kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(3)第一次世界大戦までーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(1)では明治政府は借金付け、(2)の日露戦争は財政的な負け戦で政府は火の車だし、国民は重税で大変だったとというところまで書きました。

 

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 松元崇さんの本から学んでいきたいと思います。書いてまとめると、難しい財政の話も頭に入ってくる気がしますね。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 より詳しく理解するためには金本位制について触れておくべきなのだが、今は無きこの制度はややこしいので、詳細ははぶき「そういうものなんだ」ということを前提に書いていきます*1

 日本は維新当初からいつも外貨不足(金の流出、正貨流出と理解してほしい)で悩んでいました。外貨不足をどう乗り切るかというのが日銀総裁や大蔵省の課題でした。

 日露戦争は財政的な負け戦にも関わらず国民にそのように認識されなかったのはなぜか。大きな理由は、戦争が米国の調停で案外早く終わったこと、高橋是清の手腕による外債発行が成功し、「手持ちの外貨がかなり残っていた」*2からだ。しかし、これは借金によるバブル景気で、終戦から2年後の明治41年には反動不況で経済が悪化していった。借金と利払いを圧縮するため緊縮財政に突入する。

二個師団増設問題

 明治45年(1912)に 明治天皇崩御した。大喪費をどうするか。政府限りで決定できる緊急財政処分*3とするか、臨時議会を召集して追加予算を計上するか。山縣有朋は前者を主張したが、時の首相西園寺は立憲的な後者の道を選択して臨時議会を開き追加予算を計上した。

 大正元年(1912)に陸軍の二個師団増設要求を否決すると、軍備充実の遅れに不満をもっていた上杉勇陸相は、即位したばかりの大正天皇に単独で惟幄上奏*4して辞職するという強行手段に出た。

 明治天皇崩御のこの時期の出来事は、明治憲法下の立憲政治の成熟を示すものであるとともに、惟幄上奏の手段は、明治憲法下の立憲的な予算統制に不満をもつ軍部が、ニニ六事件というテロ行為まで及んで財政規律を崩壊させていく予兆を示していた*5

 尚、このときの惟幄上奏は軍部への反発を強める結果にしかならず、第一次護憲運動(大正政変)が起こることになる。

日露戦争後の日本の外交

 日露戦争による莫大な借金により緊縮財政にならざるをえず、軍備拡充が進まないなかで日本が選択したのは、ロシアと組んで満州の利益を相互に確保するという外交路線だった。第一次日ロ条約では、ロシアが韓国に対する日本の支配に意義を唱えないのと引き換えに、日本は外蒙古に対するロシアの特殊利益を認め、満州の利益範囲を日本は南満州、ロシアは北満州と締結した。第二次日ロ協約では満州の現状維持と鉄道利権の確保、第3次日ロ協約では蒙古における勢力圏の相互確認して締結した。

 そのような状況下で辛亥革命によって清朝が倒れて、大陸は群雄割拠の時代に入る。

世界的な海軍軍拡の時代

 国力の隆盛の基礎は海外貿易の拡大にあり、そのために強大な海軍力が必要というアルフレッド・マハンの『海上権力史論』が流行した。マハンの理論の影響力は大きく、世界的に建艦競争が始まる。英国の軍事費は大正3年(1905ー1914)までの10年間で国家予算の平均40%を占めた。日本の30%台より大きく上回っていた。

 当時の山本内閣は厳しい緊縮予算をしいていたが、海軍予算は聖域として予算をつけたが、海軍の汚職絡みのシーメンス事件が起きて、海軍予算は減額される。

 この時期の日本の財政は大変厳しく、正貨流出がとまらず正貨(金)の交換停止を行わなければいけないほど追い込まれていた。金本位制をやめるということは国際的な信用を失うことを意味した。日露戦争で外債を買ってもらえたのも日本が金本位制だったからだ*6

第一次世界大戦ーーー大正の天佑

 日本の正貨流出は金本位制をやめなければいけないほど追い込まれていたが、その状況を一変させたのが第一次世界大戦だった。日英同盟を締結していた日本は、英国の同盟国として参戦することになった。

 経済は空前の好況となった。大戦前の大正2年に50億円だった名目国民総生産は大正8年には154億円と三倍に、参戦後の5年間で工業生産高は5倍以上となり、農業生産高を抜き、農業国から工業国へ変貌した。輸出入総額も4倍近く増加して、貿易収支は一転して入超から出超になり、あれほど深刻だった「正貨流出問題」は雲散霧消したのだ。

財政の好転と二個師団増設の実現

 戦争景気で財政も税収増で劇的な改善したことをうけて、大正4年に二個師団増設が実現する。

 第一次世界大戦のバブルの状況をみてみよう。大正3年の歳出総額に閉める国債費の割合は22%だったが、随時減っていき、大正7年(1918)には13.4%、大正9年には7%まで低下した。この数値は明治憲法下で最も低い数値だった。

 日露戦争後には20億円もの対外債務を抱えていたが、大正9年には逆に27億円の債権国となった。

バブル崩壊

 しかし、戦争が終わりバブルも終わる。大正9年の株式恐慌で不良債権と失業問題を抱えることになる。

 債権国になった日本だが、貸付け先が堅実なものではなかった。ロシアの軍事費不足を補うために3億円の債権を発行したが、帝政ロシアの崩壊でデフォルトに。。。中国に対して借款を用いて影響力を行使しようとして対中借款を積極的に行ったが、不安定な大陸状勢のなかで取り立て不能となり不良債権化していった。。。

日本政府、つらみです。。。

 

 

今日はここまで。

続く。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

【注記】

 

 

 

*1:いつかまとめます

*2:103

*3:明治憲法第70条

*4:帷幄上奏とは - コトバンク

*5:115-116

*6:詳しくは本を読んでほしい。