kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

なぜ日本は戦争を選択したのか(10)金解禁不況、ロンドン軍縮会議と統帥権干犯ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 

(8)では平和外交(=軟弱外交)から積極外交に転換し、不穏な中国情勢に対応して出兵した結果、日本人居留民が惨殺された済南事件が起こり国内世論は中国へ厳しい目が向けられるなか張作霖爆殺事件が起こる。(9)では日露戦争後、地方では行政費用が増加し、増税した。第一次大戦景気では二次産業が好調で都市部を中心に豊かになったが、それは相対的に農村部の経済力低下を意味し、地方の増税負担は大きく、地域格差が広がり、農村は困窮した。

 

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今回も松元崇さんの本の第10章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

金本位制度とはーーー金解禁は経済活性化策という当時の常識

 金本位制は今はない制度なので理解するのが難しいのですが、そういうもんなのかと思って読んでもらうとありがたいです。

 当時、金本位制は、それに参加していることがその国のマクロ経済運営の良好さを示す「認定証(Seal of Good Housekeeping)」と見なされていた。戦争といった偶発的事情により一時的な離脱はやむを得ないとしても、早急に離脱前の「旧平価」で金本位制に復帰するのが一流国のあり方だった*1

 例えば英国は第一次大戦後の1925年に旧平価で金本位制に復帰したが、その結果、石炭不況に見舞われ、ゼネストまで起こったが、英国政府は金本位制復帰が英国経済に与えた影響は良いことずくめだとしていた。この時の蔵相はウィンストン・チャールズだ。

 これまでのシリーズでも見てきたように金解禁は外貨流出して経済が悪化するわけだが、それは今の常識から分かるのであって当時は「金本位制は一流国の証であり、経済にとってよいもの」という常識があったと理解して読み進めてほしい。今の常識で判断するとなぜ金解禁するのか理解できないので。私もどこまで理解できているのか自信ありません。。。 

 というわけで、世界大戦後の不況で経済悪化していた日本だったが、経済回復するためには「金解禁が切り札」と経済活性化策として国もマスコミを考えていた。

国際的な金解禁の流れ

 第一次世界大戦後、米国を皮切りに各国が順次金本位制に復帰していった。日本も大正6(1917)年に停止した金本位制にいつ復帰するのかが課題となった。大正12(1923)年には高橋財政のもと貿易収支は堅調となり、為替相場も旧平価の水準(対米49ドル台)に回復したことから金解禁を実施しようとした。が、関東大震災が起こり金解禁は中止された*2。大正14(1925)年に英国が復帰したので、日本も復帰を検討したが昭和2(1927)年の昭和金融恐慌で復帰を断念した。

 昭和3(1928)年にフランスが復帰すると、日本だけが国際的な金本位制に取り残されることになった。そのため、日本も金解禁近しとの思惑から円投機(円買い)を生んだ。円投機が過熱して外国貿易が投機化し、安定した貿易が難しい状況になってしまった。世論は金解禁一色になっていった。

 というわけで、金解禁は国内外から当然の流れとして受け止められた。問題は「旧平価」か「新平価」のどちらで金解禁を行うかだった。旧平価で金解禁を行うためには、輸出急減・輸入急増で正貨流出を招かない体質にする必要がある。具体的に言うと、国内経済を緊縮財政と国民の消費節約にしてデフレ政策にし、人為的に為替レートを大幅に切り上げる必要があった*3

金解禁のためのデフレ政策

 金解禁政策の与野党対立が激化し、昭和5年2月に金解禁の是非を問うために総選挙が行われた。その結果、与党が大勝し(民政党273、政友会174)、金解禁政策は国民の支持を得たと理解できる。

 金解禁を行うために井上準之介蔵相(濱口雄幸内閣)はデフレ政策を実行し、公債に依存しないで予算編成を行う「非募債主義」*4を選択した。この方針の下、財政規模は実額で昭和3年度の18億1000万円から昭和6年度には14億7000万円へと約2割が縮減された。このデフレ政策は松方デフレよりも厳しいものであり、消費者物価指数が大正10(1921)年度から昭和6(1931)年にかけて30%下落した。

 なお、明治憲法下で非募債予算を編成したのは4回だけであった(明治28年度、明治42年度、昭和5年度、6年度で昭和時代は井上蔵相時代)。昭和5年11月には濱口雄幸首相は狙撃され退陣したが、それでも非募債主義予算を貫いた。

 非募債主義予算は濱口雄幸内閣がテロで倒れた後は若槻内閣が引き継ぎ、料亭政治を廃止し官吏の給与の1割減を実施した。官吏給与の減俸は文官だけでなく軍官にも直撃した。

 また、これまでのシリーズで見てきたように緊縮財政といえば軍縮であり、軍縮将官ポストを大幅に減らされた。昇進が極度に遅れていた軍人にとってこのときの官吏減俸は特に厳しいもので多くの軍人の生活を直撃した*5

 金解禁のための緊縮財政による厳しい軍事費抑制が統帥権干犯問題へつながってくる。

景気の激しい落ち込み 

 金解禁のための円高と緊縮財政で景気は悪化し、井上蔵相は更に節約を行ったが、結局、大幅な税収の落ち込みで歳入不足となり非募債主義は守れなかった。。。

 そして、失業者が増大し大学生は就職先は無く、各地で大規模ストライキが起こった。前回のシリーズ(9)で書いた農村は更に疲弊した。景気悪化が都市労働者を直撃し、失業した労働者は農村に帰らざるをえず疲弊するなか、昭和5年は大豊作による農作貧乏に、6年には東北地方の冷害・凶作となり追い撃ちをかけた。

ロンドン軍縮会議統帥権干犯問題

 時間を金解禁直後まで巻き戻そう。浜口雄幸がまだ襲撃される前です。

 ロンドン軍縮会議(大正5年1月~4月)は、英仏からも首相が全権として参加する国際的な重要な会議であり、日本からは財部彪海相とともに若槻礼次郎元首相が参加した。

 当時の軍部はそれほど強くなく、世界的な流れである軍縮を阻止するだけの力は無かった。海軍内部の海軍大臣(のちの条約派)と海軍軍令部長(のちの艦隊派)の対立があり、財部海相は、当時の日本の国力、実力から軍縮やむなしとしていた*6

  同年4月に行われた加藤宏治軍令部長は帷幄上奏を行った。一回目の上奏は鈴木貫太郎従事長に阻止され、二回目は昭和天皇に直接上奏できたが、昭和天皇は財部海相を呼び「加藤がこういうものを持ってきていろいろ言ったが、話の筋合いが違う、加藤の進退についてはお前に一任する」と言われ、加藤軍令部長は更迭されて終わった*7

 このように失敗に終わった帷幄上奏の問題からなぜ統帥権干犯問題に発展したのだろうか。それは、総選挙で大敗した政友会が4月の帝国議会の審議で取り上げたことで政治問題化したからだ。この帷幄上奏を政友会や枢密院が取り上げて政府攻撃に利用した

 政府攻撃の先頭に立ったのは、犬養毅鳩山一郎といった政党幹部と枢密院であった。海軍の条約反対派や政友会の攻撃に対して濱口首相は、「統帥権」を持ち出しての批判に対して『憲法上、統帥権も、兵力決定権も、条約締結権の、天皇の大権であり、一つの大権が他の大権を侵犯することはありえない」と反論し、元老の西園寺も反対派の牙城である枢密院が「不条理なことを言うならば、総理は職権をもって枢密院議長、副議長を罷免してもよい」と濱口首相をバックアップした。マスコミの論調も「統帥権干犯などという犬養や鳩山の言い分は、野党ゆえ倒閣を目論んで言っているだけである」といったものだった*8

 濱口内閣から意見を求められた憲法学者美濃部達吉は、憲法理論に基づいて、条約は内閣が決めるものであること、海軍の軍縮に関する問題は政治問題であり軍令部が口を出すべきことがらではないと述べた。このことが、のちに美濃部達吉天皇機関説が軍部によって攻撃される伏線となった*9

 濱口首相は「たとえ玉砕すとも男子の本懐ならずや」と述べて正面からロンドン軍縮会議の批准を図った。これが有名な濱口雄幸の男子の本懐である。 

条約批准による軍縮で浮いた財源

 ロンドン軍縮会議がまとまり若槻全権が帰国すると、歓迎する民衆は東京駅を埋めたという。金解禁不況のどん底で、国民は軍縮によって建艦費が節減され、その分減税されることを望んでいた!。各新聞も軍縮を強く支持していた。

 昭和6年度の予算編成は、軍縮で浮いた財源(5億8000万円)をどう使うかが大きな問題となった。国民負担を軽減するために地租や営業収益税に充てたいという大蔵省に対して海軍は軍縮会議で制限されていない部分の軍備拡充に充てたいと主張し、折衝が行われた。その結果、減税分は1億3400万円、残りは海軍費に充当された。

 軍縮で浮いた財源は軍備拡充と減税に充てられ歳出削減につながらなかった。非募債予算を貫くために、一層の歳出削減が求められ、人件費を更に削減してなんとか非募債予算編成を行った。その中身は、失業救策事業の財源を実質的に道路公債の発行で賄うことになった。

 ちょっとよくわからないんですけど、非募債予算のために道路公債を横流ししたということなんですかね?非募債を貫いてなくない?ともいえるが、ギリギリのところで非募債予算を編成したのだ。その結果については先に書きましたが、想定を超える税収の落ち込みで歳入不足に陥るのであった。

スムート・ホーリー関税法の成立ーーー世界経済が混乱

 アメリカは1930年6月に産業保護のための関税法、スムート・ホーリー関税法*10を成立させたが、これにより世界経済が一気に悪化した。同法は産業保護のため関税を50%(米国史上最高水準)まで引き上げるとしたもので、それに対して英国やドイツなど二十五ヶ国が報復措置に乗り出した。その結果、その後3年間で世界貿易の規模が三分の一に縮小する結果となった。

 金解禁で景気後退した日本にとっても大きな打撃だった。日本の輸出も生糸をはじめとして約3割減少した。

 このような混乱のなかで大正5年11月、濱口雄幸首相は右翼の青年に狙撃される。命だけは助かったが、議会で野党の批判に応じるために無理を押して登院し、体調を崩して内閣を退陣、その後亡くなってしまう*11。まだ61歳だった。

 濱口雄幸が亡くなった昭和6年8月の半月後に起こったのが満州事変だった。

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濱口雄幸

※写真は“ライオン宰相”とよばれた浜口雄幸 | 文春写真館 - 本の話から引用しました。

 

 濱口雄幸に敬意を表して写真を掲載。濱口雄幸軍縮会議締結に反対する枢密院を押さえ込むことによって藩閥勢力最後の砦であった枢密院の力を失わせて、政党政治による国家システムの全体的なコントロールがほぼ可能となる体制、議会制的君主制の仕組みを完成させた、と評価されているそうだ*12

 今を生きる我々はここが頂点で転落するのを知っている。ここまで政党政治が機能していたのに、なぜ軍国主義になっていったのだろうか。

 

今日はここまで!

 

 

この複雑な流れをどうひもとけば戦争を選択せずにすんだのだろうか。

 金解禁なんかしなければよかったのに、と思うのは現在の経済理論を知るものの目線だ。当時は金解禁がデフォであり正しい道だった。金解禁すればデフレになるが、金解禁をしなければ一流国とはみなされない。

 この当時はまだ軍部がそれほど強いわけではなかった。統帥権干犯の問題もある意味、戦前に成熟した政党政治文化があった証拠だろう。戦前の日本は戦後の国会のように議論が活発だったと言えるかもしれない。テロはあったが、まだ「軍国主義」国家ではない。政治が軍を統制していたのだ。。。とはいえ、野党が軍を味方につけて統帥権干犯問題を責め立てたことで、軍はこのロジックを学んでしまったのだ。。。

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

    金本位制停止

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

    南京事件(※蒋介石北伐による南京占拠で居留民被害)

    枢密院で緊急勅令否決、若槻内閣総辞職

    田中内閣成立、緊急勅令可決、モラトリアム発令

1928年 公的資金注入(予算の3分の1)でバランスシート回復

    (~1929)

     第二次山東出兵

     張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1930年 ロンドン軍縮会議

    総選挙で金解禁派の与党が大勝(民政党273、政友会174)

    金解禁

    加藤寛治海軍軍令部長の帷幄上奏が失敗

    濱口雄幸首相、狙撃

    非募債主義財政(緊縮財政による軍事費抑制、官吏減俸1割減)

1931年 東北地方の冷害・凶作

    満州事変    

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

*1:249

*2:復興物資購入のため外貨が流出した。金解禁ができる状況ではなくなった。詳しくはこちらをどうぞ。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*3:251ー252

*4:252

*5:当時の軍人の昇進の遅れは、陸軍では40才を過ぎてようやく少佐という実態だった。255

*6:263ー264

*7:264。昭和天皇の発言は松本清張『昭和史発掘(5)』から引用している

*8:264ー265、「」の発言は半藤一利『昭和史』から引用している。

*9:以上、265

*10:共和党政権となり、保護貿易政策がとられた。トランプ大統領を知る我々はこの保護貿易の恐ろしさを知っていますよね。アメリカン・ファーストは世界経済の崩壊の始まりです。スムート・ホーリー関税法 - Wikipedia

*11:濱口雄幸 - Wikipedia

Wikipediaの情報で恐縮だが、右翼の青年佐郷屋留雄は死刑判決が下されるが、翌年には恩赦で無期懲役に,1940年に仮出所している。首相を狙ったテロなのに処分が甘い。彼は1972年まで生きていました。右翼青年は「統帥権を干犯した」ことを理由に犯行に及んだが、統帥権の意味は知らなかった。関係者も軽い罪だった。

*12:268