kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(8)中国の排日と日本の「暴支鷹懲」の悪循環の始まりーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シリーズ(7)では与党の憲政会はが緊縮財政と平和外交で内政重視の政策を行い、関東大震災の震災手形の処理を始めたが、与野党の対立が激化して信用不安が起きた。同時期、中国大陸では蒋介石が第一次北伐を開始、南京を占拠して居留民に迫害を加えた(1927南京事件)が、平和外交を楯に介入しなかった。政府は台湾銀行に対する信用不安に備えるために日銀に補償を求め、日銀は政府に損失保障を求めたが議会は閉会していたため緊急勅令で対応しようとしたが、枢密院は否決した。枢密院は南京事件の対応に強い不満を抱いたためだった。これにより憲政会は下野し、政友会が与党となった。田中内閣が成立し、高橋是清が蔵相に就任、緊急勅令が可決され、金融不安に対応し、収束していった。

 

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今回も松元崇さんの本の9章を参考にまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

 第二次山東出兵・済南事件ーーー中国の排日と日本の「暴支鷹懲」の悪循環の始まり

 憲政会の若槻内閣は中国軟弱外交(別名は平和外交)を批判されて下野したこともあり、政友会の田中内閣は中国に対して強行外交に転換し、居留民保護に積極的だった。蒋介石は第二次北伐を開始し、昭和3(1928)年4月に第二次山東出兵では本土から派遣を行った。

 第一次北伐のときは英国は日本と権益がかぶり共通行動を要請してきたが、第二次北伐のときは英国の権益に抵触しない形で行われたために日本単独の出兵になった。本土から派遣軍がだされたなかで起こったのが日本人居留民が惨殺される済南事件だった。

 

ja.m.wikipedia.org

 済南事件は死者12名、被害者400名の大きな事件であり、殺害方法が残酷だったことから日本国内では「暴支鷹懲(暴虐支那鷹懲)」の世論が強まった。これ以降、日中関係は中国側の排日と日本側の「暴支鷹懲」の悪循環に陥っていった*1

 第二次山東出兵は、中国側から見た場合、中国の反植民地主義闘争の矛先が日本に集中する契機となった。それまで中国の拝外運動は欧米列強すべてを目標としており、得に排英運動が強かったのだが、拝外運動は排日に集中することになっていった。なお、北伐を行った蒋介石を後援していたのが浙江財閥と広東財閥だったが、浙江財閥と関係が深かったのが米国であった。米国は列強に先駆けて蒋介石政権を承認し、中国への影響力を伸ばしていった。

 尚、高橋是清は第一次山東出兵について、金融恐慌収拾の最中で出兵のための経費支出が難しいとクレームをつけていた。

張作霖爆殺事件

 蒋介石が第二次北伐に敗れた張作霖が北京から満州奉天へ引き揚げる途上で起きたのが張作霖爆殺事件(昭和3年4月)だった。

 当時の満州軍閥だった張作霖は日本に協調的だったが、英米の支持を得て日露の権益排除に乗り出していた。昭和2年には米国資本を背景とした満鉄並行線(打通線)の敷設に動き出していた。しかし、蒋介石の第二次北伐で敗れた後には再び日本から支援を得て満州で再起を図ろうとしていた。その張作霖奉天への帰還を勧めたのが彼と親しかった田中義一首相だった。その奉天帰還の途上で起きたのが張作霖爆殺事件だった!。全然知らなかった。。。マジか。。。

 田中首相にとっては全くの誤算の爆殺事件だったそうだ。そのため、田中首相は関係者処罰の方針を上奏したのだが、陸軍などからの圧力を受けて処罰方針を撤回する。昭和天皇から「それでは前と話が違うではないか」と激しく叱責されて退陣することになる。そして、昭和4年9月に狭心症の発作で急逝する*2。。。なんということだ。。。

 張作霖を継いだ張学良は満州で官民挙げた強力な排日運動を展開する。田中内閣の後継の浜口内閣の外相が幣原喜重郎であり、国際協調路線を掲げるなかで起きたのが満州事変であった。

 以上が本をまとめた内容だが、少し補足しておきたい。張作霖が態度をころころ変えるため信用をおけないと判断した陸軍は、満州を安定して支配するために傀儡政権樹立にむけて動き出している時期なんですよね。

 

 

今日はここまで。

 

 かなりきな臭くなってきました。アメリカが背後で動いていますね。財政について全然書けなかった。地方の財政問題が噴出するのですが、複雑なので次のblogで書きたいと思います。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

*1:228

*2:229-230