kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(4)第一次世界大戦後の日本の状況ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

シリーズ(1)では明治政府は借金付け、(2)の日露戦争は財政的な負け戦で政府は火の車だし、国民は重税で大変だった、(3)では日露戦争後は借金と金利負担で四苦八苦するなか正貨流出で追い込まれていたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、正貨流出問題も雲散霧消し、債務国から債権国のイケイケに。でも大戦バブルが弾けて大変にというところまで書きました。

 

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松元崇先生の本から学んでいきたいと思います。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

国際関係の変貌ーーー「一等国」という自意識

 第一次世界大戦後の変化についてまとめよう。大戦後に国際連盟が新設され常任理事国の一つとして参加して国民は「一等国」になったと思うようになったそうです。それまでは二等国以下という意識だったのでしょうか。この「一等国」という意識が日本に変なプライドを与え、のちのち大変なことになります。高きプライドは誤った政策判断を犯しがちなので身を律して生きていきたいものですね。 

 バブルで国民生活にも潤いができ、文化を楽しむ余裕ができます。宝塚歌劇団の設立、児童雑誌の創刊、婦人公論などの雑誌が創刊。洋服が流行りモガ・モボの登場、自動車が普及した。大正末期には地下鉄工事が始まり、映画やラジオも登場。都市では電灯、ガスの普及が進んだ。バブルってすごいですね!そりゃぁ、一一等国になったと気が大きくなるのも分かるわ。

アメリカも一等国に

 さて、一等国という自信をもった国は日本だけではなかった。アメリカもバブルで大きく経済が発展し、アメリカも一等国として世界に登場する。世界大戦でヨーロッパが苦しみ、日本とアメリカが経済発展して一等国という自意識をもつようになる。新興国の一等国同士のつばぜり合いが始まります。

帝政ロシアの消滅

 明治政府設立以来、重要な外交相手であるロシアが消滅(1917年)してしまった!

日露戦争後、ロシア外交は互いに取引しながら満州利権を分け合っていました。第4次日ロ協約では、中国におけるそれぞれの権益が侵害された時には、その擁護防衛のためにお互いが共同行動するとの「秘密協定」を交わすまでになっていた*1。明治政府設立以来、強敵ロシアには悩まされ続けましたが、ようやくお互いが利権を分け合い手を握りあってホッとしたのは間違いないでしょう。それなのに!帝政ロシアが消滅するなんて!。。。当時の政府中枢はどんな気持ちだったでしょうか。

 日本と帝政ロシアが秘密協定を締結していたことを、ソビエト新政府に暴露されたことで*2、日本の中国における行動に欧米(得に英米)は警戒心を持ちます

 明治政府以降、国防と大陸利権のために積み重ねてきた外交が無に帰りました。。。しかもばらされて日本の野心に欧米が警戒心をもつようになります。

対中国関係の転換点

  世界大戦中に極東に生じた空白に乗じて日本は対華二十一ヵ条を要求し権益拡大をはかった。その内容は、日露戦争後の三国干渉を機にドイツが山東半島において獲得していた権益を、将来の中国への返還のつなぎの間、日本へ引き継ぐ「等」であった*3。この引き継ぎには英仏伊の支持をうけ、中国政府(袁世凱政権)もやむなしとしていた。

 しかし、対華二十一ヵ条要求には、日本政府が公表していなかった部分に「中国政府への日本官憲の採用」という実質的な内政干渉を含む部分があり、それを中国政府が公表したことから、各国は対日警戒感を強めた*4

 大戦後のベルサイユ会議では山東半島のドイツ権益は中国へ返還すべきだという中国の姿勢を支持したのがアメリカだった*5。結局、山東半島の権益は日本が継承することになったが、これに反発して起きたのが五・四運動*6である*7

 日ロの密約協定の暴露、対華二十一ヵ条要求でオープンにしなかった「中国政府への日本官憲の採用」の暴露などが相次ぎ日本は欧米から強い不信と警戒感を買います。

日英同盟時代の終焉ーーー対米摩擦のはじまり*8

 帝政ロシアの消滅で英国にとって日英同盟の必要性が薄れます。大正10年に米国主導で四カ国条約締結と引き換えに日英同盟時代は終焉したが、それは日米摩擦のはじまりだった。

 太平洋では、日本はサイパン島を含むマリアナ、マーシャル、カロリン、パラオの諸群島のドイツ権益を引き継いだが、それはアメリカと太平洋で直接向き合うことを意味した。中国においても、帝政ロシア消滅による空白地に日本が影響力を伸ばすことをアメリカは牽制し、牽制を主導した。

 また、米国では1924年に排日移民法が成立し、日本人を排斥の動きが高まり、人種差別を強化した。一等国とは思えないむきだしの対立と牽制。日米対立が激化していきます。

軍縮の時代

 大戦後は世界的に軍縮の流れになりましたが、日本は戦死者数も少なく、国際協調路線の軍縮が理解できず軍の一部と野党の一部が反対します。

 大正9年(1920)の株式恐慌で歳入が落ち込み、大正10年度の予算は緊縮財政に転換した。当時の大蔵相は高橋是清で財政難を乗り切るために「行財政整理や陸軍軍縮等」*9原敬首相に進言した。緊縮実現するために田中義一陸相の協力をとりつけたが、結果として10年度予算は最高額(15億6230万円)となった。

 バブルの積極財政で歳出が膨張しすぎて押し止められなかったことと、継続費として計上された海軍の艦船建造費の膨張圧力が強かった。

 尚、このときの高橋蔵相は、経費削減の観点から「参謀本部廃止案」*10を主張していた。原敬は田中陸相に「参謀本部を廃止すれば、その資金は余りある。山縣が死ねば参謀本部は廃止される運命にある」*11と語っていたが、山縣の死より先に原敬の方が暗殺されて死んでしまった*12。もし、原敬が暗殺されなかったならば参謀本部は解体され、日本は違う未来が開けていたかもしれない。

地方利益誘導型の政治

 軍事費以外の膨張要因は地方利益を求める声に応えたことだった。原敬は、地方利益を媒介とした党勢拡張を図る政治の原型を築いた政治家であった。平民宰相として人気が高かった半面、官僚閥や軍閥と癒着する体制を作り出した。なんとなく田中角栄に似ていますね。

原敬の暗殺で高橋是清が蔵相でありながら首相に

 原敬暗殺で高橋是清は蔵相でありながら首相に就任し、聖域無しの緊縮財政に突入する。地方利益抑制の厳しい歳出抑制は閣内対立を生み、高橋内閣は七ヶ月で倒れることになる。

 高橋是清の後継には軍縮を実行できる人物ということで加藤友三郎海相が就任した。加藤は「カネがなければ戦争はできぬ」としていた人物だった。この時代はまだカネについて意識できる軍人がいたんですね。

ワシントン軍縮会議

 加藤友三郎内閣はワシントン軍縮条約の批准を受けて、大正12年度の予算編成に際して、八・八艦隊建造計画を反故にして海軍費を削減するとともに、陸軍についても五個師団に相当する約6万人の人員削減を打ち出した。これにより前年度より1億870万円の予算は削減された。すごいですね!加藤友三郎日露戦争では連合艦隊参謀長として参加し、指揮した人物です。日露戦争では政府も軍もカネがなくて苦労していました。「カネがないと戦争できない」というのは実体験からくる感覚なんですね。

 大正初年度には二個師団増設で帷幄上奏で内閣崩壊しましたが、10余年後には軍縮実行された。大きな変化であった。大戦バブルで豊かになり、平和ムードとなり、軍人は軍服で電車に乗るのも気が引ける時代に突入したのである。

 そうこんな時代もあったのだ。。。

 そして、関東大震災がやってきます。。。

 

 

今日はここまで。

松元崇先生についていくぞー! 

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:186

*2:大正六年にばらされました

*3:187

*4:187-188

*5:当初の姿勢を覆して中国支持に回った

*6:五四運動 - Wikipedia

*7:1919年

*8:188タイトル引用

*9:191

*10:192

*11:192

*12:1921年暗殺。