kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

ケアの倫理と「母性2.0」ーーー元橋利恵『母性の抑圧と抵抗』

 

2.0ってもはや死語ですか?

 「母性」の語りのレンジを広げるために、フェミニズムが到達した母性批判を超えて再構成するときがきたのではないだろうか。

 それは単に「母性」、女性に「だけ」関わる話なんかではない。ケアの倫理は、近代思想の基盤にある「自立 /自律した自我」を相対化し、先の思想にむけた新しい自我論にとって欠かせない概念なのだ。

 

母性の抑圧と抵抗――ケアの倫理を通して考える戦略的母性主義

 

 ケア・フェミニズムの理論研究は、リベラリズムが前提としてきた「自立/自律した個人」や「平等」の概念を再考してきた39。すなわち、公私二元論と男性中心主義への批判を通じて「自立/自律した個人」を前提条件とするリベラリズムな平等主義が、家族やケアの価値を切下げることによって成立してきたことを暴露してきた。

(詳細はこちら) 

ケアの倫理ー近代的自我を相対化する重要な概念 - kyoyamayukoのブログ

 

ジェンダー化への政治への対抗 40-43

 日本では川本隆史などのギリガンの紹介でケアの倫理が広まり注目を集めたが、上野千鶴子はケアの倫理が、ジェンダー色が消された、正義の倫理と相補的な「男女問わず利用可能な概念」と批判する。つまり、ケアは圧倒的に女性に配置しているに関わらず、「男女問わず利用可能な概念」ととらえることは、ジェンダーの権力構造を問うことなしに女性が紡いできた活動を取り上げること=「脱ジェンダー化の政治」である。

 これに対して、ケア・フェミニズム論者は母子関係をケアの代表的なものであるみなす。キテイのケア論(愛の労働あるいは依存とケアの正義論)では、母親と幼い子どもに象徴されるような、一方的に与え一方的に依存する関係=「依存労働」と呼び、不可避の依存に基づく「狭義の依存労働」と、自分の身の回りのことは自分でもできる成人へのケアを「拡張された依存労働」と区分する42。依存労働は、略 個人が自分の利益のために選び取る予知のある行為ではない。それは選ぶことができない、自分とは属性も能力も全く異なる他者との関係性である。キテイは、ケアの圧倒的な非対称性と、有無を言わさぬ選択のできなさをとらえるために、母子関係にケアを代表させている42。

 私たちは、社会はまさに市場のように等価交換や互酬性によって成り立っていると理解しがちである。しかし、労働力商品として社会のプレーヤーとなる「自律的な個人」は、ケアの視点からみると、(資本主義)社会を生み出し成り立たせているのは、生産労働やそれに従事する「個人」を支える「依存労働」であると考えることができる。42要約。

 この指摘は極めて重要だ。また、資本主義のロジックではケアを語ることはできないことを意味する。ケア労働は金銭化できないといいたいわけではない。労働力を金銭化できる業務は金銭化して、ケアを社会化して市場に委ねることも大切だが、資本主義社会、市場経済では賄うことができないものが「確実にある」と自覚することが大切だ。現在は母乳ですら、代わりに出産する代理母ですら金銭で買える。この本では書かれていないが、しかし、愛着形成は金銭では買えない。金銭では交換できないケアから得られるものがあることを自覚すべきだ。愛着理論について別途記載したいが、差し当たり以下参照[新訂増補 母子臨床と世代間伝達]。

 

フェミニズムは「母性」をどのように扱い、批判し、乗り越えつつあるのか 43-65

 母性というものを、女性の本質や生得的な特質に還元する本質主義に陥ることや、中世化して母親たちの現実から乖離してしなうことを回避しつつ、いかにして家族や社会の概念を再定義し、再考できるのかというファインマンの指摘は重要だ。45 ファインマンが、あえて母子や母性のメタファーを用いるのは、ケアが現実の文脈から切り離されることを拒み、ケアの倫理に基づいたオルタナティブな社会の展望を描こうとするためである44。家族、積みすぎた方舟―ポスト平等主義のフェミニズム法理論

 

 そこで著者は 、母親業を哲学的に分析しその意味を、従来の捕らえ方から大きく転換したサラ・ルディクを紹介する。サラ・ルディク『Maternal Thinking』(母的思考)

 Maternal Thinking: Toward a Politics of Peace

 母親のしていることは「母性」がなす「自然」な営みではなく、ルディクは母親の活動を「母的思考」に基づくもの、つまり、思考であり理性に基づくものであるとして提示する。母親の実践と思考を、保護、養育、育成の三つに区分する。46 母親業は、自身と比べ圧倒的に脆弱な存在である子どもの要求や必要に応えることへの関心に貫かれている。母的思考は子供の要求に応答しようとする過程のなかで常につきまとうもの困惑や葛藤、アンビバレンスの経験から形成されているもの。47 母親業の中で生まれる、自分よりも圧倒的に脆弱な他者をいかに傷つけずに共存していくかという葛藤は、平和を構築していく力となる。52

 

 ルディクへ典型的な批判。フェミニズムが母親を語ることの難しさ。48

 第二派フェミニズムは、家族や母性を脱神聖化すえうために闘ってきた。しかし、母的思考のような議論は、女性という表象を再び母親として強調することによって再構築するものである。家族や母性を再び神聖化し、そのことによって女性たちに自己犠牲を強要し、母親役割や家庭役割を押し付け、家庭領域に押し込むことを正当かしてしまうものだ。また、男性に対する女性の「差異」を強調し、その根源的な差を「産む性」であることに還元する「母性主義」である、という批判。48 母親のなかに特別な「差異」を見出だし強調することが公私二元論の社会構造や観念を再生産する。という危惧。48 

  しかし、この批判自体が、「公私二元論のフレームワーク」に囚われている。女性を母親として表象することが公私二元論に陥り、女性を私的領域に閉じ込めることにつながるという主張は、女性は「母親」ではなく、「個」や「市民」、もしくは「人間」として描かなければならないと主張えおする。しかし、その主張は「母親」は「個」ではなく「市民」でもなく、「人間」でもないということを前提にしている。つまり、「母親」は「個人」ではなく、「個人」は「母親」ではありえないという、両者を別の次元で捉える二元論を再生産している。48-49 母親業や母的思考もというタームへの批判も同様。

 つまり、女性を母親と表象すべきでないという主張自体が、正義、道理、精神、自己(「合理的な男性」)そして、ケア、感情、身体、関係性をそれぞれ一直線に結びつけ、後者は前者より劣るとみる二元論を前提にしている。 49

  男性に中心的主義的な二元論のもとでは、「個人」と「母親」は別の次元のものとみなされる。さらに、このような二元論のもとでは、ケアする人は、常に「合理的な男性」がモデルである「個人」に資するかどうかで、区別され、価値づけられ、ジャッジされる。49 例として、女性は「仕事をする女性」、「性的対象としての女性」、「よい母親」、「悪い母親」にジャッジされ、分断される。

 「個人」と「母親」、さらに「女性」と「母親」が分断され、対立させられている社会では、「女性を道徳的に優れていると区別するまさにその価値が、彼女たちが道徳的な発達において不完全であるしるしになる」(Gilligan,2011:10)。51  

  著者は、しかしそうであるからこそ、フェミニストは母の経験や価値について語らねばならないのではないだろうかと主張し、日本のにおける母性や女性の運動について分析する。

感想

 以上が本のまとめですが、大変勉強になりました。

 昔のフェミニズム運動は、女、母親の前に「個である私」を発見しました。でも、今の時代は、フェミニストの方々の絶え間無い運動のおかげで、女の前に個である私は当たり前になりました。ベタに女であることに埋没している人の方が珍しいでしょう。同じように母親であることにベタに埋没している人も少数派でしょう。女であることも、母親であることも「私」は相対化し、メタ化している。

 今、求められているのは公私二元論を超えた女であり母親である「ありのままの私」という自我論だろう。女であることを受け入れて「母親」についてもっと広いレンジで語る。母親であることは私でもあることなのだから。公私二元論を超えて母親を語り直す。今はじまったのだ。

 

 

私の中の課題。

  • ケアの倫理は資本主義の論理とは異なるが、金銭に還元できない「なにか」について、例えばケアの理論と愛着理論について関連付けて語る人はいるのかな?
  • この本では、ケアの資源の分配を政治運動で取り戻そうとする話にながれていくのだが、運動論ではなくケアの倫理のロジックを社会思想や社会理論に組み込んでいく議論をもっと知りたいかも。ケアの倫理やフェミニズムは声なき声を発見し、クレームし、従来の見えてなかった問題を可視化するというのはよくわかるんだけど。。。

 

■追加 気づき  

 ケアの倫理は、構造的に抑圧された声なき声に常に配慮する。ゆえに、ケアの倫理は民主主義理論と相性がよく、メンバーの多様化、多様な意見を尊重する、救い出す視座を与える。そして、ケアの倫理は民主主義の理論と相性がいいからこそなのだろうが、政治的資源配分を求める主張に流れていく。それは、ケアするものへのケアへの配分の要求となりやすい。運動へとむかっていく。ここがアイデンティティポリティクスとみなされる点だろう。

 しかし、資源分配の運動ではなく、ケアの倫理の視座そのものを社会思想に埋め込むことはできないのだろうか。