kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

古海忠之(1)ーーー渡満から満州財政、そして阿片政策

 「満州国総務庁次長の古海忠之に関心をもっている人は今の日本では数名しかいないかもしれない。古海忠之を知れば知るほどひかれていくのだが、これまで読んだ本を踏まえて、忘れ去られつつある古海忠之を多角的に描いていきたいと思う。

 

 

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古海忠之※注1

渡満

 古海忠之は1900年生まれ京都府出身。旧制3校を経て東京帝国大学法学部卒業して大蔵省へ。超エリートです。野球を愛好し、3校時代は主将4番捕手。

 旧制三校出身の野球部で東大法学部の野球部といえば、戦前ラストの沖縄県知事の島田叡がいる。島田は1901年生まれなので古海の一つ下の後輩だ。高校大学ともに野球のチームメイトのはずだ。1900年生まれは敗戦時に45才前後。仕事盛りのときに過酷な運命が待ち受けています。

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 古海忠之が過去を回顧した本には、『忘れ得ぬ満州国』(1978年)注2、城野宏との対談集『獄中の人間学』注3がある。前者の本は入手できず未読なので後者の本から引用する。古海の満州国へ渡ったいきさつから。

 

別にぼくはみずから望んで満州へいったわけじゃないんだ。何か知らないけど満州国という国ができた(笑)。関東軍が先頭に立って、新しい国家をつくろうとしていたわけだね。その当時、日本の若者は満州国にあこがれを抱いていた。各民族が共和した、理想的な国家をつくるという建前だったからね。それにくらべて、ぼくたち若手の大蔵省の人間は、まず誰も大して興味は持ってなかった。好きこのんで理想を追っかける必要もないからね。日本にいれば、それなりのコースはたどれるからね。[同所76]

 決して理想主義者でないのが分かるだろう。渡満前は熱い思いがあったわけではない。上司の命令として引き受けているに過ぎない。

そのときのぼくの気持ちからいうと、はじめは気乗りしなかったんだよ。ちょうど昭和7年(※引用注1932年)の3月に事務官になったばかりでね。略、これで一生東京で暮らせると安心した矢先だったからね。本省の事務官になれば将来の見通しがつくわけだし、事務官というのは各局に二人しかいないんだ。局長から次官への出世の途は約束されているんだよ。略。そんなときに、満州に行ってくれないか、と言われたから、ぼくは驚いちゃった(笑)

しかし、直属上司の星野直樹さんが猛烈にやる気を出しているし、当時の大蔵大臣であった高橋是清さんが、これまた満州国の建国には大乗り気なんだ。それでぼくも断り切れなくなって、仕方なく行ったんだ。最初は別に大したことを考えて渡満したわけじゃないんだが、むこうに行ってからはそうじゃなかった。骨を埋める覚悟だった。[同書76-77]

 満州行きは理想に燃えて行くことを決めたわけではない。上司が熱くなったから道連れになったといってよいだろう。しかし、満州国設立後から敗戦時まで一貫して携わったのが古海忠之であった。満州国の生き字引のような存在だった。満州の国作りに関わることで骨を埋める気持ちになるのだ。

 「高橋是清満州建国に大乗り気」という言葉は歴史的に貴重な証言かもしれない。波多野澄雄ら『決定版 日中戦争』※注4によれば、高橋是清は1932年に組閣された犬養毅内閣の蔵相であり、以降は高橋路線を踏襲し、軍事費抑制・公債漸減方針をとり、軍部と対立していた。高橋財政路線時は対満投資額も漸減されていったのだ。古海の話によれば少なくとも1932年時点は高橋是清満州国への期待は大きかったのだろう。尚、1932年の5月15日に犬養毅は暗殺(五一五事件)、1936年2月26日に高橋是清が暗殺される(二二六事件)。

 『決定版日中戦争』によれば犬養毅満州国の独立国家案には反対だった。「満州国樹立は、しかし、まだ国策として確定した方針ではなかったのである」[同書25]。犬養毅としては、満州国における中国の主権を認めたうえで自治政府をつくるという構想(犬養構想)があったが515事件で暗殺されて頓挫する。満州国を承認しないから殺されてしまうのだ。暗殺後の9月に満州国が承認されたわけだが、高橋是清は承認後に乗り気になったのでしょうか。。。

 

日本の財政と満州国

二・二六事件と軍事費抑制路線の終焉

  ここで『決定版日中戦争』を参照して経済財政面から見た日中戦争をまとめたい。「金解禁不況から日本経済を立ち直らせると同時に、財政面から軍部の暴走を押さえようとした」[175]のが高橋是清だ。1932年以降、軍事費を押さえ込んで行き、1936年度予算編成で財政赤字を少しずつ縮減していく「公債漸減方針」を打ち出す。国防費は公債で賄われた。高橋は「ただ国防のみに専念して悪性インフレを引き起こし、その信用を破壊するごときがあっては、国防も決して安固とはいえない」[177]と予算閣議で発言、1936年2月20日衆議院総選挙で高橋を支持する民政党が躍進、第1党になった。つまり軍事費抑制は国民の指示を得たのだ。

 軍事費抑制路線が支持されたのは、対満投資額が前年度比マイナスに転じ、「満州の経済的価値が判明すればするほど対満投資額は渋りがちになるのが事実」[178]と報じられるような状況だったからだ。満州事変当時の満州は大豆と石炭以外にはみるべき産業は無かった。一方で、当時の国内経済は絶好調だった。それは満州の投資が成功したからではなく高橋の金融政策が成功していたからだった。

 総選挙後の6日後に高橋是清は暗殺される(二二六事件)。事件後に成立した広田弘毅内閣は軍事抑制路線を転換し、軍事費の公債発行をすすめた。1936年時点においては金融政策のため経済は好調で、満州投資が景気回復させたのだと勘違いしてしまう。その後、公債は増えていき財政は悪化。満州国の投資のために国内投資は遅れ、疲弊していく。更に日中戦争、太平洋戦争に突入し、財政は悪化の一途をたどる。

満州国の経済政策

 軍事予算の増加で満州国の経済政策も動き出す。岡部牧夫ら『中国侵略の証言者たち』[5第2章]を参照にまとめていきたい。二二六事件後、1937年に産業開発5ヵ年計画を策定。1941年度で終了するが、42年からは第二次5ヵ年計画を策定し、1次計画の積み残しを重点化したが、アジア太平洋戦争の戦況悪化で国策として正式に決定できなかった。5ヵ年計画の修正過程で資金が総額49億54百万円から最終的に60億60万円に膨張した。[同書58-60]

 関東軍満州国の阿片政策

 関東軍ははやくから阿片政策の研究をはじめ、参謀部第三課長・原田熊吉、満州国総務次長代理・阪谷希一、財務部総務司長。星野直樹らが競技して根本方針を確定した[61]。大蔵省時代からの直属の上司・星野は古海に阿片の専売公署副署長を打診したが、古海は警察権の行使を伴う職務は不適任として難波経一を推したそうだ。それにより専売政策の担当者は難波となった。

 1933年4月に専売法を制定、4月には専売特別会計が設置され、1935年4月から専売署官制が公布された。署長が中国人だが、副署長が実験を握っていた。奉天には煙膏製造所(阿片精製工場)が設置。

 中国は阿片が蔓延していた。日本政府も満州国も阿片吸引の禁絶という理想と収入確保という現実の矛盾のなかで、建前よりも目先の財政収入として阿片専売制度が利用された。1938年には東条英機が即時断禁を主張した。制度の変更によって阿片収入は専売事業の会計から禁煙特別会計に移された。以後、治癒施設の支出が増えて。益金の一般会計の繰り入れは減ったが、特別会計の規模に大きな変化はなかった[64-65]。ようするに阿片で稼ぎつづけたわけだ。

 そして太平洋戦争がはじまる。1943年春、日本政府は東京に大陸諸地域の阿片関係者を召集して阿片会議を開催し、阿片の増産計画をたてた。阿片の利益で戦争政策に奉仕させるためである[65-66]。ここからさらに色々ありまして、外貨を稼ぐために密輸したり、貿易の決済のために阿片輸出したりしていたわけだ。古海は財政問題のために阿片政策に深く関わっていくことになる。里見甫とも親しい仲になりながら。

 『阿片王』から『忘れ得ぬ満州国』の孫引きになるが、古海は売り捌きに困った蒙古産阿片の販売を「私の親友里見甫」[167]に頼んだそうだ。「彼(※引用注、里見甫)は当時、南京政府直轄の阿片総元締売捌をやっていたので、手持ちの阿片を彼のもとに送りつけ、できるだけ高価に買い取ってもらい、なるべく多額の金を得ようとした」[阿片王167]とある。阿片取引で昵懇の仲になったようだ。里見が亡くなると、葬儀委員長は古海忠之が務めた仲だ。里見遺児の後援会にも名前の記載がある。

 この阿片政策は「戦犯」として厳しく問い詰められた政策なので繁雑だが詳述した。

 

人生のターニングポイント

上記した通り、古海は理想に燃えて渡満したわけではない。古海本人が語るターニングポイントは二つあったという。

 一つは、妻の叔母の嫁ぎ先が政友会の森恪だった。渡満の報告へ行くとなんと森は激怒するのだ。「満州国など日本の分家のようなもんだ、あんなところの大将になったって仕方がない」「大蔵省に入ったなら大蔵大臣になればいい、何も満州に行く必要はない」[78]とひどいいい様ですね。。。古海への期待が大きかったのでしょうか。森は二年間だけいってこい、二年経ったら呼び戻してやると息巻くわけですが、なんとその年の暮れにぽっくり亡くなってしまう。呼び戻すと息巻いていた政界の重鎮が無くなるわけです。

 もう一つが昭和19年に大蔵省から大倉次官として呼び返されていたが、辞退したときだ。辞退した理由を「どうしても戦局から見て、そのとき満州を捨てることができなかった。日本の命運は満州にかかっていたからね」[79]と責任感の強さから辞退する。

ただし古海は「仕事が面白かったんだね。はじめから中枢にいたし、事実上の政策はぼくがつくったようなものだ」と語っていますが。

 古海忠之、男やろ!!! しかし、その結果、満州国の責任を背負って日本人戦犯となるのだった。

 

 次は敗戦後の古海の行方を追っていきたい。続きはこちら。

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 年譜  

 1900年5月5日 誕生

 1932年3月 古海忠之 大蔵省事務官

          5月  515事件 犬養毅暗殺 

    9月 満州国承認 

 1936年2月 226事件

 1937年   満州国産業開発5ヵ年計画 

 1942年   満州国第2次産業開発5ヵ年計画(国策として政策決定されず)

    1943年   日本政府、阿片会議を開催

 

里見甫についてはこちらをどうぞ。

kyoyamayuko.hatenablog.com

 

中国の阿片についてはこちらをどうぞ。

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 日本の阿片政策を現場で携わっていた方の証言はこちら。及川勝三氏は1932年末から42年4月までの10年間、日本の阿片政策の現場で働いている。満州国。蒙疆政権、海南島でアヘン栽培。芥子畑の写真は貴重。海南島のアヘン栽培は失敗の連続だったが、及川氏が成功させる。阿片の種子選択などかなり細かい記載があり、詳細を書くと差し障りがありそうなので、まぁ読んで見てください。

証言 日中アヘン戦争 (岩波ブックレット)

 

 

 

注1

平山周吉 | 満州國グランドホテル 第十三回 「民族協和する」古海忠之の満洲国十三年と獄中十八

注2

忘れ得ぬ満洲国 (1978年)

 

 注3

獄中の人間学―対談

注4

決定版 日中戦争 (新潮新書)

注5

中国侵略の証言者たち――「認罪」の記録を読む (岩波新書)