kyoyamayukoのブログ

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なぜ日本は戦争を選択したのか(6)宇垣軍縮ショックと陸軍の裏資金・裏工作ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

    シリーズ(2)(3)では日露戦争の借金と金利負担で四苦八苦していたが第一次世界大戦のおかげで借金返済し、債務国から債権国のイケイケに、(4)では世界大戦後は国際環境が一変、帝政ロシアが消滅し互いに認め合っていた満州利権が御破算となり、アメリカが台頭してきて中国利権に口出してくるなか、世界的な軍縮の流れにのって日本も軍縮をします。明治維新五後から借金付けで大変だったが、世界大戦の好景気で日露戦争の借金を減らし一息つくなか、(5)では関東大震災で経済が悪化、借金が再び膨らんだところまで書きました。

 

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 今回も松元崇さんの本の8章の後半を参考にまとめていきます。

 

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

宇垣軍縮ーーー四個師団の削減

 前回のblogの最後に政党政治に突入したと書きました。政党内閣のトップバッター加藤高明内閣は選挙で大勝した。加藤内閣の蔵相は濱口雄幸は、国民生活の充実安定と軍縮を中心とする緊縮財政路線を更に強化しました。尚、加藤内閣で普通選挙法が制定されます。治安維持法とセットで。まさか治安維持法がこのあととんでもないことになると果たして予測していたのでしょうか。

 緊縮財政の柱である軍縮は、宇垣一成陸相加藤友三郎内閣の以来の総仕上げとして、「宇垣軍縮」を実行した。陸軍の四個師団が削減、将校1200名、准士官以下3万6千名のリストラが行われた(一般会計、特別会計を通じて全体で4万104名)。

 軍縮の結果、大正8(1919)年に26万1千人いた陸軍の将兵数は昭和元(1926)年には21万3千人となった。リストラされた将校は、大正14年から中学校等の軍事教練の教官として配属された。軍国主義教育の象徴とされる「配属将校」制度は、実は軍縮によるリストラの受け皿として設置されたのは歴史の皮肉である。

 軍縮の結果、日露戦争後には国民総生産の11.5%を占めていた軍事費の割合は、大正14年度には2.75%まで低下した。尚、戦後の日本は、平和憲法を掲げ専守防衛を基本とする日本の軍事費は、国内総生産比の1%の割合で抑える政策をとっている。宇垣軍縮がいかに激しい軍縮だったかわかるだろう。

 また、一般会計に占める軍事費の割合も大正10年度には約半分だったのが、大正13年度には3割弱まで低下した。これは日清戦争以前の水準の軍事費の割合だった。

幣原喜重郎の平和外交

 ロシア革命後の極東はロシアの脅威が一時的に低下し、ソビエト政府は設立して間もなく極東への圧力をかけるには至っていない。しかし、中国は袁世凱が1916年に亡くなり、軍閥割拠の時代に入った。

 加藤内閣は、対華21ヵ条要求という中国へ干渉する外交が行き詰まった反省に立ち、対中国「不干渉」政策を実施した。一見すると平和外交のようにみえるが、中国に権益をもっていなかったアメリカは別として、欧米諸国がそれぞれ権益擁護のため中国干渉を続ける中で、日本だけ不干渉政策を掲げる形となった。

 幣原外相は、大正13(1924)年に起こった第二次奉直戦(北方軍閥同士の争い)*1でも、日本と関係の深かった奉天派の張作霖が支援を要請してきたが、不干渉政策を楯に拒絶した。張作霖と対抗していたのは英米の支援を受けていた呉佩孚(ごはいふ)だった。日本の支援を拒否された張作霖は、ソ連の支援を受けていた広東政府と提携した。その結果、中国共産党の影響力が満州に浸透することになった。歴史の皮肉である。

 第二次奉直戦争は、張作霖が危機的な状況に追い込まれながら、最終的に相手方の有力者の寝返りにより突如優勢になり事態が打開された。この突如の寝返りは実は日本陸軍が暗躍して100万円の寝返り資金を流した結果だった!。このことは陸軍大臣以外は知らされず、幣原外相は不干渉政策が守られてたとして喜んだのであったが、実はそれは政府が全く感知しないところで陸軍が裏工作を行うという、その後の陸軍の暴走の嚆矢となる事件だったのである*2

 1924年関東大震災の翌年で政府も他国に介入する余裕はなかったのかもしれない。震災による巨額の被害と債務を抱え、緊縮財政に追い込まれた結果の「平和外交」なのかもしれない。宇垣陸相軍縮実行の責務を負うなか、この事件に予算を割り当てられなかっただろう。4万人の陸軍将兵がリストラするなか、他国の軍閥の支援を表だって行うことは難しかったかもしれない。そういう状況の中、裏資金で対応した。しかし、これは密の味だったのだ。裏金があれば、政府の財政とは無関係に作戦を実行できることを学ぶのだった。

軍縮への反発

 なにごともやりすぎると反発が生まれます。宇垣軍縮は軍部には大きなインパクトを与えたでしょう。今の日本の官公庁で4万人のリストラが行えるでしょうか。想像して見てください。リストラを決行すると相当の反発を喰らうのではないでしょうか。

 世界的な軍縮の流れの中で、陸軍は裏資金を持つようになっていった。陸軍はシベリア出兵(1918-1922)以来、財政当局の予算統制の外に自由に動かせる裏金をもつようになった*3。政府が知らない陸軍独自の秘密資金をもったのだ。

 過去にも陸軍が秘密工作費を使った例として日露戦争時の明石大佐の例*4がある。ロシアへの諜報活動は、伊藤博文山縣有朋が指導する政府全体の大きな指針の下に行われた。

 しかし、1918年頃から陸軍は、政府のと財政的な統制から離れて裏資金を作りはじめるのだ。財政は緊縮路線で、その柱である軍縮のためやむにやまれず裏金作りをはじめたのだろう。戦争にはお金がつきものだ。なければなにもできないという危機感があったのかもしれない。そして、第二次奉直戦争が起こる。日本政府は不干渉政策を楯にとり張作霖の支援を断った。しかし、張作霖との対立相手は英米が支援する呉佩孚だ。ここで呉が勝利すると、満州利権に英米が入り込んでくる。この危機的な状況で陸軍は陸軍大臣を除く政府閣僚に知らせず、裏金を使って裏工作をする。

 これが陸軍の暴走のきっかけになる。政府の財政とは別に機密費で作戦を実行するようになる。政府は陸軍を統制できなくなる。。。

 幣原喜重郎の不干渉政策は第二次奉直戦争後も継続されるが、対中関係の安定をもたらさなかったことから「軟弱外交批判」が高まっていく。その軟弱外交批判が、昭和金融恐慌の金融パニックにも影響していくことになる。。。

 

 

今日はここまで。

 

歴史って難しい。軍縮をすすめると裏金、裏工作が始まる。

緊縮財政を行うときは、不満を持つ組織がなにかよからぬことを始めると予測して様子を見ないといけませんね。

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1902年 日英同盟締結

1905年 日露戦争

1910年 韓国併合 

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1915年 対華二十一ヵ条要求

1917年 帝政ロシア消滅

    帝政ロシアと日本の「秘密協定」が暴露される 

1919年 ベルサイユ条約山東半島利権に反発して五・四運動

1921年 日英同盟終了、米国主導の四カ国条約締結

    ワシントン軍縮会議

1923年 関東大震災

1924年 第二次奉直戦争で陸軍が裏工作(政府閣僚に知らせず介入)

1925年 宇垣軍縮普通選挙法・治安維持法成立

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

 

*1:

奉直戦争 - Wikipedia

*2:216

*3:216-217

*4:詳しくはこちらをどうぞ。明石元二郎 - Wikipedia