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なぜ日本は戦争を選択したのか(2)日露戦争までーーー松元崇の財政分析から学ぶ

 前回は日清戦争まで書きました。日中戦争、太平洋戦争のところからさくっと書いてまとめたいと思ったのですが、そこから書くとよくわからないし、勉強がてら明治政府以降の流れをまとめています。

 引き続き松元崇の本を参考にしてまとめていきます。

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

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 前回までのポイントは明治政府は「借金漬け」、富国強兵といいながらも秩禄処分軍縮を断行し、「小さな軍隊」だったということです。

 

 日露戦争の開戦の理由は満州朝鮮半島利権で利害が対立していたからと言われる。日清戦争後、三国干渉によりロシアはシベリア鉄道が完成を間近にしていた。シベリア鉄道が完成するとヨーロッパ・ロシアからウラジオストクへのルートが完成し、200万人の将兵を輸送できる体制が整うことを意味します。

 歴史を知るものにとっては日露戦争は奇しくも勝利することを知っているのですが、当時の政府にとっても大きな賭けでした。奇跡の勝利といってよいでしょう。陸軍力は日本の常備兵20万人に対してロシアは200万人、日本の歳入2億5千万円に対してロシアは20億円*1と陸軍力、財政力には10倍の開きがあった。伊藤博文井上馨は最後まで開戦には慎重で、明治天皇も最後まで躊躇していたという*2伊藤博文はロシアとの満韓交換論を唱えて開戦を回避しようとしたそうだ。

増税と外債発行で戦費を賄う

 日露戦争の戦費は最終的に17億円に達したが、それは明治36年年度の一般会計歳入2億6千万円の七倍近いの額だった。

 この膨大な戦費のためにまず行われたのは「大増税」だった。開戦の翌々月の明治37年4月には各税一律の増税、翌年の明治38年1月には所得税、酒税の増税、新たに相続税、塩専売税を新設して増収をはかった。当時の大蔵次官・阪谷芳郎は「こと今日に至っては皆悪税です。皆さんの気に入るような適正な良い税は、もう悲しいかな国が小さいからありませぬ」*3と説明するありさまだった。

 なお、これらの非常特別税は「平時に廃止」するとされていたが、ロシアから賠償金がとれず戦後も継続され、国民の不満が高まったのだった。

綱渡りの外債発行

 これだけ増税しても戦費を賄えなかった。増税したうえでさらに借金を重ねたことは記憶に留めておきたい。

 戦費の大半は公債で賄われた。軍需品の多くを輸入に頼っていたので、輸入代金支払いに充てる正貨確保のため外債発行が戦争継続にとって死活問題であった。「正貨」とは、今の言葉で言えば外貨のことです*4

 

政府は、正貨獲得のために、まずは民間の輸入を解約させるとともに、国内での正貨使用節約のために国内の軍事費については1億8528万円相当の軍用切符での支払いを行うなど、ひたすら正貨の維持に努めた。

しかしながら、政府が外債発行にあたっての信用保持の観点から、日銀券の兌換停止を行わなかったことから、正貨は開戦前後から月々1000万円余りのペースで流出した。

そのため最初の外債発行が失敗すれば信用喪失から以後の外債発行は困難になり、日本は財政面から到底ロシアとの戦いが続けられなくなるという厳しい状況になっていた。34ー35

 

ひえ~~~~!!!

 

こんな状況でよくぞ戦争することを決めましたよね。伊藤博文明治天皇が最後まで躊躇するのわかるわ。

こんなにケツカッチンなのに、「国防」のためとはいえよく戦争したよ。。。

シベリア鉄道が完成する前に戦争すればなんとなるかも?

というロジックは

先手必勝でアメリカに戦争すればなんとかなるかも?

というのに似ていませんか?

しかも、アメリカに戦争をしかけたときよりも日本はカネが無かった。。。

 

1回目の外債発行が失敗すれば日本はロシアとの戦争は継続できないという追い詰められた状況で、外債発行の責任者だったのが高橋是清である。

 

外債発行市場の状況をみてみよう。

欧州の外債発行市場では、軍事力の違い等から日本の勝利を予想する向きは少なく、外債発行環境は極めて悪いものであった。

日露開戦後、パリ及びロンドンにおけるロシアの公債価格は上昇の気配を示したのに対して、日本の四分利付英貨公債は80ポンド強から60ポンドに二割以上も暴落するといった有様だった。 35

 

諸外国も日本が負けると予想していたんですね。妥当な判断ではないでしょうか。兵力も財政も10倍違いますからね。

 

高橋是清はどうしたのだろうか。

ロシアに反感を持つユダヤ系のクーン・ローブ商会(米国)のジェイコブ・シフの協力や鴨緑江における日本軍勝利の報もあってなんとか成功し(六分利付)、日本海開戦までに三次にわたって資金調達を行った。 35

 

ユダヤ系商会が外債を買ってくれたおかげでなんとか戦争できたんですね。

でもロシアの戦意は衰えません。

ポーツマス条約交渉時にも第4次外債発行を行わざるを得ないという綱渡りの状況に直面し、ジェイコブ・シフの口利きによるS・G・ワーバーグ(ドイツ)の参加によって、その第4次の起債をようやく成功させるという有様だった。 36ー37

 

 ジェイコブ・シフさんに頭があがりませんね。結局のところロシアが嫌いなユダヤ人とロシアが敵国のドイツの思惑によって戦費が賄われたわけですね。この外債発行には関税収入を担保にいれていたそうです。。。そこまでして戦争したのか。。。

 なお、関税収入の差し入れ担保は今回で二度目で一回目は新橋ー横浜間の鉄道建設時以来だとか。鉄道敷設のときは4分利だったが、今回は6分利でした。。。利子負担が重い。。。

 外債の総額は8億円以上で、当時の一般会計歳入の3倍の金額だった。この歳入は増税した上での歳入ですからね。

日露戦争の幕引き

 ケツカッチンな資金繰りだったので政府首脳は早くから終結を念頭に置いていたそうだ。わかるわ。髪の毛、真っ白になるわ。

 日露戦争では日本海海戦の勝利とともにロシア国内で「血の日曜日事件*5のデモが発生するなど政情不安に陥ってた。そのため講話のテーブルに両国が着くことができた。

 ポーツマス条約受け入れの御前会議では、

寺内正毅陸相が「もう士官が欠乏し、これ以上戦争できない」と発言し、

曾禰荒助蔵相が「これ以上金を出せと言われてもできぬ相談なり」と発言して講話受け入れを決めた。 37

この時代の御前会議では、みんな本音トークができたんですね。これは知っておいてよいことかもしれません。本音で会議することはほんとうに重要です。太平洋戦争で身に染みたことですね。

ポーツマス会議でロシア全権代表ウィッテ(前大蔵大臣)は

「賠償金は戦勝国に支払われるものだが、そのような状況ではない。第一、敵はロシアの国境の外にいるではないか」と敗戦国ではないとの姿勢を貫き、日本の賠償請求を一蹴したのであった。 37

 日本が金がなくて戦争継続できないことはわかっていたでしょう。ロシアも政情不安なので戦争はやめたい、でも賠償金は払いたくないという大蔵大臣だったウィッテは算盤を弾きながら交渉し、両国が合意しました。

財政的な負け戦ーーー国民の思い込みと財政悪化

 日露戦争は戦争として見た場合、日本軍の勝利だったかもしれないが、賠償を取れなかったことから財政的には負け戦と言えた*6

 日露戦争の戦費により、戦前では約5億円だった政府の国内外の債務合計は戦後は20億円を超え、利払いだけで1億円を超えた。しかも、ロシアの脅威が継続したから軍事費を削減するわけにもいかなかった。明治39年度に1億2975万円に膨張した軍事費は、その後おおむね2億円で推移して、総額6億円規模の予算を圧迫した。予算の3分の1が軍事予算ということですね。ちなみに、2020年度の日本の軍事費が予算に占める割合は約5%です*7。負担がとても重いことがわかりますね。

 また、開戦前の明治38年度の一般会計歳出に占める国債費の割合は11.6%だったのに対し、開戦後の翌年は32.6%まで上昇しました。この割合はどこかで見たことがありますね?前回のblogで書いた、西南の役による戦費のため公債費が30%台まではねあがりました。松方財政時代レベルまで財政が悪化したことを意味します。

 一方で、日露戦争の勝利で国内の株式市場は活況でした。それは日清戦争の経験から賠償金を獲得することを予想してのことでした。しかし、賠償金がとれないなら講話反対の気運が盛り上がり、日比谷焼き打ち事件が起こります。我慢し、増税にも堪えたのに賠償金をもらえなかったことに市民は怒ったのでした。政府と国民の間では意識の乖離があったのです。

国民の負担

 日露戦争の結果、財政規模は3億円から6億円まで膨らみました。6億円の内訳は軍事費が三割、国債費が2~3割だった。つまり、膨らんだ3億円のうち半分は戦争の借金、軍事費でした。

 松方財政時代の公債割合となったため、戦後は厳しい緊縮路線になります。緊縮路線は第一次世界大戦で好況になるまで続きます。10年くらい厳しい状況が続きます。

 歳出規模が3億円から6億円と倍増したが、その間に国民所得は二割しか増加していなかったため、日露戦争を挟んで租税負担が倍増したことにほかならなかったそうだ*8。そういったなかで、戦争が終わればなくなるはずだった戦時特別税が継続され、しかも経済が不況に突入し、国民の不満は高まっていった。

 日露戦争の負担は国民にのしかかったのである。

満州の位置づけ

 日露戦争後、満州全域を占領していたロシアは、満州内ではウラジオストクに至る東清鉄道の支線の南半分、長春から旅順に至る区間(のちの満鉄)を日本に譲渡した。

 ロシアは大正5(1916)年にはシベリア鉄道アムール川北岸ルートを完成し、軍事輸送力を日露戦争時に比べて倍増させ、満州への勢力伸長を一層強めた。

 ここでアメリカについて知っておこう。ポーツマス講話条約を締結する直前の明治38年7月に米国タフト陸軍長官が来日し、桂首相と対談し桂・タフト覚書を締結している。日本は米国のフィリピン領有を、米国は日本の韓国保護国化を支持するという内容だった。

 米国の満州の見方は、仮に日露戦争でロシアが勝利した場合は満州はロシア領になったのかもしれないが、日露戦争で日本が勝利した結果、ロシアの占有地域が「門戸解放」地域になったと解釈した*9アメリカと日本では満州の評価が異なっていたことには注意が必要だ。

 しかも、日本が講和条約で獲得した東清鉄道支線に対して米国の鉄道王ハリマンは共同経営を提案した。もともとこの路線はロシアが旅順港への連絡線として採算度外視して作られた路線であった。この共同提案を桂首相は承諾した。しかし、ポーツマス講話条約締結してようやく帰国した小村寿太郎外相が協力に反対によって反古にした。小村寿太郎は賠償金がとれず日比谷焼き打ち事件まで起きている状況で、勝利のシンボルの東清鉄道に米国資本が参加することで国民感情がさらに悪化することを恐れたようだ。

 約束を反古にされたハリマンは「日米両国は十年出でずして旗鼓相見ゆるに至るだろう」[46]と述べている。

 アメリカの満州への評価は日本とは異なっていた。満洲についてはアメリカ派門戸開放地とみなしていたが、日本は日本のための緩衝地とみなしていた。

 もしここで共同出資に応じていたら歴史は変わっていた可能性がある。一方で、国民の不満が爆発しているときにこの要求を飲むことができないのも理解できる。

 

 

今日はここまで。

まだまだ先は長いぞ。。。

 

閑話休題

 防衛省防衛研究所のツイートでこういうのを見つけました。

 

 日露戦争の軍艦は英国の民間企業が製造していたんですね。ということは、日露戦争の海軍の軍艦費用は英国に流れているわけです。そりゃあ外貨が流失して頭も真っ白になりますよ。。。

 

 

 

【略年譜】

1868年 明治維新政府、設立

1877年 西南の役

1894年 日清戦争

1905年 日露戦争

1914年 第一次世界大戦(1918年まで)

1923年 関東大震災

1927年 昭和の金融恐慌

1928年 張作霖爆殺

1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)

1931年 満州事変

1932年 五・一五事件犬養毅暗殺)

1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)

1937年 日中戦争勃発

1939年 第二次世界大戦勃発

1941年 太平洋戦争開戦

1945年 敗戦

 

【注記】

 

*1:尾崎行雄が国会で国力差が大きく異なるため「勝てるわけはない」と答弁している。32ページ

恐慌に立ち向かった男 高橋是清 (中公文庫)

*2:31ページ

*3:34

*4:当時は金本位制をとっていたので、金貨になりますが、ややこしいので外貨ということで話をします。金本位制については、ややこしいのでまたべつのblogで書きたいと思います。詳細を知りたい方はこちらの本をオススメします。

「持たざる国」からの脱却 日本経済は再生しうるか (中公文庫)

 

*5:

ja.m.wikipedia.org

*6:38

*7:

www.jiji.com

*8:41

*9:46