kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(10)金解禁不況、ロンドン軍縮会議と統帥権干犯ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 

(8)では平和外交(=軟弱外交)から積極外交に転換し、不穏な中国情勢に対応して出兵した結果、日本人居留民が惨殺された済南事件が起こり国内世論は中国へ厳しい目が向けられるなか張作霖爆殺事件が起こる。(9)では日露戦争後、地方では行政費用が増加し、増税した。第一次大戦景気では二次産業が好調で都市部を中心に豊かになったが、それは相対的に農村部の経済力低下を意味し、地方の増税負担は大きく、地域格差が広がり、農村は困窮した。

 

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今回も松元崇さんの本の第10章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

金本位制度とはーーー金解禁は経済活性化策という当時の常識

 金本位制は今はない制度なので理解するのが難しいのですが、そういうもんなのかと思って読んでもらうとありがたいです。

 当時、金本位制は、それに参加していることがその国のマクロ経済運営の良好さを示す「認定証(Seal of Good Housekeeping)」と見なされていた。戦争といった偶発的事情により一時的な離脱はやむを得ないとしても、早急に離脱前の「旧平価」で金本位制に復帰するのが一流国のあり方だった*1

 例えば英国は第一次大戦後の1925年に旧平価で金本位制に復帰したが、その結果、石炭不況に見舞われ、ゼネストまで起こったが、英国政府は金本位制復帰が英国経済に与えた影響は良いことずくめだとしていた。この時の蔵相はウィンストン・チャールズだ。

 これまでのシリーズでも見てきたように金解禁は外貨流出して経済が悪化するわけだが、それは今の常識から分かるのであって当時は「金本位制は一流国の証であり、経済にとってよいもの」という常識があったと理解して読み進めてほしい。今の常識で判断するとなぜ金解禁するのか理解できないので。私もどこまで理解できているのか自信ありません。。。 

 というわけで、世界大戦後の不況で経済悪化していた日本だったが、経済回復するためには「金解禁が切り札」と経済活性化策として国もマスコミを考えていた。

国際的な金解禁の流れ

 第一次世界大戦後、米国を皮切りに各国が順次金本位制に復帰していった。日本も大正6(1917)年に停止した金本位制にいつ復帰するのかが課題となった。大正12(1923)年には高橋財政のもと貿易収支は堅調となり、為替相場も旧平価の水準(対米49ドル台)に回復したことから金解禁を実施しようとした。が、関東大震災が起こり金解禁は中止された*2。大正14(1925)年に英国が復帰したので、日本も復帰を検討したが昭和2(1927)年の昭和金融恐慌で復帰を断念した。

 昭和3(1928)年にフランスが復帰すると、日本だけが国際的な金本位制に取り残されることになった。そのため、日本も金解禁近しとの思惑から円投機(円買い)を生んだ。円投機が過熱して外国貿易が投機化し、安定した貿易が難しい状況になってしまった。世論は金解禁一色になっていった。

 というわけで、金解禁は国内外から当然の流れとして受け止められた。問題は「旧平価」か「新平価」のどちらで金解禁を行うかだった。旧平価で金解禁を行うためには、輸出急減・輸入急増で正貨流出を招かない体質にする必要がある。具体的に言うと、国内経済を緊縮財政と国民の消費節約にしてデフレ政策にし、人為的に為替レートを大幅に切り上げる必要があった*3

金解禁のためのデフレ政策

 金解禁政策の与野党対立が激化し、昭和5年2月に金解禁の是非を問うために総選挙が行われた。その結果、与党が大勝し(民政党273、政友会174)、金解禁政策は国民の支持を得たと理解できる。

 金解禁を行うために井上準之介蔵相(濱口雄幸内閣)はデフレ政策を実行し、公債に依存しないで予算編成を行う「非募債主義」*4を選択した。この方針の下、財政規模は実額で昭和3年度の18億1000万円から昭和6年度には14億7000万円へと約2割が縮減された。このデフレ政策は松方デフレよりも厳しいものであり、消費者物価指数が大正10(1921)年度から昭和6(1931)年にかけて30%下落した。

 なお、明治憲法下で非募債予算を編成したのは4回だけであった(明治28年度、明治42年度、昭和5年度、6年度で昭和時代は井上蔵相時代)。昭和5年11月には濱口雄幸首相は狙撃され退陣したが、それでも非募債主義予算を貫いた。

 非募債主義予算は濱口雄幸内閣がテロで倒れた後は若槻内閣が引き継ぎ、料亭政治を廃止し官吏の給与の1割減を実施した。官吏給与の減俸は文官だけでなく軍官にも直撃した。

 また、これまでのシリーズで見てきたように緊縮財政といえば軍縮であり、軍縮将官ポストを大幅に減らされた。昇進が極度に遅れていた軍人にとってこのときの官吏減俸は特に厳しいもので多くの軍人の生活を直撃した*5

 金解禁のための緊縮財政による厳しい軍事費抑制が統帥権干犯問題へつながってくる。

景気の激しい落ち込み 

 金解禁のための円高と緊縮財政で景気は悪化し、井上蔵相は更に節約を行ったが、結局、大幅な税収の落ち込みで歳入不足となり非募債主義は守れなかった。。。

 そして、失業者が増大し大学生は就職先は無く、各地で大規模ストライキが起こった。前回のシリーズ(9)で書いた農村は更に疲弊した。景気悪化が都市労働者を直撃し、失業した労働者は農村に帰らざるをえず疲弊するなか、昭和5年は大豊作による農作貧乏に、6年には東北地方の冷害・凶作となり追い撃ちをかけた。

ロンドン軍縮会議統帥権干犯問題

 時間を金解禁直後まで巻き戻そう。浜口雄幸がまだ襲撃される前です。

 ロンドン軍縮会議(大正5年1月~4月)は、英仏からも首相が全権として参加する国際的な重要な会議であり、日本からは財部彪海相とともに若槻礼次郎元首相が参加した。

 当時の軍部はそれほど強くなく、世界的な流れである軍縮を阻止するだけの力は無かった。海軍内部の海軍大臣(のちの条約派)と海軍軍令部長(のちの艦隊派)の対立があり、財部海相は、当時の日本の国力、実力から軍縮やむなしとしていた*6

  同年4月に行われた加藤宏治軍令部長は帷幄上奏を行った。一回目の上奏は鈴木貫太郎従事長に阻止され、二回目は昭和天皇に直接上奏できたが、昭和天皇は財部海相を呼び「加藤がこういうものを持ってきていろいろ言ったが、話の筋合いが違う、加藤の進退についてはお前に一任する」と言われ、加藤軍令部長は更迭されて終わった*7

 このように失敗に終わった帷幄上奏の問題からなぜ統帥権干犯問題に発展したのだろうか。それは、総選挙で大敗した政友会が4月の帝国議会の審議で取り上げたことで政治問題化したからだ。この帷幄上奏を政友会や枢密院が取り上げて政府攻撃に利用した

 政府攻撃の先頭に立ったのは、犬養毅鳩山一郎といった政党幹部と枢密院であった。海軍の条約反対派や政友会の攻撃に対して濱口首相は、「統帥権」を持ち出しての批判に対して『憲法上、統帥権も、兵力決定権も、条約締結権の、天皇の大権であり、一つの大権が他の大権を侵犯することはありえない」と反論し、元老の西園寺も反対派の牙城である枢密院が「不条理なことを言うならば、総理は職権をもって枢密院議長、副議長を罷免してもよい」と濱口首相をバックアップした。マスコミの論調も「統帥権干犯などという犬養や鳩山の言い分は、野党ゆえ倒閣を目論んで言っているだけである」といったものだった*8

 濱口内閣から意見を求められた憲法学者美濃部達吉は、憲法理論に基づいて、条約は内閣が決めるものであること、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり軍令部が口を出すべきことがらではないと述べた。このことが、のちに美濃部達吉天皇機関説が軍部によって攻撃される伏線となった*9

 濱口首相は「たとえ玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べて正面からロンドン軍縮会議の批准を図った。これが有名な濱口雄幸の男子の本懐である。 

条約批准による軍縮で浮いた財源

 ロンドン軍縮会議がまとまり若槻全権が帰国すると、歓迎する民衆は東京駅を埋めたという。金解禁不況のどん底で、国民は軍縮によって建艦費が節減され、その分減税されることを望んでいた!。各新聞も軍縮を強く支持していた。

 昭和6年度の予算編成は、軍縮で浮いた財源(5億8000万円)をどう使うかが大きな問題となった。国民負担を軽減するために地租や営業収益税に充てたいという大蔵省に対して海軍は軍縮会議で制限されていない部分の軍備拡充に充てたいと主張し、折衝が行われた。その結果、減税分は1億3400万円、残りは海軍費に充当された。

 軍縮で浮いた財源は軍備拡充と減税に充てられ歳出削減につながらなかった。非募債予算を貫くために、一層の歳出削減が求められ、人件費を更に削減してなんとか非募債予算編成を行った。その中身は、失業救策事業の財源を実質的に道路公債の発行で賄うことになった。

 ちょっとよくわからないんですけど、非募債予算のために道路公債を横流ししたということなんですかね?非募債を貫いてなくない?ともいえるが、ギリギリのところで非募債予算を編成したのだ。その結果については先に書きましたが、想定を超える税収の落ち込みで歳入不足に陥るのであった。

スムート・ホーリー関税法の成立ーーー世界経済が混乱

 アメリカは1930年6月に産業保護のための関税法、スムート・ホーリー関税法*10を成立させたが、これにより世界経済が一気に悪化した。同法は産業保護のため関税を50%(米国史上最高水準)まで引き上げるとしたもので、それに対して英国やドイツなど二十五ヶ国が報復措置に乗り出した。その結果、その後3年間で世界貿易の規模が三分の一に縮小する結果となった。

 金解禁で景気後退した日本にとっても大きな打撃だった。日本の輸出も生糸をはじめとして約3割減少した。

 このような混乱のなかで大正5年11月、濱口雄幸首相は右翼の青年に狙撃される。命だけは助かったが、議会で野党の批判に応じるために無理を押して登院し、体調を崩して内閣を退陣、その後亡くなってしまう*11。まだ61歳だった。

 濱口雄幸が亡くなった昭和6年8月の半月後に起こったのが満州事変だった。

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濱口雄幸

※写真は“ライオン宰相”とよばれた浜口雄幸 | 文春写真館 - 本の話から引用しました。

 

 濱口雄幸に敬意を表して写真を掲載。濱口雄幸軍縮会議締結に反対する枢密院を押さえ込むことによって藩閥勢力最後の砦であった枢密院の力を失わせて、政党政治による国家システムの全体的なコントロールがほぼ可能となる体制、議会制的君主制の仕組みを完成させた、と評価されているそうだ*12

 今を生きる我々はここが頂点で転落するのを知っている。ここまで政党政治が機能していたのに、なぜ軍国主義になっていったのだろうか。

 

今日はここまで!

 

 

この複雑な流れをどうひもとけば戦争を選択せずにすんだのだろうか。

 金解禁なんかしなければよかったのに、と思うのは現在の経済理論を知るものの目線だ。当時は金解禁がデフォであり正しい道だった。金解禁すればデフレになるが、金解禁をしなければ一流国とはみなされない。

 この当時はまだ軍部がそれほど強いわけではなかった。統帥権干犯の問題もある意味、戦前に成熟した政党政治文化があった証拠だろう。戦前の日本は戦後の国会のように議論が活発だったと言えるかもしれない。テロはあったが、まだ「軍国主義」国家ではない。政治が軍を統制していたのだ。。。とはいえ、野党が軍を味方につけて統帥権干犯問題を責め立てたことで、軍はこのロジックを学んでしまったのだ。。。

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 東北地方の冷害・凶作

    満州事変    

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:249

*2:復興物資購入のため外貨が流出した。金解禁ができる状況ではなくなった。詳しくはこちらをどうぞ。

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*3:251ー252

*4:252

*5:当時の軍人の昇進の遅れは、陸軍では40才を過ぎてようやく少佐という実態だった。255

*6:263ー264

*7:264。昭和天皇の発言は松本清張『昭和史発掘(5)』から引用している

*8:264ー265、「」の発言は半藤一利『昭和史』から引用している。

*9:以上、265

*10:共和党政権となり、保護貿易政策がとられた。トランプ大統領を知る我々はこの保護貿易の恐ろしさを知っていますよね。アメリカン・ファーストは世界経済の崩壊の始まりです。スムート・ホーリー関税法 - Wikipedia

*11:濱口雄幸 - Wikipedia

Wikipediaの情報で恐縮だが、右翼の青年佐郷屋留雄は死刑判決が下されるが、翌年には恩赦で無期懲役に,1940年に仮出所している。首相を狙ったテロなのに処分が甘い。彼は1972年まで生きていました。右翼青年は「統帥権を干犯した」ことを理由に犯行に及んだが、統帥権の意味は知らなかった。関係者も軽い罪だった。

*12:268

なぜ日本は戦争を選択したのか(9)地方税の増税と都市との格差拡大で疲弊する農村ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(7)では内政重視の平和外交=軟弱外交で悪化した財政を立て直すために緊縮財政(軍縮)をすすめ、複雑化する中国の混乱に不介入を貫いたことで、枢密院や陸軍の不満が高まっていった。昭和恐慌の対応で失敗し、与党の憲政会が下野し、政友会が与党となり、昭和恐慌の対策を講じた。(8)では不穏な中国大陸情勢に対して与党になった政友会は積極外交を選択し、居留民を守るために出兵したが済南事件が起こり、国内世論は中国への批判が高まる中、蒋介石に負けた張作霖満州へ帰る途上で陸軍に爆殺された。張作霖は当時の首相田中義一とも顔見知りで、田中の呼びかけに応じて帰途する途上で陸軍に爆殺されたことにショックを受けた田中義一は、陸軍を批判するも最終的に責任を取り辞任、心労が祟ったのか亡くなってしまう。

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 ドラマチックな展開していますが史実なんです。不穏な流れになりつつあります。今回も松元崇さんの本の第9章を中心にまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 今回は財政の話が中心になるが、何のために地方の疲弊について書くのかというと、農村の疲弊が軍部への期待とつながるからです。農村が疲弊し、どのように地域格差が広がったのかが今回の焦点です。ややこしい話が続くので前置きしておきます。

地方の行政事務費の増大

 大正8(1919)年、原内閣の高橋是清蔵相は地租及び営業税の地方への税源委譲を訴え、政友会の公約に掲げていた。しかし、関東大震災の影響で地租委譲案は先送りされ、最終的に廃案となった。

 税源委譲案の背景にあったのが、日露戦争後や第一次世界大戦後に新たに増大した行政需要を地方が負担していたという問題があった*1

 日露戦争は賠償金が得られず財政的な負け戦だった。新たに増えた地方事務について国は財源措置を行う余裕がなかった。国の財政は軍事費と公債費に追われ内政のための支出が捻出できず、増大した事務費は地方が自前の税負担で賄うしかなかった。 日露戦争増税し、借金して財政的に綱渡りな戦争だったことはこちらにまとめましたが、その重ねたムリのツケを払ったのが地方だった。  

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 第一次世界大戦で大戦景気が起こると、地方歳出は大幅に増加した。大正4(1915)年度に3億円程度だった地方歳出は、8年度には6億円、11年度には13億円台と国家歳出の伸びをはかるかに超える増加を見せた。たった7年で4倍に膨らんでいる!。明治期の地方歳出は国の半分程度だったが、大正11(1922)年度には国の歳出規模を超えてしまったのだ。

 その背景にあったのが、教育費の増加と国の社会立法による国政委任事務費の増加であった。当時の内閣、若槻内閣は国政委任事務の過重と財源の欠乏について「是は急に世界に於ける一等国の地位を得てそれ相当の設備をして行かねばならぬ国になった日本の国情としては、どうもやむを得ない」*2と答弁している。大戦景気で一等国になった日本が、一等国に相応しい国にするための必要経費ということなのでしょうか。

 一番伸びたのは教育費だったが、それに加えて衛生費、や産業経済費、社会事業費を合わせた歳出が地方の歳出総額に占める比率は、大正3年度の34.8%から、大正13年度には40.1%に増加した。10年で5ポイント増加。

地方附加税の大増税

 伸びた地方歳出を賄うために行ったことは、地方税増税を可能にするために

地方税に課していた課税制限を緩和することであった。

 地租、営業税、所得税(以下、三国税)に対する地方附加税への制限税率を、それまでに比べて府県について8割増し、市町村について6割増しとした(大正8年)。これにより増税し三国税は増収したが、増大する地方の財政需要に追いつかなかった。大正9年には更に地方附加税の制限税率を緩和し、大戦前と比べると三倍以上の増税を可能にした。

 大戦景気で経済規模が約3倍になっていたためこの増税は順当のように思われるが*3第一次世界大戦景気で経済発展したのは二次産業であり、都市を中心としたものであった。経済発展から取り残された農村部にとっては、極めて重い負担を意味するものだった。

地方独立税の大増税

 三倍以上になった地方附加税よりもっと重い負担だったのが地方独立税だ。地方独立税は府県税戸数割を中心にした税である。

 地方税総額は大正2年(1913)度の1億8000万円だったのに対して大正10(1921)年度には6億3000万円と約3.5倍となったが、そのうち国税への附加税の増税で増加した分は1億4000万円で、残りの3億円は地方独立税の増税によるものだった。三倍もの増税が行われた国附加税のさらに倍以上の額の増税が地方独立税で行われた。特に、増税の標的となったのは府県税戸数割とそれに対する市町村の附加税だった。

 とんでもない大増税だった。もちろん住民の反発を買ったことから地方への税金委譲は進めようとしたが、上記した通り、関東大震災の影響もあり実施されなかった。

自治体破産

 増税し、超過課税を行っても歳出増大のペースが速く、県の税収が県の全歳入に占める比率は約3割、市町村においては2割を切るまでに落ち込んでいった。そのような中で増加したのが地方債発行による歳入だった。ようするに借金で不足分を補ったのだ。

 地方債発行の増加は目覚ましい。大正8(1919)年度には8000万円だった地方債は昭和2(1927)年度には6億4600万円まで急増した。借金だのみの地方財政は昭和5、6(1930ー31)年頃から地方債の償還不能という形で表れた。

 そのような状況の中、大規模な公共事業の失敗による自治体破産が起こった。北海道留萌町である*4。留萌港の拡張工事のため大正10年に内務省、大蔵省の許可を得て起債

し、13の保険会社が共同融資を行ったが、不況の深刻化で返済不能に陥ったのである。債権者は世論の動向を考慮して強制執行はせず話し合いが進められ、最終的には10年度に北海道長官の斡旋で町有地による代物弁済と当該土地への町税免除を条件に和解した。なお、留萌町の破産に対して国は肩代わりを拒否した。ひ。ひどい。。。戦前から試される大地です。。。なんとなく留萌が荒んでいる理由がわかったかも。。。

国は実質大減税だった!

 ちょっと信じられないのだけど、地方がこれだけ大増税だったのにも関わらず、国は実質的な大減税が行われ、国と地方を合わせた全体としての政府規模は縮小していた!そのことは、実は国は増税しようと思えばその余地はあったことを意味する*5、という。おいおい、勘弁してくれよ。

 実質減税のからくりはこうだ。大戦景気でGDPが三倍に伸びたが、それは「定額」だった地租等の国税の実質的な大減税をもたらし、国の実質的な歳出規模の縮小をもたらした。大正3年度から13年度にかけて国の歳出総額がGDPに占める割合は13.7%から10.4%に低下した。国と地方を合わせた歳出規模はGDPの20.6%から18.9%と.1.7%低下した。これは金額にすると8.6兆円分、小さな政府になったことを意味する。なにしてるの!ここにお金があるのに、地方は増税して国は実質減税でキャッシュが浮いているやん!

 国は自ら増税せず地方に増税を求めていった背後には、国税である地租が実質大減税が行われて、農村の担税力がその分上昇していたことを意味する。第一次世界大戦で製造業を中心に三倍の経済成長を実現したが、それは農村部の相対的な経済力が3分の1へと縮小したことを意味した。都市の担税力が大きく伸びるなかで農村部の担税力は縮小した。その中で、都市部は実質減税で農村部は重税となり、地域格差が大きく開くことになる。そりゃぁ農村が疲弊するよ。。。

国土の不均衡発展と地方財政の窮乏*6

 どのくらい地方格差があったのか。松元崇『恐慌に立ち向かった男高橋是清』の243ページを参照したい。表の写真を張り付けます。余裕があるときにきれいな写真に代えます。すみません。

 

https://photos.app.goo.gl/iuDKpYZV3HVxqJjE9

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 全国一律の税率で徴収される直接国税に対しての地方税の割合は、東京、大阪に対して、岩手、青森、鳥取は4.1倍から5倍の開きがあります。東京府の直接国税額は岩手、青森。鳥取の50ー70倍の金額になっていた。つまり、東京、大阪を中心に直接国税増税していれば、地方の大増税は相当程度抑えられていた、と著者はいう。マジか。。。なんでしなかったんや。。。

 なお、この時期の沖縄は大戦後の恐慌で砂糖相場暴落し、経済も財政も悪化し、餓えてソテツの皮を食べるほどに大変な状況に陥った。毒のあるソテツの皮で死亡する者も多く、困窮した住民は本土や海外へ移住を余儀なくされ、身売りも公然と行われたという。

不在地主制度の成立

 「不在地主」という言葉はプロレタリア作家・小林多喜二の小説で知ったが、この時代に成立するんですね。不在地主は江戸時代には無かった。

 不在地主制度が成立したのは、地租が金納に対して小作料が物納だったことで発生する。小作人は米を物納するが、地主は米相場の影響を受けて米を換金して金納する。米価の高騰は地主に利益をもたらすが、小作には影響しなかった。米価高騰の受益を小作人は物納するため受けなかったのである。また、米価高騰すればするほど、それは地租の減税を意味した。地租は「定額」なので、米価が上がれば上がるほど減税を意味し、地主は富を得たのだ。豊かになった地主は土地を手放さざるを得ない農民から土地を買上げ小作人にして支配することになる。こうやって搾取システムが成立したんですね。江戸時代には無かった不在地主の成立だ。

 不在地主やその子弟は小作人の貧困をよそに飛躍的に向上した経済力を背景として都市での生活を楽しむようになった。夏目漱石の小説に出てくる「高等遊民」び登場だ。しかし、それは朝ドラ「おしん」のような窮乏した農村とセットだったのだ*7

 

 困窮した農村、農民は軍部の満州進出を支持母体となる。シティライフを堪能する都市と農村は乖離し、農村には絶望と怨嗟が募る。税制の不均衡は地域格差を生み出し、外へ希望を見出だすしかなくなるのだ。

 

 

今日はここまで!

*1:232

*2:246注5を引用

*3:234、松元崇さんの主張です

*4:ネットでググっても留萌町の破産の情報はないし、留萌市のHPの市のあゆみにも記載していません。負の歴史も残しておいた方が今後のためだと思うんですがね。。。更に検索してみたところこのような論文を発見した。地方債デフォルトの過程がよくわかりました。

https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&url=https://shiga-u.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D7255%26file_id%3D19%26file_no%3D1%26nc_session%3D5o02v3s8g3tasppm218qndfp30%2520target%3D&ved=2ahUKEwiEs6abhsnyAhVEfXAKHUXLAi0QFnoECAMQAQ&usg=AOvVaw1fuX8P6Cs_YGarTf3x5Ns0

*5:239

*6:241タイトル引用

*7:244ー245

なぜ日本は戦争を選択したのか(8)中国の排日と日本の「暴支鷹懲」の悪循環の始まりーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(7)では与党の憲政会はが緊縮財政と平和外交で内政重視の政策を行い、関東大震災の震災手形の処理を始めたが、与野党の対立が激化して信用不安が起きた。同時期、中国大陸では蒋介石が第一次北伐を開始、南京を占拠して居留民に迫害を加えた(1927南京事件)が、平和外交を楯に介入しなかった。政府は台湾銀行に対する信用不安に備えるために日銀に補償を求め、日銀は政府に損失保障を求めたが議会は閉会していたため緊急勅令で対応しようとしたが、枢密院は否決した。枢密院は南京事件の対応に強い不満を抱いたためだった。これにより憲政会は下野し、政友会が与党となった。田中内閣が成立し、高橋是清が蔵相に就任、緊急勅令が可決され、金融不安に対応し、収束していった。

 

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今回も松元崇さんの本の9章を参考にまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 第二次山東出兵・済南事件ーーー中国の排日と日本の「暴支鷹懲」の悪循環の始まり

 憲政会の若槻内閣は中国軟弱外交(別名は平和外交)を批判されて下野したこともあり、政友会の田中内閣は中国に対して強行外交に転換し、居留民保護に積極的だった。蒋介石は第二次北伐を開始し、昭和3(1928)年4月に第二次山東出兵では本土から派遣を行った。

 第一次北伐のときは英国は日本と権益がかぶり共通行動を要請してきたが、第二次北伐のときは英国の権益に抵触しない形で行われたために日本単独の出兵になった。本土から派遣軍がだされたなかで起こったのが日本人居留民が惨殺される済南事件だった。

 

ja.m.wikipedia.org

 済南事件は死者12名、被害者400名の大きな事件であり、殺害方法が残酷だったことから日本国内では「暴支鷹懲(暴虐支那鷹懲)」の世論が強まった。これ以降、日中関係は中国側の排日と日本側の「暴支鷹懲」の悪循環に陥っていった*1

 第二次山東出兵は、中国側から見た場合、中国の反植民地主義闘争の矛先が日本に集中する契機となった。それまで中国の拝外運動は欧米列強すべてを目標としており、得に排英運動が強かったのだが、拝外運動は排日に集中することになっていった。なお、北伐を行った蒋介石を後援していたのが浙江財閥と広東財閥だったが、浙江財閥と関係が深かったのが米国であった。米国は列強に先駆けて蒋介石政権を承認し、中国への影響力を伸ばしていった。

 尚、高橋是清は第一次山東出兵について、金融恐慌収拾の最中で出兵のための経費支出が難しいとクレームをつけていた。

張作霖爆殺事件

 蒋介石が第二次北伐に敗れた張作霖が北京から満州奉天へ引き揚げる途上で起きたのが張作霖爆殺事件(昭和3年4月)だった。

 当時の満州軍閥だった張作霖は日本に協調的だったが、英米の支持を得て日露の権益排除に乗り出していた。昭和2年には米国資本を背景とした満鉄並行線(打通線)の敷設に動き出していた。しかし、蒋介石の第二次北伐で敗れた後には再び日本から支援を得て満州で再起を図ろうとしていた。その張作霖奉天への帰還を勧めたのが彼と親しかった田中義一首相だった。その奉天帰還の途上で起きたのが張作霖爆殺事件だった!。全然知らなかった。。。マジか。。。

 田中首相にとっては全くの誤算の爆殺事件だったそうだ。そのため、田中首相は関係者処罰の方針を上奏したのだが、陸軍などからの圧力を受けて処罰方針を撤回する。昭和天皇から「それでは前と話が違うではないか」と激しく叱責されて退陣することになる。そして、昭和4年9月に狭心症の発作で急逝する*2。。。なんということだ。。。

 張作霖を継いだ張学良は満州で官民挙げた強力な排日運動を展開する。田中内閣の後継の浜口内閣の外相が幣原喜重郎であり、国際協調路線を掲げるなかで起きたのが満州事変であった。

 以上が本をまとめた内容だが、少し補足しておきたい。張作霖が態度をころころ変えるため信用をおけないと判断した陸軍は、満州を安定して支配するために傀儡政権樹立にむけて動き出している時期なんですよね。

 

 

今日はここまで。

 

 かなりきな臭くなってきました。アメリカが背後で動いていますね。財政について全然書けなかった。地方の財政問題が噴出するのですが、複雑なので次のblogで書きたいと思います。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

*1:228

*2:229-230

なぜ日本は戦争を選択したのか(7)昭和大恐慌ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

バタバタしていて間が空いてしまったが再開したい。

松元崇先生についていきます。

 

 シリーズ(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算となり、アメリカが台頭してきて中国利権に口出してくるなか、世界的な軍縮の流れにのって日本も軍縮をします。(5)では関東大震災で経済が悪化、借金が再び膨らんだ。(6)では緊縮財政の柱である宇垣軍縮をすすめて軍人の大幅なリストラを決行、政党政治時代に突入し、平和外交で他国に対して「不干渉」外交を貫いた。が、実は中国大陸の軍閥割拠に入り、複雑な状況の中、緊縮財政・リストラのせいで表だって予算を立てて作戦実行できない陸軍は、裏資金を作り、裏工作をしちゃいました。しかも、大陸で裏工作したことを陸軍大臣にしか伝えず、他の閣僚は知りませんでした。。。軍が予算という枠組みからはみ出しはじめたのです。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

  今回も松元崇さんの本の第9章を参考にまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

昭和の金融恐慌ーーーはじまりは震災手形の整理だった 

 加藤高明首相は大正15年1月、風邪をこじらせて亡くなる。66歳でした*1。後継には若槻礼次郎(憲政会)が首相となったが、疑獄事件等*2が相次ぎ内閣は弱体化していった。そのような時に起こったのが昭和恐慌だ。

 緊縮財政路線の若槻内閣の蔵相片岡直温は、震災手形の整理を打ち出した。震災手形とは、関東大震災のため支払いができなくなった手形のことを言う。それは、国民総生産が三倍にもなるという第一次世界大戦景気のバブル崩壊後に生まれた膨大な不良債権が、国内総生産の三分の一を失うという関東大震災によって相当部分が無担保となったうえ、拡大再生産されたものだった。その整理は、当初、大正14(1925)年9月末までされていたが、事態があまりに深刻だったために、それまで二度に渡って先送りされてきたものだった。

片岡蔵相の「失言」

 片岡蔵相も震災手形の整理がいかに大変かという認識は十分にあり、整理を行うにあたっては法案の審議過程で銀行の信用恐慌を招いてはならないことを野党の政友会の田中総裁に説明し、協力を求めていた。

 そのうえで片岡蔵相は「震災手形損失補償公債法案」、「震災手形善後処理法案」を帝国議会に提出した*3

 野党にも話をつけて取り組んだ帝国議会の審議は当初は順調に進んだ。しかし、若槻内閣の与党多数派工作である憲政会と政友本党(野党の政友会からの離脱者が結成した政党)との連盟する報道が新聞に報じられると事態は一変した。政友会の田中総裁は片岡蔵相との約束を反故にし、震災手形問題で政府を攻撃する姿勢に変わったのだ。

 政友会は、政府の震災手形の整理案は、大戦不況で経営悪化していた鈴木商店台湾銀行の救済が目的なのではないか。それは片岡蔵相の同郷である鈴木商店の大番頭・金子直吉を救済が目的なのではないか、鈴木商店は憲政会に多額の政治資金を供給しているのではないかと追求が始まります。なんか、この風景、どこかで見たことがありませんか。現代の国会もこんなことばっかりやってますよね。揚げ足取りばかり。。。

 そのうえで、政府に対して震災手形の内容開示を厳しく迫っていた。このような審議が金融不安を醸成していくなかで、昭和2(1927)年3月14日に開かれた衆議院予算委員会で片岡蔵相が東京渡辺銀行支払い停止発言が引き金となって、東京の銀行数行が休業に追い込まれていった。これが昭和の金融恐慌だ。

 片岡発言もあって震災手形法案の本会議決議は大荒れになった。乱闘騒ぎが起き、動議が連発するなかで不退転の決意で挑み、法案は3月23日に帝国議会を通過した。その四日後の3月27日、台湾銀行からの新規貸出停止を受けて鈴木商店が倒産し、株式相場は暴落した。

 事態は日銀の緊急貸出の実施によって沈静化し、金融危機になるほどの銀行の取り付け騒ぎが起こったわけではなかった。それは当時としてはそう珍しくもない程度の騒ぎだった*4、らしい。

本当のパニックーーー枢密院による緊急勅令の否決、若槻内閣総辞職

 本当のパニックは議会閉会後の枢密院審議過程で発生した(昭和2年4月)。鈴木商店倒産後、台湾銀行は他銀行から短期資金の引き上げを受けて苦境に陥っていた。その台湾銀行を救済すべく政府は日銀に二億円の緊急貸出を求めた。それに対して日銀は法律に基づく損失補償を求めたが、国会が閉会中だったため、明治憲法第70条(緊急財政処分)により、法律に代わる緊急勅令をもって対処することにした。

 しかし、昭和天皇臨席の下で行われた枢密院本会議で否決されたのだ!。否決を受けて若槻内閣は総辞職し、その結果、多くの銀行で取り付け騒ぎが発生し、危機的な状況になったいった。

 否決の理由は、明治憲法70条が必要としている「帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキ」という要件に満たされていないというものであった。え?そんなこと言っている場合なの?

 そう、枢密院は否決を突きつけたい実際の理由があったのだ。幣原内閣の「軟弱外交」への批判があった。つまり、幣原内閣の首を切りたかったわけですね。その背景にあったのが、蒋介石の第一次北伐に際して昭和2(1927)年3月に起こった外国人居留民襲撃事件(南京事件)がだった。

 南京事件とはあの有名な南京大虐殺事件と異なるので注意してほしい。蒋介石が南京を占拠したときに発生した事件です。日本も大使館員等が暴行を受けました。Wikipediaの解説がわかりやすいので貼っておきます。

ja.m.wikipedia.org

 大正15(1926)年から始まった蒋介石の第一次北伐に対して対中国不干渉政策の下で英国からの自国民保護のための共同出兵提案を与党は拒否していた。そう、このころ日本は軍縮をすすめて緊縮財政でした。そんな予算はなかったのかもしれません。このような中で起こったのが南京事件でした。内閣は震災手形法案にいっぱいいっぱいだったのだが、枢密院は軍縮・平和外交にノー!をつきつける形になりました。外交政策の不一致から緊急勅令を否決し、金融不安が広がる。。。平和と軍縮、震災手形処理のため内政重視で動いていたわけですが、結果として大きな代償を払うことになります。

野党(政友会)が与党へーーー緊急勅令の可決

 若槻総辞職後、政友会・田中義一内閣(高橋是清蔵相)が発足します。枢密院は速やかに全面協力し、緊急勅令が可決される。

 若槻内閣は枢密院の勅令否決は筋違いなのだから大いにやってやろうという層もいたのだが、その意見を抑えて下野の道を選んだのは片岡前蔵相だった。そうしている間に台湾銀行が倒れてしまっては元も子もないと国家的課題処理を優先させたという*5。片岡直温は大局的な視点に立てる人だったんですね。


金融不安への対応ーーー高橋是清のモラトリアム 

 蔵相に就任した高橋是清は、1927年4月20日に東京の五大銀行の一つの十五銀行の救済策を講じ、12日には全銀行を二日間自主休業させるとともに緊急勅令により三週間のモラトリアム(支払猶予令)をしいた。そして、銀行が自主休業明けとなる25日には各銀行の窓口に札束を積んで聞きを乗りきった!。やるじゃん!高橋是清

 5月には臨時議会を開き、日本銀行特別融資のための法案を5日間で可決。なんて素早い動きなんだ!。

 高橋蔵相は日銀総裁に井上準之介を再登板、蔵相には三土忠造を据え、42日間のショートリリーフで退任した*6

 井上・三土は昭和2年に銀行37行を閉鎖し銀行整理を行う一方で企業救済を手厚く行った。

 三土蔵相は緊縮財政路線を維持しつつも金融恐慌を収束するために実行されたのが「公的資金注入」だった。これは明治維新期の藩債整理や秩禄処分の際にも用いられた手法(交付公債)だった。このとき投入された5億8000万円は、現在の感覚で言うと26.5兆円規模*7と言える。

 これにより、台湾銀行融資補填補償公債に約2.4億円、対支借款(西原借款)関係三銀行公債に1.5億円、震災手形補償公債に1億円、海軍軍備補償公債(川崎造船支援)に0.2億円が交付されて、それぞれの関係先の企業や金融機関のバランス・シートの回復がはかられた。

 

 

今日はここまで!

 

内政重視で平和外交を行えるほど世界情勢は甘くなかった。特に中国情勢の複雑さが、内政重視の対応では許されない状況だった。戦後の日本がいかにアメリカに守られていたのか実感しますね。独り立ちした国家にとって苦労の連続。果たして正解はどれだったのか。難しい選択の連続です。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

 

 

 

*1:愛知県名古出身だったんですね。尾張藩下級藩士の出身。加藤高明 - Wikipedia

*2:松島遊郭疑獄 - Wikipedia朴烈事件 - Wikipedia

*3:前者は震災手形整理によって生じた損失の補償金を五分利付国債証券をもって交付する法案、後者は震災手形の整理を行わせるために震災手形所持銀行に対して政府が貸し付けを行う法案。221

*4:232

*5:224ー225。松元崇さんの片岡蔵相への眼差しは優しいですね

*6:体調が悪かったらしい。

*7:予算80兆円時代の感覚なので2021年の感覚だと30兆円くらい、予算の3分の1の規模の公的資金の注入だった。

なぜ日本は戦争を選択したのか(6)宇垣軍縮ショックと陸軍の裏資金・裏工作ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

    シリーズ(2)(3)では日露戦争の借金と金利負担で四苦八苦していたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、債務国から債権国のイケイケに、(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算となり、アメリカが台頭してきて中国利権に口出してくるなか、世界的な軍縮の流れにのって日本も軍縮をします。明治維新五後から借金付けで大変だったが、世界大戦の好景気で日露戦争の借金を減らし一息つくなか、(5)では関東大震災で経済が悪化、借金が再び膨らんだところまで書きました。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 今回も松元崇さんの本の8章の後半を参考にまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

宇垣軍縮ーーー四個師団の削減

 前回のblogの最後に政党政治に突入したと書きました。政党内閣のトップバッター加藤高明内閣は選挙で大勝した。加藤内閣の蔵相は濱口雄幸は、国民生活の充実安定と軍縮を中心とする緊縮財政路線を更に強化しました。尚、加藤内閣で普通選挙法が制定されます。治安維持法とセットで。まさか治安維持法がこのあととんでもないことになると果たして予測していたのでしょうか。

 緊縮財政の柱である軍縮は、宇垣一成陸相加藤友三郎内閣の以来の総仕上げとして、「宇垣軍縮」を実行した。陸軍の四個師団が削減、将校1200名、准士官以下3万6千名のリストラが行われた(一般会計、特別会計を通じて全体で4万104名)。

 軍縮の結果、大正8(1919)年に26万1千人いた陸軍の将兵数は昭和元(1926)年には21万3千人となった。リストラされた将校は、大正14年から中学校等の軍事教練の教官として配属された。軍国主義教育の象徴とされる「配属将校」制度は、実は軍縮によるリストラの受け皿として設置されたのは歴史の皮肉である。

 軍縮の結果、日露戦争後には国民総生産の11.5%を占めていた軍事費の割合は、大正14年度には2.75%まで低下した。尚、戦後の日本は、平和憲法を掲げ専守防衛を基本とする日本の軍事費は、国内総生産比の1%の割合で抑える政策をとっている。宇垣軍縮がいかに激しい軍縮だったかわかるだろう。

 また、一般会計に占める軍事費の割合も大正10年度には約半分だったのが、大正13年度には3割弱まで低下した。これは日清戦争以前の水準の軍事費の割合だった。

幣原喜重郎の平和外交

 ロシア革命後の極東はロシアの脅威が一時的に低下し、ソビエト政府は設立して間もなく極東への圧力をかけるには至っていない。しかし、中国は袁世凱が1916年に亡くなり、軍閥割拠の時代に入った。

 加藤内閣は、対華21ヵ条要求という中国へ干渉する外交が行き詰まった反省に立ち、対中国「不干渉」政策を実施した。一見すると平和外交のようにみえるが、中国に権益をもっていなかったアメリカは別として、欧米諸国がそれぞれ権益擁護のため中国干渉を続ける中で、日本だけ不干渉政策を掲げる形となった。

 幣原外相は、大正13(1924)年に起こった第二次奉直戦(北方軍閥同士の争い)*1でも、日本と関係の深かった奉天派の張作霖が支援を要請してきたが、不干渉政策を楯に拒絶した。張作霖と対抗していたのは英米の支援を受けていた呉佩孚(ごはいふ)だった。日本の支援を拒否された張作霖は、ソ連の支援を受けていた広東政府と提携した。その結果、中国共産党の影響力が満州に浸透することになった。歴史の皮肉である。

 第二次奉直戦争は、張作霖が危機的な状況に追い込まれながら、最終的に相手方の有力者の寝返りにより突如優勢になり事態が打開された。この突如の寝返りは実は日本陸軍が暗躍して100万円の寝返り資金を流した結果だった!。このことは陸軍大臣以外は知らされず、幣原外相は不干渉政策が守られてたとして喜んだのであったが、実はそれは政府が全く感知しないところで陸軍が裏工作を行うという、その後の陸軍の暴走の嚆矢となる事件だったのである*2

 1924年関東大震災の翌年で政府も他国に介入する余裕はなかったのかもしれない。震災による巨額の被害と債務を抱え、緊縮財政に追い込まれた結果の「平和外交」なのかもしれない。宇垣陸相軍縮実行の責務を負うなか、この事件に予算を割り当てられなかっただろう。4万人の陸軍将兵がリストラするなか、他国の軍閥の支援を表だって行うことは難しかったかもしれない。そういう状況の中、裏資金で対応した。しかし、これは密の味だったのだ。裏金があれば、政府の財政とは無関係に作戦を実行できることを学ぶのだった。

軍縮への反発

 なにごともやりすぎると反発が生まれます。宇垣軍縮は軍部には大きなインパクトを与えたでしょう。今の日本の官公庁で4万人のリストラが行えるでしょうか。想像して見てください。リストラを決行すると相当の反発を喰らうのではないでしょうか。

 世界的な軍縮の流れの中で、陸軍は裏資金を持つようになっていった。陸軍はシベリア出兵(1918-1922)以来、財政当局の予算統制の外に自由に動かせる裏金をもつようになった*3。政府が知らない陸軍独自の秘密資金をもったのだ。

 過去にも陸軍が秘密工作費を使った例として日露戦争時の明石大佐の例*4がある。ロシアへの諜報活動は、伊藤博文山縣有朋が指導する政府全体の大きな指針の下に行われた。

 しかし、1918年頃から陸軍は、政府のと財政的な統制から離れて裏資金を作りはじめるのだ。財政は緊縮路線で、その柱である軍縮のためやむにやまれず裏金作りをはじめたのだろう。戦争にはお金がつきものだ。なければなにもできないという危機感があったのかもしれない。そして、第二次奉直戦争が起こる。日本政府は不干渉政策を楯にとり張作霖の支援を断った。しかし、張作霖との対立相手は英米が支援する呉佩孚だ。ここで呉が勝利すると、満州利権に英米が入り込んでくる。この危機的な状況で陸軍は陸軍大臣を除く政府閣僚に知らせず、裏金を使って裏工作をする。

 これが陸軍の暴走のきっかけになる。政府の財政とは別に機密費で作戦を実行するようになる。政府は陸軍を統制できなくなる。。。

 幣原喜重郎の不干渉政策は第二次奉直戦争後も継続されるが、対中関係の安定をもたらさなかったことから「軟弱外交批判」が高まっていく。その軟弱外交批判が、昭和金融恐慌の金融パニックにも影響していくことになる。。。

 

 

今日はここまで。

 

歴史って難しい。軍縮をすすめると裏金、裏工作が始まる。

緊縮財政を行うときは、不満を持つ組織がなにかよからぬことを始めると予測して様子を見ないといけませんね。

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

 

*1:

奉直戦争 - Wikipedia

*2:216

*3:216-217

*4:詳しくはこちらをどうぞ。明石元二郎 - Wikipedia

なぜ日本は戦争を選択したのか(5)関東大震災ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(2)の 日露戦争では財政的な負け戦、(3)では日露戦争後は借金と金利負担で四苦八苦していたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、債務国から債権国のイケイケに、(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算に!。アメリカが台頭してきて、中国利権に口出してきます。世界的な軍縮の流れで、日本も軍部を抑えて軍縮を実現します。経済的に豊かになり文化を楽しみ、厭戦ムードが漂います。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 松元崇さんから学んでいきたいと思います。8章をまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 軍縮を推し進めていた加藤友三郎首相は大正12年8月24日に大腸がんで亡くなります。まだ62歳でした。あとせめて10年生きていてくれたら日本の行く末は変わっていたかもしれません。

 ワシントン軍縮会議に出席した加藤友三郎は下記のような言葉を残しています。この時代にアメリカと戦争できるわけがないと理解する人物がいたのです。肝に銘じておきたいものです*1

国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。

 笑顔の写真を見つけたので敬意を表して貼ります*2

f:id:kyoyamayuko:20210806122458p:plain

加藤友三郎

 加藤首相が亡くなった八日後に関東大震災が起こります。加藤内閣が着手した大軍縮を継承する山本権兵衛内閣が発足します。加藤友三郎と同じ海軍出身でした。

関東大震災ーーー国民総生産の三分の一の被害

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災は、死者・行方不明者14万人(東京の人口335万人のため4%)、国民総生産の3分の1を超える55億円の被害をもたらした。死者・行方不明者14万人という数字は、日露戦争の戦死者8.4万人、日清戦争の戦死者1.3万人、明治維新期の戦死者7千人を足し上げても及ばない数字でした。東京市の総面積43%、横浜市は28%を消失した。東京市から大阪へ遷都するのではないかという噂も流れたという。

巨額の経済的損失、経済・金融的対応

 世界大戦のバブル崩壊による不況で不良債権処理に苦しんでいた金融機関にとって関東大震災は担保の大半が一瞬にして消滅したことを意味した。これは新たに大量の不良債権が発生することになった*3

 山本内閣の井上順之助蔵相は9月7日にモラトリアム(支払猶予令)を公布、2月7日には手形について二ヵ年の猶予期間を置くとともに1億円の政府保証の下に日銀が再割引き*4に応ずるという緊急勅令を公布した。このときの日銀の手形の再割引は4億3千万円に上った。その後、その整理は用意に進捗せず昭和の金融恐慌の直接の原因となっていく。いわゆる震災手形問題の発生であった。巨額の震災手形の背景には、日銀の「積極果敢」な企業救済策があったのだ。

 関東大震災では木造の官庁舎は消失したが*5高橋是清が知恵を出し耐震を考えて造られた日銀本店は東海を免れた。これが今も残る。コンクリート作りの建物も倒壊しなかったことから、震災以後、コンクリート作りの建物が増えていった。現在の霞ヶ関官庁街は震災後に計画、建造された。霞ヶ関には国会議事堂が建設中だったので、その周辺に官公庁が集中することになった。

復興庁の設置

 大震災復興のために帝都復興院が設置された。総裁には、台湾経済の育成や東京市の運営に実績のあった後藤新平が任命された。国内総生産150億円の時代に復興計画として40億円の大構想を打ち出した。大戦バブル崩壊で緊縮財政路線の政府には承認できない規模の金額のため、高橋是清や伊藤巳代治らが規模縮小を主張し、最終的に15億円に抑えた。それでも巨額の金額だった。

円相場の下落、財政悪化

 大震災後は復興のために大量の物資を輸入し、外債に頼らざるをえない状況になった。復興物資の大量輸入は貿易収支を悪化させ、円相場は下落した。

 大震災後の財政は支出が膨らむ一方で歳入は租税減免で減少し、急速に悪化した。そのため公債に頼らざるえず、震災前の大正11年度では歳出総額に占める交際費は8.1%に過ぎなかったのが、13年度には16%まで膨らんだ。公債が膨らんだの、第一次世界大戦中に発行した短期の公債がちょうど償還期を迎え、高利でも借り換えなければいけなかった。そのため国債費が増加し、公債費も膨らんだという背景もある。

 なぜ財政収支も好転していた第一次世界大戦中に大量の公債を発行していたのだろうか。それは、輸出ブームで流入した外貨が国内でインフレをもたらさないように吸収しようとしたからだという*6

 政府は大量の公債発行による国内債権市場への負担を軽減するために外債(邦貨換算約5億1千万円の震災外債)の発行を行うことにした。しかし、この外債発行も、ちょうど日露戦争時に発行されていた外債(4.5%)の借り換えの時期と重なってしまった。ただでさえ産業の被災による損失が相当額に上って国としての信用が低下していた中で、発行されることとなった外債の発行条件は不利なものとなり「国辱公債」と避難されることになった(利回りは6-6.5%)。踏んだり蹴ったり。。。。

 山本内閣は緊縮財政を実行しようとするが、大正12年12月に摂政宮の裕仁皇太子が狙撃される虎ノ門事件が起こる。その責任をとって山本内閣は4ヶ月の短命で終わる。

 後継は清浦内閣だが、政党内閣でない内閣が続くことに反発した憲政会が第二次護憲運動を展開し、清浦内閣は総選挙で負けて憲政会の加藤高明内閣が成立する。以降は、正当内閣時代がくる。五・一五事件まで。。。 

 

 

今日はここまで。

 

 

前回から加藤友三郎のこと知り、興味を持ちました。

時間のあるときに自伝を読んでみたいなぁ。

写真は軍服のコワモテ顔が多いですが、笑顔はステキですよね。

 

ここから先は戦争を選択する道をたどっていきます。

加藤など非政党内閣のあとに政党政治の時代がくるのですが、テロに見舞われて選択が歪んでいきます。政治より軍が強くなっていくのです。軍をコントロールできなくなっていきます。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:引用はWikipedia加藤友三郎 - Wikipedia

*2:加藤友三郎内閣 - Wikiwandから引用しました。

*3:203

*4:再割引のいみについてはこちらを参照。貨幣の話

*5:木造の大蔵省も全焼しました。

*6:208-209

なぜ日本は戦争を選択したのか(4)第一次世界大戦後の日本の状況ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

シリーズ(1)では明治政府は借金付け、(2)の日露戦争は財政的な負け戦で政府は火の車だし、国民は重税で大変だった、(3)では日露戦争後は借金と金利負担で四苦八苦するなか正貨流出で追い込まれていたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、正貨流出問題も雲散霧消し、債務国から債権国のイケイケに。でも大戦バブルが弾けて大変にというところまで書きました。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

松元崇先生の本から学んでいきたいと思います。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

国際関係の変貌ーーー「一等国」という自意識

 第一次世界大戦後の変化についてまとめよう。大戦後に国際連盟が新設され常任理事国の一つとして参加して国民は「一等国」になったと思うようになったそうです。それまでは二等国以下という意識だったのでしょうか。この「一等国」という意識が日本に変なプライドを与え、のちのち大変なことになります。高きプライドは誤った政策判断を犯しがちなので身を律して生きていきたいものですね。 

 バブルで国民生活にも潤いができ、文化を楽しむ余裕ができます。宝塚歌劇団の設立、児童雑誌の創刊、婦人公論などの雑誌が創刊。洋服が流行りモガ・モボの登場、自動車が普及した。大正末期には地下鉄工事が始まり、映画やラジオも登場。都市では電灯、ガスの普及が進んだ。バブルってすごいですね!そりゃぁ、一一等国になったと気が大きくなるのも分かるわ。

アメリカも一等国に

 さて、一等国という自信をもった国は日本だけではなかった。アメリカもバブルで大きく経済が発展し、アメリカも一等国として世界に登場する。世界大戦でヨーロッパが苦しみ、日本とアメリカが経済発展して一等国という自意識をもつようになる。新興国の一等国同士のつばぜり合いが始まります。

帝政ロシアの消滅

 明治政府設立以来、重要な外交相手であるロシアが消滅(1917年)してしまった!

日露戦争後、ロシア外交は互いに取引しながら満州利権を分け合っていました。第4次日ロ協約では、中国におけるそれぞれの権益が侵害された時には、その擁護防衛のためにお互いが共同行動するとの「秘密協定」を交わすまでになっていた*1。明治政府設立以来、強敵ロシアには悩まされ続けましたが、ようやくお互いが利権を分け合い手を握りあってホッとしたのは間違いないでしょう。それなのに!帝政ロシアが消滅するなんて!。。。当時の政府中枢はどんな気持ちだったでしょうか。

 日本と帝政ロシアが秘密協定を締結していたことを、ソビエト新政府に暴露されたことで*2、日本の中国における行動に欧米(得に英米)は警戒心を持ちます

 明治政府以降、国防と大陸利権のために積み重ねてきた外交が無に帰りました。。。しかもばらされて日本の野心に欧米が警戒心をもつようになります。

対中国関係の転換点

  世界大戦中に極東に生じた空白に乗じて日本は対華二十一ヵ条を要求し権益拡大をはかった。その内容は、日露戦争後の三国干渉を機にドイツが山東半島において獲得していた権益を、将来の中国への返還のつなぎの間、日本へ引き継ぐ「等」であった*3。この引き継ぎには英仏伊の支持をうけ、中国政府(袁世凱政権)もやむなしとしていた。

 しかし、対華二十一ヵ条要求には、日本政府が公表していなかった部分に「中国政府への日本官憲の採用」という実質的な内政干渉を含む部分があり、それを中国政府が公表したことから、各国は対日警戒感を強めた*4

 大戦後のベルサイユ会議では山東半島のドイツ権益は中国へ返還すべきだという中国の姿勢を支持したのがアメリカだった*5。結局、山東半島の権益は日本が継承することになったが、これに反発して起きたのが五・四運動*6である*7

 日ロの密約協定の暴露、対華二十一ヵ条要求でオープンにしなかった「中国政府への日本官憲の採用」の暴露などが相次ぎ日本は欧米から強い不信と警戒感を買います。

日英同盟時代の終焉ーーー対米摩擦のはじまり*8

 帝政ロシアの消滅で英国にとって日英同盟の必要性が薄れます。大正10年に米国主導で四カ国条約締結と引き換えに日英同盟時代は終焉したが、それは日米摩擦のはじまりだった。

 太平洋では、日本はサイパン島を含むマリアナ、マーシャル、カロリン、パラオの諸群島のドイツ権益を引き継いだが、それはアメリカと太平洋で直接向き合うことを意味した。中国においても、帝政ロシア消滅による空白地に日本が影響力を伸ばすことをアメリカは牽制し、牽制を主導した。

 また、米国では1924年に排日移民法が成立し、日本人を排斥の動きが高まり、人種差別を強化した。一等国とは思えないむきだしの対立と牽制。日米対立が激化していきます。

軍縮の時代

 大戦後は世界的に軍縮の流れになりましたが、日本は戦死者数も少なく、国際協調路線の軍縮が理解できず軍の一部と野党の一部が反対します。

 大正9年(1920)の株式恐慌で歳入が落ち込み、大正10年度の予算は緊縮財政に転換した。当時の大蔵相は高橋是清で財政難を乗り切るために「行財政整理や陸軍軍縮等」*9原敬首相に進言した。緊縮実現するために田中義一陸相の協力をとりつけたが、結果として10年度予算は最高額(15億6230万円)となった。

 バブルの積極財政で歳出が膨張しすぎて押し止められなかったことと、継続費として計上された海軍の艦船建造費の膨張圧力が強かった。

 尚、このときの高橋蔵相は、経費削減の観点から「参謀本部廃止案」*10を主張していた。原敬は田中陸相に「参謀本部を廃止すれば、その資金は余りある。山縣が死ねば参謀本部は廃止される運命にある」*11と語っていたが、山縣の死より先に原敬の方が暗殺されて死んでしまった*12。もし、原敬が暗殺されなかったならば参謀本部は解体され、日本は違う未来が開けていたかもしれない。

地方利益誘導型の政治

 軍事費以外の膨張要因は地方利益を求める声に応えたことだった。原敬は、地方利益を媒介とした党勢拡張を図る政治の原型を築いた政治家であった。平民宰相として人気が高かった半面、官僚閥や軍閥と癒着する体制を作り出した。なんとなく田中角栄に似ていますね。

原敬の暗殺で高橋是清が蔵相でありながら首相に

 原敬暗殺で高橋是清は蔵相でありながら首相に就任し、聖域無しの緊縮財政に突入する。地方利益抑制の厳しい歳出抑制は閣内対立を生み、高橋内閣は七ヶ月で倒れることになる。

 高橋是清の後継には軍縮を実行できる人物ということで加藤友三郎海相が就任した。加藤は「カネがなければ戦争はできぬ」としていた人物だった。この時代はまだカネについて意識できる軍人がいたんですね。

ワシントン軍縮会議

 加藤友三郎内閣はワシントン軍縮条約の批准を受けて、大正12年度の予算編成に際して、八・八艦隊建造計画を反故にして海軍費を削減するとともに、陸軍についても五個師団に相当する約6万人の人員削減を打ち出した。これにより前年度より1億870万円の予算は削減された。すごいですね!加藤友三郎日露戦争では連合艦隊参謀長として参加し、指揮した人物です。日露戦争では政府も軍もカネがなくて苦労していました。「カネがないと戦争できない」というのは実体験からくる感覚なんですね。

 大正初年度には二個師団増設で帷幄上奏で内閣崩壊しましたが、10余年後には軍縮実行された。大きな変化であった。大戦バブルで豊かになり、平和ムードとなり、軍人は軍服で電車に乗るのも気が引ける時代に突入したのである。

 そうこんな時代もあったのだ。。。

 そして、関東大震災がやってきます。。。

 

 

今日はここまで。

松元崇先生についていくぞー! 

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:186

*2:大正六年にばらされました

*3:187

*4:187-188

*5:当初の姿勢を覆して中国支持に回った

*6:五四運動 - Wikipedia

*7:1919年

*8:188タイトル引用

*9:191

*10:192

*11:192

*12:1921年暗殺。