kyoyamayukoのブログ

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なぜ日本は戦争を選択したのか(12)金本位制はなぜ崩壊したのか、ドイツ賠償問題ーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 シーリズ(11)では金本位制が崩壊する状況を、時を前後してシリーズ(10)では、国際金融の常識である金本位制に復帰した日本が経済悪化で政治不安を呼び起こした状況について触れました。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

 前回はドイツに触れず金本位制の崩壊についてまとめましたが、やはり原因のドイツ賠償金問題に触れたいと思います。ここに触れないと本質を掴めない。財務相官僚の著者の真骨頂でもある金融・財務状況の解説は貴重だ。ほんとは早く満州事変について書きたいのですが、しばし置いておいて、世界の金本位制の崩壊の原因となったドイツ賠償問題をまとめていきたい。

 今回も松元崇さんの本の11章をまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

 

第一次世界大戦の勝者英仏は財政的負け戦だった!

 第一次世界大戦は英仏は勝利したが、両国の戦費は国家財政の30倍(仏)から38(英)にも上る莫大なものだった。つまり、財政的な負け戦だったのだ。このシリーズで日露戦争で日本が財政の七倍の戦費を費やして、その後どれだけ大変だったか書いたが、英仏はそれ以上の財政負担を抱え、大英帝国の時代に終わりを告げることになる。第一次世界大戦で財政的に勝者となったのは英仏らの戦時債権を持つことになった米国だけだった*1

ドイツの賠償で維持が目論れた金本位制*2

 財政的に大きな負け戦なのに、英国をはじめとする各国が金本位制に復活させ経済活性化策の切り札と考えたのは、膨大な戦時債務を敗戦国ドイツへの賠償金に転嫁すればよい考えたからであった。

 ベルサイユ条約で認められたフランスへの賠償金はフランスが英国と米国に支払う戦時債務の総額70億ドルをかなり上回った。各国はドイツへ多額の賠償金を求めた。

 その結果、ドイツは1320億マルクと決定されたが、この金額はドイツの一般歳入(約30億マルク)の44倍という規模だった。その金額は国家財政の半分以上を借り入れに頼る状態に陥っていたドイツの支払い能力を完全に超えていた。最初から債務者の支払い能力を考慮しない多額の「不良債権だった。

 また、ドイツは賠償を支払う意欲が乏しかった。というのも、ドイツの軍隊はすべてドイツ国境の外側で塹壕戦を戦っており、戦闘は押され気味ではあったが負けてはいなかったからだ。戦争集結をもたらしたのは、戦闘に負けたからではなく、ドイツ国内の物資の窮乏と「ドイツ革命」(1918年11月)*3が起こったからだ。皇帝はオランダに亡命し、国家権力の中枢が崩壊した。戦局は国外であり、連合国軍が進駐したのはドイツの一部分であり、国土の大半には外国軍隊の姿はなかった。日露戦争でもロシアが国外の戦闘であり軍事的に負けていないと言い張り、賠償支払いを峻拒しましたが*4、それと似たような状況だったらしい。

戦争のルールが変わるーーー米国のウィルソン大統領の「無条件降伏」案

 当時の戦争は、戦争が「文明国」同士で戦われるものである限り、主権国家の外交の延長線上として戦争を「条件付き」で終わらせるものであった。しかし、米国のウィルソン大統領はドイツに対して「無条件降伏」を要求した。

 アメリカは、直接利害関係の無い欧州戦争に参戦した。利害調整ではない形で参戦したアメリカは十四箇条の理念を掲げたうえで無条件降伏を唱えることになった*5

 ベルサイユ会議には敗戦国ドイツの参加は許されず、賠償金が課されることになった。それは、ケインズが「カルタゴの平和」*6と呼んだほどに厳しいもので、ドイツは戦後3年目にして財政的にとんでもない敗戦を強いられることになった*7

 この措置に対してドイツのエーベルト大統領(社会民主党:ドイツ革命で共和国になりました)は、ベルサイユ条約受諾直前に「圧倒的な力に屈服し、しかし平和の条件としては聞いたことがない不正義だという観点を失うことなく、ドイツは政府は連合国政府の平和の条件に応ずることを決した」という書簡を連合国側に送っている*8

 英国から講話会議に出席したハロルド・ニコルソンは「われわれは、新しい秩序が創られようとしていると信じて、パリ(講話条約会議)にやってきた。そしてわれわれは、新しい秩序が、古い秩序を損なっただけだと確信してパリを去ったのだ」[細谷雄一大英帝国の外交官』]と述べたのだった*9アメリカの参戦で世界の戦争のルールが一変したのだ。

戦後5年目のハイパー・インフレーションーーー関東大震災の頃*10

 莫大な賠償を抱えたドイツは当然のこととして支払いが滞ることになった。滞った賠償を支払わせるためにフランス、ベルギーの両国はドイツ産業の心臓部であるルール地帯を占領したが、それに反発してゼネストが起こり生産がほとんど停止した。その結果、発生したのがハイパー・インフレーション(1923年)だった。

 ハイパー・インフレーションの結果、ドイツ国内の金融資産のほとんどを失い、一般のドイツ国民の生活が幅広く破綻した。それは都市部と農村部も無差別に経済的な絨毯爆撃を受けたようなものだった。

しばしの平和の時代ーーー統帥権干犯問題の頃

 大戦ではドイツ国内が戦場になっておらず、ドイツ産業の生産能力自体に問題がなかったこともあり、ゼネストが中止され、新たにレンテマルクが発行されデミノが行われると速やかに収まった。そして、ドイツへの巨額な賠償金については、1924年(ドーズ案)、29年(ヤング案)、と思いきった実質債務免除!が行われた。これにより、ドイツ経済は戦前の水準に戻ることになった(1925-1926年)。

 ドイツ経済が小康状態を取り戻すと、世界は金本位制復帰への流れとなり、1925年に英国、28年にフランス、1930年に日本が復帰したのだ。

 ドイツは政治面でもワイマール憲法下の民主主義が安定期を迎えた。第一次世界大戦後の「ドイツ・フランス冷戦」に終止符が打たれ、26年にはドイツの常任理事国として国際連盟に加盟、28年には不戦条約*11を締結した。これにより、国際協調の下に平和の流れが大勢となった。その流れの中で、1922年のワシントン軍縮会議に続き宇垣軍縮(1925年)、1930年にロンドン軍縮が行われた。

ナチス・ドイツの台頭

 この小康状態を突き崩したのが、1931年5月のクレジット・アンシュタルト銀行(オーストリア)の倒産に端を発したヨーロッパの銀行危機だった。銀行危機はたちまち国際的な通貨危機となり、そのような中で米国はドル切下げを行うのではないかという不安が広がり、為替投機が行われ、それに対処するために米国連銀が金融引き締めを行った。これにより、世界規模のデフレが深刻化していった。

 ドイツは債務免除を受けていたとはいえ過剰な賠償支払責務を負っているため構造的なデフレになっていた。31年6月に支払いを1年猶予するフーバー・モラトリアムが発動されたが、直近でハイパーインフレの記憶が強烈だったためひたすらデフレ策を強化したことで、経済は大幅に縮小した。280万人以上の雇用が縮小し、不況が深刻化し、ナチス・ドイツの台頭の背景を生んだのだ。1933年1月にヒトラーが首相に任命されたが、その二ヶ月後の3月にアメリカではルーズベルト大統領が就任した。役者は揃った。

クレジット・アンシュタルト銀行倒産はなぜ通貨危機を生み出したのかーーー金本位制の罠

 クレジット・アンシュタルト銀行倒産によって通貨危機が起こり金本位制が崩壊する過程についてはこちらのサイトに詳しく紹介されているので参考にまとめたい。

econ101.jp

当時オーストリアで最大の規模を誇っていた銀行であるクレジット・アンシュタルトが破綻し、それをきっかけにして、ハンガリーチェコスロバキアルーマニアポーランド、そしてドイツへと、取り付け騒ぎが波及することになったのだ。

  この金融危機は銀行危機と通貨危機が伴った。通貨危機の詳細は上記サイトを読んでほしいが、市民にはこのような不安が広がった。

「銀行は私の預金をちゃんと返してくれるんだろうか?」との疑心暗鬼に加えて、「銀行から無事に預金を下ろせたとしても、お金(通貨)の価値は今後も安定したままなんだろうか? ヤバそうな銀行にお金を預けておくよりは、銀行口座から引き出したお金をそのまま手元に持っておくよりは、お金を金(gold)に換えておいた方がいいかもしれない」

  「お金をGoldに換えておいた方がいいかもしれない」という不安は、イングランド銀行に預金を増加させた(=金の増加)。しかし、そのうちイングランド銀行が欧米各地の銀行に預けている資産が凍結されるのではないかという不安が生まれ、一気にイングランド銀行からお金(=金)を引き上げはじめ、大量の金が流出した。その結果、1931年9月19日にイギリスは金本位制から離脱した。

 人々の不安の次のターゲットはアメリカだ。イギリスが金本位制から離脱したことで、アメリカも離脱するのではないかという不安が広がり、大量の金が流出した。しかし、アメリカは世界の3分の1を占める金の準備高があり、かつ流出を防ぐために金利をあげて対応して耐え抜いた。

 金流出を防ぐための金利値上げだったが、景気悪化するなかで米国国内の経済を深刻なほど悪化させた。

 なんで金本位制はデフレになるのだろうか。上記のサイトの論文では以下のようにまとめている。

1931年当時は、銀行預金よりも金(gold)が選好されたわけだが、それに応じて、金の供給が増えることはなかった。そのために、金の相対価格(最終生産物と金の交換比率)が上昇することになり、それに伴って、金本位制を採用していた国ではデフレという結果が生じることになった(doc)のであった。 

  ということは、金という実物で固定されている限り、金本位制の維持を選択するということは国内にデフレと金利上昇を呼び込み、景気を悪化させるということだ。井上蔵相もこの罠にはまっていきます。そして、景気悪化は社会不安を起こす。ドイツ然り、日本然りです。

 

 尚、イギリスは1931年に金本位制に変わる通貨体制としてスターリング・ブロック態勢を形成する。スターリング=ブロックのサイトによればこの体制は「ポンドを基軸通貨とする国際金融体制」であり、具体的にはブロック構成国はロンドンで準備金としてポンドを保有する(スターリング残高)ことが義務づけられた」と説明している。スターリング=ブロックに参加したのは、「イギリス本国とオーストラリア、ニュージーランド南アフリカアイルランドの4自治領(ドミニオン)と英領インド、海峡植民地などの属領、香港・アデンなどの直轄植民地(これらを公式帝国という)だけでなく、イギリスと密接に貿易・金融関係のあった北欧のスカンジナビア諸国、バルト三国ポルトガル、タイ(当時はシャム)、イラク、エジプトと、アルゼンチンなどの諸国が含まれていた」*12。「ポンド決済を通じてイングランド銀行を中心としたシティの金融機関が影響力を強め、「世界の銀行」としての世界経済への一定の力を持ち続けた」という*13

まとめ

 最後の方はマクロ経済学の話みたくなってしまった。言い方を変えると、こう言うことができるだろう。金本位制グローバル経済は、第一次世界大戦の莫大な戦費を最終的に吸収できず金本位制という金融システムを破壊した。その結果、ブロック経済=反グローバル経済となった。

   1944年には固定相場制となり、1971年に変動相場制となったことで、金と固定相場から解放されて、ようやく第一次世界大戦前のグローバル経済の経済水準に追いつき、追い越していったのだ。そうして今の我々の経済社会があるわけですね。金本位制グローバル経済の崩壊で払った代償はとんでもなく大きかった。

 

 今日はここまで!なんだか歴史というより経済学の教科書みたいな話になってしまいました。松元崇さんと上記サイトの論文のおかげで金本位制について理解を深めることができました。

 

 これで次からは満州事変に突入できます。

 

*1:日本も経済活況となり、日露戦争の借金を返し、債務国から債権国になりました。

*2:287:タイトル引用

*3:Wikipediaによれば、ドイツ参謀本部が企画した塹壕戦は短期決戦の作戦だが長期化。軍が停戦協定を求めたが、敗戦を予期していなかった国民と溝を深めたとあるが、日露戦争の日本国民みたいですね。休戦交渉に反対したドイツ海軍は出撃命令を下したが、その命令に疑問を感じた水兵千人が従わず、逮捕された。釈放を求めたが解放されず、水兵を救助するために社会は混乱、デモも隊も加わり、各地で反乱が広がった。そして皇帝がオランダ亡命して帝政ドイツが崩壊した。

ja.m.wikipedia.org

*4:こちらを参照してください。

kyoyamayuko.hatenablog.com

*5:301注記(1)を参照

*6:教養が無いので意味を調べてみました。こちらのサイトの解説がわかりやすいです。こちらのサイトでは、米国の日本統治政策が「カルタゴの平和」になぞらえて語っていますが、その原型はドイツだったわけです。

 

ameblo.jp

*7:289引用

*8:289

*9:290

*10:ここから松元崇さんの項目にそって説明してきます。

*11:不戦条約 - Wikipedia

*12:上記サイトから引用

*13:上記サイト引用