kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

【五・一五事件大幅修正】なぜ日本は戦争を選択したのか(14)金解禁不況からの回復と高橋是清の「健全財政」ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(10)(11)(12)では国際グローバルスタンダードであった金本位制が崩壊し、グローバル経済が維持できなくなりブロック経済化していった状況を説明した。当時の常識であった金本位制を維持するの政策によって各国はデフレと金利上昇に見舞われ、経済が悪化し社会不安が広がった。これが当時の大恐慌の概要である。そのような状況のなかで満州事変が起き、連動して第一次上海事件が起きる。当時の上海は極東最大の金融センターであり、英仏の租界地があったのだが、日本が軍事行動を起こしたことで欧米諸国は日本に対して厳しい態度を取った。日貨排斥運動は中国だけでなく世界各地に広がっていった。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 高橋財政については『恐慌に立ち向かった男高橋是清』を参照します。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

今回から松元崇さんの『持たざる国への道』も参照します。各項目にどちらの本を参考にしているか注記しておきます。

 

持たざる国への道 - あの戦争と大日本帝国の破綻 (中公文庫)

 

 

高橋是清の再登場ーーーインフレ政策へ転換*1

 満州事変から三ヶ月後の昭和6(1931)年12月に若槻内閣(民政党)は閣内不一致で総辞職し、憲政の常道*2に従って、野党第一党の党首、犬養毅(政友会)が組閣された。犬養の要請により高橋是清が蔵相に就任した。

 高橋蔵相は就任即日!、金輸出禁止を行った。二週間後には国際発行を財源とする満州事件費を計上した通貨予算案を行った。翌年の昭和7(1932)年1月には井上蔵相が予定していた増税の停止と減債基金の繰り入れ停止を盛り込んだ昭和7年度予算案を議会に提出。2月に総選挙が実施され、政友会は「不景気の民政党か景気の政友会か」と訴えて、大勝した(政友会171→303議席、民政会247→144議席)。この総選挙のさなかに井上元蔵相は暗殺された(血盟団事件)。

 選挙大勝を受け、高橋蔵相は財政政策の転換と満州事変の戦費調達のために国際の日銀引き受けを実施することを金融関係者に伝えた。同年6月には通貨発行限度額を従来の9倍近い10億円に引き上げ、10月からは強力な低金利政策を開始した。いわゆるインフレ政策に転換した。

 金融・財政政策は高橋蔵相の下、積極的に手を打ち順調に進んだが、総選挙から三ヶ月後、五一五事件で犬養毅首相は暗殺された。高橋是清は犬養首相暗殺後に身を引くつもりだったが、それを軍の予算抑制のために引き止めたのは、後継首相に任命された斎藤実だった。

 斎藤実海軍大将は、山県有朋亡き後に軍閥争いを展開した真崎甚三郎、林銑十郎宇垣一成といった陸軍の大将達とは一線を画した国際派の軍人だった。五一五事件のあとを受けて軍の暴走を抑える役を引き受けることになった。斎藤実は、在米公使館付き武官を務め、日米開始時に駐日米国大使だったグルーとは親友の間柄だった*3

井上準之助暗殺、第一次上海事変*4

 この総選挙の時期は日本のターニングポイントでした。総選挙のため選挙活動が行われた1月に第一次上海事変が起こります。

 前回書いたように上海事変で欧米諸国は厳しい態度に変わります。親日家のラモント・モルガン銀行総裁の態度を変える大きな事件でした。そして、もう一つ、ラモントの怒りを買ったのは井上準之助の暗殺でした(上海事変が勃発した10日後に井上準之助が暗殺)。井上は「東京を東洋のロンドンに」という構想をもった国際的な金融家であり、ラモントと親交があったのだ。

 実はラモントが満州事変擁護論を繰り広げていたのも、井上蔵相の対米世論工作を支援したいという思惑があったからだった*5。ラモントは、井上暗殺を知り、「真の信頼しうる友人達を失った」「日本にとっては賢明な助言者たちを失った」と語っている*6。ラモントは反日へ転向した。

 尚、第一次上海事変は、日英関係にも大きな影響を与えた。日英同盟以来、良好な関係であり、英国は第一次上海事変まで日中の紛争回避の方針だったが、事変後は態度を一変させた。

満州事変と五・一五事件

 なぜ五・一五事件犬養毅は暗殺されたのだろうか。松元崇さんの高橋是清本では、農村と都市の極端な各社社会が背景にあったと説明*7するが、『決定版日中戦争』では満州国設立に反対していたからと説明している。以下、『決定版日中戦争』第1章(戸部良一)を参考に説明を加えたい。

決定版 日中戦争 (新潮新書)

 関東軍は武力を発動したものの、満州をどうするのか陸軍内にコンセンサスは無かったという*8満州事変以前の参謀本部の情勢判断では、①親日地方独立政権の樹立、②独立国家の樹立、③日本による領有の三案が検討されていた。領有案は陸軍においても強い抵抗があり、親日の地方独立政権は張学良のように軍閥化してしまう可能性があった。そのため独立国家樹立案に傾いていった。

 しかし、独立国家樹立案は国策として確定した方針ではなかった犬養毅は、辛亥革命以前から中国の革命に共感を寄せ、孫文などの革命家を援助してきたことから、独立国家樹立案には反対だった*9。 

 犬養毅は政権について早速、中国政府と交渉し、「満州における中国の主権を認めたうえで自治政権をつくり、国民政府に排日行為の完全禁止を確約させ、日本人の土地商祖権や居住・営業の自由を認めさせ、日中対等の立場で共同して満州の開発に当たる」(27)という解決案(犬養構想)をもっていた。しかし、軍部からは激しい反対にあい、そうこうしているうちに昭和7(1932)年3月に満州国が建国されてしまう。

 しかし、日本政府が直ちに満州国を独立国家として承認したわわけではなかった*10!。犬養首相は独立国家を樹立すれば必ず九カ国条約と正面衝突するので、独立政権にとどめるべきだと考えていた。現状はまだ独立政権段階と見なし、当面は国家承認は行わないと閣議決定している(建国後10日後に)。犬養内閣は、建国以後でさえ、国家承認には最後までゴーサインを出さなかった*11

 五・一五事件犬養毅が暗殺されると、事態が一気に動き出す。6月の衆議院は満場一致で満州国承認決議案を可決、後継の斎藤見実内閣は8月の議会答弁で「日本は国土を焦土にしても主張を貫く」と述べ、満州国を承認した*12。そして、9月15日、日本は日満議定書を調印して満州国を正式に承認したのだった。

 しかし、なんでこんなに焦って暗殺し、承認を急がせたのだろうか。それは、律トン調査団が国際連盟に報告書を提出し、解決案を提示される「前に」満州国を承認しておきたかったのだ。つまり、国際連盟の解決案には左右されないことを誇示するための満州国の承認だった*13

 では、リットン報告書はどのような内容のものだったのか。報告書は関東軍の行動を自衛の範囲内であるものとは認めず、民族自決の原則で満州国を正当化しようとする主張を否定する一方で、事変前への現状回復が望ましいとも論じなかった*14。報告書は、中国の主権と領土保全という普遍的な原則を前提としながら、軍閥を排し、満州における日本の権益と歴史的な関わりなど、特殊な地域事情に配慮した妥当な解決構想であった*15。あーあ。。。早まっちゃったよね。。。

 事件の起こった当日は、喜劇王チャップリン来日で連日の大騒ぎであり、犬養首相の子息がチャップリンと相撲見物を案内し、そのあとには首相との晩餐会も予定されていた。その相撲見物中に起こったのが五・一五事件だった*16

 上海事変や相次ぐ暗殺と歴史は暗い方へと進んでいるが、当時の都市部の景気は良く豊かさを享受して浮かれていた。犬養毅の抵抗も虚しく、暗殺されて除外されると、満州国は満場一致で可決されるのであった。。。歴史の分岐点だったと気づかずに。。。

 少し先の話になるが、なぜ日本が国際連盟を脱退(1933年2月)したのかまとめておきたい。脱退は近代史家にとっても不明点が多く確定した説はないが、一説によれば、熱河作戦が華北に波及すると国際連盟は制裁発動するのではないかと推測したらしい*17。連盟の一員でなくなれば制裁を受ける根拠はなくなり、対日制裁をめぐる列国との軋轢を避けることができると考えられたようだ*18。しかし、連盟脱退によって欧米諸国だけでなく、南米やアフリカ諸国にまで差別的待遇の扱いをうけるハメになったことは、シリーズ(13)で書きました*19。連盟脱退で世界的に日貨排斥が広がっていったのである。

 

※松元崇さんは斎藤実を「軍の暴走を抑える役を引き受けた」と肯定的に評価しているが、戸部良一の論文では満州国承認を苛烈に推進する答弁を紹介しており、二人の評価は分かれている。私には判断がつかないので、そのまま調整せず記載した。

高橋是清満州の評価*20

 高橋是清満州事変の評価を見てみよう。高橋是清は、満州事変後も満州が中国の一部であるという考え方を堅持した。事変後はマスコミや国民は満州国を属国視するようになるが。そのような中でも高橋是清は「満州は外国だということを忘れてはいけない」と説きつづけたそうだ*21高橋是清は、昭和7年、満州国の幣制改革の担当者として送り出す大蔵省の面々(星野直樹ほか*22)を私邸に招いて以下のように説示したそうだ。

あそこに日本を作るのではなくして、中国人のほんとうの国をつくるのだ・・・・・・日本の利益をはかるのを、第一としてはいけない。満州国人の身になって、満州国人の幸福を図らなければいけない。それがまた結局、ほんとうの日本の利益となるのだ。日本だけの利益をはかるのが、愛国心などと思っている者がある。(中略)困ったことだ。こんな連中のために、日本がどんなに損しているかわからない。

藤村欣市朗『高橋是清と国際金融(下)』*23

 高橋是清の慧眼は歴史が証明しているだろう。また、犬養毅と同じ思いを共有していたと感じられる。

 

高橋財政ーーー戦前最後の「健全財政」*24

 斎藤内閣で続投した高橋是清は、時局匡救事業(農村救済策)を打ち出すすとともに、昭和8(1933)年度予算編成については、一転して厳しい歳出削減を各省に求めた。高橋蔵相は、そのために大好きなタバコ断ちをした。そこまでの決意をして挑んだ背景には、五一五事件以降、国民世論の軍への期待が高くなっていた状況下で、陸海軍予算の増加を抑えなければならないとの事情があった。

 昭和8年予算の概算請求では、陸海軍からの軍事予算は29億円の大幅増額要求だったが、折衝を重ねて最終的には22億3900万(公債依存8億9520万円)円となった。この時点では軍部も減額に応じていたのだ。

 昭和8年度予算案は22億3900万円という額は井上準之助が編成した前年度予算案(14億7900万円)の5割もの増額であった。そのことから新聞は「日本はじまって以来の非常時予算*25」と書き立てたことで、高橋是清は積極財政論者というイメージをもたれた。

 しかし、昭和8年度予算案の増加部分の大半は満州事件費など臨時的な者が大半であって、軍事費を除いて比較しても6.5%の増加であり、実質的にはマイナス予算だった*26

 世の中が積極財政予算と受け止めたことについて、西野喜代作(同時代の経済ジャーナリスト)は「今までの予算はなるべく少ないように発表したが、この時は努めて大きく発表したからだ*27の引用文を再引用)と述べている。

軍事費除き厳しいマイナス・シーリング予算*28

 高橋財政時代の一般会計歳出額は、昭和8年度からニニ六事件で高橋是清が暗殺される昭和11年度予算編成まで、約22億円で横這いとなっている。表を添付しておきます*29

f:id:kyoyamayuko:20210901101140j:plain

高橋財政下における一般会計歳出額と軍事費の推移

 その実態は、経済が順調に回復する中で、軍事費については経済成長率並の伸びを認め(国民総生産に占める比率は5.6%で横ばい)、軍事費以外は厳しいマイナス・シーリングをかけたものだった。軍事費を除く一般会計歳出額が国民総生産に占め比率は、昭和7年度の9.25%から昭和11年度の6.13%へと三分の二に縮小していったのである。実は、井上蔵相下の昭和3年度の軍事費を除いた一般会計歳出額を下回っていた*30

 高橋是清が金解禁後の恐慌から経済回復させるために打ち出していたのは、実は明治憲法下の伝統的な健全財政路線だった。それは、何としても軍部の暴走を抑えるために軍事費を抑制しなければならないという高橋是清信念からのものだった*31

 高橋是清は、「財政規律」で軍事費を管理することで軍部の暴走に歯止めをかけていた。しかし、その歯止めが無くなるのだ。ニニ六事件で高橋是清は暗殺される。。。

 

今日はここまで!

ついに、軍部を歯止めるものがなくなってしまう。。。その結果、どうなっていくのか見ていこう。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    日本、金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

    イギリス、大戦で離脱していた金本位制に復活

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

    フランス、金本位制に復活

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    日本、金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    米国、スムート・ホーリー関税法、成立

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 クレジット・アンシュタルト銀行倒産(世界的な金融不安の始まり)

    満州万宝山事件、中国全土への排日運動の広がり

    満州事変、日貨排斥運動の広がり

    英国、金本位制を離脱(満州事変の二日後)

    若槻内閣崩壊、犬養内閣樹立(高橋是清蔵相)

    日本、金本位制離脱    

1932年 第一次上海事件(対日観の激変)

    井上準之助暗殺(血盟団事件、3月には団琢磨暗殺)

    総選挙、政友会が大勝、選挙中に井上順之助暗殺

    満州国建国

    五・一五事件犬養毅暗殺)

    日満議定書調印、満州国を承認

    リットン調査団、報告書を国際連盟に提出

    英国、オタワ協定を締結、スターリング・ブロック形成

1933年 国際連盟脱退

    米国、金本位制離脱

    ドイツ、国際連盟脱退

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:この項目は『恐慌に立ち向かった男高橋是清』13章を参考にまとめています。

*2:天皇による内閣総理大臣や各国務大臣の任命(大命降下)において、衆議院での第一党となった政党党首内閣総理大臣とし組閣がなされるべきこと。また、その内閣が失政によって倒れたときは、組閣の命令は野党第一党の党首に下されるべきこと。そして政権交代の前か後には衆議院議員総選挙があり、国民が選択する機会が与えられること。」とするもの憲政の常道 - Wikipedia

*3:斎藤実はニニ六事件で暗殺されるので、日米開戦時に既に草葉の陰の人でした。惜しい人を暗殺したのでした。

*4:この項目は『持たざる国への道』を参考にまとめていきます。

*5:電書ロケーション4403の697

*6:同上ページから引用

*7:327ー327

*8:24

*9:同書26ページ

*10:28

*11:28

*12:29

*13:以上の解説は同所29ページをまとめたもの

*14:29

*15:30

*16:この段落は松元崇の高橋是清本参照

*17:33ページ『決定版日中戦争

*18:同上33ー34

*19:

kyoyamayuko.hatenablog.com

*20:高橋是清本参照:318ー319

*21:318

*22:この面々の中には以前blogにした古海忠之も含まれる。当時の大蔵省官僚の雰囲気を感じることができる。古海は最初は乗り気ではなかったんですよね。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*23:319の引用を再引用。

*24:高橋是清本を参照にしています

*25:332:以降、「非常時」という言葉が頻繁に使われるようになったという。

*26:332:こういうきめ細やかな財政分析が松元崇さんの本領発揮ですよね。

*27:333:大蔵大臣官房調査企画課編『大蔵大臣の思い出』

*28:高橋是清本を参照

*29:334:13ー1表

*30:335

*31:336