なぜ日本は戦争を選択したのか(1)日清戦争までーーー松元崇の財政分析から学ぶ
日本はなぜ戦争を選択したのか。
一般的なイメージでは、第一次世界戦後の世界的不況のなか、日本も窮乏し、経済的に追い込まれて満州に進出(侵略)、これが世界的に批判されて経済封鎖され、日本は追い込まれて太平洋戦争に突入した、というのが定説かもしれない。
この定説に対し、日本は当時、好景気で経済状況がよかったのにも関わらず、軍が経済原理を理解していなかったため日本を窮乏化させた、と経済・金融分析、財政分析を通して指摘した人が松元崇だ。日本は「持たざる国」ではなく、軍の経済音痴が「持たざる国」にさせていったことを分析している。この指摘は重要だろう。世界列強の「せい」ではなく、日本の経済政策の失点で「持たざる」国になったとするならば、どのような失策を犯したのか理解しなければ同じことを繰り返すだろう。
松元崇氏は大蔵省主税局出身だ。国家予算を作成する立場にだった人物で、だからこそ戦前の予算編成を歴史的に分析し、いかに軍が財政バランスを崩して、戦争だけなく経済的にも破綻したのかを鮮やかに描く。戦争と財政は不可分だ。松元崇の本を読むまでまったく知らなかったことが次々明らかにされていく。自分なりにかいつまんでまとめていきたい。
明治政府は借金漬け
満州事変に至るまでの財政をかいつまんでまとめていきたい*1 。日本史の教科書には書かれていないので知らなかったのですが、明治維新政府は借金漬けで厳しい財政運営だったそうだ。明治政府は「借金漬け」ということは頭に入れておいて欲しい。明治維新政府は地租改正で租税による財政基盤を固めましたが、借金漬けでインフレの嵐。明治7年に松方正義が酒類税、醤油税など9つの国税と13の専売特許税が新設して財政を固めていきました。
秩禄処分と西南戦争ーーー武士の大リストラと軍縮、インフレ
軍隊と戦争という点に注目して書いておくと、教科書で習う「秩禄処分」とは軍事専門家の武士の家禄の廃止であり、武家社会を清算する壮大なリストラで大軍縮だったいえる。これが壮大な軍縮だと言えるのは、日清戦争までの陸軍は「平時5万人、戦時20万人」だったのに対し、武士は40万人いた。明治政府は小さな軍隊にしたことがわかるだろう。
大リストラによって元武士の不満が高まり、西南戦争が起こる。戦費は当時の国家予算に匹敵する4157万円に上った。西南戦争の前の明治9年の財政に占める国債費の割合は8.4%だったが、明治10年には34.6%に跳ね上がっている*2。詳細ははしょるが*3借金して戦争してインフレを招いた。
インフレで国債の金利も急騰、明治政府を悩ませた。教科書でも有名な松方デフレは、インフレを抑えるためにゼロ・シーリング予算を実行したことによる。む、むずかしい。ついてこれているだろうか*4?
日清戦争
明治9年に秩禄処分で40万人の武士のリストラを行った当時の日本には海外で作戦を実行できる兵力も海軍力ももっていなかった。明治政府は「富国強兵」をうたっていたので軍国主義国家のイメージがあるが、実態としては小さな軍隊であり富国でも強兵でもなかった。
厳しい予算編成を行う松方財政だったが、「財政規律」を守りながら対清国軍備拡充と鉄道建設に予算を割いた。
明治16年度には壬午事変(日本公使館が襲撃され日清両国が出兵)を受けて、酒税、たばこ税を増税して清国軍備拡充した。これにより、海軍は初めて建艦計画を策定した。しかし、予算の三ヵ年の据置きで対応することになり、結局、松方デフレから脱却した明治19年に海軍公債条例が制定され、建艦費は公募公債で調達した。
そんなギリギリのなかで日清戦争に勝利したのです。日本が強いというよりも、清が弱体化していたんですね。西太后が海軍予算を庭作りに流用しなければ、日本は負けていたかも!?
だめだ。日清戦争までしか書けなかった。
ざっくり書いていてもこりゃ大変だ。
続きは次回。
【略年譜】
1868年 明治維新政府
1877年 西南の役
1894年 日清戦争
1905年 日露戦争
1914年 第一次世界大戦(1918年まで)
1923年 関東大震災
1927年 昭和の金融恐慌
1928年 張作霖爆殺
1929年 暗黒の木曜日(米国株式大暴落)
1931年 満州事変
1936年 ニ・ニ六事件(高橋是清ら暗殺)
1937年 日中戦争勃発
1939年 第二次世界大戦勃発
1941年 太平洋戦争開戦
1945年 敗戦
【注記】