kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(7)昭和大恐慌ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

バタバタしていて間が空いてしまったが再開したい。

松元崇先生についていきます。

 

 シリーズ(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算となり、アメリカが台頭してきて中国利権に口出してくるなか、世界的な軍縮の流れにのって日本も軍縮をします。(5)では関東大震災で経済が悪化、借金が再び膨らんだ。(6)では緊縮財政の柱である宇垣軍縮をすすめて軍人の大幅なリストラを決行、政党政治時代に突入し、平和外交で他国に対して「不干渉」外交を貫いた。が、実は中国大陸の軍閥割拠に入り、複雑な状況の中、緊縮財政・リストラのせいで表だって予算を立てて作戦実行できない陸軍は、裏資金を作り、裏工作をしちゃいました。しかも、大陸で裏工作したことを陸軍大臣にしか伝えず、他の閣僚は知りませんでした。。。軍が予算という枠組みからはみ出しはじめたのです。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

  今回も松元崇さんの本の第9章を参考にまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

昭和の金融恐慌ーーーはじまりは震災手形の整理だった 

 加藤高明首相は大正15年1月、風邪をこじらせて亡くなる。66歳でした*1。後継には若槻礼次郎(憲政会)が首相となったが、疑獄事件等*2が相次ぎ内閣は弱体化していった。そのような時に起こったのが昭和恐慌だ。

 緊縮財政路線の若槻内閣の蔵相片岡直温は、震災手形の整理を打ち出した。震災手形とは、関東大震災のため支払いができなくなった手形のことを言う。それは、国民総生産が三倍にもなるという第一次世界大戦景気のバブル崩壊後に生まれた膨大な不良債権が、国内総生産の三分の一を失うという関東大震災によって相当部分が無担保となったうえ、拡大再生産されたものだった。その整理は、当初、大正14(1925)年9月末までされていたが、事態があまりに深刻だったために、それまで二度に渡って先送りされてきたものだった。

片岡蔵相の「失言」

 片岡蔵相も震災手形の整理がいかに大変かという認識は十分にあり、整理を行うにあたっては法案の審議過程で銀行の信用恐慌を招いてはならないことを野党の政友会の田中総裁に説明し、協力を求めていた。

 そのうえで片岡蔵相は「震災手形損失補償公債法案」、「震災手形善後処理法案」を帝国議会に提出した*3

 野党にも話をつけて取り組んだ帝国議会の審議は当初は順調に進んだ。しかし、若槻内閣の与党多数派工作である憲政会と政友本党(野党の政友会からの離脱者が結成した政党)との連盟する報道が新聞に報じられると事態は一変した。政友会の田中総裁は片岡蔵相との約束を反故にし、震災手形問題で政府を攻撃する姿勢に変わったのだ。

 政友会は、政府の震災手形の整理案は、大戦不況で経営悪化していた鈴木商店台湾銀行の救済が目的なのではないか。それは片岡蔵相の同郷である鈴木商店の大番頭・金子直吉を救済が目的なのではないか、鈴木商店は憲政会に多額の政治資金を供給しているのではないかと追求が始まります。なんか、この風景、どこかで見たことがありませんか。現代の国会もこんなことばっかりやってますよね。揚げ足取りばかり。。。

 そのうえで、政府に対して震災手形の内容開示を厳しく迫っていた。このような審議が金融不安を醸成していくなかで、昭和2(1927)年3月14日に開かれた衆議院予算委員会で片岡蔵相が東京渡辺銀行支払い停止発言が引き金となって、東京の銀行数行が休業に追い込まれていった。これが昭和の金融恐慌だ。

 片岡発言もあって震災手形法案の本会議決議は大荒れになった。乱闘騒ぎが起き、動議が連発するなかで不退転の決意で挑み、法案は3月23日に帝国議会を通過した。その四日後の3月27日、台湾銀行からの新規貸出停止を受けて鈴木商店が倒産し、株式相場は暴落した。

 事態は日銀の緊急貸出の実施によって沈静化し、金融危機になるほどの銀行の取り付け騒ぎが起こったわけではなかった。それは当時としてはそう珍しくもない程度の騒ぎだった*4、らしい。

本当のパニックーーー枢密院による緊急勅令の否決、若槻内閣総辞職

 本当のパニックは議会閉会後の枢密院審議過程で発生した(昭和2年4月)。鈴木商店倒産後、台湾銀行は他銀行から短期資金の引き上げを受けて苦境に陥っていた。その台湾銀行を救済すべく政府は日銀に二億円の緊急貸出を求めた。それに対して日銀は法律に基づく損失補償を求めたが、国会が閉会中だったため、明治憲法第70条(緊急財政処分)により、法律に代わる緊急勅令をもって対処することにした。

 しかし、昭和天皇臨席の下で行われた枢密院本会議で否決されたのだ!。否決を受けて若槻内閣は総辞職し、その結果、多くの銀行で取り付け騒ぎが発生し、危機的な状況になったいった。

 否決の理由は、明治憲法70条が必要としている「帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキ」という要件に満たされていないというものであった。え?そんなこと言っている場合なの?

 そう、枢密院は否決を突きつけたい実際の理由があったのだ。幣原内閣の「軟弱外交」への批判があった。つまり、幣原内閣の首を切りたかったわけですね。その背景にあったのが、蒋介石の第一次北伐に際して昭和2(1927)年3月に起こった外国人居留民襲撃事件(南京事件)がだった。

 南京事件とはあの有名な南京大虐殺事件と異なるので注意してほしい。蒋介石が南京を占拠したときに発生した事件です。日本も大使館員等が暴行を受けました。Wikipediaの解説がわかりやすいので貼っておきます。

ja.m.wikipedia.org

 大正15(1926)年から始まった蒋介石の第一次北伐に対して対中国不干渉政策の下で英国からの自国民保護のための共同出兵提案を与党は拒否していた。そう、このころ日本は軍縮をすすめて緊縮財政でした。そんな予算はなかったのかもしれません。このような中で起こったのが南京事件でした。内閣は震災手形法案にいっぱいいっぱいだったのだが、枢密院は軍縮・平和外交にノー!をつきつける形になりました。外交政策の不一致から緊急勅令を否決し、金融不安が広がる。。。平和と軍縮、震災手形処理のため内政重視で動いていたわけですが、結果として大きな代償を払うことになります。

野党(政友会)が与党へーーー緊急勅令の可決

 若槻総辞職後、政友会・田中義一内閣(高橋是清蔵相)が発足します。枢密院は速やかに全面協力し、緊急勅令が可決される。

 若槻内閣は枢密院の勅令否決は筋違いなのだから大いにやってやろうという層もいたのだが、その意見を抑えて下野の道を選んだのは片岡前蔵相だった。そうしている間に台湾銀行が倒れてしまっては元も子もないと国家的課題処理を優先させたという*5。片岡直温は大局的な視点に立てる人だったんですね。


金融不安への対応ーーー高橋是清のモラトリアム 

 蔵相に就任した高橋是清は、1927年4月20日に東京の五大銀行の一つの十五銀行の救済策を講じ、12日には全銀行を二日間自主休業させるとともに緊急勅令により三週間のモラトリアム(支払猶予令)をしいた。そして、銀行が自主休業明けとなる25日には各銀行の窓口に札束を積んで聞きを乗りきった!。やるじゃん!高橋是清

 5月には臨時議会を開き、日本銀行特別融資のための法案を5日間で可決。なんて素早い動きなんだ!。

 高橋蔵相は日銀総裁に井上準之介を再登板、蔵相には三土忠造を据え、42日間のショートリリーフで退任した*6

 井上・三土は昭和2年に銀行37行を閉鎖し銀行整理を行う一方で企業救済を手厚く行った。

 三土蔵相は緊縮財政路線を維持しつつも金融恐慌を収束するために実行されたのが「公的資金注入」だった。これは明治維新期の藩債整理や秩禄処分の際にも用いられた手法(交付公債)だった。このとき投入された5億8000万円は、現在の感覚で言うと26.5兆円規模*7と言える。

 これにより、台湾銀行融資補填補償公債に約2.4億円、対支借款(西原借款)関係三銀行公債に1.5億円、震災手形補償公債に1億円、海軍軍備補償公債(川崎造船支援)に0.2億円が交付されて、それぞれの関係先の企業や金融機関のバランス・シートの回復がはかられた。

 

 

今日はここまで!

 

内政重視で平和外交を行えるほど世界情勢は甘くなかった。特に中国情勢の複雑さが、内政重視の対応では許されない状況だった。戦後の日本がいかにアメリカに守られていたのか実感しますね。独り立ちした国家にとって苦労の連続。果たして正解はどれだったのか。難しい選択の連続です。

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

 

 

 

*1:愛知県名古出身だったんですね。尾張藩下級藩士の出身。加藤高明 - Wikipedia

*2:松島遊郭疑獄 - Wikipedia朴烈事件 - Wikipedia

*3:前者は震災手形整理によって生じた損失の補償金を五分利付国債証券をもって交付する法案、後者は震災手形の整理を行わせるために震災手形所持銀行に対して政府が貸し付けを行う法案。221

*4:232

*5:224ー225。松元崇さんの片岡蔵相への眼差しは優しいですね

*6:体調が悪かったらしい。

*7:予算80兆円時代の感覚なので2021年の感覚だと30兆円くらい、予算の3分の1の規模の公的資金の注入だった。