kyoyamayukoのブログ

私の墓にはルピナスを飾っておくれ

餓死した象にも慰霊碑があるのにーーー戦争孤児のリアルな実態

 戦争孤児といえば「火垂るの墓」が思い浮かぶ。火垂るの墓では、神戸大空襲で親を失った戦災孤児の話だ。「個人的」な物語というイメージが強い。しかし、戦争孤児である金田茉莉の著作を読んで、戦災孤児とは政府の失策から生まれた「組織的」なものだということがわかりました。

 戦争孤児の本は関西の記録のものは読んだことがあるのですが、東京大空襲の戦争孤児について詳細を知ったのはこの本が初めてです*1。マンガや映画などで終戦後を描いたものには戦災孤児が表現されることが多いので、戦災孤児の存在自体は知ってました。しかし、その実態をまったく理解していませんでした。しかも、東京大空襲戦災孤児を結びつけて深く考えたことがありませんでした。なぜ東京の戦災孤児はこんなに語られてこなかったのか。。。この本を読み進めていくとわかってきます。

 

かくされてきた戦争孤児

 

集団疎開

 戦火が激しくなった1944年6月に集団疎開閣議決定され、文部省が推進しました。小学3年生から6年生、9歳から12歳までの児童が親元を離れて地方へ疎開しました。全国で縁故(親戚宅への疎開)、集団疎開の合計100万人のうち東京は約50万人(縁故26万人、集団疎開24万人)でした。

 著者は集団疎開を前期、後期に分けています。前期は1944年8月から1945年3月までの7ヶ月間、後期は3月の東京大空襲から終戦を挟み、疎開終了の10月までの7ヶ月間の合計1年4ヶ月間でした。空襲後の疎開で東京から児童が消えました。

 児童の集団疎開の半分は東京の子供達でした。疎開していたからこそ子供達は空襲を逃れて生き残るわけです。それが戦争孤児となります。著者は浅草出身ですが、あのあたりは焼け野原地域であり、一家全滅が多い地域です。つまり、疎開していなければ戦争孤児の大半はそこで死んでいたでしょう。

 戦争孤児は生き残りました。でも、そこから今でも語ることができないくらい辛い体験をします。

戦災孤児

 まず数値の確認をすると、1946年には国会で「戦争孤児は3000人」と答弁していましたが、1948年に行われた「全国孤児一斉調査」では12万3511人いました。この孤児数のなかには養子にだされた子供は含まれていません*2。実態の総数はもっと多い数です。

 年齢別で見ると、8割の約10万人が小学生時代に孤児になっています*3。小学生時代の孤児が突出しているのは、学童疎開の結果です。これだけの子供の命が「助かった」とも言えます。

 では孤児はどこへ預けられたのでしょうか。孤児施設の入居者は1万2000人と1割に過ぎません。孤児施設の大半は公営ではなく、民間の篤志家が作った施設でした。それ以外の子供は親戚に預けられました。自立して生きる子供もいたそうです。ここでいう「自立」は浮浪児も含まれるでしょう。

集団疎開先で一家全滅を知る子供達

 子供たちは親から離れて疎開します。3月10日まで頻繁に来ていた親からの手紙がぴたりと来なくなります。情報統制しているので東京が大空襲にあったことはニュースにはなりません。先生たちは東京に出向き、生徒の家族の生存を確認する作業に追われます。疎開先に戻り、一人ずつ現実を伝えます。東京の空襲の状況を見ることもなく、報道されないので凄惨な状況の写真も見ることもなく、空襲で一家全滅したことが伝えられます。疎開先で突如、一人になった子供達。遺体さえ見ることなく、遺骨もなく、葬式もない。親が亡くなったことが信じられず孤児になっても親を探しつづける子供も多かったそうだ。

 著者の茉莉さんは、親と会うため卒業した6年生と一緒に東京にむかいました。その前日に大空襲がありました。茉莉さんは空襲直後の焼け野原を見ています。自宅も全焼、母親や姉、妹たちは見つからず、親戚の家に身を寄せます。1945年6月頃に母親と姉の遺体が隅田川で見つかり遺骨を引き取り、お墓に納骨できました。しかし、妹の遺骨は今でも見つかりません。

 疎開していた小学3年生が大空襲の現場を見ることは稀でした。焼け野原になった姿を見た茉莉さんは親の死を実感できましたが、疎開していた大半の子供は、突然、一家全滅の知らせを受けます。親が死んだことを受け止めきれないのは当然ではないでしょうか。

 また、小学六年生は帰るタイミングによって空襲に巻き込まれて死んだ子供も多かったのです。空襲で生き残ったとしても、この時の記憶はトラウマとなってその後の人生を苦しめます*4。空襲を見た子供も、見なかった子供も孤児となり、それぞれの絶望を抱えて生きていくことになります。

戦争孤児の行く先ーーー親戚宅や養子先へ、地獄の始まり

 大半の戦争孤児は親戚に預けられることになります。が、戦争末期、終戦後の食糧難、物資難で酷い扱いを受けます。朝から晩まで働かせられる、学校はほとんどいけない、実子と差別的扱いを受け、実子(いとこ)からいじめられます。義務教育すら満足に受けられませんでした。

 過酷な親戚宅から逃げ出す子供も多かったが、その先は更に悲惨です。親戚宅を飛び出ると自分の身元保証人はいないのでロクな仕事がありません。家すら借りられないので住み込みで低給のハードな仕事しかありません。中学もろくに行けていないので学歴もなく資格も取れません。職を転々として生きていくことになります。孤児であることが知られると差別されるので、孤児であることも語れません。

 親戚がいない孤児は、養子にだされました。疎開先の農村は、働き手が戦争にとられて慢性的な人手不足でした。疎開の児童を管理しているのは校長です。校長に養子を申入れる農家は多かったそうだ。健康で頑強な男児、見た目のかわいい女児*5の養子の申し込みが多かった。そして、養子斡旋*6するわけだが、その後の児童の行方は悲惨である。労働力としての養子であるので学校には行けず、働きづくめの毎日でまるで奴隷のようだったそうだ。いうことをきかなければ当然のように虐待された。そのため養家から家出する子供は多かった。家出後の子供達の大変さは親戚宅を家出した子供達と同じ苦労をたどる。

 終戦直後よりも、数年後に東京で浮浪児が増えるのは親戚や養家から家出した子供達が、親を探すために昔住んでいた東京に戻ってきたからではないか、と著者は推測しています。

 この浮浪児が戦後に問題になり、「刈り込み」し、「収容」されます。裸にされ檻に入れられ、逆らうと暴行を受けます。

 政府が児童を集団疎開させたのは、将来兵隊になる子供たちを守るためでしたが、実際に空襲を逃れ、多くの命が助かりました。しかし、親を失った子供の養育の責任を政府はとりませんでした。親戚におしつけ、人身売買のように養子にだすことを認めています。助けられた子供達の命を虫けらのように扱いました。子供達は餓死や凍死するだけなく、自殺する子も多かった。せっかく助かった命なのに、政府と世間は子供を自殺させるまで追い込みました。

戦争孤児の受難ーーー親族や世間から見放され、孤児を隠して生きる

 親戚の家では「穀潰し」と言われ、家出して浮浪児になると「人間のクズ」「非行少年」と言われ蔑まれました。そのため、孤児であることを隠して生きていくしかなかった。

 これが、逆に戦争被害の補償をうけられない原因の一つになります。そもそも小学生時代に親がなくなり、教育も受けられなかった子供達が、仲間を組織して自分たちの要求を政府に求めるなんてできるはずもありません。

 大人になっても孤児であることを隠し、必死に働いてきました。ようやく余裕がでてきたのは50代になってから。著者は夫にも孤児であることを隠して結婚しましたが、50代で自伝を出版すると、同じ境遇の人々からの反応がありました。そこで少しずつ輪が広がりました。戦争孤児の記憶を残していきたい。聞き取りしたり、様々な調査を続けて来たのです。

 著者は言います。「軍人は恩給をもらえるのに、軍人の遺族にも補償があるのに、孤児には乾パン一つも与えなかった」と。戦争孤児の大勢が餓死、凍死したのに東京には子供の供養碑すらありません。著者は、戦争で餓死した象には慰霊碑があり、毎年供養されるのに、戦争で親を亡くし、餓死、凍死した子供達の慰霊碑がないことを切々と語ります。 

 

 日本はなんて冷たい社会なのでしょうか。空襲死で一家全滅した人たちの慰霊碑も、孤児となり餓死、凍死、自殺した子供達の慰霊碑もない。。。軍人には慰霊碑があり、供養され、補償もあるのに。。。大切なものを76年前に置いてきてしまっている。語り継がれることさえない。

 終戦の日に、戦争孤児のことを思い浮かべる日本になってほしい。

 

 空襲被害者援護法の法案。ニュースでたまに見聞きするが、そんな遠い話、何をいまさらと思っていました。でも、これまで一切、補償のなかった戦争孤児に、社会は配慮してほしい。戦争孤児という存在を忘れないためにも、何らかの形で償ってほしい。法案が成立することを切に願います。

空襲被害者等援護法(仮称)と沖縄民間戦争被害者に対する特別補償法(仮称)の制定に関する請願:請願の要旨:参議院

 

 

 ■本の案内

児童書ですが、各地の戦争孤児扱ったシリーズです。全5巻。

 

戦災孤児―駅の子たちの戦後史 (シリーズ戦争孤児)

 

■注記

*1:石井光太の本は読んでいたのですが、戦争孤児の全体像はわかりませんでした。この本は男児の話がメインで女児の話はなかったのです。戦争孤児のリアルな話を聞き出せてなかったことが、金田茉莉さんの本を読んで分かりました。孤児時代の話は人にはうまく話せないものなのです。金田さんは自分が戦争孤児で相手の気持ちがわかるから、話を引き出すことができるんですよね。

浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―(新潮文庫)

*2:同上272

*3:同上285-286

*4:焼き魚をみると空襲を思い出すので食べられない、東日本大震災津波にさらわれて何もなくなった土地をみると焼け野原を思い出すのでニュースを見られないなど様々なトラウマがあります。

*5:女中として使うための養子。それ以外にも売春宿で働かせるために。校長や教師があとから知って取り戻すこともあったとか。

*6:養子斡旋で金銭の受け渡しもあったようで、子供の人身売買に近かった。