけて十分備えてからの戦闘だった。つまり、第二次上海事変は空軍はアメリカ、陸軍はドイツの協力を得て体制を立て直していたのだ。蒋介石には日本に勝てるという自信があったのだ。

 尚、ゼークト元司令官は塹壕*15を得意とし、上海西方に塹壕を敷いていた。その攻略に日本軍は四万人の死傷者を出した。この数字は日露戦争の死傷者6万人の3分の2にあたる数値で、熾烈な戦いだったことがわかる。

 蒋介石は空軍力に対しても自信があり、日本に戦闘を仕掛けたが、空軍力は日本が圧倒しており、最終的に上海周辺の制空権は日本が制圧して覇権を握った*16

 11月に上海から撤退した国民党は重慶に遷都、日本軍は南京に進撃する。日本は和平工作(トラウトマン和平工作)を行い和平を模索していたが、なんと蒋介石が和平を拒否、南京を死守することを決定した。南京は国民党の元首都であり、孫文などの陵墓があるためメンツを守るための決断だった*17。ここで悲劇が起こる。あの悪名高き南京事件だ。

 蒋介石は徹底死守を主張しながらも総攻撃の直前に脱出した。また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた。日本軍は中国軍に対して南京城を引き渡すよう投降勧告をしたが、国民党軍司令官はその呼びかけを拒否。揚子江をバックにした南京は退路を塞がれ、中国軍は混乱状況となり、市民を巻き込んで多数の犠牲者が出たのであった・・・以上の南京事件のあらましは『完全版日中戦争*18を参照した。松元崇さんは南京事件についてほとんど語っていないので誤解なきようお願いします。

 南京事件は、日本が悪いというイメージでしたが、これは蒋介石の失策もかなり大きいのではないでしょうか。投降すれば多くの市民の命は助かりました。しかも火を付けて逃げるとかありえない*19。。。蒋介石は南京以外でも日本軍への嫌がらせのため焼き打ちをよくやっているんですよね。。。人の命を軽く見ていると思います。『完全版日中戦争』を読めば読むほど蒋介石が嫌いになっていきます*20。もちろん日本だって最低なことしていますけどね*21

 というわけで、国民党政府が投降しなかったことで戦争は終わりませんでした。蒋介石は持久戦を選択し、英米の協力をとりつけて日本を倒すことに奔走するようになります。日本は泥沼に入り込みました。

 この南京攻略の二ヶ月後、昭和13年2月に、ヒトラーは国会で満州国を承認、中国に派遣していた軍事顧問団の引き揚げを表明し、蒋介石に対する支援を停止しました*22。ドイツは日本についた方が得だと考えたのでしょう。

 

 

今日はここまで!

 

一気に戦闘が進み、一気に予算が拡大してきました。。。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

    帝国国防方針の改定

1937年 盧構橋事件(日中戦争勃発) 

    通州事件

    第二次上海事変

    臨時軍事費特別会計設置(20億円)

    国民党政府、重慶に遷都

    南京陥落、南京事件

1938年 ヒトラー満州国を承認、蒋介石への支援停止

1939年 第二次世界大戦勃発

    

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:電書4ロケーション403の730((電書4ロケーション403の730

*2:電書ロケーション4403の746

*3:電書ロケーション4403の777

*4:但し、右翼には有名な事件で、中国人が日本人を虐殺したことが戦争の理由だと正当化の根拠して言われることgあります。

*5:下記本の電書600/2710

*6:790/4403

*7:現在は偶発的な発砲事件であり、どちらが最初に撃ったかはわからないと『完全版日中戦争』と記載している。46ページ

*8:議会が翼賛的になっても議院の中には軍部への牽制を続けた者はいた。斎藤隆夫は反軍演説を行ったが、最終的に議会から除名されている。昭和15年の反軍演説がさいごの軍部批判となった。810/4403

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斎藤隆夫

出典:斎藤隆夫 - Wikipedia

*9:790/4403

*10:810/4403:『石射猪太郎日記』の引用から再引用。

*11:810/4403

*12:第一の点については松本崇の本837/4403、第二の点については『完全版日中戦争』69ページを参照

*13:

ja.m.wikipedia.org

*14:943/4403:西欧諸国の中で最初に平等条約を結んだのがドイツでした。

*15:第一次世界大戦の最大の激戦地「ソンムの戦い」を率いていたのがフォン・ゼークトだった。

ja.m.wikipedia.org

*16:74『完全版日中戦争

*17:78:『完全版日中戦争

*18:78ー81『完全版日中戦争

*19:まぁ、日本も沖縄を捨て石にし、広島、長崎に原爆を落とされてはじめて降伏したので蒋介石のことをとやかく言えないのかもしれませんが。。。

*20:蒋介石は日本の陸軍で学んでいるんですよね。降伏の仕方を教えてあげて欲しかった。あ、日本も降伏の仕方を知らなかったよね。。。

*21:南京事件の日本の虐殺については、他の情報をあたってみてください。

*22:872/4403:松元崇

なぜ日本は戦争を選択したのか(15)軍事費抑制とニニ六事件の高橋是清暗殺で「財政規律」崩壊ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 前回では金解禁不況から回復させて健全財政政策を実施した。このシリーズをお読みになっている方はワンパタなので予測できているると思うが、明治憲法下での健全財政とは軍事費抑制なのだ。いつものパターンのはずだった。しかし、ニ・ニ六事件で高橋是清は暗殺され、明治政府以降のこの流れが途絶えてしまう。財政規律は破られ、軍事費にとめどなくお金が流れていくのだ。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 今回も松本隆さんの本の13ー15章を参考に、高橋是清が財政規律を守るために軍部と戦い、テロに破れて国家が破綻していく流れをまとめていきたい。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

高橋是清の軍事費抑制の考え方

 高橋是清の軍拡予算に対する考え方は、外交交渉の背景として諸外国から侮りを受けないための軍備は必要としつつも、それは国力に見合ったものでなかればならないというものだった。高橋是清の『随想録』から直接本人の弁を聞こう。

軍備は陸に於て、海に於て、十分のものが出来た。併し国民の力がこれを支へて行くことができない。若くは更にこれを働かせるといふ時分に国民の力がこれを働かせるだけの力を持つて居らぬといふ風になれば、折角の軍備も矢張り何もならぬことになつて、侮りを受けることは同じことになる。*1

 歴史を知る我々にとって至極まともな考え方だとわかるのだが。。。そういう流れにならなかったのはなぜなのか、歴史からよくよく学ばねばならないだろう。

 また、当時の国際情勢においても軍事抑制論は主流であったのだ。当時の米国はフーバー大統領(1929ー1933年)時代であり、徹底した軍縮論者だった。満州事変の起こった9日後に、フーバー大統領は駆逐艦建造計画の半減を決定している。但し、1932年にフーバーを破って当選したルーズベルト大統領は軍拡に乗り出していったが。。。

軍部との予算攻防戦

 昭和9(1934)年度の予算編成にあたって、大蔵省は長期的に予算を23億円前後に抑制すべきだと発表した*2高橋是清は軍備に対して「国防の充実は必要だが、なるべくこれを最小限にとどめなければ国の財力は耐え切れぬ」と主張した。また、軍部を抑え込むために、各省の新規要求は原則として認めないこと、斎藤実首相の主導の下で外務、大倉、陸・海、首相の五相会議を設けた。軍部が暴走しないためのしかけであった。

陸軍との攻防

 予算編成過程で高橋蔵相と激突したのは荒木貞夫*3陸軍大臣だった。荒木貞夫陸軍大学校で弁論述を教えており、弁論が立つことで有名だったらしい*4。そんな荒木に対して高橋蔵相は、長期財政収支を示しながら「軍事予算の膨張はいたずらに外国の警戒心を刺激し、外交工作の機会を少なくするばかりでなく、予算内容の国防偏頗が国民経済の均衡を破ることになる」、「陸軍なんて予算をやると、すぐ戦争をするからな」と歯に衣を着せぬ発言をして対決した*5。この時点では軍と本音トークができたのだった。

 対決した荒木だったが、高橋是清のことは「心から敬服」していたそうだ*6高橋是清に予算を抑えられたあとに、荒木は竹槍があれば列強恐れるにたらずという「竹槍三千本論」を主張するようになったそうだ。有名な竹槍三千本論だが、それは軍事費抑制されたからこそ出来てきた言葉だったのだ。

 陸軍は、次の作戦として、農村予算へ口出してきた。軍部は農村問題は農村出身者の多い軍の指揮に関わるとして農業予算の拡充を求め、陸軍省軍務局がまとめた「皇国国策基本要綱」法案を提出したが、高橋蔵相は農村は自力回復すべきであると主張し、最終的に同法案を廃案にし、農村予算の増額を拒否した。き、厳しい。

海軍との攻防

 海軍は第二次軍拡計画要求4億4000万円を要求したが、大蔵省は1億円まで減額した。それに対して海軍は猛烈な復活要求を行い、伏見宮軍令部早朝が昭和天皇に内奏するという挙に出た。海軍がここまでしたのはわけがあった。軍拡路線の米国ルーズベルト大統領が大建艦計画を立てて、東洋進攻作戦を着々と進めているのではないかという危機感があった。何度も折衝して最終的に大蔵省減額案の1億円で確定した。

 高橋「健全財政」時代とは、ここまで軍部と戦うことを意味した。もちろん軍部は納得しなかったので裏工作に動きはじめる。前回に貼付けた表だが、22億円規模の財政を維持するということは、これだけの攻防があったわけだ。昭和10年度以降の流れをみるとまさに命懸けなのがわかるだろう。健全財政のため命を張った大臣と文官がいたのだ。

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軍部の閣僚スキャンダル攻撃

 高橋蔵相と正面対決したがぐうの音も出なかったことで、軍部は閣僚スキャンダルで倒閣運動をするようになる。さまざまなスキャンダル事件を手がけたが、最終的に「帝人事件」で斎藤内閣を倒すことになる。

 帝人事件とは、台湾銀行保有の定刻人絹株の買い受けを巡って大蔵省の関係者に贈賄したという疑義事件だった。軍事抑制を図る高橋蔵相及び大蔵省に一大打撃を加えることになった。スキャンダル攻撃はマスコミや国民の間に政府や経済界への不信感を大幅に高め、軍国主義国家への道ならしになった*7

 この帝人事件は、最終的に「今日の無罪は証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実は存在しなかった」と裁判官に言わしめる案件だった*8。ひどい話である。

 帝人事件を受けて斎藤内閣は退陣に追い込まれ、高橋是清も辞めた。しかし、後継内閣の蔵相は高橋財政路線を継承した藤井真信(元大蔵次官)となった。

まさに命懸けの昭和10年度の予算編成

 前年度にはやられっぱなしだった陸軍省は、「国防の本義と其強化の提唱」というパンフレットを出して軍拡の必要性を世に訴えた。このパンフレットは、政治、経済、文化を国策の中心である国防に従属させる、そのために経済の統制化を図るというものだった。後の総力戦体制の先駆け的動きだった。

 こに対して、藤井蔵相は陸海軍の大物だけでなく元老の西園寺公望らを訪問して精力的に根回しを行った。軍部と激しい予算の攻防のさなか、病身の藤井蔵相は喀血し、輸血を受けながら折衝。。なんとか予算案が正式決着案をみるや床に伏し、その後重体となり、年明けに逝去した。享年50歳。文字通り命懸けの折衝だった。敬意を表して写真を貼ります*9

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藤井真信

高橋是清再登板!決死の昭和11年度の予算編成

 齢81歳にして高橋是清は再登板します。昭和11年度予算編成にあたり、方針を自然増収分の「公債漸減方針」を掲げ、公債不消化から悪性インフレ*10への警告を発します。実際に金利が下げ止まり、民間資金需要の増大、コール市場から資金回収の動きがでてきていた*11

 このときの帝国議会(第67回)では「天皇機関説」が問題とされ、「国体明徴決議」*12が行われ、「広義国防国家」*13が唱えられるようになり、軍部の圧力は一段と高まっていた*14

 陸軍の概算請求は満州事件費に2億653万円、兵備改善費・資材整備費1億3302万円、一般新規に2055万円と膨大であった。それに対して大蔵省は1億5700万円、5500万円、364万円と査定した。高橋蔵相は悪性インフレを楯に抵抗したが、参謀本部青年将校らの強硬な姿勢でまとまらず、杉山参謀次長は単身総理官邸に乗り込むということを繰り返した。。。予算閣議の段になっても陸軍参謀本部がごねてまとまらず、高橋是清は世界地図をもって、対ソ軍の無益なことなどを説いて陸軍の要求を抑えてようとした。高橋はこのように批判した。

国防というものは、攻め込まれないように守るに足るだけでよいのだ。だいたい軍部は常識に欠けている。(中略)(陸軍幼年学校のように)社会と隔離した特殊の教育をするということは、不具者をつくることだ。陸軍ではこの教育を受けた者が嫡流とされ、幹部となるのだから、常識を欠くことは当然で、その常識を欠いた幹部が政治にまで嘴を入れるというのは言語道断、国家の災いというべきである。

藤村欣市朗『高橋是清と国際金融(下)』*15

※差別的表現があるがそのまま引用した

 ここまで厳しいことを言える人がいるのだろうか。この歯に衣を着せぬ厳しい軍部批判が発言が新聞で報じられたことが、是清の惨殺につながっていく。。。歴史を知る我々にとしては、まさに的を得た発言だと思うんですけど。これから手酷い国家の災いが待ち受けているわけで。。。

 このような決死の対決を経て昭和11年度予算は、総額22億7200万円で決着した。しかし、その実態は軍事関係の新規継続費を5億円から11億円へと倍以上積みました。この積み増し分は会計上の無理算段をかさねたものだった。

ニ・ニ六事件

 ようやくとりまとめられた予算案であったが、陸軍の急進派の中には財政当局に抑え込まれたという意識が強く、軍内部の不満が高まっていった。軍部が不満を高めていった一方で、世論は高橋蔵相の軍縮路線への支持も高まっていった。

 ニ・ニ六事件の直前に行われた総選挙では、与党である民政党(127→205)が大勝した。軍部と一緒になって与党を攻撃していた*16政友会は(242→171)は第一党をすべりおちた。*17

 総選挙の民意では緊縮財政、つまり軍縮支持だったのだ!。それもそのはずで、戦前最大のヒット曲「東京ラプソディー」がヒットした年が昭和11年なのだ。都市部は豊かさを享受し、浮かれていた。ニ・ニ六事件というと世相が暗いイメージだが、都市部では真逆だったのだ。青年将校の思い詰めた心情と都市部の市民とは断絶があった。

 ニ・ニ六事件*18で岡田首相、斎藤内大臣(前首相)、鈴木貫太郎侍従長渡辺錠太郎陸軍教育総監らが暗殺の標的にされたが,、高橋是清は銃撃されたあと、大きな刀傷を何カ所も受けるという惨殺だった。

 ニ・ニ六事件以降、高橋是清のように歯に衣を着せぬ批判ができるものはいなくなり、軍部の暴走の歯止めであった財政規律が崩れて、戦争へ突き進んでいくのである。

財政規律が崩れ、急速な勢いで軍事費が拡大する様子は次回から見ていこう。まずは、軍部と戦った高橋是清に敬意を表したい。享年81歳だった。

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高橋是清

※出典:高橋是清 - Wikipedia

 

 

今日はここまで!

 

高橋是清健全財政時代はまさに命懸けの予算編成でした。。。

 

 

*1:337の引用を再引用。

*2:341

*3:A救戦犯。荒木貞夫 - Wikipedia

*4:342

*5:341ー342

*6:342

*7:347

*8:347

*9:写真の出典はこちら。いいお顔ですね。 藤井真信 - Wikipedia

*10:ハイパーインフレーションのこと。悪性インフレとは - コトバンク

*11:353

*12:天皇統治権の主体であると主張し、天皇機関説を排撃した。国体明徴声明 - Wikipedia

*13:総力戦準備には軍備増強だけでなく,国民体位の向上や資本主義の修正などをも考慮すべき」という考え方。主に陸軍統制派の考え方。広義国防国家(こうぎこくぼうこっか)|日本史 -こ-|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)

*14:天皇機関説を唱えることは禁止され、書物は発禁処分、美濃部達吉は右翼に襲われて重傷を負った。。。

*15:356ページの引用を再引用した。

*16:天皇機関説美濃部達吉を辞職に追い込んだ。

*17:357

*18:詳細はこちらをどうぞ。

ja.m.wikipedia.org

【五・一五事件大幅修正】なぜ日本は戦争を選択したのか(14)金解禁不況からの回復と高橋是清の「健全財政」ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(10)(11)(12)では国際グローバルスタンダードであった金本位制が崩壊し、グローバル経済が維持できなくなりブロック経済化していった状況を説明した。当時の常識であった金本位制を維持するの政策によって各国はデフレと金利上昇に見舞われ、経済が悪化し社会不安が広がった。これが当時の大恐慌の概要である。そのような状況のなかで満州事変が起き、連動して第一次上海事件が起きる。当時の上海は極東最大の金融センターであり、英仏の租界地があったのだが、日本が軍事行動を起こしたことで欧米諸国は日本に対して厳しい態度を取った。日貨排斥運動は中国だけでなく世界各地に広がっていった。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 高橋財政については『恐慌に立ち向かった男高橋是清』を参照します。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

今回から松元崇さんの『持たざる国への道』も参照します。各項目にどちらの本を参考にしているか注記しておきます。

 

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

 

高橋是清の再登場ーーーインフレ政策へ転換*1

 満州事変から三ヶ月後の昭和6(1931)年12月に若槻内閣(民政党)は閣内不一致で総辞職し、憲政の常道*2に従って、野党第一党の党首、犬養毅(政友会)が組閣された。犬養の要請により高橋是清が蔵相に就任した。

 高橋蔵相は就任即日!、金輸出禁止を行った。二週間後には国際発行を財源とする満州事件費を計上した通貨予算案を行った。翌年の昭和7(1932)年1月には井上蔵相が予定していた増税の停止と減債基金の繰り入れ停止を盛り込んだ昭和7年度予算案を議会に提出。2月に総選挙が実施され、政友会は「不景気の民政党か景気の政友会か」と訴えて、大勝した(政友会171→303議席、民政会247→144議席)。この総選挙のさなかに井上元蔵相は暗殺された(血盟団事件)。

 選挙大勝を受け、高橋蔵相は財政政策の転換と満州事変の戦費調達のために国際の日銀引き受けを実施することを金融関係者に伝えた。同年6月には通貨発行限度額を従来の9倍近い10億円に引き上げ、10月からは強力な低金利政策を開始した。いわゆるインフレ政策に転換した。

 金融・財政政策は高橋蔵相の下、積極的に手を打ち順調に進んだが、総選挙から三ヶ月後、五一五事件で犬養毅首相は暗殺された。高橋是清は犬養首相暗殺後に身を引くつもりだったが、それを軍の予算抑制のために引き止めたのは、後継首相に任命された斎藤実だった。

 斎藤実海軍大将は、山県有朋亡き後に軍閥争いを展開した真崎甚三郎、林銑十郎宇垣一成といった陸軍の大将達とは一線を画した国際派の軍人だった。五一五事件のあとを受けて軍の暴走を抑える役を引き受けることになった。斎藤実は、在米公使館付き武官を務め、日米開始時に駐日米国大使だったグルーとは親友の間柄だった*3

井上準之助暗殺、第一次上海事変*4

 この総選挙の時期は日本のターニングポイントでした。総選挙のため選挙活動が行われた1月に第一次上海事変が起こります。

 前回書いたように上海事変で欧米諸国は厳しい態度に変わります。親日家のラモント・モルガン銀行総裁の態度を変える大きな事件でした。そして、もう一つ、ラモントの怒りを買ったのは井上準之助の暗殺でした(上海事変が勃発した10日後に井上準之助が暗殺)。井上は「東京を東洋のロンドンに」という構想をもった国際的な金融家であり、ラモントと親交があったのだ。

 実はラモントが満州事変擁護論を繰り広げていたのも、井上蔵相の対米世論工作を支援したいという思惑があったからだった*5。ラモントは、井上暗殺を知り、「真の信頼しうる友人達を失った」「日本にとっては賢明な助言者たちを失った」と語っている*6。ラモントは反日へ転向した。

 尚、第一次上海事変は、日英関係にも大きな影響を与えた。日英同盟以来、良好な関係であり、英国は第一次上海事変まで日中の紛争回避の方針だったが、事変後は態度を一変させた。

満州事変と五・一五事件

 なぜ五・一五事件犬養毅は暗殺されたのだろうか。松元崇さんの高橋是清本では、農村と都市の極端な各社社会が背景にあったと説明*7するが、『決定版日中戦争』では満州国設立に反対していたからと説明している。以下、『決定版日中戦争』第1章(戸部良一)を参考に説明を加えたい。

決定版 日中戦争 (新潮新書)

 関東軍は武力を発動したものの、満州をどうするのか陸軍内にコンセンサスは無かったという*8満州事変以前の参謀本部の情勢判断では、①親日地方独立政権の樹立、②独立国家の樹立、③日本による領有の三案が検討されていた。領有案は陸軍においても強い抵抗があり、親日の地方独立政権は張学良のように軍閥化してしまう可能性があった。そのため独立国家樹立案に傾いていった。

 しかし、独立国家樹立案は国策として確定した方針ではなかった犬養毅は、辛亥革命以前から中国の革命に共感を寄せ、孫文などの革命家を援助してきたことから、独立国家樹立案には反対だった*9。 

 犬養毅は政権について早速、中国政府と交渉し、「満州における中国の主権を認めたうえで自治政権をつくり、国民政府に排日行為の完全禁止を確約させ、日本人の土地商祖権や居住・営業の自由を認めさせ、日中対等の立場で共同して満州の開発に当たる」(27)という解決案(犬養構想)をもっていた。しかし、軍部からは激しい反対にあい、そうこうしているうちに昭和7(1932)年3月に満州国が建国されてしまう。

 しかし、日本政府が直ちに満州国を独立国家として承認したわわけではなかった*10!。犬養首相は独立国家を樹立すれば必ず九カ国条約と正面衝突するので、独立政権にとどめるべきだと考えていた。現状はまだ独立政権段階と見なし、当面は国家承認は行わないと閣議決定している(建国後10日後に)。犬養内閣は、建国以後でさえ、国家承認には最後までゴーサインを出さなかった*11

 五・一五事件犬養毅が暗殺されると、事態が一気に動き出す。6月の衆議院は満場一致で満州国承認決議案を可決、後継の斎藤見実内閣は8月の議会答弁で「日本は国土を焦土にしても主張を貫く」と述べ、満州国を承認した*12。そして、9月15日、日本は日満議定書を調印して満州国を正式に承認したのだった。

 しかし、なんでこんなに焦って暗殺し、承認を急がせたのだろうか。それは、律トン調査団が国際連盟に報告書を提出し、解決案を提示される「前に」満州国を承認しておきたかったのだ。つまり、国際連盟の解決案には左右されないことを誇示するための満州国の承認だった*13

 では、リットン報告書はどのような内容のものだったのか。報告書は関東軍の行動を自衛の範囲内であるものとは認めず、民族自決の原則で満州国を正当化しようとする主張を否定する一方で、事変前への現状回復が望ましいとも論じなかった*14。報告書は、中国の主権と領土保全という普遍的な原則を前提としながら、軍閥を排し、満州における日本の権益と歴史的な関わりなど、特殊な地域事情に配慮した妥当な解決構想であった*15。あーあ。。。早まっちゃったよね。。。

 事件の起こった当日は、喜劇王チャップリン来日で連日の大騒ぎであり、犬養首相の子息がチャップリンと相撲見物を案内し、そのあとには首相との晩餐会も予定されていた。その相撲見物中に起こったのが五・一五事件だった*16

 上海事変や相次ぐ暗殺と歴史は暗い方へと進んでいるが、当時の都市部の景気は良く豊かさを享受して浮かれていた。犬養毅の抵抗も虚しく、暗殺されて除外されると、満州国は満場一致で可決されるのであった。。。歴史の分岐点だったと気づかずに。。。

 少し先の話になるが、なぜ日本が国際連盟を脱退(1933年2月)したのかまとめておきたい。脱退は近代史家にとっても不明点が多く確定した説はないが、一説によれば、熱河作戦が華北に波及すると国際連盟は制裁発動するのではないかと推測したらしい*17。連盟の一員でなくなれば制裁を受ける根拠はなくなり、対日制裁をめぐる列国との軋轢を避けることができると考えられたようだ*18。しかし、連盟脱退によって欧米諸国だけでなく、南米やアフリカ諸国にまで差別的待遇の扱いをうけるハメになったことは、シリーズ(13)で書きました*19。連盟脱退で世界的に日貨排斥が広がっていったのである。

 

※松元崇さんは斎藤実を「軍の暴走を抑える役を引き受けた」と肯定的に評価しているが、戸部良一の論文では満州国承認を苛烈に推進する答弁を紹介しており、二人の評価は分かれている。私には判断がつかないので、そのまま調整せず記載した。

高橋是清満州の評価*20

 高橋是清満州事変の評価を見てみよう。高橋是清は、満州事変後も満州が中国の一部であるという考え方を堅持した。事変後はマスコミや国民は満州国を属国視するようになるが。そのような中でも高橋是清は「満州は外国だということを忘れてはいけない」と説きつづけたそうだ*21高橋是清は、昭和7年、満州国の幣制改革の担当者として送り出す大蔵省の面々(星野直樹ほか*22)を私邸に招いて以下のように説示したそうだ。

あそこに日本を作るのではなくして、中国人のほんとうの国をつくるのだ・・・・・・日本の利益をはかるのを、第一としてはいけない。満州国人の身になって、満州国人の幸福を図らなければいけない。それがまた結局、ほんとうの日本の利益となるのだ。日本だけの利益をはかるのが、愛国心などと思っている者がある。(中略)困ったことだ。こんな連中のために、日本がどんなに損しているかわからない。

藤村欣市朗『高橋是清と国際金融(下)』*23

 高橋是清の慧眼は歴史が証明しているだろう。また、犬養毅と同じ思いを共有していたと感じられる。

 

高橋財政ーーー戦前最後の「健全財政」*24

 斎藤内閣で続投した高橋是清は、時局匡救事業(農村救済策)を打ち出すすとともに、昭和8(1933)年度予算編成については、一転して厳しい歳出削減を各省に求めた。高橋蔵相は、そのために大好きなタバコ断ちをした。そこまでの決意をして挑んだ背景には、五一五事件以降、国民世論の軍への期待が高くなっていた状況下で、陸海軍予算の増加を抑えなければならないとの事情があった。

 昭和8年予算の概算請求では、陸海軍からの軍事予算は29億円の大幅増額要求だったが、折衝を重ねて最終的には22億3900万(公債依存8億9520万円)円となった。この時点では軍部も減額に応じていたのだ。

 昭和8年度予算案は22億3900万円という額は井上準之助が編成した前年度予算案(14億7900万円)の5割もの増額であった。そのことから新聞は「日本はじまって以来の非常時予算*25」と書き立てたことで、高橋是清は積極財政論者というイメージをもたれた。

 しかし、昭和8年度予算案の増加部分の大半は満州事件費など臨時的な者が大半であって、軍事費を除いて比較しても6.5%の増加であり、実質的にはマイナス予算だった*26

 世の中が積極財政予算と受け止めたことについて、西野喜代作(同時代の経済ジャーナリスト)は「今までの予算はなるべく少ないように発表したが、この時は努めて大きく発表したからだ*27の引用文を再引用)と述べている。

軍事費除き厳しいマイナス・シーリング予算*28

 高橋財政時代の一般会計歳出額は、昭和8年度からニニ六事件で高橋是清が暗殺される昭和11年度予算編成まで、約22億円で横這いとなっている。表を添付しておきます*29

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高橋財政下における一般会計歳出額と軍事費の推移

 その実態は、経済が順調に回復する中で、軍事費については経済成長率並の伸びを認め(国民総生産に占める比率は5.6%で横ばい)、軍事費以外は厳しいマイナス・シーリングをかけたものだった。軍事費を除く一般会計歳出額が国民総生産に占め比率は、昭和7年度の9.25%から昭和11年度の6.13%へと三分の二に縮小していったのである。実は、井上蔵相下の昭和3年度の軍事費を除いた一般会計歳出額を下回っていた*30

 高橋是清が金解禁後の恐慌から経済回復させるために打ち出していたのは、実は明治憲法下の伝統的な健全財政路線だった。それは、何としても軍部の暴走を抑えるために軍事費を抑制しなければならないという高橋是清信念からのものだった*31

 高橋是清は、「財政規律」で軍事費を管理することで軍部の暴走に歯止めをかけていた。しかし、その歯止めが無くなるのだ。ニニ六事件で高橋是清は暗殺される。。。

 

今日はここまで!

ついに、軍部を歯止めるものがなくなってしまう。。。その結果、どうなっていくのか見ていこう。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    満州国建国

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    日満議定書調印、満州国を承認

    リットン調査団、報告書を国際連盟に提出

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:この項目は『恐慌に立ち向かった男高橋是清』13章を参考にまとめています。

*2:天皇による内閣総理大臣や各国務大臣の任命(大命降下)において、衆議院での第一党となった政党党首内閣総理大臣とし組閣がなされるべきこと。また、その内閣が失政によって倒れたときは、組閣の命令は野党第一党の党首に下されるべきこと。そして政権交代の前か後には衆議院議員総選挙があり、国民が選択する機会が与えられること。」とするもの憲政の常道 - Wikipedia

*3:斎藤実はニニ六事件で暗殺されるので、日米開戦時に既に草葉の陰の人でした。惜しい人を暗殺したのでした。

*4:この項目は『持たざる国への道』を参考にまとめていきます。

*5:電書ロケーション4403の697

*6:同上ページから引用

*7:327ー327

*8:24

*9:同書26ページ

*10:28

*11:28

*12:29

*13:以上の解説は同所29ページをまとめたもの

*14:29

*15:30

*16:この段落は松元崇の高橋是清本参照

*17:33ページ『決定版日中戦争

*18:同上33ー34

*19:

kyoyamayuko.hatenablog.com

*20:高橋是清本参照:318ー319

*21:318

*22:この面々の中には以前blogにした古海忠之も含まれる。当時の大蔵省官僚の雰囲気を感じることができる。古海は最初は乗り気ではなかったんですよね。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*23:319の引用を再引用。

*24:高橋是清本を参照にしています

*25:332:以降、「非常時」という言葉が頻繁に使われるようになったという。

*26:332:こういうきめ細やかな財政分析が松元崇さんの本領発揮ですよね。

*27:333:大蔵大臣官房調査企画課編『大蔵大臣の思い出』

*28:高橋是清本を参照

*29:334:13ー1表

*30:335

*31:336

なぜ日本は戦争を選択したのか(13)満州事件のツケ・日貨排斥運動の広がりーーー松元崇の財政分析から学ぶ

※政府が事後的に満州事変を認めた背景、第一次上海事件、満州事変の国内の評価の項目を追加しました。

 

 シリーズ(10)(11)(12)では国際グローバルスタンダードであった金本位制が崩壊し、グローバル経済が維持できなくなりブロック経済化していった状況を説明した。当時の常識であった金本位制を維持するの政策によって各国はデフレと金利上昇に見舞われ、経済が悪化し社会不安が広がった。これが当時の大恐慌の概要である。そのような状況のなかで陸軍が動きはじめます。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 今回も松元崇先生の本の12章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

中国大陸の情勢と満州事件

 昭和6(1931)年の中国情勢は、父親を日本陸軍に爆殺された張学良が「国権回復」の方針の下、日本が日露戦争でロシアから得た南満州鉄道の権益を奪還する動きに出ていた。張学良は日本人経営の工場や鉱山を武装警察官まで使って襲撃させていた。中国官憲も加わった排日運動の激しさは、日本国内では満蒙の危機が叫ばれる自体を招き、それを許す政府の「軟弱外交(国際協調外交)」を攻撃する世論が高まった。同年7月に満州満宝山事件が起きる。

ja.m.wikipedia.org

 初めて聞く事件なのでWikipediaの説明を貼っておきます。この事件はWikiによれば「入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件」だった。日本国民となった朝鮮人を守るために日本の警察と中国人農民が衝突したわけです。この事件では死者はでなかったが、この事件をきっかけになって排日運動が上海を中心に中国全土に広がっていきました。

 このような状況で満州事変が起こります。南満州鉄道警備隊であった兵力1万の関東軍が、戦車40両、軍用機50機を持ち機関銃や迫撃砲を標準装備していた二十数万の張学良軍を駆逐するという「大成功」を収めたのが満州事件であった*1

政府の対応

 満州事変に対して若月内閣は国際協調主義のため不拡大の方針をとった。完全装備の張学良軍20万に対して鉄道警備隊1万人という兵力で対峙する関東軍に対して朝鮮からの援軍派遣も認めないとした。

 そのような若槻内閣の方針は軍部に無視されて朝鮮から援軍が派遣されることになったが、昭和天皇の許可を受けたわけではなかった。そのような軍の行動は、軍による統帥権干犯という憲法違反にほかならなかった。しかし、若槻首相が事故的にカネを出すことに同意してしまったことから、軍の責任がウヤムヤになってしまった。ウヤムヤになったどころか、満州に越境した朝鮮軍司令官の林銑十郎は「越境将軍」ともてはやされ、二・二六事件の後には総理にまでなったのである*2。 

軍による「統帥権干犯」ーーー軍国主義国家の誕生*3

 このような軍の出先(関東軍)による統帥権干犯行為がまかり通ったことは、満州事変以降、誰も軍部の出先の暴走を抑えることができなくなるという結果を招いた。満州事変以降、軍の出先は政府の方針を無視していうことをきかなくなっていった。これは明治憲法が全く想定していなかった軍国主義国家の誕生であった*4

 陸軍の軍人の暴走を助長させたのは、満州事変で張学良軍がほとんど戦わず退却した事実であった。この後も、中国軍との多くの戦闘は、このような形で中国が戦いを避け、日本軍が駆逐するという展開が多くなる。著者はその理由を中国の兵法によると記述しているが、下記の本を私なりに解釈して超要約すると、中国国内の国民党、共産党は互いに本丸の敵はお互いであって日本ではなかった。日本が本丸の敵ではないので、日本軍との戦いで戦力を浪費しないように逃げていた、ということができる。中国の兵法というよりは、日本軍は本丸の敵ではないので戦力浪費しない戦略がとられていた。

中国共産党、その百年 (筑摩選書)

 しかし、日本軍の立場から見れば、逃げる軍閥や国民党、共産党の軍との戦闘は弱腰に見えてたわけで(実際に日本軍は強かった。兵数は中国が多くても訓練されていないのですぐ逃げてしまうのだ)、中国大陸で泥沼の戦いにのめりこんでしまう。

 その結果、短期決戦の備えしかなかった日本軍は個々の戦闘ではほとんど負けることはなかったが、全体の戦争では英米の支援を受けて持久戦の態勢を整えた中国に敗れることになる*5

 

政府が満州事変を事後的に認めた背景*6

 国際協調路線の若槻内閣が事後的に満州事変を認めたのは、欧米諸国が、当初は満州国について基本的には承認の方向で「華北地域については、その権益を共同管理する意向であり、日本に対して協力的な態度で挑んでいた」(安達誠司『脱デフレの歴史分析』)ことがあった*7。これは高校の歴史の教科書とは異なる見解ですね。一般的には。、満州事変で国際的に孤立したというイメージですが、じつは満州事変の軍事的行動そのものよりも、このあとの日本の対応が、特に陸軍の勝手な行動がひどかったことから国際的に浮いてしまいます。

 米国はもともとロシアの勢力圏だった満州を日本と共同開発しようという思惑を持っていた*8南満州鉄道への米国の投資は、日露戦争からの懸案であり、田中義一内閣(1927ー1929)の時に井上日銀総裁とモルガン銀行総裁ラモントとの間で具体的な合意までなされたが、中国政府の反対で挫折した経緯があった。マジか・・・。日本にとってはここで共同開発してくれたらという思いがあるが、中国にとっては我等の国土でなに勝手なことしてんねん!って感じなんですかね。

 ラモントは満州で日本が「満鉄付属地」を管理しているのは米国がパナマ運河地帯を管理しているようなものであると理解しており、井上蔵相の金解禁を強く進めたのも、満州に対して日本と共同出資する地ならしという思惑があったそうだ*9

 尚、満州事変が起こった時点では清朝は滅亡しており、それに変わる国家も成立していなかったため、清国の主権尊重という問題もなくなっていたことも満州事変が欧米の強い反発を招かなかった要因であったそうだ。正直言って、それは欧米の詭弁だと思いますけどね。蒋介石は怒っているわけだし。

 では、一般的に流布する満州事変による国際的孤立するという話はどこからやってきたのか、みていきたい。満州事変後、日本軍が欧米諸国を排除して権益拡大しようとしたことに加えて、欧米諸国の虎の尾を踏んだからである。それが上海事変だった。

第一次上海事件で欧米諸国の対日観が激変

 昭和7(1932)年1月、第一次上海事件が勃発*10

 当時の上海は、列強の対中国投資の7割以上が集中する極東最大の都市で、アジアの金融の中心であった。英国、フランス等の租界が形成されていた。その上海を日本軍が攻撃したことは、西欧諸国の日本に対する見方を劇的に変えることになった。上海事変満州事変から世界の関心をそらすための日本軍の出先が起こした事件と言われるが*11、実際にもたらされた結果は、西欧諸国の厳しい批判をくらうことになった。

 国際金融の重鎮で親日家のラモント総裁(モルガン銀行)は「上海事変はそのすべてを変えた。日本に対して何年にもわたって築き上げてきた好意は、数週間で消滅した」(三谷太一郎「国際金融資本とアジアの戦争」*12)とまで述べるようになった。

 米国の具体的な対日外交方針の変更がなされるのはルーズベルト大統領になってからであった。具体的には、ソ連を承認(1933年)して友好関係を築き、日本を牽制する態度を示した。ソ連は1934年には国際連盟の加盟を認められることになる。日本が脱退した国際連盟に。。。

 ソ連満州事変の起こった昭和6(1931)年から日本に不可侵条約の締結を提起して関係改善を求めてきたが、米国の対ソ外交方針が変化した結果、態度を徐々に変化させ、日本への対決姿勢を強めていった。

 日本は満州事変そのものではなく、上海事変で国際的金融センターで戦闘行為して国際的な顰蹙を買った。満州への「侵略」ではなく、上海を戦場にしたことで欧米諸国の日本への態度が変わったのだ。それが日貨排斥運動につながっていくし、ブロック経済化するなかで、日本だけが取り残されていくことになる原因であった。

満州事変のツケ①ーーー日貨排斥運動

 満州事変によって日貨排斥運動が決定的なものとなった。日貨排斥とは日本製品不買運動のことだ。国民党政府は、在華日本企業と日本個人への中国人の労働提供は禁じられ、違反した場合には売国奴として死刑を含む刑罰と私有財産の没収が科された。昭和7(1932)年の第一次上海事件で日中衝突が起こると運動は暴力化していった。

 日貨排日運動の結果、1920年代中期まで日本の総輸出額の20%のシェアを占めていた中国本土との貿易は、昭和12(1937)年には5%台まで落ち込んだ。満州事変の結果、日本は中国本土との貿易の利点を失い、市場を他に求める必要に迫られることになった。しかし、昭和5(1930)年のスムート・ホーリー関税法によって米国市場から締め出された日本にとって厳しいものであり、昭和7年8月に英国のスターリング・ブロック形成で世界がブロック経済化が決定したことでさらに深刻化していった。

満州事変のツケ②ーーー世界に広がる日貨排斥運動

 満州事件が起きた当時はシリーズ(12)でまとめたように金本位制が崩壊し、ブロック経済へ向かう途上であった。満州事変をきっかけに中国以外の市場から、日本製品の制限をもたらした。特に昭和8(1933)年3月の国際連盟脱退は、国際的な「日貨排斥」を決定的にした。

 昭和9(1934)年には中南米諸国が日本に対して貿易規制を導入、昭和10(1935)年にはエジプトが対日通商取決を破棄した。

中近東とアフリカ諸国は、日本が国際連盟を脱退したことによって差別待遇を受けるのは当然とし、(国内の)幼弱産業を保護するために堂々と日本の貿易に対する差別措置を手を携えて採用した。(中略)日本が国際連盟の一員に留まる限り、すべての加盟国と同じく、条項に記されている通りの関税と通商取り扱い上の平等を保証されていた。(中略)しかし現状は、法的にも実際的にも、もはや一変してしまった。

池田美智子『対日経済封鎖』*13

 

 上海事件を引き起こすきっかけとなった満州事変は、日本経済の苦境を追い込む「大失敗」だったと松元崇は評価する。国際連盟の脱退は、保護貿易をしたい各国の名目となったのだ。

国内の満州事変の評価

 満州事変の背景には無理な金解禁による不況が農村の疲弊を加速させ、大きな社会不安を醸し出していた状況のなかで起こった。農村の疲弊から、国土の狭い日本からは移民によって海外に新天地を求めざるを得ないという論理が主張された。その代表が北一輝だった。ちょうどその頃、アメリカは1924年に排日移民法で日本人移民を全面禁止し、1930年にスムート・ホーリー関税法によってアメリカの市場を閉ざしていた。日本人の新天地は満州に目が向けられた。無産政党は、満州事変に対していち早く支持を表明し、大多数の国民が圧倒的に支持した。満州事変は、軍への不信を信頼に転換させた転機となる事件だった。

 マスコミも満州事変を支持した。朝日新聞社は事変に関しての自社製作映画公開4024回、観衆動員数1000万人、毎日新聞も朝日以上の大宣伝を繰り広げた。但し、朝日新聞社は事変後しばらくすると軍に対して批判的な姿勢に戻り、五一五事件を批判したことが原因で、ニニ六事件では国賊として襲撃されている。

 少数ではあったが満州事変を批判した者もいた。安岡正篤*14は「いかに日本の生命線の擁護であり、自衛権の発動であり、特殊権益の確保であるにせよ、要するには外国からいえば、それは日本の利益問題である。(中略)そこで世界は果たして日本の侵略主義、軍閥主義といってあらゆる避難攻撃を始めた」(安岡正篤論語の活学』*15)と述べている。

 また、満州事変直前の昭和6年9月11日に、満蒙での不穏な動きを察知した元老の西園寺公望陸軍大臣に対して「満蒙といえでも支那の領土である以上、こと外交に関しては、すべて外務大臣に任すべきであって、軍が先走ってとやかくいうのは甚だけしからん」(半藤一利『昭和史』*16)と注意していた。

 しかし、元老の注意も虚しく、軍部への牽制は無視され、事変後の批判は少数に過ぎなかった。こうして、満州事変は、軍部の暴走の前に、明治憲法下の議会制民主主義と財政規律がともに崩壊していく時代の始まりの事件となったのであった。

 

 

 

 今日はここまで!

 複雑に絡み合う戦争への道ですが、もし時間を戻せるならば、第一次上海事件は絶対止めなければいけないだろう。満州事変までは仕方ないとして、満州を欧米諸国と共同管理すれば、国際連盟を脱退することもなかっただろう。上海事件さえ起こさなければ、もしかしたら日本もスターリング・ブロック経済に参加させもらうことができたかもしれないし、そうすれば日中戦争大東亜戦争には向かわなかっただろう。第一次世界大戦の時のように、欧州戦争で稼ぎ、経済は回復で来たかもしれない。もちろ満州の共同管理は中国の主権を侵すことではありますが。。。この方向で動いていたら、中国統一はまだ先で内戦が当面続いていたかもしれませんね。。。

  日本が満州国を建国し、日中戦争をおっぱじめて中国全域で戦闘をおこなったことが、中共、国民党の統一の敵として日本が立ち現れ、広い中国をナショナリズムでまとめあげていくことになる*17。日本が真珠湾攻撃をしかけたことで、英米を中国国民を結び付け、国民党は逃げ回って日本が戦争に負けるのを待つわけです。日本が満州を一人占めにしなければ、中国の歴史も大きく変わっていたでしょう。おそらく中国共産党国家は設立できなかったのではないでしょうか。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    血盟団事件井上準之助団琢磨暗殺)

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:302:なんてわかりやすい説明だろうか。今の時点から振り返ると軍国主義化の第一歩、関東軍の暴走のように説明されることが多いが、張学良の脅威の排除と説明されると、なるほどとうなずいてしまう。もちろんよいことではありませんよ。法を超えて勝手に動いているので。

*2:304

*3:304のタイトル引用

*4:304

*5:305:松元崇「上海事変と物の予算」を参照してまとめている。

*6:12章313ー319参照

*7:313。著者の引用を再引用

*8:アメリカのこの点についてはこちらのblogに記載しています。

kyoyamayuko.hatenablog.co

*9:314

*10:本では満州事変のが飛び火した事件として簡単に紹介されているが、Wikipediaでは阿片利権の接収と通信網を確保するためと説明しています。

ja.m.wikipedia.org

*11:と著者は説明しております。

*12:315:本の引用を再引用。

*13:から引用した部分を再引用した。

*14:陽明学者。安岡正篤 - Wikipedia

*15:引用は本から再引用

*16:317:引用を再引用

*17:

中国共産党、その百年 (筑摩選書)

なぜ日本は戦争を選択したのか(12)金本位制はなぜ崩壊したのか、ドイツ賠償問題ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シーリズ(11)では金本位制が崩壊する状況を、時を前後してシリーズ(10)では、国際金融の常識である金本位制に復帰した日本が経済悪化で政治不安を呼び起こした状況について触れました。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 前回はドイツに触れず金本位制の崩壊についてまとめましたが、やはり原因のドイツ賠償金問題に触れたいと思います。ここに触れないと本質を掴めない。財務相官僚の著者の真骨頂でもある金融・財務状況の解説は貴重だ。ほんとは早く満州事変について書きたいのですが、しばし置いておいて、世界の金本位制の崩壊の原因となったドイツ賠償問題をまとめていきたい。

 今回も松元崇さんの本の11章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

第一次世界大戦の勝者英仏は財政的負け戦だった!

 第一次世界大戦は英仏は勝利したが、両国の戦費は国家財政の30倍(仏)から38(英)にも上る莫大なものだった。つまり、財政的な負け戦だったのだ。このシリーズで日露戦争で日本が財政の七倍の戦費を費やして、その後どれだけ大変だったか書いたが、英仏はそれ以上の財政負担を抱え、大英帝国の時代に終わりを告げることになる。第一次世界大戦で財政的に勝者となったのは英仏らの戦時債権を持つことになった米国だけだった*1

ドイツの賠償で維持が目論れた金本位制*2

 財政的に大きな負け戦なのに、英国をはじめとする各国が金本位制に復活させ経済活性化策の切り札と考えたのは、膨大な戦時債務を敗戦国ドイツへの賠償金に転嫁すればよい考えたからであった。

 ベルサイユ条約で認められたフランスへの賠償金はフランスが英国と米国に支払う戦時債務の総額70億ドルをかなり上回った。各国はドイツへ多額の賠償金を求めた。

 その結果、ドイツは1320億マルクと決定されたが、この金額はドイツの一般歳入(約30億マルク)の44倍という規模だった。その金額は国家財政の半分以上を借り入れに頼る状態に陥っていたドイツの支払い能力を完全に超えていた。最初から債務者の支払い能力を考慮しない多額の「不良債権だった。

 また、ドイツは賠償を支払う意欲が乏しかった。というのも、ドイツの軍隊はすべてドイツ国境の外側で塹壕戦を戦っており、戦闘は押され気味ではあったが負けてはいなかったからだ。戦争集結をもたらしたのは、戦闘に負けたからではなく、ドイツ国内の物資の窮乏と「ドイツ革命」(1918年11月)*3が起こったからだ。皇帝はオランダに亡命し、国家権力の中枢が崩壊した。戦局は国外であり、連合国軍が進駐したのはドイツの一部分であり、国土の大半には外国軍隊の姿はなかった。日露戦争でもロシアが国外の戦闘であり軍事的に負けていないと言い張り、賠償支払いを峻拒しましたが*4、それと似たような状況だったらしい。

戦争のルールが変わるーーー米国のウィルソン大統領の「無条件降伏」案

 当時の戦争は、戦争が「文明国」同士で戦われるものである限り、主権国家の外交の延長線上として戦争を「条件付き」で終わらせるものであった。しかし、米国のウィルソン大統領はドイツに対して「無条件降伏」を要求した。

 アメリカは、直接利害関係の無い欧州戦争に参戦した。利害調整ではない形で参戦したアメリカは十四箇条の理念を掲げたうえで無条件降伏を唱えることになった*5

 ベルサイユ会議には敗戦国ドイツの参加は許されず、賠償金が課されることになった。それは、ケインズが「カルタゴの平和」*6と呼んだほどに厳しいもので、ドイツは戦後3年目にして財政的にとんでもない敗戦を強いられることになった*7

 この措置に対してドイツのエーベルト大統領(社会民主党:ドイツ革命で共和国になりました)は、ベルサイユ条約受諾直前に「圧倒的な力に屈服し、しかし平和の条件としては聞いたことがない不正義だという観点を失うことなく、ドイツは政府は連合国政府の平和の条件に応ずることを決した」という書簡を連合国側に送っている*8

 英国から講話会議に出席したハロルド・ニコルソンは「われわれは、新しい秩序が創られようとしていると信じて、パリ(講話条約会議)にやってきた。そしてわれわれは、新しい秩序が、古い秩序を損なっただけだと確信してパリを去ったのだ」[細谷雄一大英帝国の外交官』]と述べたのだった*9アメリカの参戦で世界の戦争のルールが一変したのだ。

戦後5年目のハイパー・インフレーションーーー関東大震災の頃*10

 莫大な賠償を抱えたドイツは当然のこととして支払いが滞ることになった。滞った賠償を支払わせるためにフランス、ベルギーの両国はドイツ産業の心臓部であるルール地帯を占領したが、それに反発してゼネストが起こり生産がほとんど停止した。その結果、発生したのがハイパー・インフレーション(1923年)だった。

 ハイパー・インフレーションの結果、ドイツ国内の金融資産のほとんどを失い、一般のドイツ国民の生活が幅広く破綻した。それは都市部と農村部も無差別に経済的な絨毯爆撃を受けたようなものだった。

しばしの平和の時代ーーー統帥権干犯問題の頃

 大戦ではドイツ国内が戦場になっておらず、ドイツ産業の生産能力自体に問題がなかったこともあり、ゼネストが中止され、新たにレンテマルクが発行されデミノが行われると速やかに収まった。そして、ドイツへの巨額な賠償金については、1924年(ドーズ案)、29年(ヤング案)、と思いきった実質債務免除!が行われた。これにより、ドイツ経済は戦前の水準に戻ることになった(1925-1926年)。

 ドイツ経済が小康状態を取り戻すと、世界は金本位制復帰への流れとなり、1925年に英国、28年にフランス、1930年に日本が復帰したのだ。

 ドイツは政治面でもワイマール憲法下の民主主義が安定期を迎えた。第一次世界大戦後の「ドイツ・フランス冷戦」に終止符が打たれ、26年にはドイツの常任理事国として国際連盟に加盟、28年には不戦条約*11を締結した。これにより、国際協調の下に平和の流れが大勢となった。その流れの中で、1922年のワシントン軍縮会議に続き宇垣軍縮(1925年)、1930年にロンドン軍縮が行われた。

ナチス・ドイツの台頭

 この小康状態を突き崩したのが、1931年5月のクレジット・アンシュタルト銀行(オーストリア)の倒産に端を発したヨーロッパの銀行危機だった。銀行危機はたちまち国際的な通貨危機となり、そのような中で米国はドル切下げを行うのではないかという不安が広がり、為替投機が行われ、それに対処するために米国連銀が金融引き締めを行った。これにより、世界規模のデフレが深刻化していった。

 ドイツは債務免除を受けていたとはいえ過剰な賠償支払責務を負っているため構造的なデフレになっていた。31年6月に支払いを1年猶予するフーバー・モラトリアムが発動されたが、直近でハイパーインフレの記憶が強烈だったためひたすらデフレ策を強化したことで、経済は大幅に縮小した。280万人以上の雇用が縮小し、不況が深刻化し、ナチス・ドイツの台頭の背景を生んだのだ。1933年1月にヒトラーが首相に任命されたが、その二ヶ月後の3月にアメリカではルーズベルト大統領が就任した。役者は揃った。

クレジット・アンシュタルト銀行倒産はなぜ通貨危機を生み出したのかーーー金本位制の罠

 クレジット・アンシュタルト銀行倒産によって通貨危機が起こり金本位制が崩壊する過程についてはこちらのサイトに詳しく紹介されているので参考にまとめたい。

econ101.jp

当時オーストリアで最大の規模を誇っていた銀行であるクレジット・アンシュタルトが破綻し、それをきっかけにして、ハンガリーチェコスロバキアルーマニアポーランド、そしてドイツへと、取り付け騒ぎが波及することになったのだ。

  この金融危機は銀行危機と通貨危機が伴った。通貨危機の詳細は上記サイトを読んでほしいが、市民にはこのような不安が広がった。

「銀行は私の預金をちゃんと返してくれるんだろうか?」との疑心暗鬼に加えて、「銀行から無事に預金を下ろせたとしても、お金(通貨)の価値は今後も安定したままなんだろうか? ヤバそうな銀行にお金を預けておくよりは、銀行口座から引き出したお金をそのまま手元に持っておくよりは、お金を金(gold)に換えておいた方がいいかもしれない」

  「お金をGoldに換えておいた方がいいかもしれない」という不安は、イングランド銀行に預金を増加させた(=金の増加)。しかし、そのうちイングランド銀行が欧米各地の銀行に預けている資産が凍結されるのではないかという不安が生まれ、一気にイングランド銀行からお金(=金)を引き上げはじめ、大量の金が流出した。その結果、1931年9月19日にイギリスは金本位制から離脱した。

 人々の不安の次のターゲットはアメリカだ。イギリスが金本位制から離脱したことで、アメリカも離脱するのではないかという不安が広がり、大量の金が流出した。しかし、アメリカは世界の3分の1を占める金の準備高があり、かつ流出を防ぐために金利をあげて対応して耐え抜いた。

 金流出を防ぐための金利値上げだったが、景気悪化するなかで米国国内の経済を深刻なほど悪化させた。

 なんで金本位制はデフレになるのだろうか。上記のサイトの論文では以下のようにまとめている。

1931年当時は、銀行預金よりも金(gold)が選好されたわけだが、それに応じて、金の供給が増えることはなかった。そのために、金の相対価格(最終生産物と金の交換比率)が上昇することになり、それに伴って、金本位制を採用していた国ではデフレという結果が生じることになった(doc)のであった。 

  ということは、金という実物で固定されている限り、金本位制の維持を選択するということは国内にデフレと金利上昇を呼び込み、景気を悪化させるということだ。井上蔵相もこの罠にはまっていきます。そして、景気悪化は社会不安を起こす。ドイツ然り、日本然りです。

 

 尚、イギリスは1931年に金本位制に変わる通貨体制としてスターリング・ブロック態勢を形成する。スターリング=ブロックのサイトによればこの体制は「ポンドを基軸通貨とする国際金融体制」であり、具体的にはブロック構成国はロンドンで準備金としてポンドを保有する(スターリング残高)ことが義務づけられた」と説明している。スターリング=ブロックに参加したのは、「イギリス本国とオーストラリア、ニュージーランド南アフリカアイルランドの4自治領(ドミニオン)と英領インド、海峡植民地などの属領、香港・アデンなどの直轄植民地(これらを公式帝国という)だけでなく、イギリスと密接に貿易・金融関係のあった北欧のスカンジナビア諸国、バルト三国ポルトガル、タイ(当時はシャム)、イラク、エジプトと、アルゼンチンなどの諸国が含まれていた」*12。「ポンド決済を通じてイングランド銀行を中心としたシティの金融機関が影響力を強め、「世界の銀行」としての世界経済への一定の力を持ち続けた」という*13

まとめ

 最後の方はマクロ経済学の話みたくなってしまった。言い方を変えると、こう言うことができるだろう。金本位制グローバル経済は、第一次世界大戦の莫大な戦費を最終的に吸収できず金本位制という金融システムを破壊した。その結果、ブロック経済=反グローバル経済となった。

   1944年には固定相場制となり、1971年に変動相場制となったことで、金と固定相場から解放されて、ようやく第一次世界大戦前のグローバル経済の経済水準に追いつき、追い越していったのだ。そうして今の我々の経済社会があるわけですね。金本位制グローバル経済の崩壊で払った代償はとんでもなく大きかった。

 

 今日はここまで!なんだか歴史というより経済学の教科書みたいな話になってしまいました。松元崇さんと上記サイトの論文のおかげで金本位制について理解を深めることができました。

 

 これで次からは満州事変に突入できます。

 

*1:日本も経済活況となり、日露戦争の借金を返し、債務国から債権国になりました。

*2:287:タイトル引用

*3:Wikipediaによれば、ドイツ参謀本部が企画した塹壕戦は短期決戦の作戦だが長期化。軍が停戦協定を求めたが、敗戦を予期していなかった国民と溝を深めたとあるが、日露戦争の日本国民みたいですね。休戦交渉に反対したドイツ海軍は出撃命令を下したが、その命令に疑問を感じた水兵千人が従わず、逮捕された。釈放を求めたが解放されず、水兵を救助するために社会は混乱、デモも隊も加わり、各地で反乱が広がった。そして皇帝がオランダ亡命して帝政ドイツが崩壊した。

ja.m.wikipedia.org

*4:こちらを参照してください。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*5:301注記(1)を参照

*6:教養が無いので意味を調べてみました。こちらのサイトの解説がわかりやすいです。こちらのサイトでは、米国の日本統治政策が「カルタゴの平和」になぞらえて語っていますが、その原型はドイツだったわけです。

 

ameblo.jp

*7:289引用

*8:289

*9:290

*10:ここから松元崇さんの項目にそって説明してきます。

*11:不戦条約 - Wikipedia

*12:上記サイトから引用

*13:上記サイト引用

なぜ日本は戦争を選択したのか(11)世界はまさかの金本位制離脱へ、ブロック経済へーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(10)では、旧平価の金本位制の復活(金解禁)のためデフレ経済を選択し、厳しい緊縮財政を行った。金解禁政策を争点にした総選挙で与党が大勝し、メディアも民衆も支持した。緊縮財政とは軍縮の実施である。世界的にも軍縮の流れにあり、ロンドン軍縮会議の参加して軍縮を実施した。政党政治は文化が花開き、軍部はそこまで力は強くなく、政党政治で国家システムをコントロールし、軍部を概ね掌握していた。しかし、金解禁不況は、シリーズ(9)で詳述した農村を更に疲弊化させた。経済的不安が大きくなり、テロの時代に突入する。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 今回も松元崇さんの本の10-11賞を中心にまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

英国の金本位制の離脱!

 濱口首相が狙撃後の後継の若槻内閣においても井上準之介蔵相は金解禁を守るべく一層の引き締め政策を継続した。井上蔵相は規定経費削減策として官吏減俸と省局課の統廃合、軍人の恩給削減を打ち出し、緊縮の手を緩めなかった。反発をくらい避難されても経費削減の努力を行ったが、昭和7年度予算案は非募債主義をは貫けず、歳入補填公債に頼らざるをえなかった*1

 井上蔵相がここまで金本位制死守のために戦っていたまさにその時に。世界の金本位制は崩壊の危機を迎えていた!。

 1931(昭和6年)年5月のクレジット・アンシュタルト銀行(ロスチャイルド家オーストリアの銀行*2)の倒産に端を発したヨーロッパの銀行危機が国際的な通貨危機に発展し、9月には英国が金本位制から再離脱したのだ。そのような米国では失業率が急上昇し、大恐慌の様相を呈してきたのである。

 英国の離脱は、日本も再離脱するのではないかという思惑をうんだ。金輸出再禁止となれば円安となる。その思惑は、その損失をヘッジしようとした三井、三菱などの財閥によるドル買いを誘発し、政府は深刻な正貨流出問題に直面する。なんと井上蔵相は徹底したドル売りで財閥に対抗した(横浜正銀経由で)。しかも、ドル買い資金を枯渇させるために二度にわたって公定歩合を引き上げて金融引き締めを行った。

 そのような政策は実質金利を8%に急騰させ、ますます経済を落ち込ませ社会不安を高めた。

日本の金本位制の離脱、血盟団事件

 井上蔵相と財閥の攻防は昭和6(1931)年11月頃には鎮静化した。しかし、同年9月に勃発した満州事変の対応を巡って若槻内閣が崩壊し、犬養内閣が樹立。蔵相には高橋是清が就任し、12月に金輸出を再禁止(金本位制の離脱)した。 

 結局、ドル売りを行った政府が大損し、財閥の「大儲け」になった。その結果、三井、三菱の両財閥に対して世論から厳しい批判が沸き起こる。右翼、左翼両面から講義行動が繰り返された。

 批判をかわすために三井財閥は当時の1年の利益に相当する3000万円(現在は数百億円)の社会的寄付を行い、財閥批判する右翼のバックにいる北一輝に対して情報量として多額の寄付を行った。しかし、これが余計に世論の反感を買うことになった。

 昭和7(1932)年の2月に井上準之助が、3月に三井財閥の総帥である団琢磨が右翼のテロにより暗殺される。続に言う血盟団事件*3が起きる。嗚呼!

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井上準之助

※出典:井上 準之助 - 公益財団法人 東洋文庫

金本位制でなければどうなったのか?

 現在の変動レート制が当たり前になった世界から見ると井上蔵相が金本位制を死守する姿は滑稽に見える。しかし、当時はこれが国際的なスタンダードだったのだ。

 しかし、もし金本位制をとっていなかったらどうなっていただろうか。よりマシな未来が待っていただろうか。松元崇は、その未来を否定する評価をしている。松元の評価に耳を傾けよう。

 「明治30年に日本が金本制制を導入していなければ、昭和初期の混乱は避けられていたのか」(279)と松元は問う。答はノーだ。日本が金本位制を導入していなければ、井上準之助の金解禁がもたらした以上の通過の切り上げに見舞われ破綻していた可能性が高いと分析している。

 その根拠として、ルーズベルト大統領が1934年に国内リフレ策として打ち出した「銀買い上げ法」をあげている。もともと金銀復本意制をとっていた米国は銀準備のために高価格で銀を買上げる法律を制定した。その結果、世界的に銀価格の高騰をもたらした。その結果、銀本位制をとっていた中国に突然の為替レートの大幅引き上げを強いることになった。中国は、世界の大恐慌のなかで各国がデフレで苦しむなかで銀の下落(通過安)でによって比較的好調な経済だったが、この法案の結果、中国の本位通過である銀が大量に流出し、深刻なデフレに陥り、崩壊の危機に瀕した。

 もし日本が銀本位制のままであったとするならば、中国と同じ事態に直面したわけで、それは五倍の通過切下げの深刻さに見舞われた可能性がある。井上蔵相の金解禁による17%の通過切下げの比ではなく、井上デフレをはるかに超えるものであっただろうと分析している。

 金本位制でもダメ、金本位制導入せず銀本位制のままだったら更に深刻な事態に陥っていたのか。。。どうすりゃいいんだ。。。

高橋是清の方策

 高橋是清井上準之助は金解禁をめぐって対立したが、両者共に金本位制論者であった。では、どこで対立したのだろうか。それは、無理なレート設定による「正貨流出問題」で対立した。井上蔵相は、経済の実態を為替レートに強引に合わせるために「旧平価」で行ったが、これは大幅な円切り上げを意味した。井上蔵相も正貨流出は大きな問題と捉え、財閥のドル買いに対してドル売りと金融引き締めで対抗したのだった。その結果、金利が高騰したのだ。金利が高騰すれば産業振興への投資は縮小し、経済は悪化する。

 高橋是清としては、第一次世界大戦後に債務国から債権国となった日本は、産業振興の外資導入を図るため金本位制にすぐ復帰しなければならない事情はなく、その状況で無理な旧平価による金解禁を行って正貨流出を招くことは、産業振興に反することなので反対していた。若槻内閣が下野し、犬養内閣の蔵相となった高橋是清は、ためらないなく金本位制から離脱するのである。

 こうやってみていくと、当時の「金本位制」絶対主義の常識に取り付かれたのが井上準之助で、常識に囚われない柔軟な発想していたのが高橋是清だと評価できるだろう。    

 また、井上準之助の金解禁のタイミングは非常に悪かった。結果を知っている歴史家は、井上蔵相の金解禁は世界大恐慌という嵐に向かって窓を開けるような大失敗だと評価する。しかし、当時はそこまで不況ではなく、金解禁は一時的にデフレになっても最終的に景気回復する経済対策だと思われていた。でも、うまく誤魔化しながらもう少し先延ばししていれば、イギリスやアメリカも金本位制から離脱したんですよね。井上蔵相は仕事が出来過ぎた男だったのだ。見事な手腕で手早く金解禁して社会不安を呼び起こし、暗殺されてしまう。合掌。

 

 高橋是清がの手腕で金本位制から離脱して景気も回復させた。これで一安心だ!!!。

 

 と、なればいいんだけど。歴史を知る我々は高橋是清が暗殺されることを知っている。軍部のテロが相次ぎ、軍国主義化していくのである。それは次に書くとして、簡単に世界の情勢をまとめておきたい。

 

米国の動きーーー金本位制の離脱で世界経済は破局

 井上準之助が暗殺された1932年に行われた大統領選でフランクリン・ルーズベルトが当選、就任した。1929年10月の「暗黒の木曜日」(株式市場大暴落)から三年、失業率が上昇して深刻な恐慌になりつつあった31年秋から1年後であった。

 「暗黒の木曜日」はアメリカだけでなく世界的にもそれほど深刻に受け止められなかった。アメリカ人も米国の繁栄は永遠だと思い込んでいたし、日本も金解禁し、英国のイングランド銀行のノーマン総裁もこれで金本位制を離脱しないですんだと表明していた。米国の株価暴落は、他国の金本位制に有利に働くと見られていた*4

 米国の不況が大恐慌と認識されるようになったのは、「暗黒の木曜日」から二年後の1931年9月、ヨーロッパ銀行危機*5の影響を受けたドル切下げの思惑に対処するために、連邦銀行が引き締めを行い、金利が5%から11%に急騰したことで更に景気が悪化し、深刻な影響が出てきたためだ。失業者が1200万人を超えた。この状態の時に、満州事変が勃発したのだ。

 1933年4月、米国は金本位制を離脱した。

 第一次世界大戦後、アメリカは財政的に豊かになり、英国に代わって世界の国際通過制度の根幹である金本位制の中心となるべき立場に立っていた。米国連邦銀総裁やモルガン銀行のラモント総裁は国際的な金融危機に対処すべく金本位制の再建を求めていた。しかし、ルーズベルト大統領は正反対の決定を下した。

 世界の金の三分の一を保有し、旧平価を容易に維持しうると考えられた米国が金本位制から離脱し、更に1934年1月にドルの大幅引き下げを行ったことで、世界の金本位制は再起不能の状態となり、世界経済は破局に追いやられた。

ブロック経済

 歴史の教科書的に有名なのはこちらかもしれませんが、金本位制の崩壊と同時期に行われたのが英国のスターリング・ブロック経済だ。1932年8月に英国はオタワ協定を締結*6し、英国本国と自治領で得恵関税協定を結び、植民地を囲い込んだ。

 これにより、各国もあとに続き、国際的なブロック経済の流れが決定的になっていった。グローバル経済の秩序は失われていったのである。ここでのグローバリゼーション

低下は極めて根深く、「世界経済は1970年代まで、1914年の国際貿易の水準および投資水準に達しなかった」[ジョセフ・S・ナイ・ジュニア『国際紛争』]そうだ。

  第一次世界大戦までグローバルだった世界経済が、なぜ急速にブロック化したのだろうか。背景には「総力戦の思想」(経済戦の思想)があった。第一次大戦では、いかに多くの兵器・弾薬・軍需物資を生産して送り込むか、またいかに多くの資源を獲得して自給自足体制を築くかが勝敗の鍵を握ると考えられるようになった。その結果として生まれたのが「総力戦」という考え方であり、自給自足体制の構築という考え方であった。それで囲い込みをはじめるわけですね*7

 また、第一次世界大戦では、戦闘に負けていなかったドイツが経済封鎖によって負け、配線の結果、経済的に破局した厳しい現実は、戦争での経済封鎖の重要性に新たな認識をもたらしたそうだ。兵糧攻めで負けるのは本当に辛いですよね。日本の戦国時代をみていてもわかります。また、有効な手段だから利用されるわけです。

 欧米の総力戦思想を深刻に受け止めたのが永田鉄山石原莞爾だった。欧米諸国と比べて経済力で劣る日本に危機感を抱き、石原莞爾は持久戦争を想定して満州に確固たる基盤を築く体制(王道楽土)の確立を主張した。

 

 そうして日本は満州事変に突入していくのだ。

 

今日はここまで! 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    英国、金本位制を離脱

    東北地方の冷害・凶作

    満州事変

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 血盟団事件井上準之助団琢磨暗殺)

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 米国、金本位制離脱

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

 

 

*1:昭和6年度予算案は非募債主義を貫いたが、昭和6年9月に勃発した満州事変によって「満州事変公債」発行して守れなかった。270ページ

*2:この銀行名は初めて知ったのですが、ネットで検索しても情報は多くありません。感覚的にはリーマンブラザーズの倒産のような衝撃を世界に与えたようです。ネットではここに簡単な解説がありました。

1930年代 オーストリアのクレジット・アンシュタルト銀行の破綻は、国際金融恐慌を引き起こした。 hou

*3:

ja.m.wikipedia.org

*4:276

*5:クレジット・アンシュタルト銀行の倒産に端を発したヨーロッパ各国の銀行危機

*6:

kotobank.jp

*7:もちろんそれは恐慌をきっかけに金本位制が崩壊した浸透するわけですが。ていうか、ルーズベルト大統領の失策の責任を各国が背負ったとも言えますがどうなんでしょうか。