ケアの倫理と「弱者男性」論ーーー自律した個人モデルから排除された男性はネット寄せ場で暗黒思想を紡ぎ出すしかないのか
フェミニズムは、近代思想が前提とする「自立/自律した個人」モデルが女性を排除した抽象的な概念であることを明らかにしたのですが、実は一部の男性にとっても、特に「弱者男性」にとっても同じことが言えるのだと気づきました。この「自律した個人」モデルから弱者男性が排除されているわけです。
フェミニズムが明らかにした論法を使って「自立/自律した個人」から排除された男性について語ることは可能だろう。
男性を前提にして抽象化された「自立/自律した個人」から排除された「未だ名付けられていない男性」のことを、ここでは「弱者男性」と呼ぶことにする。弱者男性はネットで語られているが、ありていにいえば低収入・低学歴・非モテという自立した個人モデルからはほど遠い人たちのことだ。「こじらせ」男性と言われることもある。
女性は、女であり母親である「私」を回復し、ケアの倫理を生み出したが、「弱者」男性は男であり父親である「私」を回復することができるのだろうか。弱者男性は激しくフェミニズムを憎むが、自律した個人モデルから排除された「弱きもの」同士、手を結びあうことができないのだろうか。
現在の実感では難しいと言えるだろう。その理由も、フェミニズム運動の流れから理解可能だ。フェミニズムは、「女」を働く女、性的な女、よい母親、悪い母親を分断するのは「自立/自律した個人」モデルが生み出す「公私二元論のフレームワーク」に囚われているからだと指摘する。これは弱者男性にも当てはまるだろう。弱者男性が公私二元論のフレームワークで社会を見る限り、自律した個人からも疎外され、女性からも疎外される。弱者男性によるフェミニストや女性への激しい憎しみは社会構造が生み出しているものであるし、その構造の価値を内面化しているからだ。そこからの解放がなければ、公私二元論のフレームワークに囚われれてしまいます。「俺」が男であるメリットも享受できず父親にもなれないのは「自律した個人」の(強者)男性しか求めない「女」のせいだ、と。。。
弱者男性は、女性のフェミニズム運動のように自分が囚われている価値観から解放することは可能なのだろうか。
現時点において、「弱者男性」の一つの方向性は、トランプ支持者やネット右翼のように男=国家=権力を志向し、もう一度偉大なる「男」を復権しようとする試みだろう。弱者男性が民主主義システムのルールに則り復権しようとする運動がある。男であることの「既得権益」を取り戻せ、という復権運動。
そのような「復権運動」の母体になっているのが、ネットのアンダーグラウンドの居場所だ。社会から排除された「弱者男性」の寄せ場。ネットの寄せ場から生まれたのが、最近注目を浴びている暗黒啓蒙だ。自律した個人から排除された「弱者男性」らは、ネットの暗部でダークな啓蒙思想を生み出している。
示唆的なのは、資本主義社会で利益を生み出せない男性が「弱者男性」であり、稼げず家庭をもてない男性が「自立/自律した個人」モデルから排除された男性であることだ。弱者男性は近代経済社会モデルから排除された「男性」なのだ。排除され、名づけられすらしなかった男性たちがネットの暗部でつながりダーク思想を生み出し、政治運動として社会に飛び出してきているのだ。
暗黒啓蒙はこの世界からのexitを夢見る。でも、そのexitとは、実は今の社会構造の価値からの解放を意味するのかもしれない。自分が内面化している価値観からの解放を意味しているのかもしれない。暗黒から光の方向へ。それは既存の権力の復興ではない。復興は権力配分の取り分を増やすことだ。そうではない。自分を支配する価値観を相対化し、自分を解放する。それが光だ。
近代思想の自律した個人は「理念型」に過ぎないのかもしれない。だとしても、自律した個人はある時代まではリアルな感覚だったのだろう。しかし、女性たちはフェミニズム運動を通して自律した個人モデルから排除された女性を復権させ、ケアの倫理を生み出している。自律した個人モデルから排除された男性の「もう一つの声」はいったい何を生み出しているのか。今後も注視していきたい。
「弱者男性」論についてはベンジャミン・クリッツァーの記事参照